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フィクサー児玉誉士夫「昭和の黒幕」の生き方とお金と時代の流れ

児玉誉士夫(こだま よしお)は昭和を代表する、「フィクサー」「黒幕」で、ロッキード事件で初めてその姿が表に出ましたが、それまでは陰の存在で裏の社会を牛耳っていました。

1970年代では、この人の記事を書くのはタブーでした。

その頃は、図書館で児玉誉士夫著の本を借りようとすると、住所や名前まで書かされたそうです。

昭和の激動期には、「黒幕」とか「フィクサー」とか「影の将軍」とかそんな名前で呼ばれる人が何人もいましたが、大きな事件や出来事を調べると必ずといってよいほど児玉誉士夫の名前が出てきます。

児玉誉士夫とは何者なのか?どんな人だったのかを調べてみました。

児玉誉士夫 捏造した出身

文春オンライン ご存知ですか?

1911年(明治44年)2月18日~1984(昭和59年)1月17日

戸籍の上では、福島県安達郡本宮町中条45番地で生まれたことになっています。

父親の旧姓は山田で、祖父である山田兵太夫は明治維新の後、二本松の副参事になったとの事です。

その後父の代になってから、同じ二本松藩の御典医であった児玉家から望まれて養子になったので、児玉姓にかわったということです。

ですが、これは児玉誉士夫本人の捏造によるもので本当の出自はまったくの不明なのです。

幼い時は極貧生活で、7歳で母親を亡くし、父親と掘立小屋で暮らしていたといいます。

8歳で朝鮮に住む親せきの家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後に出奔して日本に戻ってきます。

父親は関東大震災で亡くなっていました。
児玉誉士夫氏は墨田区向島の鉄工所で住み込みで働きました。

同じように若い時に向島の鉄工所で働いていた人の話によりますと、鉄を溶かす溶解炉は、真夏の暑さなどは凄まじくみんな塩を舐め舐め仕事をしていたそうです。

みんな上半身裸で、腕っぷしの強さが自慢で腹に力を入れて鉄の棒で叩かせて筋肉自慢をしたりしていたとか。

児玉誉士夫 右翼活動へ

同じような環境にいたのなら、腕っぷしを見込まれて右翼団体から声が掛かってもなんら不思議では無かったことでしょう。

児玉誉士夫氏は18歳の時に右翼の赤尾敏(元衆院議員)の国粋主義団体「建国会」に入りました。

その後、右翼団体を次々と渡り歩き、何度も服役しています。

右翼が起こした事件に関与しては逮捕されるを繰り返していました。

その後、満州に渡ることになります。

満州でも右翼に加わり事件に関与して逮捕もされるのですが、領事館内に設置された「特別調査班」の嘱託になりました。

そしてさらに陸軍参謀本部の嘱託となって、そのころハノイにいた汪兆銘(国民党左派の中心人物で中国の民主化に貢献し、蒋介石としばしば対立した)の護衛を任されたりしました。

それから支那派遣軍総司令部参謀の嘱託になったのですが、児玉誉士夫氏も関わっていた東亜連盟の動きが当時の陸軍の方針に反しているとして、東条英機の怒りを買い嘱託を解かれ1941年に帰国します。

児島誉士夫と海軍物資調達

帰国後、笹川良一の紹介で海軍省の航空本部の招きで、航空機に必要な物資の調達を依頼されます。

当時の戦時下の外地といいますとインフレで物流が滞り、またナショナリズムの高まりにより排日運動が高まり、物を入手するのに大変な時でした。

児玉誉士夫氏はこの依頼を承諾し、上海に飛び「児玉機関」という店を開きます。

ここで児玉誉士夫氏は海軍の嘱託(佐官待遇)となっています。

タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどを買い上げ海軍航空本部に納入する独占契約を貰っていたのです。

これにより児玉誉士夫氏は莫大な財を手にします。
ダイヤモンドやプラチナなどで1億7500万ドル(当時の日本円にして7000万円)相当を手にしたようです。

後のアメリカ陸軍情報局の報告によりますと、児玉機関は鉄と塩およびモリブデンの鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営していたとか。

戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていたとの報告もされています。

もちろん、児玉誉士夫氏のこれらの行動は全て憲兵の監視は受けていて、容疑が掛けられ逮捕はされるのですが、大物(大西瀧治郎:神風特攻隊の創始者の一人)が庇護していてすぐに釈放となりました。

児島誉士夫と敗戦

玉音放送の翌日、児玉誉士夫氏を庇護していた大西瀧治郎が割腹自殺をし、その最後を見届けることになります。

貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会うことが出来た。若いものは軽挙妄動を慎んで生き、新しい日本を創れ」という遺言を受けました。

後を追って児玉誉士夫氏も自決しようとしたのですが、その遺言を伝える為に思いとどまりました。

終戦後、児玉誉士夫氏はA級戦犯の疑いで逮捕され、巣鴨プリズン(戦犯の収容施設)に送られました。

公職追放とはなりましたが釈放されています。

本人も自称CIAエージェントと言っていますが、アメリカとの深いつながりはここから始まったようです。

つまりアメリカの手先となってでも生き残ることを選んだわけです。

これが後にロッキード事件にまで繋がっていくのです。

この逮捕の前に児玉誉士夫氏は上海から引き揚げてきた資産の一部を自民党の前身にあたる鳩山の日本民主党の結党資金として提供していました。

黒幕としての児玉誉士夫氏

1950年に北炭夕張炭鉱の労組の弾圧のために組織を作って送り込んだのを皮切りに、各地の多くの暴力団のまとめ役として中心的存在となっていきました。

総理にするための画策

鳩山一郎を総理大臣にする時は三木武吉の画策に力を貸し、また岸信介を総理大臣にする時も黒幕として大きな力を発揮しました。

岸首相の第1次FX問題をめぐる汚職問題を社会党の今澄勇氏が追及していた時の事です。

等々力の児玉誉士夫氏の私邸へ二度も呼んで、岸首相への追及をやめるように説得しました。

しかし、今澄勇氏が頑として聞き入れないので、一枚の紙を渡しました。それには今澄勇氏の身上調書が書かれていました。

今澄勇氏の政治資金の出所やその額、使っている料理屋から付き合っている女の事までが全て書かれていたのです。

児玉は東京スポーツを所有していましたし、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいたのです。

それらに書き立てられては政治生命が終わりますから、大きな脅威となりました。

こうして児玉誉士夫氏は陰の支配者としての存在を強くしていきました。

’71年に竹森久朝さんという人が「ブラック・マネー」という本で児玉誉士夫氏のことを書いたのですが、販売直前に児玉誉士夫氏の手下が乗り込んできて、販売中止に追い込まれてしまいました。

裏社会では大きな権力を持っていました。

企業の紛争の仲介にもたびたび登場します。

当時はまだ声を出して児玉誉士夫氏について語れる時代ではなかったのです。

児玉誉士夫とロッキード事件

1958年ごろから児玉誉士夫氏はロッキード社の秘密の代理人を務めていました。

政府が戦闘機の購入の選定をする時も裏工作もしていました。

ロッキード社は初のジェット機としてトライスターに同社の威信をかけていました。

ベトナム戦争が終わり、赤字転落してしまいトライスターで民間機市場に入り込みなんとか起死回生したいと躍起になっていました。

でも、ダグラス社などに押され売上げは伸び悩んでいました。

児玉誉士夫氏は田中角栄とも親密な関係を築いていた小佐野賢治笹川良一から紹介され、その後関係を深めていきます。

田中角栄が首相になる頃には、児玉誉士夫氏の裏工作も功を奏して、全日空はトライスター21機を購入し、ロッキードは販路を広げていきました。

児玉誉士夫氏に渡ったお金は700万ドル(日本円にして約21億円)、田中角栄に密かに渡ったお金は5億円といいます。

1976年アメリカの上院で行われた公聴会でその事実が暴かれ、それから日本でも大変な騒ぎになりました。

なにしろ日本の元総理が現職の時に関わった収賄事件です。

田中角栄は収賄容疑で逮捕。

児玉誉士夫氏はこの事件の中心人物として注目され衆議院での証人喚問が決まっていましたが、その直前に病に倒れ病床に就き出席を免れています。

その後、脱税と為替法違反で在宅起訴され裁判に挑むことになりました。

田中角栄は1983年に有罪判決が出されます。

72歳になった児玉誉士夫氏は、自分の死期を悟り「CIAの工作員であった」と告白しています。

そして判決がでる直前、再び発作で帰らぬ人となり裁判は打ち切りとなり未解決事件となって終わりを迎えたのです。

児玉誉士夫まとめ

児玉誉士夫氏は周りから恐れられることを自ら利用して自分が「黒幕」の存在という役割を演じ続けていたように思います。

実像よりもロウソクで照らされた陰が大きくなるように見えますが、そんな存在だったのではないでしょうか。

右翼団体に属していながら、「天皇に戦争責任がある」とインタビューで応えたこともありましたし、ロッキード事件にしても東京地検の取り調べでは児玉誉士夫氏はあっさりと「自分はアメリカの手先だった」と認めています。

そんな発言に憤った若者が、軽飛行機を操縦士児玉誉士夫氏の私邸に突っ込んだ事件もありました。

2階で療養中の児玉誉士夫氏は危うく難を逃れましたが、犯人は即死。

右傾化した若者で、児玉誉士夫氏の「自分は右翼では無かった」との発言が許せなかったようです。

児玉誉士夫氏は、別に大した主義主張も無く、勝手に周りが怖がるからそれを利用した。そんなところだったのかもしれません。

もしくは、本人が大切にしている主張があっても生き残らなければ何も出来ないがために、色々と考えての行動であり発言だったのかもしれません。

そんな存在が、昭和の日本に必要だったのでしょう。

お金が好きな欲の塊というのではなく、入って来たお金は周りや次の工作のために惜しまずに使ったようです。

墨田区の向島の鉄工所で働いていた少年が、後に世界を騒がす汚職事件の中心人物になるなどと、その時誰が想像したでしょうか。

いずれにしましても、この事件以降は企業や政治が黒い繋がりを持つことを排除するようになりましたから、昭和の最後の黒幕といわれているわけです。

有名人などの人生を調べていると、時代の流れと歴史を感じます。そんな大きな流れのなかで、自分らしく成功するためにはどうしたらいいのか。学べることは大きいです。

特に為替や投資などをするには世の中で何が起こっているのかは、常にアンテナを張っておくべきです。そして昔はどうだったのかを知ることもとても大切です。

歴史は繰り返すものですから、昭和の人物の人生を通じてどんな時代だったのかというのも、現代を生きるわたし達にとってとても参考になりますね。

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