有名人の名言

笹川良一の名言と経歴 昭和の大物黒幕の生き方と令和の生き方について

一日一善と言っていた笹川良一(ささがわりょういち)氏。

社団法人全国モーターボート競走会連合会や財団法人日本船舶振興会を創立した人です。

平成6年までは財団法人日本防火協会の会長も務めていて、テレビのCMに自ら出演して、

「戸締り用心火の用心」とか、日本船舶振興会のCMの「一日一善」とか子供たちと一緒に言ってましたから、それで顔を知っているという方もいるかも知れません。

優しそうなおじいちゃんのイメージでしたが、その実像は数々の顔を持ち、昔は「触れてはいけないタブーの人」の一人で恐れられていた人でした。

笹川良一の名言

昭和を支えた陰の立役者、財政界のドンとか言われる人は何人がいますが、その中でも一番の大物として笹川良一氏の名前を挙げる人も多いのではないでしょうか。

「笹川良一」いくつもの顔を持つ昭和の怪物の真の姿と生き方を見ていく前に、聞きなじみのある有名な名言をまとめておきます。

  • 一日一善
  • 戸締り用心、火の用心
  • 人類みな兄弟

後ろの段落では、上の名言以外に日記にしか書かれていないものも紹介します。

笹川良一の生い立ちと経歴

ウィキペディア笹川良一

1899年5月4日~1995年7月18日

大阪府三島郡豊川村小野原の造り酒屋の長男として生まれました。

代々庄屋を務めた旧家で苗字帯刀を許されていました。

豊川村尋常高等小学校高等科卒業後に、飛行機乗りを志して陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊しました。

ノーベル文学賞作家の川端康成とは小学校の同級生でよく近くの河原で一緒に遊んでいたようです。

昭和の黒幕の中でも笹川良一が、他の人たちと大きく違う点は、暮らしが裕福で親が遺産を残してくれたことです。

その遺産を元手に村会議員に当選もしていますし、米相場でも大きく稼ぐことができて、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人につてを作れたのです。

第二次世界大戦前は、自分の事を「大衆右翼」だと言い、ムッソリーニを崇拝し、大衆運動の合法的組織化が必要だと「国粋大衆党」を結成しました。

この党には児玉誉士夫がいたこともあります。

強硬外交を主張して、ムッソリーニのファシズムを広げようとしていました。

ムッソリーニとはイタリアの政治家で教師でもあり軍人でした。

ファシズムというのはいわば「結束主義」で、束になれば強いということです。

強い束でいるためには、強固な決まりで縛り決してそこから外れないようにする為に、自由はなく束縛することで強さを保つという考え方で、それを教育の段階から組み入れ疑問を持たせないで従わせる事というような意味と捉えられる思想です。

しかし、ファシズムは独裁国家や国力を高め強国にするために利用される思想で、自由を勝ち取る民衆運動などとは反する思想とも言えます。

おそらく、笹川良一氏はみんなで団結すればこれほど強いものはないというような意味で捉えていたのかなと思います。

1935年の大阪鉄道の買い占めの際には、国粋大衆党の他の幹部とともに恐喝容疑で逮捕され大阪刑務所に4年も収監され、最終的には無罪で釈放になっています。

その後、海軍の山本五十六(最終階級は元帥海軍大将で第26・27代連合艦隊司令長官)の後援により、単身で飛行機により訪欧でイタリアに渡りムッソリーニとの会見も実現しています。

笹川良一氏は太平洋戦争に関しては否定的で東条内閣の政策に反発し、第二次世界大戦中の1942年の選挙では、非推薦枠で立候補し当選して衆議院議員を一期務めました。

この頃には、岸信介や安岡正篤(陽明学者で政財界の指南役とも言われ、細木数子が最後の愛人であり、細木の占星術は安岡が作ったものではないかとも言われています)などとも親交を深めたようです。

戦後の笹川良一の生き方と名言

1945年12月に第三次戦犯容疑者としてA級戦犯として巣鴨プリズン(戦犯の収容施設)に収監されました。

第一次は東条内閣の閣僚が主で、第二次は大臣や軍の上層部でした。

第三次は政財界に広く逮捕者が出て、笹川良一氏もその一人です。

元々笹川良一氏は戦争に関しては慎重派で東条内閣の政策には反対の立場を取っていましたし、その後のGHQの方針が変わり、アメリカに協力するのであれば生かして利用するとなって、笹川良一氏は協力すると言って釈放されたのです。

この巣鴨プリズンでのことを笹川良一氏は日記に書いていて、死後発表されたのですが、それには当時のことやその後の笹川良一氏のするべき事などが書かれていました。

笹川良一氏は戦犯と言われるほどの活動はしていませんでしたが、

太平洋戦争の後に戦勝国が敗戦国を裁くことは不当である。アジアや太平洋地域の戦争責任は日本だけにあるのではない

と考え、「アジアや太平洋地域に植民地を作って長年支配した欧米列強国にも当然戦争責任はある。」と主張しました。

特に日ソ中立条約があったのにそれを破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきものである」とも笹川良一氏は主張していました。

また日記には、「日本が親米反共の道を選ぶべき」、「日本同胞を餓死から救わねばならない」、「世界平和を確立させねばならない」ということが幾度も書かれていました。

笹川良一氏は獄中から東条英機への意見として、

「東条英機は死刑は確実なのだから、その前にこの戦争は自衛の為であったことという日本の立場を明確にする事と、開戦の責任は天皇には一切無い事を明確にする事」が大事だと説いています。

実際、東条英機は終戦直後自宅で胸を拳銃で打ち抜きましたが、急所を外していて九死に一生を得て、東京裁判に出廷し先ほどの笹川良一氏が説いた内容と同じような事を述べています。

笹川良一の生き方 戦犯者への救済活動

笹川良一氏は巣鴨プリズンにいる時から、劣悪な待遇の改善を要求していましたが、自分が3年後に不起訴となって釈放された後、酒も煙草もやめて戦犯者やその家族への支援や救済それに獄中死した者を慰霊する活動をしました。

慰霊活動には世界各国で収監されている「三国人」(日本人以外のいわゆる中国人や朝鮮や台湾などの人)の戦犯者の救援も含まれました。

当時、戦犯者やその家族を救援することは連合国軍の意に反することで、下手に刺激することは危険だとみんな避けていた事でした。

笹川良一氏の死後、戦犯者やその家族からの礼状が大量に発見されましたが、それまで笹川良一氏本人からそれを公表することはありませんでした。

笹川良一の競艇ビジネス

笹川良一氏は社団法人全国モーターボート競走会連合会や財団法人日本船舶振興会を創立しています。

きっかけは巣鴨プリズンで見たアメリカの情報誌でモーターボートの写真に惹かれたからですが、競艇がやがて膨大な利益が出ると確信していました。

利益の一部は社会に還元されましたが、後に笹川一族の同族経営が色濃くなり問題にもなりました。

笹川良一の慈善事業

日本各地に体育館などのスポーツ施設を整備したり、アフリカの緑化運動で食糧の増産にも貢献しています。

全日本空手道連盟の会長や少林寺拳法世界連合の総裁になったり、宇宙科学博覧会の総裁をしたりと活動は幅広く、私財を惜しみなく投じたといいます。

また笹川良一氏は、これらの事業に政財界から資金を捻出させるようなことは一切しなかったと言います。

政財界の黒幕として大きな影響力はありましたが、笹川良一氏はそれらを利用しなくても株式や競艇の利益だけで賄えたので、政財界に借りを作らなくて済んだのです。

笹川良一の生き方 艶福家

艶福家(えんぷくか)、いわゆる「女好き」ということです。

「英雄色を好む」と言いますが、この人もまたそうでした。

作家の工藤美代子さん著の「悪名の棺」に書かれているところによりますと、山本五十六連合艦隊司令長官から聞かれたことがあったようです。

「いったい何人の女がいるのかね?女同士で揉めたりはしないのか?」との問いに

笹川良一氏は、「決まっているのは東京と大阪とあと数か所で、西に行ったときは浜松を境に東京の女のことは忘れる。東京に帰ってきたら西の女の事は全て忘れる。そうやってそこの女に愛情を全て注ぐことでうまく行く」

との事でした。

著者の工藤氏によると11人までの女に関しては裏付けも取れていて、噂になった川島芳子(「東洋のマタハリ」「男装の麗人」とも言われ、清朝の皇族である第10代代粛親王善耆の第十四王女。

本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)スパイ活動をしていたと言われている)とも男女の関係があったことは間違いなさそうだと言います。

最終的には70名を超す女性との関係があったようで、笹川良一氏が64歳の時に世話をしていた女性はなんと23歳だったとか。

その女性とは30年も続き、京都の山科に豪邸も建てています。

女性には細やかな配慮をする人で、笹川良一氏から愛されてると思わせるのが上手だったようです。

笹川良一の生き方 吝嗇家(りんしょくか)

倹約家、けちということです。

水の無駄遣いは決して許さない。お風呂の水は半分で充分だ。二人で入れば丁度良い。

ガス湯沸かし器の設置も認めず、秘書が見かねて自腹で取り付けたら「これは良い。便利だ」と喜んでたといいます。

夕飯はメザシ2本が定番。

ご飯は切り干し大根を一緒に炊く大根飯か卵かけご飯のみ。

客にごちそうする「中華」はチャーハンの事。

豪華なもてなしを期待している客に対していつも冷や汗が出たと側近が話していたそうです。

無駄な贅沢はしない。というのは成功者に多いですね。

山口組三代目田岡一雄との関係

酒飲み友達と公然と話し、暴力団の揉め事の仲裁役も務めています。

学もあり、思想もあれば笹川良一氏の右翼の団体にも属せますが、学も無く貧しく悪さしかできない者が、世の中のシロウトの人に迷惑を掛けないように生きていくには、受け皿としてヤクザのようなところも必要だと田岡組長は言っていたようです。

そんな考えを笹川良一氏は認めていたのでしょうか。
笹川良一氏は芸能プロダクションのようなこともしていたことがあったので、地方の興行などにはどうしてもヤクザの世話にもなったのかも知れません。

笹川良一まとめ

笹川良一氏の事を自由に書ける時代になった日本に感謝しつつも、今ではすっかりいなくなった「怪物」に寂しさも覚えます。

笹川良一氏は、立派な思想を生涯曲げることもなく生きたという人ではありません。

昭和の黒幕と言われた人たちは、自分のやってきた事の正当性を強く言う人はいません。

必要悪の部分もあって、今だったら決して許されないことをたくさんしてきたことも事実です。

でも、その時代はそういう人にでも引っ張ってくれる人が必要でした。

生きる為に、食べる為に、働くために。

今は「怪物」たちのほとんどは亡くなっています。

これからは、令和の時代は怪物や一人の権力者によって物事が進む時代ではありません。

同じ志を持った仲間とともに物事を進めていく。そんな時代なのだと強く感じています。

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