有名人の名言

ダイエー中内功の名言と功績そして失敗・・変化していく消費者の顔が・・

中内功(なかうちいさお)スーパーダイエーの創業者で、自身の壮絶な戦争体験より「好きな物を腹いっぱい食べるしあわせ」こそが豊かな社会とし、「価格破壊」により「良い品をより安く」をモットーに流通業界に革命を起こしました。

しかし時代は替わり、日本は豊になり、量より質を求める世の中となって「次第に消費者が見えなくなった」と中内功自身も語っています。

バブル崩壊を皮切りに、滑落が始まり、やがてイオングループの完全子会社となり、イオンは2018年にはダイエーという屋号も無くす方針を打ち出します。

一時はカリスマ経営者として、連結売上高は3兆円を超し、関連企業を含んで6万人以上の従業員を抱えた日本一の商業集団を作り上げた中内功氏の名言と功績と失敗を探ってみました。

中内功の生い立ち

ダイエー中内功が阪神大震災後に見せた不屈の闘志

1922年8月2日~2005年9月19日

大阪市西成郡伝法町(現在の大阪市此花区伝法)に4人兄弟の長男として生まれました。

父親は、大阪薬学専門学校を卒業後、鈴木商店(明治初期の大商社)グループを経て大阪で薬屋を始め、その後神戸で「サカエ薬局」を開業。

生活はとても苦しく、家の米びつに米がいっぱいに入っていたことは無く、いつもその日の米を買う暮らしでした。

父親は子供の教育には熱心で、夕方2時から3時間は兄弟揃って勉強をさせていたようです。

1934年入江尋常小学校を卒業し、神戸三中(現在の兵庫県立長田高等学校)に進み、その後兵庫県立神戸高等商業学校(現在の兵庫県立大学)に進学しました。

その頃の同級生の話によると、当時の中内功氏は目立たないおとなしい性格で、「気の毒なほどおとなしい男」であったと言います。

1941年、神戸高等商業学校を卒業したのは、日本が真珠湾攻撃をした直後のことです。

国家は進学よりも「直ちに銃をとれ」というものでしたが、同級生のほとんどは進学を希望し、中内功氏も神戸商業大学(現在の神戸大学経済学部)を受験しましたが、簿記が苦手だったため不合格となってしまいました。

それで、日本綿花に就職しました。

1942年12月に召集令状が届き、翌年1月に広島の野戦重砲兵第4大隊に入隊します。

幹部生として扱われる仲間を尻目に、中内功氏はソ連国境に近い綏南(すいなん)にまず送られ、その後激戦地であったフィリピンへ送られることになりました。

周りはみんな幹部生として扱われたのに対し、なぜ中内功氏は一兵卒としての扱いを受けたのかですが、神戸高商時代の配属将校に嫌われていたため(中内功氏が下駄をはいていたため殴打された)と中内功氏は述べています。

「兵適」という最低の評価しか下されなかったからのようです。

身体検査においても、「心臓が右にあるという内臓逆位であることが判明したため」とも述べています。

激戦地フィリピンでの壮絶な体験

中内功氏の所属していた隊は昭和19年の夏に熱帯のフィリピンへと移ったのですが、そこで待っていたのは、連合国軍の猛攻撃と食料不足による壮絶な体験でした。

昭和20年1月7日、ルソン島北部リンガエン湾の沿岸警備についていた中内功氏の所属していた隊は、連合国軍の艦砲攻撃を受けました。

さらに連合国軍が上陸してきたことにより、ルソン島山中を敗走することになったのです。

本来なら、敵に向かって突撃することになりそこで戦死していたのでしょう。

ですが、 山下奉文14方面軍司令官は玉砕をせずに、山岳ゲリラとして戦い続けることを選びます。

そのおかげにより、中内功氏はとりあえず命拾いすることになったのです。

ですが、山中を敗走する中内功氏らを苦しめたのが、極限状態とも言える飢えでした。

実際、ノミ、ハエ、カ以外はミミズでも油虫でもなんでも食べたと中内功氏は語っています。

こうした地獄のような日々を送っていた昭和20年6月6日の深夜に、中内功氏は敵兵が至近距離で投げた手榴弾により被弾してしまいます。

上腕部と大腿部の肉をかなりえぐられましたが、幸いなことに側に衛生兵がいて、止血してくれたおかげで、なんとか命を失わずに済みました。

この生死の境をさまよった経験が、その後の中内功の原動力の全てになりました。

「イリサン(フィリピン)でアメリカ軍の投げた手榴弾が破裂した瞬間には、これが最後の時だと思いました。

すると、我が家の電球の赤い光があって、そこにはすき焼き鍋があって、家族六人ですき焼きを囲んでいる姿が脳裏に浮かびました。

そこでハッとして「もういっぺんすき焼きを食わないといかんな。」と思ったのです。

家族でもう一度、すき焼きを食べたいという一心で生きて帰ってくることができました。

1945年8月に投降して、マニラの捕虜収容所を経て、11月に奇跡的ともいえる神戸の実家に帰ることが出来ました。

復員後の中内功氏

復員後、神戸市兵庫区にあった実家(サカエ薬局)が、1948年、元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売を行っていました。

そして神戸経済大学(現在の神戸大学)に戦後設置された第二学部(夜間)に進学しました。

ですが学費未納のため除籍されてしまいます(その後、勲一等を受勲した際に卒業扱いとなっています)。

6年後の1951年8月には、次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪平野町に開店しました。

医薬品の現金問屋で中内功氏は、そこに勤務します。

1957年4月にサカエ薬品を離れ、神戸市長田区を本店とする「大栄薬品工業株式会社」を末弟と設立して、製薬事業に参入しますが、これはすぐに撤退しています。

そして、同年7月に、九州の小倉のスーパー「丸和フードセンター」社長吉田日出男氏が薬品小売組合の反対により薬を扱えないという苦境に陥り、吉田氏の要請を受けて小倉に向かい開店の援助をしました。

これが縁で、吉田の提唱する「主婦の店」の名称を加盟費抜きで貰うことになりました。

ダイエー1号店オープン

1957年9月23日に、大阪市旭区の京阪本線千林駅前に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」(ダイエー1号店。のちに千林駅前店に改称し1974年まで営業)を開店しました。

最初は大繁盛したのですが、やがて同業他社との乱売合戦に巻き込まれてしまい苦戦を強いられました。

その苦境を救ってくれたのが丸和フードセンターの吉田社長の部下であった阿部常務です。

阿部常務は1日かけてくまなく店内を点検して、「店の半分を改装して、食品を扱ったらどうでしょう。特に菓子類は絶対に置くべきです」とアドバイスました。

当時、薬のディスカウントは盛んに行われていたのですが、食品分野ではまだまだそれほど広がっていませんでした。

しかも、薬の購入頻度に比べて食品は毎日買うものですから、それが安く買えるというのは主婦にとって最もありがたいものだったのです。

こうして、食品も扱う「ミニスーパー」への転換が転機となって同店は再び繁盛店となりました。

この転換による成功が、その後のチェーン化へ、はずみをつけるものとなったのです。

千林での開店の翌年1958年には、神戸三宮にチェーン化としての第1号店(店舗としては第2号店)となる三宮店を開店しました。

中内功氏は、既成概念を次々と打ち破り、流通業界に革命をおこしました。

特に中内功氏の行った「価格破壊」は、定価を維持しようとするメーカー勢力の圧力に対抗し、これに屈せず、主婦から喝采を浴びて支持されました。

1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」とされましたが、戦時中の国家統制はまだまだ、さまざまな規制の形で残っていました。

中内功氏は「戦後はまだ終わっていない」として、さらなる安売りに力を注ぎました。

渡米し流通業界を研究

1962年、大手商社日商(後の日商岩井)の協力のもと、現地の流通業を研究するために渡米しました。

そのときの中内功氏の仕事ぶりは、寝る間を惜しんでの流通業界研究と商取引でした。

「とにかく、好奇心のかたまりのような人でした。」と同行した日商の入江義雄(のちダイエー副社長)は証言しています。

入江氏は中内功氏の姿勢に感服して後年ダイエーに入社しました。

また、シカゴの大手流通企業であった「シティ・プロダクツ・コーポレーション」(CPO)とは、提携を結ぶ代わりに、「経営の知識情報をタダで教えてください」という無茶な要求をします。

ついにはユダヤ人のCPO経営者が、眉間にしわを寄せたまま、両手をあげ(もうお手上げだ、というジェスチャー)をして、「わかった。何もかもみんなもって行け」と、諦めるように言いました。

帰り際に、その老ユダヤ人は早口の英語で、通訳の入江氏に耳打ちしました。

「ミスター中内はいまにとてつもない男になるぞ。」と。

価格破壊で大手メーカーとの対立

中内功氏は「価格の決定権は製造メーカーではなく消費者にある」ことを信念としていました。

「いくらで売っても、それはダイエーの勝手で、製造メーカーには文句を言わせない」という姿勢を貫きました。

そして、それに対して納入価格を下げるなどのメーカーの協力が得られない場合は、自らは工場を持たないメーカーとして、そのスーパーのオリジナルブランド「プライベートブランド」 (PB) の商品開発を推進するようになったのですが、同時にそれは既存大手メーカーとの対立を巻き起こしました。

ダイエー・松下戦争

1964年、松下電器産業(現在のパナソニック)とテレビの値引き販売をめぐって「ダイエー・松下戦争」が勃発しました。

ダイエーが松下電器の製品を希望小売価格からの値下げの15%までは許容範囲だったのですがそれを上回る20%の値引きで販売を行ったことがきっかけです。

松下電器はそれの対抗手段として、仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートを断ちました。

この時の松下幸之助の考えは「儲けを維持するには高く売ることです。今後、高い水準に定価(希望小売価格)を設定して、これを守りなさい。安売り店への出荷はやめなさい」でした。

これを受けてダイエーは松下電器を相手取って、独占禁止法違反の疑いで裁判所に告訴しました。

1970年、メーカーの二重価格の撤廃を求める消費者団体が、強硬姿勢を崩さない松下に対して松下製品の不買運動も決議します。

同年には、公正取引委員会がこの二重価格問題に対して、「メーカー(松下側)に不当表示の疑いがある」という結論を出しています。

そして同じ時期に、ダイエーは13型カラーテレビを「BUBU」というブランド名で当時としては破格の安さである59800円で販売し、さらに松下との対立が激化しました。

この騒動に終止符を打つべく、松下幸之助は、1975年に中内功氏を京都の真々庵に招いて、「もう覇道はやめてはどうか、王道を歩むことを考えた方が良いのでは」と諭したが、中内功氏は応じなかったといいます。

この対立は、松下幸之助没後の1994年に松下電器が折れる形で和解となりました。

この対立は「30年戦争」とも呼ばれました。

ダイエー・花王戦争

1965年、3月に花王石鹸がダイエーへの出荷を停止しました。

これによりダイエーは7月に、花王石鹸を公正取引委員会に提訴しました。

更に、ダイエーは第一工業製薬と提携して、ナショナルブランドより2~4割安い洗剤「スパット」を販売したことで対抗しました。

最終的に「ダイエー・花王戦争」は住友銀行の仲介で1975年に和解して、取引が再開することとなりました。

さらなる価格破壊

その他、価格破壊では食品などが代表格とされています。

ダイエーの企業テーマである「For the Customers よい品をどんどん安く消費者に提供する」という事を実現するために、「既存価格を破壊することがダイエー(主婦の店・大栄)の存在価値にある」と考えてそれを実行して行きました。

たとえば牛肉の場合でいくと、普通の店では100g当たり一般で100円だとして、これは、安くても70円だったとすれば、そこを39円と思い切って値下げして販売します。

当然、牛肉コーナーには主婦らが殺到し売り切れ店が続出するほどになります。

するとこの欠品状態を補充すべく、生きた牛を丸々買い取ってそれを枝肉に加工して販売したり、さらには日本本土復帰前の沖縄には輸入関税がかからないことを利用してオーストラリア産の子牛を沖縄に輸入・飼育したうえで日本国内に輸入するというアイデアを生み出しました。

さらなる躍進とその後の赤字

ついに1972年には百貨店の三越を抜いて、小売業売上高トップにまで登り詰め、1980年2月には日本で初めて小売業界の売上げ高一兆円を達成しました。

また、子会社・別事業を次々と展開し、企業買収も積極的に行います。

1981年には高島屋の株式を10.7%分・取得して高島屋との提携を求めましたが、ダイエーによる乗っ取りを警戒した高島屋側からの白紙撤回によって失敗に終わります。

しかし、一兆円達成から3年後の1983年から三期連続で連結赤字を出してしまいます。

これに、元ヤマハの社長であった河島氏を総指揮官として、業績をV字に回復させる通称「V革」を行いました。

福岡ダイエーホークス誕生

1988年にはパ・リーグの南海ホークスの株式を南海電気鉄道から買収しプロ野球へも参入しました。

そして福岡ダイエーホークスを誕生させて、さらに東京ドームよりも大きい福岡ドームの建設に着手し、グループを急拡大させました。

このときには、中内功氏はホークスについてよく知ろうと思いホークスを扱った漫画である「あぶさん」の作者である水島新司とホークスについて対談しています。

流通科学大学開校

1988年4月には神戸・学園都市に長年の悲願であった流通科学大学を開校しています。

大学の職員は全員当時のダイエーから出向とさせて、同時に中内功氏が理事長に就任しました。

経団連副会長就任

また、1991年には経団連の副会長に抜擢されました。

それまで流通業は、製造業や銀行などの他業種より格下と見られていましたが、初めて流通業からの抜擢となり、名実共に業界をリードする存在となったのです。

ワンマン体制の弊害と滑落への道

しかし息子たちに跡を継がせたいことなどで、他社からヘッドハントした人材も含む部下を辞職に追い込むなどし、自分の周囲をイエスマンで固めるなどしたことが問題志され、ワンマン体制の弊害が露呈してしまう一面もありました。

滑落へ

1990年代後半になって、バブルは崩壊し、これにより地価の下落がはじまりました。

ダイエーは、地価上昇を前提として店舗展開をしていたために、これが一挙に傾き始めたのです。

また、アメリカ型デスカウントストアーであるハイパーマートが失敗に終わりました。

日本が豊かになり、当時の消費者の意識が「安い」から「品質」に変わったという時代の変化や、また、家電量販店などの専門店が手広い展開を始めたことなども相まって、ダイエーは徐々に時代の流れに遅れをとっていったのです。

1990年代後半には、ジャスコを経営するイオンや、ローソンのライバルであるセブンイレブンの当時の親会社であるイトーヨーカ堂などが業界をリードするようになりました。

当時、世間からは「ダイエーには何でもある。でも、欲しいものは何もない」とまで言われるようになっていました。

中内功自身も晩年、「消費者が見えんようなった」と嘆くこともあったといいます。

求心力の低下

「私とコンピューターとパートがいればいい」と語って、社員をグループ企業に大量出向させたことなどで、人心は離れて行きました。

また、8時間労働のパートの勤務体系を休憩(1時間)の必要のない4時間刻みにした事で、長く働きたい優秀なパートは辞めて去ってしまうこととなり、業績は一段と悪化を招いてしまいます。

阪神・淡路大震災

業績が低迷する中で1995年1月17日5時46分、阪神・淡路大震災が発生しました。

東京・田園調布の自宅で知った中内功氏は、直ぐに物資を被災地に送るよう陣頭指揮に立ち手配します。

国の支援体制より速くフェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したことは、一部で見られた便乗値上げに対して、物価の安定に貢献しました。

世界では大災害が起きた際には暴動が起こる例も少なくありませんが、ダイエーが根付く神戸ではそうした騒ぎが起きませんでした。

しかし一方で、この地震によって被災地神戸にあったダイエー7店舗のうち、半数以上の4店舗が全壊となり、またコンビニのローソンを始めとするダイエー系列店の約100店もの店舗が被災しました。

関西発祥のダイエーの金銭的被害は甚大で、バブル崩壊により業績が低迷しつつあったダイエーの凋落に拍車をかけることになったのです。

ダイエーの正社員も、この震災により判明しただけでも30名以上もが亡くなっています。

「スーパーはライフラインである」という中内功氏の哲学により、阪神・淡路大震災では、地震発生3日後には自ら被災地神戸に乗り込みました。

自前のネットワークを駆使して必要な物資の輸送し、営業時間の延長や被災した店舗前での物販販売などを特例的に行政当局に認めさせることにより、被災地への迅速な物資の供給・販売を実現しました。

「店の明かりをつけるだけでも、それだけで被災者たちは力が出るものだ。」「被災者のために明かりを消すな。お客様が来る限りは店を開け続けなさい。流通業はライフラインなんだ。」と号令を掛け、電力供給が出来ているダイエー、ローソンなどの照明を24時間点灯し被災地を勇気づけました。

この中内功氏の哲学はその後のダイエーにも例外なく引き継がれ、東日本大震災でも、東京のダイエー本社(東京都江東区)では地震発生後すぐに対策本部を設置し、東北の被災地に所在するダイエー仙台店は迅速に営業再開することができたのです。

中内功の晩年

2001年に「時代が変わった」としてダイエーを退任しました。

しかしそれは遅すぎた決断と言われ、あらゆる部門で問題が露呈していました。

最後の株主総会に至っては、厳しい質問が延々と続き、2時間36分の大荒れ総会となりまし。

その中で、勇退の辞として過ちを認め謝罪した後、まだ総会が終わっていないにも関わらず中内功氏は壇上を降りて去ってしまうという一幕がありました。

会場はあっけにとられましたが、株主から「議長、中内さんがあんまり寂しすぎる!拍手で送ってあげたい」との声が挙がって、再登壇した中内に満場の拍手が鳴り止みませんでした。

その後は、中内功氏自身が私財を投じて設立した流通科学大学を運営する学校法人中内学園の学園長に専念しました。

2000年には流通科学大学では職員はそれまでダイエーからの出向だったものが大学籍になりました。

2004年12月には中内家の資産管理会社3社(マルナカ興産など)も特別清算を開始し、芦屋と田園調布にあった豪邸や所持する全株式も売却処分しています。

私財からダイエー関連資産を一掃することにより、名実ともにダイエーと決別したことになります。

翌年の2005年8月26日、流通科学大学を訪れた後に神戸市内の病院で定期健診中の中内功氏は、脳梗塞で倒れてしまい、療養中の9月19日午前9時30分に転院先の神戸市立中央病院において死去、83歳でした。

倒れてから亡くなるまで、一度も意識が戻ることもなかったようです。

逝去した際には、田園調布の自宅や芦屋の別宅が差押となっていたために、一度も中内功氏の亡骸を自宅へ戻すことができませんでした。

大阪市此花区の中内家が眠る正蓮寺にそのまま搬送されて、ごく近親者だけでの密葬となりました。

本葬儀も流通科学大学の学園葬で行われ、ダイエーの経営陣は参列しましたが、当時の状況は、産業再生機構入りして再建中だったことも踏まえた上で社葬は行いませんでした。

しかし、逝去して7日後の9月27日に、中内功氏がオーナーを務めたダイエーホークスの後身である福岡ソフトバンクホークスと、対戦相手であった東北楽天ゴールデンイーグルスの選手や関係者が福岡ドームで、プレー前にファン・観戦者と共に感謝の意を込め1分間の黙祷を行いました。

当日の試合ではソフトバンクが勝利しています。

また、中内功氏の死に関して福岡ドームの電光掲示板には「ありがとう!!中内功さん 福岡はあなたを忘れません。安らかにおやすみください。」と表示されました。

更に、日本の流通業界の先頭を走り、業界を引っ張って来た人でありながら、社葬が行われなかった事に関して、このまま終わるのは忍びないと、イトーヨーカ堂の創業者の伊藤雅俊や、イオンの創業者の岡田卓也、それに日本におけるスーパーマーケットの育ての親でもある渥美俊一、中内功氏自身も立ち上げに携わった日本チェーンストア協会等が発起人となって、同年12月5日にホテルニューオータニにおいて「お別れ会」が開かれました。

約2300人が献花に訪れ、生前親交のあった安倍晋三、二階俊博、小池百合子、小沢一郎などなど政界人も参列しました。

中内功の名言

・人間とは本来弱い物だが、信念とか使命感で行動するとなぜか果てしなく強くなるものだ。

・ええ恰好なんかするな。現実に足をつけろ。自分の体で考えたことだけ言え。実践というものは、自分で手を汚して最前線に出てみてはじめて分かるものだ。

・日常の生活の中のギラリと光る断面、繰り返しのきかない場面にこそ人生があるのです。人間が生命をかける事業がそれなのです。自らを進んで危機に追い込んで、持てる全力を投入する。これこそが本当の人生である。

・私はたとえ睡眠時間を切り詰めてでも情報を集めることに精を出します。海外に出ていても可能な限り自分の目で見て、自分の足で確かめることにしています。そうした情報の集積体こそが経営戦略を決定していくうえでの勘になるのです。

・時代の先を行く者は必ず石をぶつけられるものです。イエス・キリストだってそうだった。私は流通革命というはりつけにあって、常に石をぶつけられてきました。

・私は一流主義より一番主義です。企業を伸ばすには絶対一番でなければならないのです。

中内功のまとめ

中内功氏は一代でダイエーを創業し、流通業界を押し上げ、巨大なグループ企業に育て、最後には経営不振に陥らせという波乱万丈の栄枯盛衰を味わった人です。

戦争の悲惨な体験が、「美味しいものをお腹いっぱいに食べることがしあわせ」と悟り、それがその時代のニーズとぴったりと合致して人々の共感を得て大きくなりました。

それが、いつしか時代が変わり日本が豊かになり、人々の求めるものは量より質に変わり、滑落して行きます。

いくら中内功氏が先を読めなくなったと言っても、なぜ大きな企業が時代に合わせて方向転換出来なかったのかと不思議です。

いくらワンマンだったとは言え、中内功氏一人の責任にするのはどうでしょう。周りの人間の責任はどうだったのでしょう。

バブル崩壊や阪神淡路大震災も確かに経営不振に拍車をかけたのかもしれませんが、いずれにしても数万人の従業員の運命を変えてしまうことになりましt。

中内功氏という人は、情報収集には普段から人一倍熱心な人でしたから、いずれ時代が変わりニーズが変わる事を予測できなかったのでしょうか。

なんらかのバイアスがかかってしまい正常な判断が出来なくなっていたのかもしれません。思い込みや信じ込みなどがあった可能性があります。

中内功氏は晩年、「消費者の顔が見えなくなった」と言っていますが、時代の変化が見えなくなるというのは経営者にとって恐ろしいものです。

一番いけなかったのは、リスクの回避が出来ていなかった事かも知れません。

ワンマン経営者一人が巨大企業を操ることにより、それで起きるリスクを考えていなかったことが、一番の敗因なのかも分かりませんね。

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