有名人の名言

オムロン創業者立石一真の名言と成功に導いた出会い倒産寸前から世界的企業へ

オムロンと言うと、多くのの人は体温計や血圧計を思い浮かべるのかも知れませんが、自動券売機や自動改札機、ATM、などを国産初、また世界初のプロダクトを数多く発明して、オートメーションやサイバネーション(コンピューターによるプロセス制御)の先進技術によって日本経済の発展を支えてきた企業です。

グループ全体で約36,000人もの従業員、年間8,600億円を越える売上高とまでなっています。

オムロン創業者の立石一真氏(たていし かずま)は倒産寸前に陥った会社を、大改革の末、1年半後にはみごと黒字化に成功し、さらに一年後には売上げ1011億円を達成しました。

50歳を過ぎて大業を成し遂げたのは、伊能忠敬(17年かけて日本全国を測量して大日本沿岸輿地全図を作った人)と立石一真だけと大前研一(世界に通用する日本人の経営コンサルタント)に評される程に稀な事です。

立石一真氏の名言と、成功に導いた数々の出会いなどを調べてみました。

立石一真の経歴

bisiness network labオムロンの創業者立石一真氏と5人の出会い

1900年9月20日、熊本県熊本市新町生まれ。

祖父の代に伊万里焼で有名な佐賀から熊本に移り住み、鎮静鎮台(熊本県の陸軍部隊)を除隊する兵士向けに、名入りの伊万里焼の盃を販売し大成功していました。

その家に初孫として生まれた立石一真氏は乳母が二人もいてとても大切に育てられました。

ですが、その祖父が亡くなると、芸術肌の立石一真氏の父親は祖父が起こした盃屋を辞めてしまい、祖父が残した遺産を取り崩していく生活になり、瞬く間に貧困生活になります。

さらに42歳の若さで父親も亡くなり、小学校1年生で一家の筆頭「戸主」になり、祖母に母、弟二人の5人を抱える身となりました。

止む無く母親は下宿屋を始めますが、たいした収入にはならずにいつも母親がお金のやりくりで苦労しているのを見ていました。

小学校5年生から新聞配達を始め家計を助け、早く世の中に出て働いて母親を助けたいと思っていましたから小学校を卒業したらすぐに働きに出るつもりでした。

でも、日ごろ勤勉な立石一真氏を見ていた教師たちの勧めもあって苦学を覚悟して地元の名門・熊本中学、熊本高等工業学校へと進みました。

1921年熊本高等工業学校を卒業しましたが、不況で専攻した電気化学を活かす仕事には就けず、兵庫県の県庁土木課に電気技師として就職しました。

将来の水力発電所の建設を考えての採用でしたが、とりあえずの仕事は現地調査と測量の手伝いでした。

給金は当時のお金で175円。長期出張の宿泊料なども含まれており課長クラスを超える金額でした。

社会経験も少ない年齢で大金を手にしてしまい、同僚らで芸者遊びなどの豪遊を繰り返し、「公金を使いこみでもしたのではないか?」と噂になり、県庁から呼び出しをくらいそのまま辞職となってしまいました。

こうして1年4ヶ月の役人生活は終わり、母親への仕送りも出来なくなり焦りました。

しばらくして、同級生の紹介で井上電機に就職することが出来ました。

配電盤などの制作をしている会社でそこの検査室主任として迎え入れられたのです。

社員200人程度の中小企業でしたが、技術のほとんどは常務が一人で開発している会社でした。

立石一真氏は新しい製品開発のために徹夜しては試行錯誤を繰り返し、新型の継電器を考案しました。

ショートを予防するために電圧や電流が一定以上に上がると切れるという仕組みのもので、実用新案を取得し東京電灯から大量注文を取ることに成功しました。

電気技師としては活躍できたのですが、どうも上司との折り合いが悪く退社を決意しました。

そのころは不況の真っただ中、とても就職先も見つからないと諦め、自分が開発したズボンプレッサーを売って暮らそうと思います。

京都では思うようには売れなくて、往復7時間かけて大阪まで自転車で行ったこともあったと立石一真氏は語っています。

次に開発した商品は、「ナイフグラインダー」出刃包丁も研げる商品でした。

これも中々売れず、露天商で自ら説明して売ったこともあったとか。

行き詰まって、何か良い仕事はないものかと考えていた時の事です。

同級生である権藤豊の情報

そんな時に久しぶりに会った同級生の権藤豊氏から、有力な情報を聞きました。

この情報のお蔭でやっと運が向いてきます。

その同級生は島津製作所でレントゲン販売をしていたのですが、立石一真氏の近況を聞くと彼は「レントゲン撮影用のタイマーで20分の1秒の撮影が出来るものがあればきっと売れる」と言うのです。

当時のタイマーはゼンマイ式で20分の1秒という瞬間撮影が出来ずに、胸部撮影では心臓の鼓動などで動いてしまうのでボケて鮮明な写真が撮れないでいました。

その話を聞いた立石一真氏はすぐにピンときました。

井上電機時代に考案した誘導型継電器を少し改良するだけでこのタイマーはきっと出来るに違いない。

1933年「立石電機」を創業しました。

すぐに開発に取り掛かり試作品のレントゲンタイマーを完成させることができました。

運の良い事に友達の紹介で大阪の日生病院でプレゼンする機会も得ます。

そして見事にプレゼンも成功し、その場で納品まで決まります。

島津製作所を始め、専門のメーカーが取り組んでも出来なかった精度の良いレントゲンタイマーの開発に成功したわけです。

その後は日生病院の物理療法内科の博士が「大日本レントゲン製作所」を紹介してくれたこともあり、レントゲンタイマーは次々と大きな契約を結びます。

京都では交通の便からも不便になり、大阪の大日本レントゲン製作所の近くに一軒家を借りて引っ越しました。

妻と生まれたばかりの長男と、そしてわずか2人の従業員だけの引越しで、1933年5月10日のことで、この日が「立石電機製作所」の創業記念日となりました。

立石一真氏が33歳の時の事でした。

同窓の安達英一の弟のお蔭

東京帝国大学航空研究所の井上教授より、アメリカの航空機で多く使われている「マイクロスイッチ」というものを作ることは出来ないかと相談されます。

これは軍用機に採用されたら大きな収益に繋がると思い引き受けてはみたものの、アメリカで製造されているものの資料の入手は容易ではありませんでした。

困っていたところ、貿易会社に勤務していた同窓の安達英一の弟がアメリカのシカゴにいると聞きました。

マイクロスイッチの現物とカタログの入手が出来ないかと依頼してみたところ、なんと3ヶ月後の1941年秋に手元に届いたのです。

1941年の12月8日に太平洋戦争に突入していますから、その時の安達兄弟の協力が無かったら、その後はもう不可能な事でした。

現物とカタログが手に入ったので、その後、何度も試行錯誤してとうとうマイクロスイッチの開発に成功しました。

ただし、その後戦局が悪化し軍用機への採用には至りませんでしたが、この技術が後に世界初の「無接点スイッチ」の開発へとつながりました。

それはオートメーション時代への原動力となるのですが、その前には倒産の危機にも見舞われます。

戦後の混乱で倒産の危機

戦後はGHQが動いて、企業に労働組合が乱立しました。

立石電機もその例外ではなく、労組が大きな力を持ち、京都製作所は閉鎖へと追い込まれ、また「ドッジ不況」とよばれた安定恐慌のあおりを受けて立石電機は倒産の危機に追い込まれました。

250人いた従業員もわずか33人になり、立石一真氏は仕入れ先や協力工場を1件づつ回り、債権の棚上げをお願いして回りました。

そして残った従業員が総出で、主力製品の保護継電器を担いで営業して回ったのです。

全従業員のお蔭でなんとか倒産の危機は脱しましたが、成長の見込みは掴めずにもがいていた時です。

日本初の経営コンサルタント上野陽一の講演のお蔭

1952年に聴いた、日本初の経営コンサルタント上野陽一氏の講演での事です。

「アメリカでは戦時中にオートメーションの工場が作られ、人がいなくても材料を入れるだけで立派な製品が出来上がる。日本もこれからの商品はオートメーションの工場で作られるような設計が必要である」

というものでした。

「オートメーション」という言葉に立石一真氏は「これだ!」と思います。

その講演から1年間の準備期間を経て、全社員に号令を出しました。

「わが立石電機はこれよりオートメーションに進出します!」

1955年から立石電機はオートメーション機器の営業を本格的に始めました。

これが、関西で保護継電器を作っていた中小企業が日本経済の発展を支え大企業へと躍進していった幕開けでもありました。

その後、1955年は、「オートメーション創業元年」と社内では呼ばれたのです。

健康工学を学ぶことが出来た、西勝造のお蔭

倒産の危機に直面している時に、立石一真氏は妻の病にも直面していました。

色々と治療法を探している時に辿り着いた「西式健康法」の西勝造氏と出合いました。

妻の命を救う事は出来なかったのですが、その時に西先生からの情報が立石一真氏に大きく影響します。

「アメリカではサイバネティックスという新しい科学が生まれたとかで大問題になっている」と言うのです。

サイバネティックスというのは、生物と機械における制御と通信を融合させるために、生理学や機械工学、システム工学を統一的に扱うための学問です。

アメリカでは労組が大反発して、こんな学問が進んだら労働者は仕事が無くなると考えられたのです。

でも立石一真氏は少し違う捉え方をしました。

これからオートメーション化には、この科学は必要だ。

これからは機械にできることは全部機械がこなし、人間は思想や創造などの人間しか出来ない事をするというのが最も人間らしい仕事ではないかと考えたのです。

こうして立石一真氏はサイバネティックスを応用した結果、オートメーションとコンピューターを組み合わせた「サイバネーション」という新技術を開発したのです。

現在では私たちの生活に欠かせない「自動発券機」の誕生です。

その後、自動改札機や交通管制システム、そして銀行のATMの開発と繋がっていきました。

また、西式健康法をヒントに病気になったからではなく、常日頃から誰でもが健康状態を測定できることが重要と考え、一般向けに血圧計や体温計それに体重計などを開発したのです。

私たちが「オムロン」というとこのような製品を連想するのはここから来ているわけですね。

経営コンサルタント大前研一のお蔭

こうして、オートメーションとサイバネーションで時代の先取りに成功し大きく成長した立石電機だったのですが、石油ショックや競合企業も多い事から、後発の電卓事業でまさかの大転落。

25年ぶりの赤字に陥ってしまいました。

そこで知り合いを介してマッキンゼーの東京事務所を訪れ、出会ったのが大前研一氏です。

立石一真氏は、大前研一氏の提示する高額なコンサルタント料も承諾し、また「企業参謀を作る為に、会社の未来を背負える若手を7人ぐらい集めてください」という提案も引き受けました。

こうして大前研一氏の指導の基、立石家三男の義雄を委員長にして「経営改革委員会」を設置し、事業の選択と集中に注力しました。

そして、改革の結果なんと1年半で黒字に復帰。

その一年後には史上最高益を記録することが出来たのです。

1979年の売上高1011億円を達成したのです。

立石一真氏の名言

立石一真氏は幼いころから苦労してきただけあって「悟り」のような名言がいくつかあります。

・「人に褒められて有頂天になったり、人に悪口言われて憂鬱になるなんておよそナンセンスだ。そんなことで自分の値打ちが急に変わるものでは無い。」

少年時代に新聞配達をしていましたが、貧しさゆえにあらぬ疑いを掛けられ陰口をたたかれた時に悟った言葉です。

・「今の仕事にただひたすら懸命に打ち込みなさい。それが役に立つ時がきっと来ます」

井上電機時代、新商品を開発するべく徹夜と試行錯誤を繰り返した結果新型の継電器の考案という大きな成果を掴みます。

・社会に奉仕する企業には、その企業を伸ばすために経費として社会が利潤を与えてくれるものだ」

この発想により社憲の「我々の働きで、我々の生活を向上し、よりよい社会を作りましょう」が出来たのです。

・「出来ませんと云うな。どうしたら出来るのかまず工夫しなさい」

まず、やってみることが大事。どんなに難しいテーマであってもどうしたら可能なのかを考えることが重要。

・「企業も、適者生存である」

環境変化に適応できなければ滅んでいくのは、生物も企業も同じである。

立石一真まとめ

立石一真氏の功績はとても大きいです。

もちろん事業を大きくした事がもっとも大きな功績なのですが、そのだけで立石一真氏の功績は終わりません。

私財のオムロンの株式150万株を拠出して「財団法人立石科学技術振興財団」を設立し、新しい技術者や研究者の育成する基盤を造りました。

世界中から人やテーマを選んで立石一真氏の考える、

「機械に出来る事は機械に任せて、人間はより創造的な分野での活動を楽しむべきである」という人類の未来に向けての先駆けです。

今、人間はAIに仕事を奪われるとかが話題になる時代です。

未来の人間はどうあるべきか、今きちんと考えて自ら道を選んでおかないとならない時代です。

創造的な分野で楽しく生きられる人と、仕事を追われて生活も苦しくなる人の分かれ道に来ています。

自分の選択が自分の将来になることを忘れてはいけないですね。

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