有名人の名言

味の素の創業者鈴木三郎助の名言と生涯 成功の秘密は母なか子にあり

鈴木三郎助(すずき さぶろうすけ)は「味の素」の創業者です。

今の若い人は「味の素」と聞くと、どんな商品を連想するのでしょうか?

「Cook Do」「ほんだし」「コンソメ」「クノール」「グリナ」最近では化粧品までありますが、味の素の一番最初の商品は「うま味調味料」の白い結晶の粉でした。

今では、あまり使われなくなってしまって知らない人が多いかもしれません。

「味の素株式会社」はすっかり大きな企業となっていますが、その創業者である鈴木三郎助を実業家として成功できたのは母親のなか子のお蔭です。

若い時の鈴木三郎助は、米相場に手を出し一度は大きく儲けたものの、その後の失敗続きで借金地獄に陥りました。

相場の世界は賭博の世界と同じで一度踏み入れてしまうと、中々抜け出すことが出来ないものです。

今度こそ、次こそはとお金を注ぎ込んでしまい、蟻地獄のように抜け出せなくなるのです。

母のなか子は、借金地獄からなんとか息子を助け出そうとして、日本橋の兜町に何度も探しに行きますが、息子の三郎助は母の姿を見つけると逃げてしまう始末です。

母のなか子は息子を当てにするのは諦めて、葉山に残った家で家運挽回を願いながら暮らしていると、運命の出会いに巡り合います。

空き部屋を貸間にしていると、そこを借りた製薬会社の技師が、葉山の海岸に大量に打ち上げられている「かじめ」という海藻の良い利用方法を伝授してくれて、それが大当たりします。

そこからが「味の素」の始まりです。

母、なか子のお蔭で息子の三郎助は「味の素」の創業者になれたと言っても過言ではないのです。

相場の世界から足を洗い、味の素を今に続く企業にした、鈴木三郎助の功績も当然大きいのですが、その光輝く宝石の岩石を最初に拾ったのは母のなか子だったのです。

ですが、確かに「味の素」という会社を一流企業に押し上げた、鈴木三郎助の手腕にも元々才能があった人なのだと思われる名言も多く、それも併せてご紹介します。

鈴木三郎助の名言

・味覚に国境無し

・人より、ほんの少し多い苦労と、ほんの少し多い努力で、その結果は大きく違う。

・商人は「アンテナは高く上げ、頭は低く下げろ」です。世の中の変化や技術革新に乗り遅れのないようにアンテナは常に高く張って、政治家でも評論家でも無いのですから、頭は下げて、商人のセンスで生きる事です。

・人生は、血と汗と涙でつづるものです。

血は「ファイト」であり、汗は「努力」であり、涙は「心」です。

この三つがバランスよく発揮できる人生はしあわせです。

・苦労をいとわず、苦労に勇敢に突き進んで行くことは何より一番の学校である。

・PRとは結局人に奉仕する真心なのである。ただ宣伝したというだけでは、商品も売れないし、宣伝効果も上がりません。人間の誠意がこもっている商品でなければいけないのです。

・わが社が、たえず品質の改善向上とか、コストの低下やその他を研究して、消費量の増やそうと努力しているのは、単に社の繁栄ばかりを考えているからではありません。それがひいては、いかに国利民福に重大な関連性をもって貢献するということを痛感しているからなのです。

鈴木三郎助の生涯

味の素 社史 沿革

1868年1月21日(慶応3年)~1931年3月29日

相模国三浦郡堀内村(今の神奈川県三浦郡葉山町)の商家に生まれました。

父の三郎助(初代)と母のなか子の長男として生まれ、幼名を泰助といいました。

妹のこうと弟の忠治がいて、初代三郎助はもともと忠七といいました。

父の初代三郎助は、公郷村(現在の横須賀市)の豪商「滝の崎」に奉公に出て手腕を認められ、妻帯・独立して「滝屋」という店を出しました。

ですが、その父は明治18年に腸チフス(サルモネラ菌の一種であるチフス菌により引き起こされる病気で、汚染された飲み水や食べ物などにより感染する伝染病)により35歳で他界してしまい、泰助はまだ9歳でしたが家督を継ぐことになりました。

泰助は11歳で尋常小学校を出て高座郡羽鳥村(現在の藤沢市)の耕余塾に預けらましたが、明治13年には、そこをやめて浦賀町(現在の横須賀市)の米穀商加藤小兵衛商店で住み込みの見習いとなりました。

1884年明治17年に18歳で実家へ戻って二代目三郎助を襲名しました。

1887年明治20年4月には、母が選んだ芦名村(現在の横須賀市)の呉服商辻井家の次女であった「テル」を妻に迎えました。

米相場の失敗

三郎助の商売は当初は順調だったのですが、やがて資金繰りに躓いてしまい、21歳の時に借金の穴埋めのために米相場に手を出してしまったのです。

母のなか子が言うには、「悪友」が誘ったのがそもそもの始まりのようですが、一時は現在のお金で数億円もの利益を出したこともあったようです。

ですが、一度その蜜の味を知ってしまうと中々抜け出せないのが「相場」の世界です。

博打と同じで、勝ったまま止めれば財産は残るのですが、一度味を占めると、「次はもっと」と思い、負けると「次こそは」と思います。

一度大きな金額で利益を出してしまっただけに、金銭感覚も崩れて、負けた金額も取り戻せると勘違いしてしまいます。

それで、瞬く間に財産を使い果たし、借金地獄から抜け出せなくなってしまいました。

三郎助は借金取りからも逃げて、行く先は日本橋兜町だろうと母のなか子は何度も探しに行きます。

でも、三郎助は母の姿を見ると逃げてしまうのです。

途方に暮れて、母のなか子は息子に頼るのを諦めました。

食べていく為に、なんとかしなくてはと唯一残った葉山の家の空き室を貸し部屋にして暮らしていました。

その頃のは葉山は海水浴が流行してきたこともあって静養地として人気になってきたところです。

母の奮闘

ある夏の日、貸し部屋の一間を大日本製薬の技師という村田春齢という男とその家族が逗留しました。

りっぱな製薬会社に勤めている人ならばもしかしてと思った母のなか子は、その技師と名乗る男性に生活の窮状を話し「なにかいい商売はないでしょうかねぇ」と相談したのです。

するとその技師は、「ありますよ」とあっさり答えてくれました。

海岸に大量に打ち上げられている「かじめ」を使って、「ケルプ」という

沃度灰を作ってみてはどうかと薦めてくれました。

「かじめ」というのは搗布と書いて、褐藻類コンブ科の海藻で、沃度や肥料として使われていたのでした。

そのかじめなら、なか子が毎朝海岸線を散歩していますから、大量に打ち上げられているのを見て知っています。

なか子はその村田技師から、詳しく製造方法を聞いて、すぐに製造に取り掛かりました。

苦心の末、なんとか一握りのケルプが出来て、それをサンプルとして村田技師に送ったところ、品質が良いと逆に村田技師を驚かせます。

それでなか子は、三郎助の妻のテルにも手伝わせて、本格的に生産を始めました。

品質の良さが評判を呼び、それが大当たりで売れに売れました。

これなら息子を呼び戻して手伝わせようと兜町に探しに行きますが、やはり息子は姿を見ると話も聞かずに逃げてしまいます。

もう息子の事は諦めて、嫁のテルと二人で頑張るしか無いとケルプ作りに毎日精を出していました。

三郎助の帰宅

そんなある日、息子がふらっと帰ってきます。

三郎助が、家に戻って来たのは金策の為です。

ですが金目のものなどすでに何もありません。

三郎助が目にしたのは、母と嫁の必死に働く姿でした。

相場の世界に染まってしまうと、必死に働くことなど馬鹿らしいとしか思えなくなります。

当たれば大金が転がり込んでくるのですから、汗水流して働いても少しの金にしかならないことなど馬鹿らしいと思っていました。

でも、さすがの三郎助も限界を感じていました。

そして、母と嫁の働く様子を数日観察していたのです。

三郎助の参入

元々、三郎助は頭の良い男でした。

ですから、海岸で拾ってくるタダのかじめが金になることに商機を見つけます。

近くの海岸で拾ってくるだけではたかが知れていると感じて、すぐに兄弟も呼んで家業として本格的に製造を始めます。

兄の三郎助は商売に向いていて、弟の忠治は研究者に向いているようで、ケルプを原料にしてもっと多様な商品を作ることになり事業としての形にもなって行きました。

原料かじめの奪い合い

その後、日本のあちらこちらで、ケルプ作りが流行するようになりました。

ケルプは房総で多く捕れます。

三郎助がケルプ精製工場を房総に建設しようと思い立ったのは明治も末のことでした。

葉山から房総に買い付けに出向いていたのは遅れを取ってしまうと判断したからです。

まだ、房総には思わぬ強敵が待ち受けていることなど思いもよりませんでした。

房総の浜辺で三郎助は村人を説得し、村人たちはかじめ作りに励みました。

それで原料のケルプが十分に集まるようになっていました。

精製工場の建設も順調に進んでいました。

そこに急にとんでもないニュースが飛び込んできたのです。

手配したはずのケルプが集まらないというのです。

いったいどういうことかと調べてみると、同業者が現れて、ケルプを高値で買い集めているというのです。

高値で買い集めていたのは、房総水産会社の森矗昶営業部長という男です。

後の昭和電工の総師となった男なのですが、房総水産もケルプを買い集め、ケルプの精製事業を計画していたのでした。

四角い顔ですが、実に人当たりも良く、村人への接し方も実ににこやかで上手です。

鈴木三郎助の実業家としての腕

かじめ争奪戦で、両者が正面衝突するのは、もはや避けられない情勢となっていました。

高値になれば、漁民や村民は喜びますが、製造業者はたまったものではありません。

三郎助は、このままではお互い自滅すると考えて決断して房総水産に出向きます。

森営業部長は、三郎助が訪問してきたことを聞くと、気構えて迎えます。

すると三郎助が発した言葉は「工場をおたくに譲ります」と言うではありませんか。

これは降参宣言かと思い理由を尋ねた森営業部長に対して、「日本人同士でケンカをするなんてつまらない話だからです。かじめの値をつり上げるだけで、この状態を続ければおたくもワシのところも共倒れになってしまいます」と三郎助は答えました。

この巧みな説得に森営業部長は「勝利」を感じましたが、まだ鈴木三郎助の本音が解らず、とりあえず近くの料亭に席を移して酒を交えての話し合いにしてみることにしました。

酒を酌み交わすことで、この男の本音が知りたいと思ったのでしょう。

工場を譲る代わりに出した条件

鈴木三郎助は「館山の精製工場はお譲りしてもいいんですが、その代わりに」と言って、工場を引き渡す評価の相当額を株券で相殺することと、房総水産の重役に鈴木側から派遣することの二つを条件に持ち出しました。

森営業部長は全面勝利を感じ、これを承諾します。

ですが、これには鈴木三郎助の抜かりの無い計算が潜んでいたのです。

房総水産に勝たせたように思わせておきながら、実は何一つ損することなく、実利を手にしたのです。

何故なら、それは対等合併だったからです。

そのことに森営業部長が気づくのはもう少しあとのことになります。

世間では、鈴木三郎助の評価は「欲の無い男」と評判になり、そんな人間の「日本人同士争ってもなんの得にもなりません」の説得で、沃度業界をほぼ独占する日本化学工業を設立したのは明治40年のことでした。

社長には財界の大立て者大倉輝八郎を迎えて、鈴木三郎助自らは専務に就任しました。

日本化学工業の設立でも、「欲のない男だ」と評判になりました。

ですが、大倉が引き受けた社長職は名誉職に過ぎません。

実際に会社経営を握ったのは、専務職の鈴木三郎助だったのです。

もうすでに鈴木三郎助は実業家として目覚め、相場に明け暮れた男ではなくなっていました。

鈴木三郎助は、沃度事業だけじゃ限界がある、何か次に行う面白い事業がないかと、考えていました。

すると耳に入って来たのは、東大助教授の池田菊苗博士の存在でした。

池田博士が特許申請している「味精」の話でした。

味精とは言うまでもなく「味の素」の元祖となるものです。

調べてみると「味精」は昆布を原料にしているらしい。

原料が昆布というなら、かじめという海藻を扱っているのですから別世界ではありません。縁のある世界の話です。

これは商売になると判断して、さっそく池田博士に接近を図りました。

池田博士とグルタミン酸

池田博士 味の素 社史 沿革

池田博士が開発に成功したのは昆布を原料とするグルタミン酸でした。

昆布をダシにすると、うま味が出るというのはグルタミン酸の働きによるものだというのが、池田博士の学説でした。

鈴木三郎助は、さっそく提携を申し出ました。

しかし、池田博士の特許に着目していたのは鈴木三郎助だけではありませんでした。

当時、日本最大の財閥・三井物産も接近していたのです。

三井物産は名声と資本力を武器に提携を実現しようとしていますが鈴木三郎助は、名声もバックもお金もたいしてありません。

鈴木三郎助の出した条件

そこで鈴木三郎助は、特許を買い取るのではなく、共同経営をやりましょうと申し出ました。

商売の方はわたしが引き受けて、先生にはもうけ(売上げ利益)の3パーセントを差し上げますという好条件です。

それは池田博士にとって破格の条件と言ってよいでしょう。

「味精」が企業レベルで採算に乗るかどうかは、まだ未知数でしたが鈴木三郎助は、これに賭けることにしました。

鈴木三郎助はグルタミンの勉強もしました。

昆布からグルタミン酸を抽出するだけでは限りがあり、調べてみると、小麦からもグルタミン酸が抽出できることが解りました。

試行錯誤の製品開発

グルタミン酸の製造工場は鈴木三郎助が事業家として自立した故郷の神奈川の葉山に建設することにしました。

原料を小麦にしたのですが、これが技術的になかなか難しいものでした。

小麦からグルタミン酸を抽出するには、塩酸で分解しなければならないのです。

技術的な問題を考えたのは弟の忠治で、実験は重ねられ、池田博士も協力的でした。

白い粉末にするのが最終目的なのですが、砂糖や塩を精製するとはわけが違います。

硫酸という劇薬を取り扱うのですから危険がともないます。

実験設備から立ち上る硫酸霧は、作業着をボロボロにするほどの代物です。

実験は何度も失敗に終わり、費用はたちまち底をつきました。

所有していた日本化学の株式も売らなければなりませんでした。

「味の素」誕生

鈴木三郎助が金策に走り回っていたその時に、成功の知らせが入りました。

実験を始めて2年近くの月日が経っていました。

葉山に残したかじめ工場のおかげでなんとか生活費を稼いでいたような状況でした。

弟の忠治の掌には、確かに白い粉末が乗っかっています。

鈴木三郎助は指でつまみ、口に入れてみました。

「美味い!」と思わず叫びました。これが「味の素」誕生の瞬間です。

ようやくグルタミン酸の結晶粉生産のメドをつけたわけです。

ですが、問題はどうやって市場に出すかです。

まず商品の名前をつけよう。

鈴木三郎助の長男三郎が考えた商品名の「味の素」に決まりました。

明治42年6月29日、大枚をはたき、東京朝日新聞に大々的な広告を打ちました。

こうして世紀をまたいで世界的なブランドになる「味の素」が、市場に登場したのです。

しかし、スタートは芳しいものではありませんでした。

広告の効果はまるで上がらず、売れないのです。

チンドン屋にビラをまかせたり、市電に吊り広告を出したりもしました。

思いつく限りの手を尽くしましたが、消費者は振り向いてくれないのです。さらに、追い打ちをかけるように、1911年に湘南一帯の暴風雨により工場も壊滅的打撃を受け、その上に工場のある葉山住民から苦情が出たのです。

塩酸が発する臭いが周囲に立ちこめ、臭くてたまらないというのです。

葉山には御用邸もありますし、住民とのトラブルを避けるために、工場を川崎に移すことにしました。

海外からの販路

皮肉なことに大枚を払い広告宣伝をした日本国内ではなくて、朝鮮や台湾から売れ出しました。

とりわけ台湾からの注文が多いのに、国内需要はいっこうに増えません。

どういうことなのかと疑問に思い、鈴木三郎助は長男の三郎を台湾に派遣して、実態調査をさせました。

すると、味の素は中華料理と相性がぴったりだったということがわかりました。

そのとき三郎は中国大陸に足をのばし、福州、上海、南京、漢口、大連などの各地も回ってみました。

三郎は現地で販売の方法を考え、中国大陸に特約店を作ることを思いつきました。

父三郎助に電報を打ち、許可を求め、鈴木三郎助は返電で「まず海外から販路を広げよ!」と指示を出したのです。

そのとき鈴木三郎助は、「海外から内需へ!」と販売経路を拡大することを思いつきました。

この販売戦略により1年後には、三郎が渡米し、ニューヨークパーク・アベニューに出張所を設立し、北米大陸で「味の素」を展開する足場を築いたのです。

こうして「海外から内需」の販売戦略が功を奏し、やがて国内需要も高まりました。

原料は蛇の噂

中国ばかりか、欧米でも味の素の売れ行きは好調でした。

やがて海外での評判が日本にも伝わり、逆輸入の格好で味の素は国内でも爆発的な売れ、日本の台所に浸透していきました。

ですが、思わぬところで奇妙な噂が流され味の素は足をすくわれ、打撃を受けます。

その噂とは「味の素の原料は蛇だ」というものです。

噂は人伝いに伝わり、蛇が原料となっては主婦が嫌がります。

そんな噂に輪をかけたのが、雑誌に載ったグラビアでした。

四匹の蛇が味の素の容器を取り巻く図なのです。

女性が見たら嫌がるのも当然です。

原料や製造法は特許に守られて、秘匿されてはいますが、鈴木三郎助は思い切った行動に出ました。

まず、「原料は蛇ではありません」と東京の5大新聞に広告を出しました。

そして味の素の成分を明らかにしました。

その当時では、それは画期的なことでした。

情報公開をしたわけです。

情報公開と大々的な宣伝は、いまでも十分に通用する営業戦略です。

それが思わぬ販売効果を上げて、予想を遙かに上回りました。

特許期間の延長

まもなく特許の期限が終了するという重大な問題がありました。

特許が切れれば、誰でも自由にグルタミン酸を製造販売できてしまいます。

それによって味の素の排他的独占は終焉することになり、膨大な投資を続けてき味の素は回収が出来なくなります。

設備投資と販売促進のための膨大な投資です。

期限があるから特許なのだということは充分わかってはいますが、それでも特許期間の延長を画策します。

誰もが無理だと言いましたが、調べてみると前例はありました。

真珠王・御木本幸吉が特許延長を求めて、それが認められたというケースです。

役人は前例には弱いものです。

それに特許による利益の有無を訴えました。

膨大な設備投資と広告宣伝の資金はとても期間内に回収するのは困難だという主張と、その一方で、鈴木三郎助は鳩山一郎、鈴木喜三郎、森恪など政治家に助力を求めて、なんとか6年の延長期間を勝ち取りました。

今ならそんな理屈は通らないでしょうが、人脈が効いたのかも知れません。

更なる問題は、池田博士が以後の提携に同意するかです。

幾度か話し合いで、池田博士は煮え切らない態度を取っているのです。

人を介して調べてみると、特許切れを三井物産が狙って、池田博士に急接近していたのです。

鈴木三郎助は反省しました。

池田博士に対して、充分な対応をしてはいなかったのです。

というのも「味の素」はまだ収益を上げているとは言い難い状態で、そのため池田博士には十分な報酬を払っていなかったのです。

幾度かの会談ののち、三郎助は池田博士の自宅に100万円の現金をもって訪問しました。

当時の100万円と言えば大金です。

そして契約書には博士の研究を助成するという目的で毎年10万円を寄付するという文章もあります。

そして鈴木三郎助は、最初の出会いから15年の歳月の苦労話を時には声を詰まらせて話し、池田博士をついに納得させたのでした。

「味の素」はうま味調味料の代名詞

関東大震災で首都東京が甚大な被害を受けました。

味の素の川崎工場は全壊し、京橋の「鈴木商店」も延焼倒壊し、続けざまに昭和大恐慌が襲います。

この二重の打撃で多くの企業は倒産を余儀なくされました。

しかし、鈴木三郎助が「味の素」を守ったおかげで、むしろ味の素は本格的に家庭に浸透していきました。

その後、グルタミン酸を製造する会社も現れ、競争相手も登場しました。

でも、家庭の主婦には「味の素」はもううま味調味料の代名詞となっていました。

他のグルタミン酸はまったくといって良いほど売れませんでした。

一つの商品が、これほど家庭に浸透した事例は他にはないでしょう。

それほど、味の素は市場に定着したのです。

ベンチャー企業としてスタートした「味の素」は、こうして世界的ブランドとなったのです。

時代は変わり、味の素のブランドは残っていますが、今は「うま味調味料」の本来の味の素はあまり目にしなくなりました。

それでも、企業努力で、次々と商品開発をして今に残っています。

それは、奇跡に近い事です。

鈴木三郎助のまとめ

鈴木三郎助は、65歳で亡くなっていますが、その65年の人生のなかで三度大きな危機に直面しています。

まず一度目は米相場に手を出し、相場の世界から抜け出せずもがいていた時です。

二度目は房総での原料のかじめの買い集めによる高値合戦です。

そして三度目は特許期限切れのときです。

その度に、鈴木三郎助は独特の論理で相手を口説き落とし切り抜けました。

また、重大な場面では勝負に打って出て、房総の新工場を敵側に譲ることにより難局を乗り切りました。

どんな商売でも、相手を説得して契約に結び付けるということは大変な事です。

鈴木三郎助のように負けたふりをして、得をするという戦略は中々できることではありません。

一人勝ちをしないで、鈴木三郎助は人間関係を大事にしたのです。

房総の高値合戦の相手だった森矗昶は終生の友人になりました。

また、鈴木三郎助のその時代は、関東大震災などの大きな災害や大恐慌もあって、それに生き残ることも大変なことでした。

今の時代は、バブルがはじけたとは言え、平和な時代だと言えますが、それで逆に将来が読めなくなっているようです。

令和は、新たなチャンスの時代が到来したと言えるでしょう。

ピンチが無いとチャンスも無いということなのかも知れません。

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