有名人の名言

「ピストル堤」西武グループ堤康次郎の生涯と名言から成功の秘訣を探る

堤康次郎(つつみやすじろう)西武グループの創業者で、大正・昭和の日本経済を牽引した大物実業家であり政治家です。

「ピストル堤」の異名を持つ豪胆な一面と、正に「英雄色を好む」で、一説では子供は100人はいるのではないかとも言われています。

今の時代は不倫一つでもフライデーネタになって人生終わるような事でも、その時代では「男の甲斐性」だったのでしょうか。

そんな堤康次郎氏の伝説のような生き様の生涯と、堤康次郎氏の名言から成功の秘訣も併せて探ってみました。

堤康次郎氏の生い立ち

西武グループ 堤康次郎

1889年(明治22年)3月7日~1964(昭和39年)4月26日

滋賀県愛知郡八木荘村生まれ。

農業と麻の仲買商であった家の長男として生まれましたが、4歳の時に父親が腸チフスで無くなり、母も実家に戻され堤康次郎氏は妹と共に祖父の清左衛門と祖父に育てられます。

八木荘小学校高等科を卒業後は、祖父を手伝って農業に従事しますが、祖母が亡くなると祖父と彦根に引越し、米相場や肥料商に手を出しますが、いずれも失敗し、八木荘に戻って耕地整理や土地改良を行っていました。

1906年に京都の海軍予備学校に入学し、翌年に卒業後は郡役所で働いていましたが、その年に祖父が無くなります。

まだ18歳の事でした。

両親も祖父母も亡くし、妹を抱えて途方にくれました。

堤康次郎氏は当時の事を振り返って「その時の失望と落胆は言語を絶していた」と語っています。

このままではどうにもならないと思った堤康次郎氏は祖父の残した田地を担保に5000円のお金を借りて上京し、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学しました。

弁論部や柔道部にも属しましたが、授業にはほとんど出ずにアルバイトや政治活動に熱中していました。

政治活動で大阪まで行って応援演説などを行っていたこともあり、早稲田を卒業した後には、大隈重信が主宰した政治評論雑誌である「新日本」に社長として携わりました。

その後も政財界の大物らとは多く知り合うのですが、その一方で行った堤康次郎氏の事業はことごとく失敗に終わります。

失敗すると、それを挽回しようと次のものに手を出しまた失敗する。

「毎日血尿が出る思いだった」と堤康次郎氏は振り返って語っています。

最後の望みの不動産事業

最後の望みとして不動産事業に託し、「儲けようとした考えがいけなかった」として「感謝と奉仕」の信条が生まれたのです。

最初は、今の中軽井沢駅周辺で当時の沓掛村一帯の別荘地の開発でした。

早大を卒業して2年経ちますが、村長に信用してもらうために早大の学生服を着て出向きました。

その当時は隣の軽井沢が欧米の宣教師の別荘として人気でどんどん発展していました。

沓掛村の村長に「ここら辺一帯に別荘地を作りたいからできるだけ大きな土地が欲しい」と打診します。

隣の軽井沢の発展で焦っていたとは言え、村民の同意を得るまでに2年の月日が掛かりました。

60万坪を30000円、50件以上の別荘を分譲することを条件に契約が成立しました。

この時、実を言うと堤康次郎氏はまだ資金が不足していました。

ですが、交渉の際には信用を得て合意を得る為に「見せ金」が必要でした。

当時の妻の実家から借金し、また佐久の銀行から1万5000円借りましたがまだ足りません。

30000円分の札束の数が必要でした。

それで新聞紙を10円札の大きさに切って、上下に本物の札を重ねて札束に見せかけて「見せ金」を作りました。

そして、沓掛一帯の分譲を行うために、「千ヶ滝遊園地株式会社」を設立(資本金25万円)し、日本商工会議所の初代会頭であり貴族院議員でもあった藤田謙一を社長にしました。

簡易別荘として1件500円で分譲し、その収益を元に今度は箱根の強羅に10万坪の土地を買収し、その翌年の1920年には千ヶ滝遊園地株式会社を清算するのですが、これは後に計画倒産だったのではないかと言われています。

堤康次郎氏はすぐにまた、藤田を社長として箱根土地株式会社(後のコクド現在は消滅)を設立しています。

更に湯の花沢10万坪を13万5千円で買収。

更には1923年には駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)の経営権を掌握しました。

ホテルや百貨店への事業

1946年にGHQが、秩父宮・高松宮・三笠宮の直宮家を除いた11宮家に臣籍降下と財産税の納付を申し渡したことを機に、財政難に陥った宮家の邸宅を買収し、その跡地に「プリンスホテル」を建設していきました。

また同年、西武鉄道の株を取得し堤康次郎氏が社長に就任し、路線も拡大していきました。

そして、この西武鉄道のターミナル駅の池袋を拠点として更なる発展をしていくのです。

後の西武百貨店もその一つです。

こうして堤康次郎氏は、リゾートに始まり、鉄道や不動産に百貨店それにホテルまでと企業は巨大化して行きました。

従業員への愛情

従業員を大切にすることでも堤康次郎氏は、有名で、戦後の賃上げ闘争で一挙に5倍の要求をあえて飲みました。

従業員の生活の安定は何よりも重要と考えていたと言います。

また、戦後は長い事大雪の後は線路を切り替えるポイントが凍結してどこの電車も停まってしまうのですが、西武鉄道だけは停まりませんでした。

それは、西武鉄道の従業員が雪の降る中徹夜でポイントを監視していたからなのです。

堤康次郎氏は常に、「お客様に感謝をして奉仕しなければならない」と語っていますが、従業員にもそれが伝わっていたのです。

そんな従業員に堤康次郎氏は感謝し、よく自宅に呼んでは自ら作ったカレーを振舞っていたそうです。

こんなエピソードもあります。

武蔵野鉄道が旧西武鉄道を吸収合併した際の事です。

通常でいうと社名は吸収する側の武蔵野鉄道になるのですが、「西武鉄道の従業員側に合併されたという劣等感を与えてはいけない」という堤康次郎の配慮から、社名が西武鉄道になりました。

また、部下たちからは「大将」と呼ばれていたことも有名で、全てを任せられる総指揮官として社長では無く「大将」だったといいます。

堤康次郎氏と従業員の固い絆が西部グループの発展の礎になったのですね。

堤康次郎氏急逝と後継者

1964年4月24日堤康次郎氏は突然病に倒れます。

内縁関係にあった堤義明氏の母である石塚恒子を連れて熱海に向かうために東京駅の地下道を急いでいた時の事でした。

昏倒し緊急入院となりますが4月26日に死去。

死因は心筋梗塞でした。

東京オリンピックのために建設を急いでいた東京プリンスホテルの完成を見ることはかないませんでした。

後継者は、世間では「次男の清二が継ぐのだろう」と言われていましたが、三男の義明が総帥となり、父の遺言であった「死後10年は新しいことをするな」を守り、沈黙していました。

「ピストル堤」の異名

「強盗慶太」の異名を持つ五島慶太に並んで、「ピストル堤」の異名も有名ですが、この名の由来は諸説あります。

堤康次郎氏の強引なやり方に対抗して、暴力団の手を借り日本刀で乱入してきた相手にピストルで応戦したので「ピストル堤」という名前になったという説。

ピストルを乱射して乱入してきた暴徒に得意の柔道で投げ飛ばしたという説。

どちらにしましても、この異名は相手を震え上がらせるには充分だったのではないでしょうか?

堤康次郎氏への評価

他の人が目をつけない、価値もないと思われていた土地を買収して、開発し、その土地を発展させて行ったのですから、その恩恵を受けた人からは高い評価を受けました。

ですが多くの利益を得たのですから反面妬みも多かったといいます。

評論家の大宅壮一は噂だと断った上で、堤康次郎氏の事を「関東大震災直後、一家全滅した焼跡に、かたっぱしから「堤康次郎所有地」と書いた棒杭(ぼうくい)を立てて回りました。

どこからも文句がでなければそのまま堤康次郎氏の所有となるし、文句が出れば法廷でお抱えの弁護士を使い、所有権を証明する為の物的証拠を示させました。

軽井沢の大地主だった早大教授の市村氏は、広大な土地を争うことになり、弁護士の費用などで、大変な目にあったと言います。

大宅壮一は堤康次郎氏を「近江の知能犯」言い、徹底的に批判しました。

ノンフィクション作家でジャーナリストの立石泰則氏は、堤康次郎氏のやり方は「とてもまともな実業家の姿ではないことは確かである」と評しています。

英雄色を好む

堤康次郎氏の女性関係に関しては、現代の常識を大きく逸しています。

なにしろ「女」であれば、「お手伝いさんから華族まで」と言われる程。

お手伝い、女子社員、部下の妻、看護婦、マッサージ師、乗っ取った会社の社長夫人、秘書、別荘管理人、旧華族…社員たちの言葉の端にのぼった話だけでもこれだけあります。

このあとの始末は部下の仕事でした。

愛人の数は有名な女優を含めて、正確な数は本人もわからなくなっていたようです。

子供12人というのは嫡子として認めた数にすぎません。

100人を超えるという説もあるほどです。

葬儀には康次郎に似た子どもの手を引いた女性が行列を作ったといいます。

操夫人は入籍した妻としては3番目なのですが、

操夫人の父は倒産した東京土地の社長であった青山芳三でした。

倒産した東京土地の残務整理のため青山家に通っていた上林国雄氏の話によると、堤康次郎氏は没落した青山家の姉妹四人をすべて愛人にしようと考えていたようだと言います。

青山家の長女は康次郎の好みではなかったために難を逃れたようですが、あとの三人は美人ぞろいでした。

康次郎は先に操のすぐ上の姉から手をつけました。

本当は操の方が好みだったのですがガードが堅かったので先に姉のほうにいってしまったようです。

そして次が一番下の妹でした。

この一番下の妹は堤康次郎氏が36歳だったのに対して彼女はまだ16歳でした。

何年かのち二人とも相次いで身籠り、姉の子が清二さんであり、妹の子が後にフランスに移住してフランスで亡くなっている邦子さんですと上林国雄氏は語っていますが、戸籍上は清二と邦子の母親は操になっています。

何故なのかは不明ですが、周りの人間は少なくとも、清二の母親は操ではないと確信していたようです。

また、側に置いておいた女性から生まれた子を私生児にしないために、3年ごとに離婚しては入籍するという解決策にして全て嫡出子にしたと言いますから、なんともはや。。。ですね

英雄色を好むと確かに言いますが、凄い繁殖能力ですね。しか言いようがありません。

ちなみに後継者の堤義明氏は操夫人の次の夫人になった石塚恒子で、新潟の名門の出で、父親は野口英世と泥懇(じっこん)の仲だったとか。

堤康次郎氏の名言

奉仕の心が成功に繋がったという堤康次郎氏の言葉には経営者に役立つ名言が沢山あります。

・何をやっても上手くいかない。自分は生きている価値の無い人間だとも思った。思い悩んだ末に悟ったことは、儲けようと考えたのがいけないということだった。自分は儲からなくてもいいから、この世の為、たとえ少しでも精一杯のことをしようという奉仕の心だった。

・成功するためには、失敗の原因を決して外に求めてはいけない。全て己の内にあると思う事が大切である。

・今までの失敗などというものは、人生観を見つけるための月謝と思えば安いものだ。

・相手を騙すつもりがなくても、結果騙されたと思わせるような曖昧な態度だけは断じていけない。

・事業には役人の古手を連れて来ることだけはしてはいけない。役人気質では決して事業は成り立たない。

・人のやらない事、やれない事。それをやったら成功したのだ。

・従業員の生活を安定させることは最大の重要ごとで、戦後初の賃上げ闘争では一挙に五倍引き上げという要求を全部飲んだ。

・食糧難の時代には従業員の食糧確保にも奔走した。だから従業員とは感謝と奉仕の心で結ばれている。

・全員が賛成するような事業は成功しない。

・騙すなどというものは一回使うと二度と通用しないが、騙されるという経験は、知恵がついて用心深くなり、二度と失敗しないように考える。騙される方が人生で得をする。

堤康次郎氏のまとめ

一つ疑問なのですが、堤康次郎氏は決して男前ではありません。

ですが、女性関係の凄さはなんなのでしょうか?

「手籠めにされた」と言う女性もいたようですが、女性癖が悪くて数多くの女を泣かせているのかというと、そういう話は出てきません。

有名女優とも関係があったとかいいますがいったい誰だったのでしょう。

まあそれはそれとして、従業員思いの「大将」であり、日本の経済発展に貢献した偉大な経営者でした。

堤康次郎氏亡き後、西武グループは衰退してしまいましたが、今の池袋の発展は堤康次郎氏のお蔭というのは間違いありません。

しかし、昔は豪傑で面白い人がいたものですね。

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