有名人の名言

五島慶太の名言の意味!ホリエモンが尊敬する「強盗慶太」成功の秘訣

五島慶太(ごとうけいた)東急電鉄の事実上の創業者です。この方のやってた事がすごい。

いまでこそM&Aなんて言葉がありますが、そのころの言葉では、早い話が乗っ取りでした。

五島慶太氏本人も「乗っ取りは戦争だ」と言っていますが、京浜や京王に小田急、地下鉄などを併合したり、東映に白木屋それに銀行・海運・ホテルなどなど、その数は160社にも及びます。

当時は、東の「強盗慶太」と西の「ピストル堤」(西武の堤康二郎)と言われていましたが、昔の人は上手い事を言いますね。

三越の乗っ取りだけは失敗に終わったのですが、その直後、三越の社長が日比谷で変死を遂げ世間を騒がせました。

なにしろあのロッキード事件の小佐野賢治に、国際興業を譲渡したのが五島慶太と言いますから、大物ぶりが窺えます。

強盗慶太と言われた五島慶太の生涯を調べてみました。

五島慶太の生まれと生家

ウィキペディア五島慶太

明治15年4月18日に長野県小県郡青木村で本人曰く「水呑百姓」の二男として生を受けました。

父の姓は小林菊右衛門といいますから、旧姓は小林です。

長男はおとなしい性格だったのですが、次男の五島慶太は暴れん坊で村の鎮守の拝殿に大きないたずら書きをしたり、友人の頭に鍬により大怪我をさせたりもしたと言います。

青木村の小学校の4年の課程を終え、隣村の浦里小学校に転校して高等2年を卒業し上田中学校に入学しました。

浦里小学校に通っている時に日本が日清戦争に突入し、山奥の小学校にもそのニュースは知れ渡り、子供ながらに興奮したそうです。

五島慶太氏が言うには、水呑百姓とは言っても千戸余りの村の中では一番の資産家だったそうですが、収入は少なく父親の製糸工場の事業失敗もあって家計はいつも火の車だったとか。

そんな家計ですから、小学校を卒業したら丁稚にでも出るべきなのでしょうが、どうしても勉強がしたくて父親に頼み込んで中学に入学させてもらいました。

中学までの道のりは山道を3里(約12km)もありましたが、毎日ただの一日も休むことなく雪でも雨でも通いました。

無理を言って学校に行かせてもらっているということへの感謝もありましたが、みんなに遅れをとりたくないという強い気持ちもありました。

16歳の時に上田中学の3年が終わると、知人の家に下宿して、今度は上田中学の本校である松本中学で4年と5年を修了しました。

その後、もっと勉強したいという思いはありましたが、家計を考えるとさすがに言い出せず、恩師の紹介で青木小学校の代用教員を務めました。

そのころは水呑百姓のせがれには、教員になることが一番の出世のように思われていました。

でも実際中学を出てみると世の中も見えてきて、やはり進学したいという思いが強くなり、代用教員でお金を貯めながら進学の準備をしました。

学校の夏休みを利用して本郷の湯島天神近くに下宿して、一ツ橋大学の前身である一ツ橋高等商業学校の入学試験を受けたのですが、英語で失敗して試験に落ちてしまいました。

しょうがないので青木村で代用教員を続けていましたが、翌年に東京高等師範学校の生徒募集があり、官費支給となっていたので家計にも助かると思い英文科に応募したところ合格しました。

高等師範を卒業すると、四日市の私立商業学校の英語教師として赴任しました。

ですが、いざ学校に赴任してみると校長はじめ、同僚の先生もみんな低俗で馬鹿に見えてとても一緒に仕事をしていくような相手ではありませんでした。

やはり大学まで行って世の中と勝負したいという気持ちになりました。

そこで1年だけ我慢して、翌年にはその学校の教師を辞めて、帝大の政治学科の専科に入学し、10月に第一高等学校の卒業試験を受けなんとかパスします。

やっと法科大学の本科に入学しましたが、こんどは生活費に窮します。

なんとか家庭教師で食いつなぎ明治44年29歳で東大法科を卒業することができました。

同期には正力松太郎のほか、後の日本を動かした有名人の名前が多くありますから、その当時は大志を抱いたら通るべき門だったのかも知れません。

五島慶太が鉄道院にいた頃

大学卒業後は農商務省に入ったのですが、緊縮政策に変わってしまい行政整理のため、1年で鉄道院に変わることになります。

これが五島慶太氏が鉄道と関わっていく始まりですね。

この鉄道院に変わる前年に工学博士の古市公威の仲人で、同じく工学博士で皇居二重橋の設計者であった、久米民之助の長女五島万千代と結婚して、小林から五島に改姓したのです。

五島慶太氏が30歳の時のことでした。

「五島」というのは久米民之助の母方の姓で、万千代は慶太と結婚して、五島という廃絶していた家を再興したわけです。

それが条件の結婚であったのです。

当時では家門が途絶えることを嫌い、娘しか生まれなかった家では家門存続のためによくあることでした。

鉄道院では文書課から監督局に移り、その頃自分の上にいた人をもっと上に押し上げる事により、なんとか自分も総務課長に就任したのですが、その頃は五島慶太氏はまだ「高等官七等」でしたので「課長心得」となってしまいます。

その「心得」が五島慶太氏はとても気に入りませんでした。

そこで、稟議書などの書類にある課長心得の「心得」の二文字を二重線で消して認印を押して回していました。

いずれ誰か上の人が「ああ、心得が気に入らないのだな」と気が付いてくれればいいと思ったのです。

すると間もなく石丸重美次官が気づいてくれて、心得を外してくれて本当の課長になることが出来ました。

五島慶太は9年間の官吏生活を顧みて後に語ったことは、官吏の仕事などというものは、人生の最も盛んな時期を役所の中で頑張っても成果が出るころには他の仕事に移される。

事業ならば、それを考え育て老後になっても見守れる。

官吏というものは本当につまらないものだというのが五島慶太氏の結論でした。

五島慶太と目蒲電鉄創立

そのころ郷誠之助男爵が、武蔵電気鉄道(後の東横電鉄)の経営に奔走していました。

明治四十三年に創立された東京日比谷から横浜平沼橋に至る免許をもっていましたが、資金が集まらないので建設ができないでいたのです。

それを大正九年に郷氏が引き受けて社長になり、建設のために専門の常務が必要というので、石丸鉄道次官に相談したところ、五島慶太氏を紹介されたのです。

石丸次官は今監督局の総務課長に「五島慶太という男がいて、こいつがおもしろい奴で、課長心得の心得が気に入らないといつも心得という字を消しては判を押してくる。」「それはおもしろい、その男を欲しい」

ということになって、ちょうど五島慶太氏も役人生活に嫌気がさしていたときでもあったので、武蔵電鉄の常務取締役に就任することになりました。

時を同じくして、渋沢栄一が欧米視察から帰り、健康的な田園都市住宅をつくろうと、田園調布と洗足に四十五万坪もの土地を買い、そこへ鉄道を敷こうということになりました。

目黒から多摩川のふちまでの間に鉄道敷設の免許を得て荏原電気鉄道を創立したのですが、素人ばかりでさっぱり話が進みません。

そこで渋沢栄一が大株主である第一生命の矢野恒太氏に相談したところ、矢野さんも素人で解らない。

同じ第一生命の和田豊治氏が小林一三を推し、小林氏は名前も出さず、報酬もいらないかわりに日曜だけという条件で引き受けました。

そして小林氏は忙しいからということで鉄道院出身の五島慶太氏を推薦し、その一両日後に小林氏の紹介で、五島慶太は初めて日本橋クラブで矢野さんに面会し、荏原電鉄の専務を兼任することになりました。

このとき小林氏が言うには「君はいま郷さんと武蔵電鉄をやろうとしているが、これには莫大な金が必要だぞ。

それよりも荏原電鉄をさきに建設して、田園都市計画を実施して四十五万坪の土地を売ってしまえば莫大な金が手に入るのだから、まずこれをさきにやったらどうか。

そしてその金で武蔵電鉄をやればいいじゃないか」というのです。

五島慶太もなるほどそれもそうだと思い、決心したわけです。

名前を目黒鎌田電鉄と改めて建設に着手しました。

大正13年(1924年)11月に全線開通となったのですが、この前年の9月に発生した関東大震災で被災した多くの人がこの沿線に移住してきて大きな利益を出しました。

これにより、武蔵野電鉄を買収し今の東横線となって渋谷から桜木町間を開通させたわけです。

ですが、その後の昭和恐慌の不景気のあおりを受け、借金のお願いをして周ったものの、五島慶太氏はことごとく断られてしまい、日比谷公園をしょんぼりと歩いていると松の木がみんな首を括るのに丁度よく思えたといいます。

そんな、しばしば自殺を考えるほどの苦しい時でしたが、その苦労をなんとか持ちこたえて超えてきたから後の成功に繋がったのだと五島慶太氏は語っています。

ですから、その後のいくつもの「乗っ取り」とも言われる買収においても「乗っ取りは戦争だ」と五島慶太氏が語るのも理解できます。

負ければそこで終わり。絶対に勝たなければ生き残れないという時代だったのですね。

後に数々の乗っ取りをしてグループを大きくしていったのも、単に社員を幸せにしたかったからだと五島慶太氏は語っています。

社員の生活を安定させることがなによりの目的だったと。

五島慶太の六か月の獄中生活

昭和9年五島慶太氏が52歳の時のことです。

牛塚虎太郎が東京市長の選挙に勝って市長に就任したのですが、その選挙資金を目蒲電鉄が出したという投書があったのです。

会社は家宅捜査の手が入り、帳簿など一切を押収されました。

たまたま、当時、池上電鉄を買収するので、川崎財閥の代表であった川崎肇に手付金として小切手で十万円出したのです。

これが市長選挙に使われたのではないかという嫌疑で、五島慶太氏は拘束されました。

結局、第一審では有罪の判決を受けたのですが、逆に第二審では無罪となりました。

それに対して検事控訴をうけ大審院に上告されましたが、上告棄却となって晴れて無罪が証明されたのでした。

ですが、この時の獄中生活の経験は同じ体験をしたもので無ければ解らないだろうと、その時が人生で一番最低な生活であったと五島慶太氏は語っています。

余談ですがホリエモンが五島慶太を尊敬しているそうですが、同じ思いだったのでしょう。

ですが、そのころの獄中生活は今とは比べ物にならないぐらい辛いものだったでしょう。

五島慶太氏も語っていますが、親から学んだ宗教的信念のお蔭て乗り越えられたそうです。

五島慶太氏の両親は日蓮宗の信者で日に何度も「南無妙法蓮華経」を唱えて暮らす人でした。

五島慶太氏もその影響で、精神を平常に保つことが出来たと語っています。

今の時代は宗教とか信心とかと無縁の人も多いですが、宗教のお蔭で変にくよくよせず、思い悩まずに宗教的信念だけで持ちこたえられるものだというのは理解できます。

また、獄中生活は精神的に持つのであれば、食事以外は時間がたっぷりとありますから五島慶太氏は読書三昧の日々を送ったそうです。

さすがに無罪放免となって、上野精養軒でみんなが慰労の宴を催してくれた時には、演壇に立ちましたが声が震え眼鏡も曇ったと五島慶太氏は語っています。

東横電鉄が慰謝金として五万円を株主総会の了承を得て出してくれましたが、これに私財の十二万円を足して「東横女子商業学校」を設立しました。

教育事業にはもともと情熱がありました。

この学校が後の東横学園となり、現在の五島育英会になって今では「東京都市大学グループ」となっています。

五島慶太が語る三越の乗っ取り失敗

五島慶太氏が語る三越の乗っ取りに関してのいきさつはこうです。

もともと五島慶太氏は電車以外に手を出すつもりはありませんでした。

しかし、ひょんなことから三越の株を買わないかと声を掛けられ、東横百貨店を経営していることもあって東横と合併して渋谷に支店を出すのも良いか?と考えたのです。

それでその三越の株を10万株を買ったのです。

ところが、三越というのは慶応閥の牙城で大手銀行にも慶応出身の者は多くいますから、三菱銀行も三井銀行も融資をしてくれなくなりました。

三越を五島に取られたのは、お前のところでお金を貸したからだと言われる訳には行かなかったのです。

その上に蔵相兼商相の池田成彬氏や小林一三氏にまで諭され、買収を断念することになり株を手放しました。

惜しい事をした。残念だと思いましたが、説得に来る人の面々は断れない人ばかりでしたので諦めるしかありませんでした。

この三越乗っ取りの最中はまさに戦争中といえるものだったので、会議や総会に出ては五島慶太氏はかなり強硬な発言もしていました。

五島慶太氏の事を三越側はまるで「株に群がるごろつき」のように言っていました。

乗っ取りを諦め株を手放すことに決めて間もなくのある土曜日の事、三越の社長の北田内蔵司に面会を申し込みました。

「どうしても無理ならば提携は諦めるが、一度会って相談したい」と申し込んだところ北田氏は「承知しました」と了承したのです。

北田氏は親の病気のことがあって、千葉の勝山に帰らなければならないので、その後なら会えるいう返事でした。

北田氏は日曜日に郷里に帰って、その日に東京に戻ってきたのですが、日比谷の四つ角で公衆電話を掛けたのです。

自動車を呼ぶために自宅に電話を掛けようとしたみたいでしたが、そこで脳溢血が心臓麻痺を起こして死んでしまったのです。

朝になって誰か死んでると大騒ぎになって、それが北田氏だったというわけです。

「北田を殺したのは五島だ」とみんなに言われたといいます。

これが五島慶太氏が語る事の顛末です。

動機はあるが証拠がないという感じで、そりゃあ周りは疑いたくもなります。

自分が手を下さなくても、忖度で動く人もいたでしょうからなどとも思ってしまいます。

そんな時代だったようです。

五島慶太の地下鉄争奪戦

三越ともうひとつ五島慶太氏を「強盗慶太」と言わしめる乗っ取りがあります。

それは、渋谷~新橋間の地下鉄道を建設した時の事です。

これは資金難で放置されていたものを実現しようとしたもので、「東京高速鉄道」という会社を設立しました。

日本で最初の地下鉄である浅草―新橋間を建設した東京地下鉄道会社と土木工事を請負って地下鉄建設に経験をもった大倉組と、東横電鉄とが中心となって渋谷―新橋間の地下鉄道を建設するために設立した会社でした。

五島慶太氏はこの会社の常務に就任して、会社の設立にも苦労したのですが、なんとか測量設計に着手までこぎつけ、渋谷-新橋間の工事施工の認可申請を鉄道省に提出したのです。

ところがそこに来て東京地下鉄の創立者の早川徳次が、虎ノ門―新橋の区間の工事は自分の会社である東京地下鉄道が建設すべきものであるから、東京高速鉄道は虎ノ門から左折して日比谷公園の地下を横断して東京駅に出るように設計を変更しろと言いだしたのです。

東京高速鉄道としてはあくまでも新橋まで繋げて浅草から新橋まで来ている東京鉄道と連結して相互乗り入れすることに価値があると考えていたのです。

そうでなければ巨額を投じて建設する意味が無いとして五島慶太氏は早川徳次氏の説得に当たりましたが、頑として応じようとしません。

それどころか、猛烈な阻止を仕掛けてきて激化していく一方です。

そこで五島慶太氏は、東京地下鉄の経営権を掌握して早川氏を追い出すしか手が無いと考えました。

それで大日本電力と北電興業の二つの会社をやっていた穴水熊雄氏のところへ何度も足を運び説得して、とうとう45万株を手に入れて早川氏を追い出したのです。

こうして今の銀座線が出来たというわけです。

早川氏は早稲田出身でしたから、慶応閥の銀行は早川氏を助けませんでした。世間は、日本で初めて地下鉄を建設した早川氏を容赦なく追い出したと五島慶太氏を叩きました。

五島慶太と運輸通信大臣

五島慶太氏は昭和18年に内閣顧問に任ぜられて、木造船の行政査察使で全国の造船所を巡回したりもしました。

鉄道のことしか知らない五島慶太氏でしたが、東条英機の命でした。

ある日、査察で全国を回り、箱根の強羅ホテルでレポートを書いていると、突然東条首相から電報が入り、すぐに官邸に来いというのです。

何事かと言ってみると今度は「運輸通信大臣」をやってくれと言うのです。

これには五島慶太氏も決心するまでに猶予をもらいました。

結局皆さんの勧めもあって引き受けたのですが、人も金も資材も何もない時代でしたから、大した仕事は出来なかったと当時を振り返って五島慶太氏は語っています。

大臣になったお陰で戦後5年間は会社から追放となり、その時は趣味に明け暮れてのんびりと過ごしました。

会社からの追放が解除となってからはまた会社に復帰し、再び剛腕をふるい「強盗慶太」の復活でした。

その後、1959年に病で亡くなるのですが、その直前まで数々の乗っ取りで名を馳せました。

最後の言葉は「わしの財産を好きなだけやるから、わしに時間をくれ。わしにはまだやらなければならないことがあるんだ」です。人生にとって本当は何が大切なのかが、痛いほど分かる名言だと思います。

五島慶太まとめ

予算即決算主義

五島慶太氏は、経営者のなすべき4つの責務として、

1.経営方針の即日徹底.

2.予算即決算.

3.金利支払い、減価償却の励行.

4.人材育成

を掲げていて、これを徹底し実行することが五島慶太氏の経営哲学であり、これを取り入れている企業も多いです。

また、大学の誘致活動にも力を入れて、関東大震災で被災した東京工業大学を台東区の蔵前から目蒲線沿線の大岡山に移転させたのを始まりに、慶應義塾大学の日吉キャンパスや日本医科大学に武蔵小杉の土地などを無償提供していますし、その後も次々と誘致して東横線に学園都市としての付加価値を付けました。

それによって安定した通学客も見込める訳です。

渋谷に立てた東横百貨店も画期的でした。

それまで百貨店というと呉服店がメインでしたが、東横百貨店は日用品が中心の品ぞろえにしたのです。

「乗っ取り」に長けた五島慶太氏なのですから、もともと戦略というものに長けていた訳で、並みの思考では無かったのでしょう。

美術コレクターという意外な一面もあって、五島美術館も五島慶太氏の死後に建てられています。

現在では、東京都市大学グループの学校で、五島慶太について学ぶ授業も存在するとかいいます。

確かに色んな意味で、多くを学ぶべき存在だと思います。

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