有名人の名言

ロッキード事件の小佐野賢治に学ぶ成功術と名言 デヴィ夫人との関係や家系図にも秘訣あり

「記憶にございません」ロッキード事件の小佐野賢治といえば「ああ、あの人ね」とおわかりになるでしょうか。1976年の出来事です。NHKスペシャルで未解決事件として放送もされています。

ロッキード事件とは、アメリカの航空機製造の大手ロッキード社による旅客機の受注をめぐる、現職の総理大臣が逮捕される汚職事件で、戦後最大の日本の疑獄を代表する大事件でした。

「黒い霧」とも言われるように、最終的には関係者の死によりうやむやになっている事件です。国会で小佐野賢治が発言した「記憶にございません」が流行語にもなりました。

総理大臣田中角栄と児玉誉士夫を繋げた重要人物として小佐野賢治も逮捕されました。悪い人のイメージが強いかも知れませんが、実は小佐野賢治は大実業家の凄い人でした。

貧乏な生い立ちから人生逆転して大きな富を得るなかで名言を残しています。ロッキード事件の小佐野賢治。事件の裏に隠れた大実業家の姿や噂になった家系図なども紹介します。

小佐野賢治の経歴

1917年(大正6年)に山梨県東山梨郡山村、今の甲州市勝沼町山地区で農家をしていた、父小佐野伊作・母ひら夫妻の長男として生まれました。

幼いころは非常に貧しく、粗末な小屋で養蚕を営む小作貧農で、4男2女の長男として育ちました。一家は住むところもなく、寺の軒先で暮らしていた時期もあったといいます。

ですから小学校へ入学すると毎朝3時に起床して新聞配達をして家計を助けていました。そして小佐野は尋常小学校高等科卒業後に上京します。

1933年と言いますから昭和8年の事です。その際、父親からこういう言葉で送られました。

「いい事でも、悪い事でもいいから、日本一になってこい」貧しさから抜け出して生きていくには、いい事ばかりではいられない時代だったのです。

上京して、自動車部品販売店へ就職し、わずか3年間で自動車部品の知識はもとより、経理にまで、また社長が帳場で客とやりとりする際でも、経営者の在り方までも学びつくして店を取り仕切れるまでになりました。

その後、別の店に引き抜かれて業績に貢献したのですが、その店は翌年に潰れてしまいます。

1937年昭和12年に徴兵検査を受け、身長が170㎝を超え大柄であったことから甲種で合格しています。

その検査場になんと自動車に乗って行ったということで周囲がびっくりしたそうです。その頃はまだ自動車はごく一部の金持ちしか持っていないものでした。

1938年昭和13年に大日本帝国陸軍に入隊。中華民国に渡るのですが、戦地で右足に銃弾を受けてしまい入院、また更にマラリアと思われる急性気管支炎を患い内地に送還されます。

1940年昭和15年に再び上京し、東京トヨタ自動車に入社して商売を学びます。

小佐野賢治第一商会設立

1941年昭和16年に東京の芝に、自動車部品会社「第一商会」を立ち上げています。

その頃から小佐野賢治は軍需省に入り込む方法を常に模索していました。

そして郷里の名士の「田邊七六」という代議士を頼り、田邊を後見人にして軍需省の民間委託になることが出来て、高等官二等で佐官(将官の下、尉官の上に位置する)待遇となります。

これによって太平洋戦争によって多大な利益を得るのです。

戦争を利用して大金を掴んだのですから、暴利を得たと言うのかも知れません。

太平洋戦争の終戦後は今度は米軍に取り入る事を考えGHQへ接近するために宿舎の提供などをして便宜を図りました。

それが成功して、今度は米軍の指定商になれたのです。

その後、朝鮮戦争が勃発すると、朝鮮半島へも進出して米軍基地内でバスを運行させたりして儲けましたから、陰で小佐野賢治の事を「死の商人」と非難されることもありました。

でも、そのころの小佐野賢治は「金儲けは慈善事業ではない」と儲かることはなんでも一番乗りして儲けることに徹していました。

小佐野賢治 田中角栄と児玉誉士夫 昭和の怪物たち

極貧の幼少時代からのし上って、太平洋戦争、朝鮮戦争そしてベトナム戦争で財を作った人です。

常に社会情勢を読み、どうやったらそこに入り込んで儲けることが出来るかを常にアンテナを立てて見極めていた人でした。

その経営者感覚は、貪欲と言われても動じることはありませんでした。

そして1945年昭和20年に、東急グループの総帥の五島慶太から箱根の強羅ホテルを買収しました。

敗戦直後で観光ホテルの先行きはまったく見えないものでしたが、軍需で大儲けしたことから一転して、熱海ホテルや山中湖ホテルに続いて、ハワイのホテルも買収して行きました。

その後、五島慶太から東都乗合自動車を譲渡されることによりバス事業にまで乗り出し、1947年昭和22年に東京八重洲を本拠にした「国際興業」としたのです。

同年に、小佐野賢治は旧伯爵家(旧下総佐倉藩堀田家)の令嬢・堀田英子と結婚します。

堀田家は千葉・佐倉11万石の城主として栄えた名家でした。

堀田英子さんは「女子学習院、戦後最高の美女」と言われるほど美しく、華族の令嬢を望んだ小佐野は一目惚れだったと言います。

戦後、没落する一方の華族でしたから、窮地に陥った堀田家を救ったといえば聞こえは良いですが、一方では家柄をカネで買った成り上がりとも囁かれました。

翌年の1948年昭和23年にまだ結婚1年の小佐野賢治はGHQにガソリン不正使用の疑いで逮捕され、有罪判決を受け、罰金7万4千円と重労働1年の刑で仮釈放となるまで6か月の間服役となりました。

仮釈放後も精力的に仕事をして事業を拡大していきます。

そして1950年昭和25年に長岡鉄道という今の越後交通のバス部門拡充の仕事を機に、そのころ長岡鉄道の社長であった田中角栄と親交を深めることになるのです。

そのころの田中角栄はまだ代議士に成りたてでした。

それが昭和47年、自民党でも実力者となり、総裁選に打って出ます。

それを支えたのが小佐野賢治です。60億円とも言われる軍資金を投じて福田赳夫を抑えて総理大臣の椅子を手に入れるのです。

そして小佐野賢治は、ロッキード社の秘密代理人となっていた児玉誉士夫と田中角栄を引き合わせる仲介人となって、あの戦後最大の「汚職事件」と言われ、現職総理大臣の犯罪として世間を騒がせた「ロッキード事件」の下地を作ってしまうのです。

児玉誉士夫とは、「政財界の黒幕」とか「フィクサー」とかの異名を持つ、右翼の運動家であり、暴力団を動かし、自称CIAエージェントだったとも言います。

児玉誉士夫をモデルにした小説も、松本清張の「けものみち」や村上春樹の「羊をめぐる冒険」に出てくる先生と呼ばれる人だとかありまして、ラスボス感の強い人だったようです。

ロッキード事件 小佐野賢治「記憶にございません」

さて、「ロッキード事件」という言葉はどこかで聞いたことがあるでしょう。

なんといっても現職の総理大臣が関わる、戦後最大の汚職事件として、当時は連日、テレビのニュースはそればかりだったとか言います。

この事件は、全日空が新旅客機の導入に絡み、現職の総理大臣田中角栄が受託収賄と外為及び外国貿易管理法違反の疑いで逮捕されたというもので、田中角栄に児玉誉士夫を紹介した小佐野賢治も含め、多数の逮捕者がでました。

児玉誉士夫や小佐野賢治らは国会にも呼ばれ証人喚問を受け、テレビでも中継されましたが、その際小佐野賢治は質問に対しての発言は「記憶にございません」で通し、流行語にまでなったのでした。

児玉誉士夫は事件の核心を握っていたのですが、病気を理由に裁判が進まず、判決が出る直前に亡くなっています。

田中角栄もまた、判決に対して上告するも、途中田中角栄の死により控訴棄却となっています。

同じく、小佐野賢治も国会の証言が偽証罪に問われ、懲役1年の判決を受けて翌日に控訴しますが、小佐野賢治の死により控訴棄却となっています。

この事件に関しては、渦中のこの3名の他にも、関係者の怪死が相次ぎ、証拠隠滅かと騒がれ、警察の対応も批判を受けましたが、関係者の死により終結を迎え「黒い霧」と比喩され、最後まで解明も不十分なままに終わりを迎えたのでした。

小佐野賢治の家系図

小佐野賢治の家系図は

近現代系図ワールド 小佐野賢治。

小佐野賢治の妻英子さんの家系図はさすがです。

近現代系図ワールド 小佐野賢治

小佐野賢治は貧しい農家の生まれから成りあがった人ですから、家系図はいたって簡素ですが、それに比べて奥様の家系図はすごいですね。

この家柄を小佐野賢治は手に入れたかったのだろうと言われても仕方ないのかもしれません。

小佐野賢治は若い時から、髪の毛も薄く老けて見えたと言いますし、それに比べて奥様はとても美しい女性だったとか。

お金さえ手にするとなんでも買えると言えるほどの富を小佐野賢治は手にしたのでした。

小佐野賢治の邸宅

社長の家 日本の豪邸写真集 国際興業社長

世田谷区等々力のエリアで野毛3丁目に大邸宅があります。

「迎賓館」とも呼ばれ、5000坪の敷地にはバラ園もあって、パーティもよく開催されていたとか言われています。

小佐野賢治とデヴィ婦人の関係

小佐野賢治は帝国ホテルの筆頭株主となり会長を務めていました。

児玉誉士夫はインドネシアへの政府開発援助に関わり、利権を欲していました。

デヴィ婦人はスカルノ大統領の出会いは帝国ホテルで友達と待ち合わせをしている時だと言います。

これを素に、ある噂では、当時インドネシアの政府開発援助に絡み利権を狙っていた児玉誉士夫は、その当時赤坂の高級クラブで働いていたデヴィ婦人を知っていて、小佐野賢治が帝国ホテルの会長だったので、デヴィ婦人がスカルノに帝国ホテルで会うように仕組んだといいます。

小佐野賢治の娘

英子夫人との間には子供は授かりませんでした。

銀座で昭和50年代に「真理子」というクラブのママをしていた真理子ママが小佐野賢治の実の娘だと、ジャーナリストの立花隆氏に書かれ、追いかけられ、ノイローゼ気味になり店も閉めて箱根の別荘で静養したとか。

事実だと仄めかせている本人ブログもありますが、真実は不明です。

小佐野賢治の熱い素顔

秘書を務めた方の話によるととにかく頭が良かったと言います。

手帳も持たず、メモも取らないのですが、会社の業績からグループ各社に至るまで数字が全て頭に入っていたとかで、側近に「あの数値はどうなった?」ときいて即答できないと機嫌が悪くなったとか、でも昔の商売人で成功した人はみんなそうだったといいます。

とにかく権力を取り込むことには天才的だったようで、必要ならば金を惜しみなく注ぎ信頼を得ていました。

毎日、朝6時半には会社に出社し、本社屋のロビーのソファに座り新聞を読みながら、出社する全社員に挨拶をするという、常に従業員の事を考える人でした。

まだバスやタクシーに冷房が無い時代には国際興業の本社屋は冷房を入れませんでした。

「運転手のみなさんが毎日暑い中を頑張っているのに事務所にいる私たちが冷房をつけるなんてとんでもない」という理由でした。

そんな小佐野賢治でしたから、そのころ国鉄や他社のバスなどがストライキをすることが多かったのですが、国際興業バスは一度もストライキをしたことがありませんでした。

昼飯はいつも盛りそば1枚の質素な食生活でした。

小佐野賢治の名言

特に起業を目指している方や副業していつ方には大変参考になる言葉です。

・事業をやるには三つの目が必要です。

虫の目…複眼で見る事でもあるが、足元をよく観察しなさいという意味です。

鳥の目…高いところから見てみなさいという意味と、獲物を素早く見つける目をもちなさいという意味です。

魚の目…海の海流にいる魚や水の流れの中にいる魚のように、つねに周りの流れを読みなさいという意味です。

・新しい事業を始める時は、それまでやってきたのとまったく関係の無いものに手をだしてはダメだ。それは必ず失敗します。今までの事業の沿線上にあるもの以外手をださないことだ。

静かに忘れ去られる小佐野賢治

「昭和の怪物」とか「政商」とか、はたまた「死の商人」とか言われ、最後にはロッキード事件の裁判に引き回され終わった人でした。

でも「黒い霧」とも言われるロッキード事件がなければ、立身出世の偉人として取り上げられる立派な人物だったのです。

時代の流れとでもいうのでしょうか、戦後の復興の立役者だった人が「悪人」とされ、このような形で歴史に残り消えて行くのはなんとも残念なことです。

新しい時代に変わっていくには、この事件は明らかにされる必要がありました。

戦後、クリーンなだけでは生きていけない時代から、この事件を境に特に政治には「クリーン」は大事な要素となりました。

本当の貧困の中に生まれた者が、戦争を商機と考えて自分の人生を大逆転していった人は、その時代には大なり小なり大勢いました。

小佐野賢治は貧しさを知っているがゆえに、人には優しい人情家だったようです。

頼まれると断れない情に厚い人ですから、それが人と人を結び、大きな人脈を作り上げたのです。

ですが、その大きな人脈が結果、このような大きな事件を生み出すことにもなってしまった。なんとも皮肉なものです。

しかし、小佐野賢治を成功させた事業をする上での3つの目はネットビジネスをしていくにもとても参考になります。また、人へのやさしさや人脈の大切さなど、これらもあらためて意識していかなければと思います。

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