明治7年から昭和2年の間に隆盛を極めた「鈴木商店」は、いわば今でいう総合商社のような会社で、世界を股にかけ大きな商いをしていました。
その会社を育て大きくしたのが番頭であった「財界のナポレオン」と言われた金子直吉(かねこなおきち)です。
鈴木商店はもうありませんが、金子直吉氏が育てた人材で、その後活躍した人も多く、それに関わった総合商社、製鉄業、化学、繊維などの事業は今も名を変え、姿を変えて今も数多く残っています。
人で言えば、神戸製鋼所の田村嘉右衛門、日商岩井の高畑誠一、帝人の大宅晋三などもその一人です。
企業群の中には日商岩井.(鈴木商店の後身)、帝人、神戸製鋼、豊年製油、石川島播磨重工業、三井東圧化学、三菱レーヨン、昭和石油、日産化学工業、日本化薬、日本製粉、サッポロビール、ダイセル、大日本製糖など日本を代表する企業として、今でも発展しています。
金子直吉氏に関しては、鈴木商店を育て大きくした人であるとともに、鈴木商店を破滅に導いた人でもあります。
「財界のナポレオン」と言われた金子直吉の名言と功績を調べてみました。
鈴木直吉の名言
・事業というものは鉱山で金を掘るようなものです。
見つかるまでどこまでも掘り続けなければなりません。
そうしていれば、金が出なくても最後には温泉ぐらいは出てくるものです。
・「天下三分の宣言書
商人として、この大乱の真ん中に生まれ、世界的商業に関係する仕事に従事しえるは無上の光栄。この戦乱の変遷を利用して大儲けをして三井、三菱を圧倒するか、さもなければ、彼らと並んで天下を三分するか、これ、鈴木商店の理想とするところなり。
これがため、寿命を五年や十年早くするもいとわず。おそらく、ドイツ皇帝カイゼルといえども、小生ほど働いていないであろう。この書を書いている心境は日本海海戦における東郷大将の 『皇国の興廃この一戦にあり』 と同じなり」
大正六年秋、金子直吉氏が高畑誠一に対して送った、約十メートルという長い書簡の内容です。
三井・三菱を上回るか、この三つと天下を三分するかという、意気天を衝く内容でした。
・生産こそ最も尊い経済活動
・ 「鈴木商店とは例えればある宗旨の本山である。自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺であると考えてやってきました。鈴木の宗旨を広めるために(店に)金を積む必要はあるのですが、自分の懐を肥やすのは盗っ人でしかありません。死んだ後に金(私財)をのこしていた和尚はくわせ者だったということです。」
金子直吉の経歴と功績
1866年7月24日(慶応2年)~1944年2月27日(昭和19年)
高知県吾川郡名野川村の土佐藩領内で商家の子として生まれました。
父親が商売に失敗し、母親は「借金で人様に迷惑をかけた人の子が小学校へ行くなどとは、許されることではありません」と言い学校に行かせませんでした。
ですから金子直吉氏は学歴は全く無いのです。
直吉は10歳を過ぎた頃から、古新聞と古着の行商を始めます。
砂糖商や乾物商、質屋の丁稚奉公へ行っています。
独学で、経済や中国古典を学びました。
特に質屋の時代では、質ぐさの書物を読むことを主人から許され、濫読します。
金子直吉氏は、後に振り返りこの時代が一番よかったと、懐かしく語ったといわれています。
将来は政治家になりたいと考えていたのは、土佐という土地柄が多くの政治家を輩出していたことが影響していたのでしょう。
ですが、質屋の主人が亡くなり、政治家になる夢を捨てて、神戸に出ることを決心します。
1886年、20歳の時に、神戸に出て鈴木商店に勤めます。
この店は主として砂糖と樟脳を扱っていて、神戸八大貿易商の1つに数えられていました。
鈴木商店の番頭の柳田とは顔見知りでした。
金子直吉氏が質屋にいたころに、主人が始めた砂糖の商いを通して買付けにきていたのが柳田でした。
鈴木商店とは、大阪の辰巳屋から分家して興した店でした。
店主の鈴木岩太郎といのは太っ腹の男で、入店間もない金子直吉氏にもいきなり多くを任せました。
金子直吉氏は、鈴木商店での仕事がきつかったのか、一度店を辞めています。ですが、店主夫人のヨネの懇請な手紙をもらい、再び鈴木商店に勤めることになりました。
金子直吉氏は、土佐の鰹節から始まり、茶、肥料などを仕入れの交渉から売りさばくことまで一切まかされ、これが見事に成果を上げました。
先輩番頭の柳田も舌を巻くほどの裁量を発揮し、主人の岩太郎も大層喜びました。
神戸の小さな砂糖の専門店は、にわかに活気づいてきました。
金子直吉氏は商機というものを、よく分かっていました。
買い時や売り時を見事に見極めるのです。
金子直吉氏は樟脳や寒天なども取扱い、海外への輸出にまで乗り出すことになりました。
信用力もついて、小さな砂糖問屋はいよいよこれから発展していくぞというときに、主人の岩太郎が急逝してしまいました。
鈴木家の一族郎党が集まって協議され、「店を畳んだらどうか?」とも言われます。
ですが、未亡人になったよねが決然と「直吉がいてくれはるし、富士松もようやってくれますから店は続けます」と言い放ち皆を黙らせました。
よねは店の経営に口出しすることはありませんでしたが、人を見る目は確かで定評がありました。
今の鈴木商店は夫が伸ばしたもので無いことを良く知っていました。
こうして、よねは店の切り盛りの一切を金子直吉氏に任せ、金子直吉氏もそれに応えるべく知恵を絞って商いに精を出しました。
台湾進出
ある日、新聞の社説が目に留まり、これからは台湾だと感じ台湾進出に動き出すことになります。
明治30年には金子直吉氏は台湾に向かう商船に乗り込んでいました。
そのころの台湾の総督は後藤新平でした。
金子直吉は台湾の総督府に後藤新平に面会を求め訪ねて行きました。
金子直吉は官邸のソファで後藤総督を待ちました。
いくら待っても後藤総督は現れません。
それでとうとうソファで爆睡してしまいました。
やっとあらわれた後藤総督はその姿を見て激怒します。
「バカヤロウ!帰れ」と怒鳴り、話も聞こうとしない態度に金子直吉氏も怒り逆に啖呵を切ります。
「それなら私も帰らせてもらいます。台湾の役人は威張り散らすだけでこんなのは何をやってもあかんのでしょう」
そう言って帰ろうとする金子直吉に、後藤総督は「待て」と声を掛けました。
金子直吉の目論見は樟脳にありました。
ですが、後藤総督は専売を考えていたので、普通ならまとまる話ではありません。
それが結果、鈴木商店に台湾産樟脳の65%の販売権を託してくれたのです。
これは大きな利権です。
神戸に戻った金子直吉は、樟脳精製工場を建設し、大量生産に乗り出しました。
それはヨーロッパ、アメリカ、東南アジアに輸出されるようになりました。
鈴木商店も資本金50万円になり、本社も栄町3丁目に移転しました。
製糖業界に進出
そと後に金子直吉氏が狙ったのは製糖業界です。
大阪の日本精糖と東京の日本精製糖の2社が製糖業界に君臨していました。
鈴木商店で砂糖の担当者は柳田でしたが、金子直吉氏に賛同しました。
金子直吉氏は、2社から恐らく猛烈な反撃があると覚悟して戦略を練りました。
まず工場を建設する計画を練ります。
金子直吉氏が選んだのは北九州市の大里でした。
その頃の常識ではありえませんでした。
工場は、消費地に建てるものというのが決まりでした。
でも金子直吉氏は「原価計算」をしたのです。
今では原価計算は当たり前ですが、その当時原価計算を考えるという考え方はありませんでした。
金子直吉氏が「原価計算」を最初に考えた男なのです。
なぜ北九州市大里にしたのかといえば、そこは源糖や石炭など原料の集荷が便利であり、船と工場用水の確保も容易であると考慮しての決定でした。
何でまた九州で?気でも狂ったかのとも陰口をたたかれました。
でも、コストや原価を計算しつくすと先発の2社に対抗するにはそれしかないと金子直吉氏は考えたのです。
その狙いはみごとに当たり、猛烈な追い打ちをかけ、先発の東京と大阪の2社は反撃に出ます。
こっちはコストが低いので売値を下げられます。
そうすると相手の2社もどんどんと売値を下げ、もはやコストの限界を超えていました。
生産能力も全国消費量の3倍にも達していました。
東京と大阪の2社は合併し大日本製糖となりましたが、大里製糖所の勢いは止められません。
追い詰められた大日本製糖は鈴木商店の大里製糖所に合併を持ちかけますが、金子直吉氏はそれに応じない代わりに買収に応じることとして、650万円で売却し、その見返りに一手販売権を取得しました。
この売却資金が後に鈴木商店の発展に大きく貢献します。
大日本製糖は大里製糖所を手に入れましたが、経営は厳しくなっていました。
そこで画策したのが製糖会社の官営化でした。
弱り切った大日本製糖を国に買い上げさせようとしたわけです。
それで政界に働きかけ札びらをばらまきました。
その結果収賄罪に問われ、大日本製糖の社長は自殺し、操業停止に追い込まれ、株価は大暴落してしまいます。
そこに金子直吉氏が出てきて大日本製糖をタダ同然で手に入れるのです。
製鉄所に進出
次に鈴木商店が進出したのは、製鉄業界です。
今まで、「三白」と呼ばれた、砂糖・樟脳・米しか扱っていなかったのですが、小林製鉄所を買収したのをきっかけに製鉄業界に名乗りを挙げました。
それが後の神戸製鋼所になるのですが、なにしろまったくの異分野でなにもかも分かりません。
ただ解ったのは、製鉄業界の将来性のみでした。
民間の製鐵会社で、当時鋳鉄を生産できるのは川崎製鉄だけでした。
苦労に苦労を重ね、ようやく鋳鉄を呉海軍工廠と取り引きできるようになったのは、買収から1年後のことでした。
ただしドイツで研修を受けて帰国した海軍技官を、神戸に派遣することを条件としたのですが、異存はありません。
それからは民間企業や国鉄などからも注文が入るようになりました。
その後神戸製鋼所は神戸脇之浜に本社工場を構え、総合製鉄所として発展をしていくのでした。
第一次世界大戦が勃発したことも景気を持ち上げ、立ち上がったばかりの製鉄所は一気に活況を呈しました。
狙われた鈴木商店
米騒動
戦時景気に沸いた神戸では猛烈なインフレになりました。
全国でも白米の値段が高騰し、庶民が怒り北陸富山の主婦が立ち上がり暴徒化して全国的に広まりみせたのが「米騒動」です。
神戸の鈴木商店も焼き討ちにあいました。
「鈴木商店は米を買い占めて値を吊り上げている」と言うのです。
金子直吉氏の首には10万円もの賞金が懸けられました。
当時10万円といえば今のお金で十数億円です。
やがて暴徒は軍隊に鎮圧され、寺内内閣は倒れ平民宰相の原敬内閣の誕生となりました。
実際に鈴木商店は米の値段の吊り上げに本当に加担していたのか?という問題ですが、当時金子直吉氏は一切の弁明をしませんでしたが全て濡れ衣だったようです。
それにしても個人に10万円の懸賞がつくとはいったい誰が払うというのでしょうか?それは謎です。
鈴木商店は店を焼き討ちに合い、掘立小屋からの再スタートとなりました。
帝国人絹のはじまり
金子直吉のもとを二人の青年訪ねてきました。
一人は東レザー工業の久村清太という男でもう一人は米沢高専教師の秦逸三という人物でした。
秦逸三が風呂敷から一握りの鈍く光るサンプルを、直吉の前に差し出しました。
「なんだねこれは」と金子直吉氏は尋ねました。
それは二人が苦労のすえに造り出したという人造絹糸でした。
二人はあちらこちらを回り、製品化の協力を訴えてきたのですが、相手にされなかったのです。
金子直吉氏は二人の顔を交互に見た。
製品化して工場で生産するには、さらに実験と研究が必要なのです。
ですがすでに二人とも研究費を使い果たしていました。
それでたどり着いたのが鈴木商店の金子直吉の元でした。
「金の心配はしなくていいから研究を続けなさい。」
不安げに金子直吉氏を見つめる二人にそう言ったのです。
こうして鈴木商店にもう一つの産業部門が誕生するその瞬間だったのです。
後に米沢の織物工場を買収して発足した帝国人絹です。
金子直吉の多角化経営
神戸栄町の一商店だった鈴木商店はアメリカ、イギリス、フランスなど世界各地に出張所(支店)を持つまでになりました。
競争相手の三井物産をはるかに超える商圏を築き上げていたのです。
借金をしながら、企業を買収し、新しい事業を興し、鈴木商店はどんどんと巨大化していきました。
なんでそんなことが可能だったのかと言えば、それは台湾銀行との太いパイプができていたからです。
金子直吉氏の手がけた事業を産業別に見ても多岐に渡ります。
砂糖、製粉、ゴム、ビール、樟脳、伸鋼、造船、人絹、人造肥料と業容を広げて、その中心が鈴木商店です。
借金による多角化経営のつけ
この借金による多角化経営は景気が好調の時は経営規模は面白いように拡大していったのですが、いざ景気が悪くなると自分の首を絞めて行きました。
明治維新以降、日本の夜明けで明るくなる一方だと感じていましたが、いつのまにか昼を過ぎていたようです。
第一次世界大戦の戦時景気も終わり、関東大震災も起きて、物を作っても売れない時代が来たのです。
時代は大正から昭和にはいり昭和金融恐慌もあってとうとう鈴木商店は経営危機に陥りました。
合名会社鈴木商店の資本金は5000万円です。
持株会社鈴木商店は同8000万円。
しかし、借金はすでに10億円を超えていました。
借金の大半は台湾銀行でした。
銀行は次々と倒れて行きました。
政府は銀行救済にのりだしましたが、台湾銀行は鈴木商店が問題視されました。
野党の追及をかわすために、政府は台湾銀行の基盤を強化させるために、再建課程での今後一切の新規融資は認めないことを打ち出し、融資が止まれば鈴木商店は倒産に追い込まれることは必須でした。
さらに政府は台湾銀行に対して、鈴木商店に今後一切の融資を行わない上に今までの貸付の返済を迫るように言ってきたのです。
それでは手形の決済が止まってしまい倒産は免れません。
金子直吉氏は株式の公開をして広く資金を調達すべきだったのかも知れませんが、それを金子直吉氏は受け入れませんでした。
ここまで来てしまうと、ワンマン経営だったと責められますが、金子直吉氏は株主に払う配当よりも銀行に利子を払うほうが良いとの判断でした。
鈴木商店の崩壊
急激に事業を拡大したことにより、人も組織もついていけなかったことも崩壊の原因になったのかも知れません。
台湾銀行への依存を深め過ぎて、系列企業のなかに銀行を育成しなかったことも崩壊を免れなかった事の原因かもしれません。
明治末から大正にかけ、三井・三菱など財閥企業は近代化を急いで生き残る為に大改革をしていきました。
しかし、鈴木商店の場合は、金子直吉氏に経営者でも出資者でもあるという特別な地位を与え、鈴木家が金子直吉氏には制限を加えませんでした。
大番頭・金子直吉に鈴木よねは全幅の信頼を寄せ、経営を任せきっていたのです。
確かに、それにより奇跡のように大きく事業は拡大して行きました。
こんな末路を鈴木商店も金子直吉氏も予想していなかったのでしょう。
崩壊の危機に立たされた金子直吉は、鈴木商店再建のため最後まで努力を続けましたが、各方面への働きかけは実を結ぶことはありませんでした。
万策尽きて、金子直吉氏は主人である鈴木よねのもとを訪ねました。
このとき台湾銀行側では、金子直吉一人の責任にすることで決着したいという意向がありました。
もしかすると台湾銀行側の要求を呑めば、鈴木商店は救われたかもしれません。
鈴木よねも二代目・岩次郎も、その動きは知っていました。
でも、よねは金子直吉氏に「直吉どん仕方おまへん。わては、あんさんが生きてくれはったらそれでええ。上り下りは世の常や」と言いました。
金子直吉氏は泣きました。
二代目・岩次郎も立派です「金子直吉は鈴木商店の功労者です」という立場を貫きました。
大番頭である金子直吉と運命を供にする決断をしたのでした。
ついに鈴木商店整理のときがきました。
日本長期信用銀行や山一証券の倒産に際して経営者に対する責任問題が浮上し、債権者から個人資産の提供が求められました。
世間では、巨額な退職金や報奨金を懐に入れながら、個人資産の提出を拒否した醜悪な経営者が後を絶ちませんでした。
鈴木商店の倒産でも、最高経営責任者に資産の提出が求められました。
資産調査にあたった台湾銀行や債権者は金子直吉の資産を見て愕然としました。
一軒の家も一坪の土地も持っていなかったからです。
鈴木商店の最高経営者でありながら、直吉は清貧な男でした。
個人としての蓄財をまったく持っていなかったのです。
金子直吉氏は政治家にも知人は多かったのですが、その方面に助けを求めることはしませんでした。
福沢諭吉の婿養子である福沢桃介には「主脳者金子は我が財界に於けるナポレオンとも言うべき英雄だ」と金子直吉氏を評したこともあります。
次々と制覇しつつも不遇な最後だったことと重なったのでしょうか。
倒産した時の「大阪毎日」は
「商業貿易の結果が国是に背馳することなく、否、むしろ国是を背景として遙かにその後援をもって国利民福に合一する発展を策する商人だった」
と金子直吉氏を称しました。
金子直吉の晩年
倒産後金子直吉氏は、残務整理を進める一方で鈴木商店の名前を残そうと画策したのですが、台湾銀行が金子直吉氏のカムバックに異をとなえて実現にはいたりませんでした。
その後も老身に鞭打って、将来のエネルギー資源に着目して、樺太や北海道での石炭開発や、南洋ボルネオではゴム事業などを手がけました。
やはり先見の明では、格段に秀でていたのかも知れません。
しかし、その再興の途中で当主の鈴木よねは享年87歳で他界してしまいます。
金子直吉氏は「生前中に再建が叶わなかったことは無上の遺憾である」として慟哭したそうです。
後を追うようにして終生の親友だった柳田も逝ってしまい、よねが没した6年後の昭和19年2月、非凡な天才事業家であった金子直吉氏はボルネオでのアルミナ製造計画の成功を夢見ながら、その生涯を閉じました。
金子直吉まとめ
金子直吉氏は、いつも事業のことだけを考えているかなりの変人だといえるかも知れません。
いろんなエピソードがあるのですが、散髪した床屋にまた二時間後にあらわれ、「さっきいらっしゃいましたよ」と注意されたこともあります。
また帰宅途中、電車のなかで婦人に会釈をされ、誰かと思いながら仕事のことで夢中で気にも止めず、家路を急ぐと道までこの婦人はついてきます。
家にも入ってくるので、よく見ると自分の女房であったという笑い話まであります。
金子は身長一五八センチ、体重五五キロほどの小柄で、貧相な醜男だったといわれています。
ひどいやぶにらみで、面と向かっていても、どこを見ているのかさっぱりわからなかったともいいます。
服装も粗末なことで有名で、背広よりもいつも詰め襟の服を着て、冬でも頭に氷のうを乗せて、それが落ちないように室内でも破れた帽子を被っていたとか。
想像しただけでも、かなりの変人ですね。
「頭をクールにしておくため」というのが理由だそうですが、人の目を気にしないその奇行が変人ぶりでもあり、カリスマ性をいっそう高めたようです。
知識を得ることに貪欲で寸暇を惜しんで読書をしたり、知り合いとの会話からは常に知識を得ようとしていました。
また、記憶力が抜群で、一度聞いたことはけっして忘れなかったそうです。最後まで借家のボロ家にすみ、土地一つの不動産も持たず、亡くなったとき所持金はわずか十円以下だったとか。
金子は日本一の金持ちとなったと世間では言われていましたが、「主の鈴木商店のためと、国家にとっての事業を興す」ことしか考えていなかったようです。
使命以外に私利私欲はまったく無い人で、自分や家族のために金を残すことなど逆に罪悪と思っていたぐらいです。
月給をもらっても引出しの中に入れて、忘れています。
三、四カ月も経って、夫人が思い余って言うので慌てて引き出しを調べてみると、袋に入った給料袋がそのまま出てきたりも度々です。
記念にもらった五千円の小切手も期日がすぎて使えなくなって出てきたりしたこともありました。
鈴木の全盛期でも金子は自宅を持たず、会社のオンボロ貸家に住んでいたので、倒産後に見るに見かねた部下たちが金を出し合って老後の自宅を提供してくれたほどだと言います。
金子直吉氏の主への忠誠心は、今の時代には理解されないものかも知れません。
自分が絶大な権力を手にしても、主を差し置いて自分がトップになろうとは思わなかった人のようです。
でも鈴木商店を大きくしたのも金子直吉氏ですし、鈴木商店を潰してしまったのも金子直吉氏なのです。
金子直吉氏の抱いた夢や希望と、それを次々と手にしていった喜び、そしてそれが自分の間違いにより失った絶望感やむなしさの全てを人生で味わったのです。
さらに失いながらも、更なる復興にも努力した。
決して挫けることのない人でした。
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