有名人の名言

キッコーマン茂木友三郎の名言から学ぶ真のグローバル化と成功術

キッコーマンと言えば「醤油」日本人なら誰もが知っていることでしょう。

このキッコーマンは今や、売上げ4000億円に対しての6割弱、営業利益で言うと7割以上が海外というグローバルブランドになりました。

江戸時代から日本の食文化を支えてきた伝統だけでは今まで生き残ることは出来なかったでしょう。

キッコーマンのグローバル化に大きく貢献した茂木友三郎氏の名言からどうやってグローバル化に成功して、グローバルブランドになったのかを調べてみました。

茂木友三郎氏の経歴とキッコーマンの歴史

日経ビジネス電子版 茂木友三郎

1935年2月13日に茂木啓三郎(キッコーマン中興の祖)の次男として千葉県に生まれます。

1958年慶応義塾大学法学部を卒業して、野田醤油(現在のキッコーマン)に入社します。

キッコーマンの歴史

ここで、先にキッコーマンの歴史を知っておく必要があります。

今の千葉県野田市に17世紀の中頃に始まった醤油作りがルーツです。

水資源に恵まれたこの地域は醸造醤油作りで栄え、1917年に野田の茂木6家と高梨家、それに流山の堀切家の8家が合同で「野田醤油株式会社」を設立したのが始まりとなります。

もともとはライバル同士の関係でしたが、大正時代に不況に会い、生き残りを賭けて、近代化を図り新しい時代を担う醤油メーカーを目指して発足したのです。

そして、この8家合同でしたので商標の統一が必要と「キッコーマン」に決めたのです。

そして、この8家合同による経営のメリットはいくつかあります。

普通同族経営ともなりますと、後継ぎで生まれたからだけの理由で能力の無い人が会社を継いだりすると悲惨な結果になりがちです。

ですが、元々ライバル同士だった8家が一つになって、しかも入社できるのは1家から1世代で1人と決めていました。

しかも必ず役員になれるわけではないという不文律があって、これは今でも続いています。

同族経営の良いところは、使命感に溢れ情熱があるというところです。

ですから、その使命感や情熱の部分は育てながらも、他の人でも能力があればチャンスを与えなくてはいけません。

能力があれば、社長にさえ同族以外でも選ばれるのです。

当然、8家はみんなふさわしい人材を育てるために教育熱心になりました。

そして8家が知恵を出し合い、力を合わせての経営が出来たのです。

1927年に起きた、賃上げをめぐっての大ストライキは218日にも及び、世界的にも知られるような大事件だったのですが、それも8家の団結により終結することができました。

そしてそれが、現代のコンプライアンス経営の先取りとも言える、キッコーマンの近代化にも繋がっていきました。

品質へのこだわり

キッコーマンの長い歴史の中には、品質の維持にも困難な時代背景の時もありました。

終戦直後は進駐軍から、醸造醤油より簡単に製造できる大豆に塩酸などを加えて作る化学醤油にしなさいという話がありました。

原材料も不足していますし、出荷を増やして早く安定させたい進駐軍の意図は解りますが、それには同意しませんでした。

経営者側は大変な苦労でしたが、醸造醤油でも大豆の有効利用ができることを証明して、更に業界全体にこの方法を無償で公開したのです。

戦時中でさえ、品質を落としたりすることはありませんでした。

それがキッコーマンの信用になり誇りでもありました。

茂木友三郎のアメリカ留学

茂木友三郎氏は、大学時代にドラッカー(ユダヤ系オーストリア人の経営学者で後にアメリカに移住)の「現代の経営」という本に出合いました。

法学部ですし、経営のことはまるで分らなかったのですが、人から進められて読んでみたのです。

すると、ところどころですが、妙に腑に落ちて理解できる部分があるのです。

それで経営に興味が出てきて、しかもアメリカには「経営学」というものがあると聞きました。

運良くアメリカのノースカロライナ大学の教授が大学に招かれていて講義を受けてみることが出来たのです。

それが非常に面白かった。日本の講義のやり方と全然違うのです。

日本では90分先生が喋って終わるのですが、その先生の講義は半分が質疑応答です。

アメリカの学校の講義は面白そうだと、ビジネススクールに行くことを決心します。

そのころはまだ大学の先生もMBA(経営学の大学院修士過程を修了すると与えられる栄誉ある称号)のことなんて誰も知りませんでした。

ですから、アメリカのビジネススクールに行きたいとは思っても、解る人がいませんでした。

アメリカ大使館に問い合わせても分からなかったのですが、アメリカ文化センターを紹介してもらい、そこに問い合わせしてなんとか解ったのです。

そして、レクチャーとケーススダィーの両方が学べるのがコロンビア大学でした。

茂木友三郎氏は、コロンビア大学でMBAを取得した最初の日本人です。

この留学時代は、茂木友三郎氏にとっては大変な苦労でした。

そのころの日本人の英語力は今よりももっと低かった。テキストを読むにも一苦労です。

毎日100ページのテキストを読み込み、講義を受けて、勉強してなどで睡眠時間は3時間程でした。

でも、アメリカのビジネススクールに行ったことで得た物は大きかったと茂木友三郎氏は語ります。

まず、2年間のビジネススクールでの経験は10年間の実務に匹敵すると言われていますからこの知見は大きい。

それからビジネス英語がしっかり身に付いたので、後の海外での工場建設の交渉などにも役立ちました。

海外の友達が大勢出来て、それが後に人脈となったのです。

留学中の苦労で体重が10㎏も痩せて、帰国の際には家族が心配するほどでしたが、いたって体は健康でした。

茂木友三郎氏が海外に留学したのは、キッコーマンに入社して3年目の時でした。

その留学後からの茂木友三郎氏の実績が凄いです。

日本でのキッコーマンの売り上げは、終戦から10年もすると頭打ちになります。

醤油というのは、必需品ですが、景気が良くなったからといって使用量が増えるというものではありません。

ですから、人口が増える以外で売上げを増えることは無いのです。

それで、キッコーマンは早くから海外進出を進めました。

アメリカに進出する時も、アメリカで暮らす日本人や日系人相手ではたかが知れていますから、アメリカ人数億人を相手にするつもりでした。

アメリカ人に醤油が受け入れられるという確信はありました。

日本に暮らすアメリカ人がやがて醤油を料理に使い始めていったからです。

でもアメリカ進出は最初は赤字続きでした。

そんな時に茂木友三郎氏は留学から帰って来て、長期計画を担当しました。

どうしても、アメリカに醤油を輸送して売ろうとすると輸送費が高くつきます。

このままでは赤字からの脱却は難しい。

普通なら撤退を選びますが、キッコーマンは違いました。

茂木友三郎アメリカ進出

茂木友三郎はアメリカに工場を作ることを計画します。

計算すると現地で生産すれば採算がとれることが解りました。

ですが、それは大きな投資です。

資本金以上のお金が必要でしたから、取締役会に稟議書を出しても簡単には通りません。

2回保留になりました。

30代の若造が書いた稟議書ですから中々通らなくて当然ですね。

でもなんと3回目で通ったのです。

稟議書に込めた情熱が伝わったのか、取締役に先見の明があったのかわかりませんが、それがキッコーマンの将来を決定したのです。

次は工場用地を探すことになり、良い場所が見つかったのですがそこは農地でした。

ですから、工業用地に変更しなければならないのですが、これが現地の人の反対にあうのです。

現地の人は、工場が出来ると公害が出ると心配してたのですね。

ですから、「原料は大豆と小麦と塩だけで公害は出ない」と説明して回りました。

コロンビア大学で経営を一緒に学んだ友人をコンサルタントとして呼び、現地で雇った弁護士と一緒に醤油の瓶を持って一軒づつ回ったのです。

現地で雇った弁護士は、醤油の工場は公害にならないことを理解してくれました。

その上で、その地域は農業だけでは将来の成長が無いことも読み取り、工場を建設することがその土地の為になるのだと一軒づつ説得して回ろうと言ったのです。

その行動が地元の人々の理解を得ることになって工場建設が可能になったのです。

時間を掛けてやっと理解を得て、工場の稼働にこぎつけたのですが、その直後にオイルショックです。

想定以上の大赤字となってしまい、この時は本当に辛かったと茂木友三郎氏は当時を語っています。

その後、売り上げも順調に伸びて、累損も4年で回復することができました。

この成功の鍵は、やはり地元の人の理解と協力です。

地域に貢献することの重要性を改めて学びました。

工場が完成したときのセレモニーには招待客の他に、地元の人が大勢来てくださって、あわてて席と料理を用意しました。

苦労して醤油瓶を抱えて説得に回った甲斐がありました。

今では、「アメリカの企業」と思っている方もいるほどです。

工場には星条旗を掲げて、日本人のスタッフは極力減らし、現地の方をどんどん採用しました。

地元に貢献して愛され、その地域の良き一員になることがアメリカで成功した大きな要因だったのです。

その後、他の国にも工場を建設して行きましたが、同じようにその国に溶け込み、その国の企業になるように意識して行きました。

茂木友三郎氏は1977年に海外事業部長、そして1995年に代表取締役社長CEOとなります。

その後、2004年に会長に就任しました。

茂木友三郎の名言

キッコーマンのグローバル化に大きく貢献した茂木友三郎氏の言葉には成功の秘訣が隠れています。

・優秀な社員がいたら、できれば10年ぐらい海外に行ってもらう。これを繰り返したことで、人材不足に悩んだことがありません。

・子供たちは世界史を学びなさい。世界の中の日本を知ることでグローバルに活躍できる人材になれる。

・つゆ・たれのメーカーは当社のお得意様で反対もされましたが、お客様は醤油よりもつゆやたれの消費が増えているので、お客様の立場にたったらその開発は必要だと考えて踏み切りました。

・日本人が海外で働くには困難がつきものです。その困難に向き合うと自然と挑戦的になります。その経験がキッコーマンには重要です。

・グローバル化のためにアメリカに進出するといっても、アメリカに住む日本人や日系人を相手にするのではなく数億人のアメリカ人をターゲットにしないと意味は無い。

・醤油は生活必需品なので景気が良くても悪くても売り上げはそう変わらない。売り上げを上げたければ、人口が増えるかもしくは日本以外の人口のあるところに打って出るしかない。

キッコーマン茂木友三郎まとめ

創業8家が互いに切磋琢磨している中に生まれましたから、良い意味のライバルがいたことも幸運だったのかも知れません。

また確かに歴史のある企業でしたが、国内での売り上げに伸び悩んだのも茂木友三郎氏にとっては好機だったのでしょう。

留学の苦労も、その時は本当に大変だったのでしょうが、後にそれがとても役立ちました。

今は日本食ブームで世界の需要が広がっていますから、追い風が吹いているのでしょう。

品質にこだわり続けるキッコーマンの醤油はこの先も無くなっては困ります。

ですが、どんな企業でもこのままで続けられるほど甘くはありません。

キッコーマンの5年後、10年後の戦略が見えてきましたらまたご報告させていただきたいと思います。

先を読むのは本当に大事ですね。自分の会社はこれからどうなるでしょうか。自分のやっている副業はこのまま稼ぎ続けることができるでしょうか。

先を読んで良い道を進みたいものです。

さとるのメルマガ登録はこちらから
ネットビジネスで本当に稼げる方法をお伝えします!
◆メルマガ登録はこちら◆