昭和の経済の礎を作った一人として阪急電鉄の祖である小林一三(こばやし いちぞう)を忘れてはなりません。
郊外と都会を鉄道で結び、「家は郊外に、仕事は都会で」の生活スタイルを作った人です。
住むのは空気の良い郊外で、働く人を鉄道で都会に運ぶという郊外に付加価値を付けて庶民に一軒家持たせ、通勤に鉄道を利用することで、私鉄経営の基礎となるビジネスモデルを作りました。
サラリーマンでも家が買えるように割賦販売の分譲住宅を作ったり、沿線に宝塚歌劇団や動物園などを作ったり、付加価値を生み出して乗客を増やしたりと、常に独創的なアイデアマンでした。
東武の五島慶太や西武の堤康次郎に強い影響を与えた小林一三氏の名言と、曾孫にあたる松岡修造の事なども併せてお伝えします。
小林一三の生い立ち
1873年(明治6年)1月3日~1957年(昭和32年)1月25日
山梨県巨摩郡河原部村(現在の韮崎市)の商家に生まれたのですが、生まれてすぐに母が死去、父親と生き別れて叔父夫婦に引取られました。
名前の「一三」は1月3日生まれから来ています。
19歳で慶應義塾を卒業して、三井銀行の本店に勤務し、大阪への転勤を経験した後、東京本店調査課主任に昇進しました。
日露戦争が終結して、三井物産の大物の飯田義一や、北浜銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)を設立した岩下清周らに誘われて、岩下が大阪で設立を計画していた証券会社の支配人になるために、1907年に銀行を辞めて大阪に向かいました。
箕面有馬電機鉄道
ところが、戦後恐慌に見舞われ、証券会社設立の話は立ち消えになってしまい、小林一三氏は妻子を抱えて路頭に迷う事になってしまいます。
そんな時に箕面有馬電機鉄道が設立されたのですが、その直後の戦後恐慌で株式の引き受け手が資金の払い込みをためらっていました。
株式の半分も引き受け手が無いという苦境に立たされている、という話を聞いた小林一三氏は、鉄道事業は将来有望性があると考え、北浜銀行の頭取である岩下清周を説得して北浜銀行に株式を引き受けさせました。
そして、社長は置かずに、小林一三氏が専務に就任して開業に向けて進むことになりました。
1910年、梅田駅~宝塚駅間と石橋駅~箕面駅間が同時に開業となりました。
当初より使われている塗装色の「阪急マルーン」のチョコレートのような茶色は今も健在です。
鉄道事業としては後発でしたし、しかも阪神電車のような都市を結ぶ電車でもありません。
梅田から田園地帯を通って紅葉や温泉の観光名所を結ぶ路線であったため、周りは採算が取れないだろうと予測していました。
ですが、小林一三氏は自分の足でこの予定線を実際に歩いてみたのです。
都市からそう遠くも無いのに、とても良いところです。
当時は都市の人口増加が著しくて、狭い住居に暮らしている人が多かったのです。
そんなところに暮らすより、こちらに家を建ててこの路線で通う暮らしの方が魅力的なのではないかと考えます。
これで、郊外と都会を鉄道で結び、住むのは空気の良い郊外で働く人を鉄道で都会に運ぶという新しい発想が生まれたわけです。
郊外に付加価値を付けて庶民に一軒家を持たせ、通勤に鉄道を利用することで、私鉄経営の基礎となるビジネスモデルとなり、後に他の私鉄もこの方法を真似ました。
小林一三氏は線路通過予定地の沿線土地を先に買収し、郊外での宅地造成開発を行い、路線の開業と同じ年に分譲販売も開始しました。
しかも、そのころサラリーマンが一軒家を持つのは「将来の夢」でお金が貯まったら買えるものだったのですが、小林一三氏は割賦販売を行ったのです。
頭金として売値の2割があれば、残りを10年間の月賦で払い込むというものです。
これは大成功でした。
サラリーマンでも家が買える、家を若いうちに持てるというのは当時は画期的でした。
これはすぐに、東京の私鉄沿線でもブームになり、マイホームを持った豊かな暮らしが、遠い未来の目標では無く、手の届く未来に。
しかも、それでもそんな暮らしが出来るのは中級より上となることで、将来性のあるサラリーマンの代名詞のようにもなったわけです。
つまり、若い女性の憧れとなり「郊外に一軒家が持てるサラリーマンと結婚したい」と結婚の条件のようになっていったのです。
宝塚歌劇団誕生
この分譲住宅の成功で、私鉄の沿線に付加価値を付けると乗客が増える事を確信しました。
そこで、小林一三氏は日本最大級になる箕面動物園を明治43年に開設したのですが、大正5年には閉園となってしまいました。
動物園には膨大な運営費が掛かることと、糞尿の悪臭など近隣から苦情が原因ではないかと言われています。
次に小林一三氏は宝塚に「宝塚新温泉」というレジャー施設を開設します。
その施設内に屋内プールを開設したのですが、「屋内プールは温水にしないとダメだ」ということを知らなかったとか、時代的に男女が一緒には入れないなどが原因で、この事業も失敗に終わります。
この使い道のないプールを眺めて、思いついた次の一手がなんとプール内を客席にして、脱衣所のあったところを舞台に仕立てた「芝居小屋」です。
その頃、青年音楽隊が大評判になっていましたから、少女ならもっと可愛い公演になるのではないかと閃いたのです。
これが「宝塚歌劇」の始まりです。
ただ、さすがの小林一三氏も「宝塚少女歌劇」だけでは集客力は弱いだろうと思ったのですが、意に反して初日から連日満員。
小林一三氏自身も学生のころは文学青年で脚本も手掛けるほど演劇に熱をいれたこともありましたし、制作や指導する者それに出演する少女たち全ての情熱で興行は成長していきました。
もっと多くの人に見てもらいたいという小林一三氏の思いで、4000人を収容する宝塚大劇場を完成させて後に繋いでいったのでした。
阪神急行鉄道と阪急百貨店
1918年に神戸方面への開業に動き出す際に社名を「阪神急行電鉄」と改めて、大阪から神戸間の輸送も始まりました。
毎日12万人以上の集客が見込める梅田駅に小林一三氏は次の新たな構想を膨らませました。
1920年に、日本初のターミナルデパートを梅田駅に建設しました。
駅に百貨店(デパート)を作る発想というのも、それまでには無い物でした。
百貨店は駅の近くには無く、運転士付きの車にのった人が買い物に来る高級なところというイメージでした。
電車を利用して来店するお客様は、百貨店側が車で送迎していました。
そんな百貨店を鉄道会社が運営して駅のビルにオープンさせようなどという試みは世界にもありませんでした。
1階に「白木屋」を誘致し、2階には阪急直営の食堂を設けたのです。
白木屋は丁度関西に進出を考えていた時でしたから、5年契約ということで、日用品や雑貨の販売をしてもらい、そこから徹底的にノウハウを学びました。
白木屋の出店は成功を収めて、契約満了以降は阪急直営の百貨店「阪急マーケット」を展開していきました。
小林一三氏がそこで目指した方針は「良い品を安く売る」ですが、近隣の小売店への影響も考えて、価格面で競争する場合は「自からの手で、自からの工夫で、自分の設備で作った商品に限る」という決まりを設けました。
こうしてターミナルデパートもこれを真似て、すぐに東京を始め地方都市にも広がりました。
その後の小林一三の功績
1927年に小林一三氏は社長に就任。
その後、1929年(昭和4年)に六甲山ホテルなどのホテル事業などや、1937年(昭和12年)の東宝映画の設立、さらには1938年(昭和13年)に東京新橋の第一ホテルの開設となって、阪急東宝グループの規模は年々拡大して行ったのです。
1934年、阪急の社長を辞任、会長に就任。
その後、東京電灯に招かれ、副社長から社長となり放漫経営を建て直したりと、次々と会社の立て直しや設立に関わったりしました。
戦前には商工大臣なども務めていますが、計画経済論者である岸信介と、資本主義的財界人である小林一三氏とは合わず、対立も激しかったようです。
1957年84歳で逝去。
小林一三の名言
・「素人だからこそ、玄人には気付かない商機に気付ける」
「便利な場所なら、のれんが無くても乗客が客となってくれる」
阪急百貨店をオープンさせるときの言葉で、世界恐慌の最中に客を集め成功させました。
・「民営化すれば開発事業も可能だし、資金調達も自由に行えて、創意と責任のもとに積極的な経営ができる」
国鉄に関して、早くから持論を述べていました。
・「下足番にと命じられたら、日本一の下足番になれ。そうしたら誰も君のことを下足番にはしておかない。」
・「お金が無いから出来ないという人は、お金があっても出来ない。」
・「第一ホテルは東京に出張に来る人に利用してもらうホテルにしたい。だからシングルルームは東京・大阪間の寝台料金と同じで、ホテルのプロは使わない。支配人も素人がいい。サービス重視ではなく便利さ重視だ。」
小林一三と「ソーライス」
阪急百貨店のうめだ本店大食堂の人気メニューはライスカレーで、客はこれにたっぷりのウスターソースを掛けて食べるのが流行っていました。
ですが、昭和恐慌のあおりで客の懐は厳しく、ライスカレーよりも安いライスのみを注文して、テーブルに備え付けのウスターソースをたっぷり掛けて食べる客が増えて行ったのです。
いわゆるこれは「ソーライス」と呼ばれ、裏メニューとして有名になりました。
これが百貨店の内部で問題視されて、ライスのみの注文を禁止して、これを徹底しようという事態になりました。
しかし小林一三氏は逆にこれを歓迎すべきだとして「ライスのみのお客様大歓迎」と貼り紙まで出しました。
この対応に従業員の間では疑問視する者も出たのですが、小林一三氏は「確かに、その客は今は貧乏かも知れない。だがやがて結婚して子供も出来る。その時にここで楽しく食事をしたことを思い出して家族で来るだろう」と語りました。
後に、関西の財界人のあいだで、「阪急食堂のソーライスで飢えをしのいだ」というのが共通の話題になっていきました。
その後、成功した人がわざわざ「ソーライス」を懐かしんで食べに来て、多額のチップを置いて行ったとの話もあります。
小林一三と松岡修造の関係
元プロテニスプレーヤーで今はスポーツキャスターの松岡修造さんは小林一三氏の曾孫にあたります。
松岡修造氏は物凄い家のサラブレッドだったのですね。
あの熱血さは誰譲りなのでしょうか。
オーバージェスチャーは宝塚歌劇団を少し思い出させます。
松岡修造さんの長女、松岡恵(めぐみ)さんはタカラジェンヌを養成する宝塚音楽学校に入っています。
1000人以上が応募して、合格者は40名という狭き門を通ったのです。
2019年に卒業して芸名が決まりました。
「稀惺かずと」(きしょう かずと)となってタカラジェンヌの道をいくようです。
小林一三まとめ
東武の五島慶太や西武の堤康次郎に強い影響を与えて、沿線に分譲住宅を売ったり、ターミナルビルを作ったりと真似ています。
アイデアや発想はつねにお客様の側にたって考えて思いついたものばかりで、素人だからこその発想を大事にしています。
実業家でありながら、宝塚歌劇団の創始者というアンバランスな取り組みも面白いですね。
そして、宝塚歌劇団はプールの失敗からはじまったということも覚えておくべきでしょう。
成功するまで続ければ失敗などないということですね。大事なのは行動力です。
そして、「舞台」の面白さをもっと一般に知ってもらいたいという感覚は、昔の文学青年だった時の気持ちが出ているのでしょうね。
付加価値を付ける天才といったら大げさでしょうか。
私は、小林一三は付加価値を付ける天才だと思います。
鉄道は、都市から都市を繋ぐものでありましたが、沿線に付加価値を付けることで私鉄が成り立ったのです。
しかも、家を割賦販売にするという発想もそれまではありませんでした。
お金を貯めて家を買うのでは、歳をとってせっかく建てた家に長く暮らせません。
今の住宅ローンの始まりですね。
今まで、当たり前のことを、よい方向へ覆す発想力は本当に見事です。
このような小林一三の考え方は、私たちのこれからの人生の役に立つと思います。
「当たり前」になっている事を覆すと商機になる。考えて行動していきたいですね。
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