好きな偉人の名前を挙げてもらうと「本田宗一郎」(ほんだ そういちろう)の名前を挙げる人が多いのは、少年の時から飛行機や自動車が好きで、好きが高じてそれが生涯の仕事になった人だからでしょうか。
少年の時に抱いた夢や憧れをそのまま仕事にして成功した人で、それは男の夢として最高にも思えます。
でも、好きなことを仕事にするということは決して楽な道ではなかったようです。
困難ないばらの道を歩みながらも、いつも後ろを振り返っては付いてくる物を気遣った、大将と愛された本田宗一郎。
F-1やそれに息子やうなぎの話までいろいろなエピソードがあり、本田宗一郎というものを表しているとも思います。
本田宗一郎の名言や生き方から、あなたも成功できる。
本田宗一郎の生い立ち
1906年(明治39年)11月17日~1991年(平成3年)8月5日
静岡県磐田郡光明村で父は鍛冶屋で母は腕の良い機織り職人でした。
躾は厳しく、自由奔放に生きた本田宗一郎氏ではありますが、人に迷惑を掛ける事を嫌い、時間に正確なのは両親の教えからのようです。
父親は、鍛冶屋のかたわら自転車の販売をはじめます。
自転車の修理を頼まれたのがきっかけで、中古自転車を修理して販売するようになったのです。
鍛冶屋の腕と研究熱心な性格で、きちんと修理した自転車を安く売ったので評判も良かったようです。
小学生の時に初めて自動車を見ました。
その時に嗅いだオイルの臭いは生涯忘れませんでした。
その後、曲芸飛行を見に行って飛行機もその時初めて見ます。
最初の就職先、アート商会
その時の感動が、生涯の原動力になります。
高等小学校の卒業が近づいたある日、本田宗一郎氏は自転車の業界紙であった「輪業の世界」で東京のアート商会の広告を見ました。
そこには「自動車やオートバイ、ガソリン機関の製作修理」と書いてありました。
自転車の業界誌に広告を出すほど東京では一流の修理工場でした。
ここで働きたいと本田宗一郎氏は切実に願ったのです。
求人広告ではありませんでしたが、本田宗一郎氏は奉公を依頼する手紙を書いて、アート商会に送りました。
すると幸運にも承諾の返事が届いたのです。
1922年4月に15歳の本田宗一郎氏は東京の本郷湯島にあったアート商会の丁稚小僧になりました。
丁稚小僧というのは給料はありません。
食事と寝る所を与えられ、少しのこずかいのみなのです。
最初の半年は子守だけでしたが、すぐにアート商会の主人であった榊原郁三が、本田宗一郎氏の非凡さに気付きます。
仕事への熱心さや、機転のきく頭の良さ、発想の豊かさ、どれをとっても目を見張る能力を発揮し、主人に目を掛けられます。
本田宗一郎氏も、このアート商会の榊原郁三氏を、生涯を通じて尊敬する人の一人に挙げるほど、多くの事を学びました。
修理の技術やピストンの製造というエンジニアとしての事を始め、経営者としてのお客様に対する事などを教え込まれました。
当時、車を所有しているという人は一部の階級の限られた人でそのほとんどは外車でした。
しかも、今よりもはるかにメーカー数は多く、高級車からスポーツカーまであらゆる車に接する機会を得ることが出来ました。
本田宗一郎の貪欲な好奇心を満たし、経験を積むことの出来る最高の場所でした。
モータースポーツの世界を教えてくれたのも榊原氏で、榊原氏をリーダーに、その弟である真一氏と、本田宗一郎氏他数名の弟子が加わって1923年からレーシングカーの製作が始まりました。
HONDAのコレクションホールに今でも2代目のカーチス号が保存されています。
本田宗一郎氏は熱心にアイデアを出し、部品を器用に作り榊原氏を感心させました。
1924年に開催された第5回日本自動車競走大会で初出場して初優勝を果たしました。
この17歳の時の経験により、以後モータースポーツへの情熱は生涯消えることはありませんでした。
20歳の時に徴兵検査を受けますが、色盲と誤診されたことで軍隊生活を送らずに済んだのは大きな幸運でした。
1928年21歳の時にアート商会浜松支店を開業します。
榊原氏の弟子で唯一のれん分けを許されたのです。
「浜松のエジソン」と呼ばれるほどの発明家ぶりや、修理の腕の良さが評判となりました。
1935年には従業員も30人余りになり、10月には結婚もして、さち夫人は住み込みの従業員の食事を作ったり経理を手伝ったりしていました。
1936年、本田宗一郎氏は車の修理だけでは物足りなくなっていきました。製造までしてみたくなったのです。
親会社であるアート商会にピストンリングの製造がしたいと申し出ますが、その頃アート商会は会社組織になっていて、出資者からの了解がとれませんでした。
修理で充分に収益を上げているのに、新たな事業など始める必要は無いというわけです。
本田宗一郎氏はそんなことで諦められませんでした。
東海精機重工業株式会社を設立
知人の後援を受け、知人を社長にして東海精機重工業株式会社を設立し、一方ではアートピストンリング研究所の看板を掲げ、昼はアート商会の仕事をこなし、夜はピストンリングの開発に打ち込みました。
何度も失敗を繰り返し、自分の知識の不足に気付き、浜松高等工業聴講生にもなります。
こうしてようやく試作にこぎつけた本田宗一郎氏は、アート商会浜松支店を弟子に譲り渡し、自分は東海精機重工業の社長に就任します。
ピストンリングの生産は開始したものの、製造技術ではまだまだ劣り、製品検査に合格できる製品ができるようになったのは更に2年がかかりました。
そこまで来るのには、各地の大学を訪れたり、製鋼技術を学びに工場を回ったりと研究を重ね困難の連続でしたが、量産が可能になりトヨタや中島飛行機に納入できるようになり従業員も2000人に増えました。
ですが、その後1941年に日本は太平洋戦争に突入し、軍需省の管轄下に置かれます。
1942年にはトヨタが40%の資本参加となり本田宗一郎氏は社長から専務に降格となります。
男子の従業員は次々と徴兵にとられ、一般女性や女学生が女子挺身隊として工場で働くようになります。
作業に不慣れな人がいかに安全で簡単に出来るのかを考えて、オートメーションのピストンリングの製造機をこの時に考案しています。
その後、浜松は度々の空爆で焼け野原となり、東海精機重工業の山下工場も焼けてしまいます。
1945年には三河地震と言われる南海大地震で東海重工業の磐田工場が倒壊し、そして敗戦となります。
本田宗一郎氏は東海精機重工業の全株を、豊田自動織機に売却し退社。
この後1年「人間休業」と言って休養に入りました。
本田技研設立
ほんとうに何もしないで1年過ごし、1946年39歳の時に本田宗一郎は、やっと目覚めたかのように浜松に、本田技術研究所を設立し所長に就任します。
ある時、軍の倉庫に無線機の発電用エンジンがたくさん転がっているという話を耳にします。
「もったいないな。なんか役に立たないだろうか?」と考えていたときに思いついたのが、妻のいつも自転車で買い出しに行く姿でした。
あの自電車にエンジンをつけたら楽になるんじゃないか?
それが世界一の二輪車メーカーとなるHONDAのオートバイの研究の始まりになります。
やがて、「補助エンジン付き自転車」が出来上がりました。
その頃の本田宗一郎氏は、作業員とよく焼酎を酌み交わし労をねぎらっていたようです。
そんな時代に入社してきたのがその後2代目社長に就任する河島喜好(かわしま きよし)氏でした。
河島氏は、本田宗一郎氏にはよく怒られたと語っています。
怒る時はいつも怒鳴って、拳が飛んで来ることもあったとか。
でも、そんな時の本田宗一郎氏は目に涙を浮かべているのです。
「そうか、この人はいつでも真剣勝負をしているんだ」と本田宗一郎氏の愛情を感じたそうです。
本田宗一郎氏の開発した自転車の補助エンジンは売れ行きも好調で、その後の開発も順調でしたが、経営の方はというといつも火の車でした。
開発に全精力を注ぎ、どうしても代金の回収など経理面にまで行き渡れなかったのです。
藤沢武夫との出会い
そんな1949年に藤沢武夫(ふじさわ たけお)氏と出合います。
藤沢氏は中島飛行機の竹島弘氏(後の通産省技官)から本田宗一郎氏の話を聞いていました。
浜松のエジソンと言われる程の天才が経理のできる人間を探しているというのでぜひ紹介してくださいと願い出たのです。
藤沢氏が本田宗一郎の自宅を訪ねて、すぐに意気投合します。
藤沢氏は東京生まれですが、戦争で福島に疎開して製材業をしていました。
お金の管理と営業は得意中の得意。誠実な人柄で信用もありました。
本田宗一郎氏に東京進出を薦めて、二人三脚で一つの夢に賭けることにしました。
本田宗一郎氏は開発を担当し、藤沢氏は経営という役割分担が出来るようになりました。
すぐに本田宗一郎氏は実印を藤沢氏に預け、製品の開発、製品を作る事だけに集中できるようになりました。
本田宗一郎氏がもし藤沢氏と出合わなかったら、その後のHondaの発展は無かったことでしょう。
経営難とマン島レース
1954年、世の中は不況にあえいでいました。
そんなさ中に売れ行きが途絶え、創業以来の最大の経営難に陥った時があります。
他者の競合や製品トラブルなどがあり、販売は落ちていたのに、設備投資には資金を使い果たしていました。
本田宗一郎氏により製品トラブルの原因は究明され、藤沢氏の手腕によりなんとか打破はできたのですが、社員の意気は下がっていました。
社員の意気の打破のために藤沢氏の提案で「マン島TTレース」への出場を宣言します。
イギリスのマン島で行われているオートバイのレースに出場しようと言うのです。
「マン島を制するバイクは世界最高」と言われていましたから、ここを制することで世界でも認められるようになるわけです。
ですが、経営も苦しく大変な時です。本田宗一郎氏が躊躇していると藤沢氏は、
「こんな時だから参加するのです」と言い、「今、従業員には希望が必要なんだ」
藤沢氏は銀行に行って融資をお願いして頭を下げるのでは無く、本田宗一郎氏と目指している夢を銀行で熱く語る人でした。
三菱銀行も融資を引き受けて、財政難も一区切りつき、本田宗一郎はマン島に視察に行くことになりました。
出場を宣言しても、実際の世界のレベルを見てみない事には話になりません。
世界のレベルは本田宗一郎の想像以上に高い物でした。
自分が「井の中の蛙」だったことを思い知り、更なる開発に集中し、飛躍的な成長が出来たのです。
念願のレースの初出場は1959年の事です。
ヨーロッバでHONDAのバイクは時計の様に精細だと絶賛されます。
そしてその2年後には、125cc/250ccの2クラスで完全制覇。
なんと1位から5位を独占の完全優勝となったのです。
アメリカ進出
まわりからは「でかいホラ吹き」と笑われていたようなことも、本田宗一郎氏は「夢」で、それも一つ一つ実現させて行きました。
スーパーカブも売り上げ好調でした。
次に目指すのは世界です。
東南アジアへの輸出という手もありますが、藤沢氏はアメリカが先だと考えていました。
アメリカはすでに4輪が普及しています。
オートバイというとごつい男がハーレーを乗り回す、イージーライダーのあのイメージです。
HONDAの出る幕は無いように思います。
ですが、アメリカは経済が豊かで市場が大きい。
アメリカでの成功は世界制覇の大きな鍵を握ることになります。
藤沢氏は、本田宗一郎氏と一緒にどこまで行けるのか試したかったのです。
こうして河島氏をアメリカに送り込みますが、販路は意外なところから開けてきます。
アメリカには大型バイクの市場があり、HONDAがそこに入り込むのは困難です。
ですが、もっとカジュアルに使ってもらおうと、まずは釣具屋で置いてもらいます。
近くの川まで釣りに行くときなどに気軽に使ってもらいたいという訳です。
これが大ヒット、「遊びの為の気軽な足」として需要を拡大。
スポーツ用品店やモーターボート販売店での取り扱いにより成功を治めます。
その後、販売不振もデザインを変えて乗り越えたりと様々な困難もありましたが、本田宗一郎氏と藤沢氏の名コンビでHONDAは飛躍して行きました。
4輪進出
2輪メーカーが4輪に進出するのは、決して容易い事ではありませんでした。
1962年、通産省は日本の経済の自由化に先立って「各業界の既存メーカーのみを残し、新規参入を禁ずる法案」いわゆる「特定産業臨時措置法」を行いました。
その法案が通ってしまうとHONDAは4輪には入れなくなります。
本田宗一郎氏は通産省に直に談判しにいったこともありました。
この法案は翌年廃案になったのですが、この法案が成立するまえにHONDAはなんとか4輪製造の既成事実を作ろうと開発を急ぎました。
なんとか1962年のモーターショーにも出品し、4輪デビューとなったわけです。
その後、アメリカでマスキー法が議決されたのを好機として、世界初のマスキー法をクリアした車「シビック」の誕生となりました。
F-1デビュー
そのわずか2年後には初のF-1出場でドイツに行ったのですが、HONDAはたった6ヶ月でマシンを1から作り上げたのです。
日本車として初めてのF-1出走です。
アクシデントやトラブルでリタイアで終わりましたが、この経験で様々なことを学びました。
次はきっと勝つ!そうみんなで決意しました。
ですが、本田宗一郎氏の意見とF-1チームの現場ではいつも意見が対立していました。
現場は「F-1で勝つことがHONDAには今もっとも必要な事」と主張し、本田宗一郎氏は、「HONDAの夢は、自分達の技術で世界最高になること」
現場はたとえHONDAの部品で無くても、その時一番よいものを使いたがり、本田宗一郎氏は、あくまでもHONDAの製品を使うことを主張しました。
イタリアグリンプリも、アメリカグリンプリもリタイアという結果を招きます。
次のメキシコグランプリは不参加を決めて、勝てるマシンの製作に集中します。
ですが中々勝てません。
1500cc最後のグランプリのメキシコグランプリは標高が高いので酸素が薄く、うまくエンジンが燃焼できずどこのチームも苦労していました。
ですが、HONDAの監督は元戦闘機のエンジン開発を手掛けていた人です。
ドライバーはリッチー・ギンサー。
こうしてHONDAはF-1最初の勝利を手にしました。
2008年にサブプライムローン問題に端を発した、金融危機による業績の悪化によりF-1からの撤退を表明するまで、HONDAのエンジンの優秀さはドライバーの間では伝説の語り草となっていました。
本田宗一郎の息子
本田宗一郎氏は世襲を良しとせず、家族が会社に入る事を許しませんでした。
会社は私物では無いという考えで、HONDAという社名も自分の名前を入れたことを後から後悔していたようです。
本田宗一郎氏の博俊氏(長男)も、本田宗一郎氏の息子と見られることを嫌いましたが、血は争えないとはこのことで「車好き」が高じてエンジンメーカー「無限」を設立します。
その本田宗一郎氏の息子である博俊氏が脱税事件に関与し、2年もの受刑生活を送ることになりました。
弁護士費用は20億円を超え、長きにわたる裁判生活。
それは、父本田宗一郎氏に藤沢氏という唯一無二の信頼できる存在がいたように、自分も側近を信用してしまったことが大きな原因のようなのです。
側近の裏切りにより、横領で財産も奪われ脱税容疑で2年の実刑判決となってしまった事は、父親である本田宗一郎氏も草場の影で嘆いていたことでしょう。
世襲を良しとしなかったための善意がまさかこんな形になるとは、世の中油断も空きもありません。
本田宗一郎とうなぎ
本田宗一郎氏は浜松出身でうなぎにはうるさいです。
そんな本田宗一郎氏をうならせた、うなぎの名店が西武池袋線東長崎駅から徒歩4分にある「鰻屋」(うなぎや)です。
昭和44年に創業。店主の修業先は数知れずで、なにしろ短気なオヤジだったため一カ所で長続きしなかったといいます。
しかしこの地に店を構えるようになってからは一転、ひたすら目打ちをし、捌き、串をうち、蒸して焼くをとことん精進した結果、本田宗一郎氏の愛するうなぎになったとか。
一時井戸が涸れてしまったのですが、なんとか根性で300mも掘り現在も地下水で鰻を樽で生かせているとのことです。
本田宗一郎の名言
この名言を読むと、本田宗一郎氏が愛された理由も分かるような気がします。
・「人の心に棲んでみよ」
お客様の心の中に自分を置いて見れば、何を望んでいるのかが理解できるという事で、これは「相手の身になって考えろ」ということで、お客様だけでなく、部下に対してでも同じようにしていてリーダーシップを示した。
・「右手は左手を可愛がり過ぎるぐらいでちょうどいい」
本田宗一郎の左手は48カ所の傷が残り、指の2本は先端が5ミリ欠けています。
細かい作業をこなし、いつも注目されるのは右手だが、実は左手はいつも右手の作業を支えている。
その裏方の左手こそが最も大切にされるべきものである。
部下も同じで、表面に出ない裏方あってこその成功があるという意味。
・「満つれば欠けるは世の習い。不況を騒ぐ前にこの経験をいかに生かすかが大事。今はチャンスなのだ」
・「ベンツのクオリティーで並みの軽自動車を作る」
・「マスキー法を真っ先にクリアすれば、自動車でも世界のホンダになれる」
1970年アメリカの議会でマスキー法、つまり大気清浄法が出来て、排出ガスを大幅に減らす法律が出来た際に、車業界は大反対しましたが、本多宗一郎氏は研究開発を勧め、世界で最初にマスキー法をクリアしたシビックが誕生しました。
本田宗一郎氏のまとめ
本田宗一郎氏は、辣腕な経営者とは言えません。
あくまでも技術者で開発に命を捧げた人であり、経営は藤沢氏のお蔭です。
藤沢氏がいなかったらHONDAは「世界のHONDA」にはなれなかったのかも知れません。
強力なパートナーのお蔭で、好きであり得意な研究開発に没頭できてとても幸せな人といえます。
藤沢氏は本田宗一郎氏より先に亡くなっているのですが、本田宗一郎氏がアメリカの自動車殿堂入りを果たした時には、そのメダルを藤沢氏の位牌に掛けて感謝していたと言います。
本田宗一郎氏は、社長を引退した際にHONDAのディーラーにお礼の行脚をして回ったのですが、オイルまみれの相手の手の握手を喜んで応じ、「オイルの臭いが一番好きだ」と語っていました。
本田宗一郎氏は、少年の時に自動車や飛行機に出会い、それに強く惹かれそれを一生の仕事にします。
研究や開発には長けていますが、経営となると無頓着なところがありました。しかし、強力なパートナーのお蔭もあって世界に名を轟かせることが出来ました。
本人は好きでやっていることだから幸せで、貧乏もそう苦では無かったのでしょうが、従業員や家族は大変だったかも知れません。
資金繰りや売上金回収などをこなしてくれたのはパートナーの藤沢氏でした。
好きな事を仕事にするということは、一見幸せそうですが実はとても大変です。
好きな物が一番嫌いになってしまうということも、好きな事を仕事に選んだ結果として、よくある事です。
本人は良くても、周りが付いてこれない場合も多いですし、大抵は好きだけで成功する人はまずいません。
本田宗一郎氏の様に、好きな事が仕事に出来て、周りの人に愛されるなんてほんとに稀なことです。
世の中のニーズと合わせなくてはならないからです。
従業員などの指導も厳しく、すぐ手が飛んできたという話も有名です。
でも、その眼にはいつも愛情がこもっていた。
会社を経営すれば、経営力は一番大事なものです。本田宗一郎氏は幸運にも良きパートナーに恵まれましたが、その幸運は誰の上にもあるものではありません。
研究開発に没頭しながらも成功できたのはパートナーのお蔭。
人との出会いが本田宗一郎という人生をつくったといえます。
自分の仕事を愛し、人との出会いを大切にする。そう生きていきたいと私も思います。
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