西武王国を築いた堤康次郎氏が1964年に亡くなった際、世間では後継者は堤清二氏だと思われていました。
ですが、実際蓋を開けると総帥になったのは堤義明氏でした。
康次郎氏は生前に、熱海で清二氏に事業の継承は義明氏にすると告げられていたようですが、世間はざわつきました。
長男の清二氏に継承させず、三男の義明氏が継承することになったということが、後々の互いの怨念となって最終的に両方とも没落したのではないのだろうか。
そんな思いもあって、堤家の没落を調べてみました。
それぞれ倒れ消えて行ったのはなぜなのでしょうか。
堤清二氏と堤義明氏の家族関係
先代の康次郎氏が嫡子として認めた子供は12人います。
艶福家(えんぷくか)であった康次郎氏の子供の数は実際には100人を超していたのではないかとの噂もあるほどです。
堤清二氏は戸籍上では康次郎の3番目の妻である操夫人となっていますが、実際は操夫人の姉だったのではないかと言われています。
操夫人は東京土地の社長であった青山芳三氏の娘で、4姉妹だったのですが康次郎氏はその全てを愛人にしようと企んでいたようです。
実際、長女は康次郎氏の好みでは無かったため難を逃れましたが、他の姉妹は全て康次郎氏の愛人になっています。
康次郎氏は操のことが一番好みでしたが、中々思い通りにならず、その上の姉に先に手を出しています。
堤清二氏の実の母親はこの操夫人の姉のようです。
そして、堤義明氏は操夫人の次の妻になった石塚恒子の子供です。
石塚恒子が義明氏を産んだ時はまだ内縁関係でしたが、後に正妻となっています。
康次郎氏は自分の子を私生児にしないために、3年ごとに妻を入れ替えたと言います。
ですから、そんな環境で育つということがどんなものなのか、ほかの人には理解するのがとても難しいです。
父は、どんどん大きくなる巨大な王国の王で内にも外にも兄弟が大勢いる。
その巨大な王国を誰が引き継ぐのか、ということはとても重要だったでしょう。
特に康次郎氏の女たちにとっては、自分の子供が王国を引き継ぐ事だけが、今までの恨みを果たす唯一の手段だったのかも知れません。
「手籠めにされた」と言っていた女性もいたと言いますから、そんな想像もしてしまいます。
操夫人が姉の子を自分の子として戸籍に入れた事も、本当の理由は分かりませんが、そんな狙いもあったのではないかと思ってしまいます。
後継者堤義明氏の没落
そして、康次郎氏が亡くなって、実際に後継者となったのが堤義明氏でした。
康次郎氏は生前に清二氏に、後継者は義明氏にすると話していたようですが、清二氏はそれを承諾し納得した形にはなっていました。
義明氏は後継者となった後に、西武鉄道をはじめプリンスホテル、スキー場、ゴルフ場など観光事業を伸ばし、フォーブスの世界長者番付で1位に輝く程に大きくなりました。
父親の意思を継いで事業を拡大させて、この勢いは留まることを知らないように思われました。
堤康次郎氏は、西武グループの財産を子孫に残し更に発展させて欲しいとそれだけを願って、相続も生前に対策を建てていました。
第二次世界大戦後、民法が改正され「家督相続」が出来なくなり、「法定相続」に変わっていました。
ですが、法定相続だと子供全てに平等に財産が分けられてしまいます。
それではグループの維持も難しくなり、騒動に発展することにもなりかねないので、引き継ぐ為の手段を講じていました。
また、そのまま相続したのでは相続税によって最大で70%も持っていかれてしまいます。
そこで康次郎氏は資産の全てを会社の所有にしました。
これで康次郎氏が亡くなったからと言って、相続が発生したりしないわけです。
堤家は西武グループの国土計画という会社が実権を握っていたのですが、その株式を所有することで西武グループの実権を握っていたのです。
しかし、そのままでは留保金課税が掛かってしまいます。
法人税を払った後に、もう一回税金が掛かってしまいますから、この対策の為に、他人の名義を借りて株を保有したのです。
それが康次郎氏が亡くなって40年も経ってから、有価証券報告書虚偽記載などの、証券取引法違反で、義明氏は逮捕され、西武鉄道は上場廃止に追い込まれたというわけです。
この西武鉄道の上場廃止により一般株主が損害賠償を求めたため、平成28年に義明氏は西部グループの全株式を売却することとなりました。
それにより堤家は西部グループから切り離されて消えていくことになりました。
兄の堤清二氏の没落
兄の堤清二氏が相続したのは池袋にあった赤字の西武百貨店のみ。
それをみごとV字回復させた手腕は見事でした。
1980年代には売上げを当時首位の三越を抜き日本一の百貨店にまで成長させました。
若者の心を掴む感性に優れていたようで、海外の有名ブランドであったエルメス、ラルフローレン、イブサンローラン、アルマーニなどの導入も次々に行いました。
義明氏がプリンスホテルを父親から継いでいたのに対抗し、世界一のホテルチェーンであったインターコンチネンタルホテルズグループを買収したりもしています。
パルコを初めとするファッション関連や、ホテルに不動産開発など、100社以上を傘下にしたセゾングループは飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
ですがセゾングループとして急成長し、財界のプリンスともてはやされ、事業の拡大のために借り入れに依存していくこととなります。
そして、その後バブルの崩壊とともにセゾングループは破綻し、解体となったわけです。
堤義明と堤清二まとめ
兄である堤清二氏は、東大経済学部の学生時代から共産党に入ったりして、自ら父親に勘当を願い出たりしています。
父への反発は、自分の生い立ちにも関係していたのでしょうか。
戸籍上の母である康次郎氏の3番目の妻である、操夫人から母親らしい愛情を受ける事も無く育ったことを、周りの人間が証言しています。
本人も実の母親で無い事は承知していたのでしょう。
そして、巨大な財産が義明氏に渡ってしまった時に受けた清二氏本人の失望はもとより、母親の操夫人の失望を受け止めきれなかったことでしょう。
罵られ、憎まれたのかも知れません。
そんな境遇だったからこそ逆に、赤字の西武百貨店を建て直し、セゾングループとして大きくなれたのではないでしょうか。
見返したい、見直されたい。
そんな悲しい動機だったのかも知れません。
そして最後には、やはり何もかも失ってしまった。その絶望は計り知れません。
義明氏にしてもそうですね。
清二氏を見限って父の康次郎氏は義明氏に帝王学を叩き込んでいます。
それはとても厳しく、同じことを二度言わせると叩かれたというほどです。
父親の康次郎氏も自分の作った巨大王国は、並みの人間では維持できないだろうと思っていたのでしょう。
時代に乗じて、綱渡りのように財を築いて手に入れた王国です。
徹底的に叩き込まれた帝王学を活かして、父親の遺言通りさらに王国を大きくしたと自負していたことでしょう。
それを最終的に手放した時には、世間の嘲笑や兄である清二氏に責められ、その絶望たるや計り知れません。
高いところに昇るほど落ちる底は深いと言いますから、二人の絶望は想像を超えるものだったでしょう。
他の兄弟に比べ優れていたばかりに背負った数奇な運命の二人。
清二氏はすでに2013年に亡くなっていますが、義明氏は晩年を寂しく過ごしているのかもしれません。
兄の清二氏は「見返したい」という思い。
弟の義明氏は、父の財産をもっと大きくしなければという強迫観念。
二人ともその意地が成功のエネルギーになったのでしょうが、あまりにもそれに囚われすぎて、先を読むことを忘れてしまったかのようです。
いずれこの勢いは止まるということを知っていれば、もっと違う結果もあったのではないでしょうか。
時代を駆け抜け消えて行った二人の兄弟の怨念。
父の康次郎氏の「因果応報」ということなのでしょうか。
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