有名人の名言

NEC日本電気創業者、岩垂邦彦の業績と名言!エジソンに反旗を翻した男

私たちが日常に当たり前のように使っている電気。

この電気が東京の銀座に日本初の電灯として灯されたのが1882年のことで、それからわずか137年で2019年、現在の日本の繁栄になったわけです。

人類の歴史は700万年前に二足歩行から始まったと考えれば、137年前は最近の事です。

人類はわずか100数十年の間に科学は加速的に発展して行きました。

最初に日本に電気の生活をもたらした人の一人が、NEC(日本電気)創業者岩垂邦彦(いわだれ くにひこ)です。

岩垂邦彦氏の業績と名言を通して、その後の日本の発展の礎を築いた「始まり」について調べてみました。

歴史は繰り返されます。

歴史を学ぶことは「温故知新」と言って「古きを知って新しきを知る」です。

つまり、未来を知りたかったら、歴史を知ることが必要なのです。

岩垂邦彦の生涯

NEC innovation museum

1857年10月2日~1941年12月20日

北九州小倉で小笠原藩の家老である喜多村修蔵の次男として生まれました。

岩垂という苗字は、その後婿養子として入った家の姓です。

岩垂邦彦氏が生まれた1857年というのは幕末で、幕府と新政府とが反目しあっていた明治維新の時代です。

一説によりますと、岩垂邦彦氏がまだ喜多村の姓の14歳の時に父の喜多村修蔵が東京で暗殺されてしまいます。

まさに時代を象徴するかのような事件に会い、兄とともに仇討を誓って東京に二人で出ていきました。

父を殺されたら、仇討は当然の事と意気込んで東京に来てみるとびっくりしてしまいます。二人の兄弟が目にしたものは「文明開化」の真っただ中だったからです。

それは度肝を抜くほどのカルチャーショックだったことでしょう。

世界の科学や文化が怒涛の様に入って来ていて、若い者は少しでも多くその文化や知識を身に付けようとしていました。

慶応義塾の脇を数冊の図書を抱えて登校する、目を輝かせた人たちを目の当たりにして大きな衝撃を受けました。

殺された父親もこの東京を見ている。

「仇討ち」などを父は望んでいるだろうか?

それよりも維新による新しい日本に少しでも役に立つように生きる事を望んでいるはずだと思いました。

時代は大きく変わっていました。

仇討ちなどで時間を費やすのは愚かな事だと兄弟はすぐに気付きました。
勉強をしなくては、日本の発展に役立つ人間にならなくてはと思い故郷に帰り藩校「育徳館」に入りました。

当時としてはまだ珍しかった洋学もオランダ人教師から学ぶことができました。

そして岩垂邦彦氏は、その後東京大学工学部となる工部省工学寮に入りました。

明治政府が設立した初めての本格的工学系の大学で、新生日本を目指してまずは世界に恥じない知識を持った人材を育成する必要がありました。

授業は英語で行われ、電信の技術を理論と実践で学ぶことが出来ました。

卒業後、官費の学生だった岩垂邦彦氏は義務奉職で工部省に4年勤務しました。

エジソンの下で働く

1886年、アメリカに単身渡って、なんとエジソンの会社に最初の日本人として採用されたのです。

そこでは電気や電信技術を習得しました。

そして2年後・・

直流・交流論争

当時、電気技術の世界で、発電方式を直流で統一するか、それとも交流で統一するかの世界的な大論争が起きていました。

電流戦争ともいわれ、交流を支持するテスラと直流を支持するエジソンの戦いでもありました。

当時は、直流では電圧を自由に変えられませんでした。

自由に変えられないので、使う電圧で送るしかないと言うことです。
つまり、100ボルトとか200ボルトの電圧で電気を送るわけです。

それに比べて交流は、途中で電気がなくなってしまわないような高い電圧で送ることが出来ます。

直流で安全に使ったほうがよいのか、まだ開発中の技術で危険性があるけれども高い電圧を使う交流の方が良いのか、世界的に意見が分かれていました。

エジソンは直流派です。

直流送電の特許使用料という膨大な利益を手放したくなかったのです。

一昔前までは「発明王エジソン」などと偉人の一人でしたが、最近ではエジソンの業績を疑問視する人が増え、経営能力は認められていますが、人間性を問題視されている向きもあります。

この話もその一つなのですが、エジソンは交流式の危険性を大衆に印象付ける為にいくつかの事を行っています。

保健所の殺処分されるところを、犬や猫を交流電気により行うところを見せたり、処刑用の電気椅子を作り交流電気で実施させてもいます。

交流電気がいかに恐ろしいかを大衆に印象付けることが狙いでしたが、テスラも負けていません。

人体に交流電気を流すショーを行って、安全性を主張しました。

エジソンに反旗をひるがえした岩垂邦彦氏

そんな直流・交流論争の最中に、岩垂邦彦氏のもとに大阪電燈の発起人から技師として迎えたいという旨と、発電設備一式を調達してもらいたいとの依頼がありました。

岩垂邦彦氏は「これからは絶対交流式だ」という結論を出していました。

エジソンの今の利害にこだわることに反目していました。

ですから、エジソンと敵対していたトムソン・ハウストン社から交流式の発電機を購入し、日本での販売権を大阪電燈に取り付けたのです。

岩垂邦彦氏には、日本の発展に尽くすという大きな大義がありましたから、エジソンに反旗をひるがえしても、自分が信じたことを曲げることは出来ませんでした。

ですが、当然エジソンは怒りました。

エジソンが岩垂邦彦氏を雇った目的も、将来日本での直流電気の売り込みに利用するためでもあったのです。

大きな溝が出来たまま、岩垂邦彦氏はエジソンの会社を辞めました。

銀座の電燈

ジャパンアーカイブス

1882年明治15年に東京銀座に日本初の電燈が灯されます。

文明開化の西洋文化の象徴のようなその存在を一目見ようと、毎晩多くの人が訪れました。

大衆の驚きと感動が伝わる話として、二千燭光といわれたその光源の明るさは「一にお天道様、二にお月様、三に銀座のアーク灯」と例えられたと言います。

「銀座のアーク灯を見に行かないか?」と誘い合って、わざわざ遠くから見に来てたとか。

テレビも無い時代では、その文明開化の代物を自分の目で一目でも見る事が重要でした。

大衆は時代の変化を喜び、そして新しい知識を我先に自分の物にしていきました。

「お前、まだ見に行って無かったの?遅れてるな」というわけです。

日本初の電力会社「東京電燈」

1887年明治20年に日本初の電力会社「東京電燈」が直流の送電を開始したのが岩垂邦彦氏が帰国する1年前の事です。

1888年岩垂邦彦氏はアメリカから帰国し、大阪電燈の創業の準備に参加します。

そして翌年の1889年に日本初の交流発電として大阪電燈は稼働しました。

電気は人々の生活を一変させるものでした。

ですから短い間に技術も急速に進歩して、直流・交流論争のわずか数年で、交流でも安全に送れる技術が確立されて世界的に電気は交流の方向に進んでいきます。

やがて、直流を支持していたエジソンも先行きが暗くなり敵対していたトムソン・ハウストン社と合併して、ゼネラル・エレクトリック社(GE)を設立しています。

こういうところはエジソンは凄いとしか言いようがありません。

もちろん岩垂邦彦氏とも和解して、最高の信頼の証として大阪電燈をゼネラル・エレクトリック社(GE)の総代理店としたのです。

ここまで来ると、大阪電燈でも岩垂邦彦氏の業績が高く評価され、初代技師長に任命され、アメリカと日本を行き来しながら活躍の場を広げて行きます。

その時代では、アメリカと日本を行き来してるなんて人はそういません。

なにしろ今の様にジャンボジェット機があるわけでは無いのですから。

浅草凌雲閣

ウィキペディア凌雲閣

日本で初めて電気を動力として利用したのは、明治23年に浅草公園に建てられた12階建ての凌雲閣に設置された日本初のエレベーターで、当時の日本で最も高い建物でした。

展望塔として建設されましたが、関東大震災で半壊しその後取り壊されました。

浅草の顔として最初は人気を博したものの明治末期には客足も遠のきます。

いつの時代でも大衆は、常に新しい物を求め、すぐに飽きてしまうものですね。

岩垂邦彦の独立

日本が日清戦争に勝利して、日本の産業が一気に開花した19世紀の末ころのことです。

電気の需要はますます多くなり、大阪電燈では発電機の自社生産をしようという動きが出て来ました。

岩垂邦彦氏はこの動きに対して、ゼネラル・エレクトリック社(GE)との信頼を欠く行為だとして猛烈に反発します。

でもそのころの日本にはまだ、特許や知的財産に対する配慮なんてまったくといっていいほどありませんでした。

信頼関係があったからこそゼネラル・エレクトリック社(GE)の総代理店の権利まで貰えたのです。

大阪電燈のこの信頼を欠く行為に対して、岩垂邦彦氏自身も大阪電燈に対する信頼が無くなってしまい、大阪電燈を辞めることになりました。

この一件で、ゼネラル・エレクトリック社(GE)は岩垂に対する信頼を更に深めます。

そして、ゼネラル・エレクトリック(GE)社製品の販売代理店の権利を大阪電燈から岩垂個人に移しました。

大阪電燈を辞めた岩垂邦彦氏は、自宅に事務所を設けて、ゼネラル・エレクトリック社(GE)製品の輸入業務を始めることになりました。

岩垂邦彦氏の人並み外れた勤勉さと努力は多くのひとが共感しました。

得意先の対応や開拓に奔走する岩垂に対して、援助を申し出る人も相次いで、業績は予想を超え進展しました。

その後、通信などの弱電機器のアメリカ最大企業であるウエスタン・エレクトリック社(WE社)からも代理店に指定されて、なんとアメリカの二大企業の代理店となったのです。

この業界の誰もが喉から手が出る程欲しい、羨む権利でした。

電話事業へ参入

そして電話事業が大きく注目される時代がやってきました。

1890年に逓信省が発足されて、東京~横浜間の電話が開通して電話拡張事業に乗り出したのですが、電話設備が不足していました。

そこで、ウエスタン・エレクトリック社(WE社)も日本市場の開拓に本腰を入れようと人を派遣してきました。

その時に派遣されてきたのがカールトン氏です。

後の日本電気創業の際に社長制を導入しなかったのですが、取締役としてカールトン氏が就任します。

1897年ウエスタン・エレクトリック社(WE社)は日本で共同出資による新会社を設立して国産で電話機器を作ることを考えます。

岩垂邦彦氏を通して、当時唯一の国産電話機器メーカーであった後の沖電気となる「沖商会」と交渉しますが、決裂してしまいます。

すると岩垂邦彦氏は、責任を感じ自分が共同出資者となって電話機器製造会社をやると申し出ます。

日本電気創業

NEC 会社概要

1899年明治32年。

日米通商航海条約が改正され、それまでの欧米列強諸国との不平等条約が改正されたその日です。

日本初の外資系企業「日本電気株式会社」が創業となりました。

日本電気株式会社は、当時の最先端の文明の利器だった電話通信機などの輸入販売から始まりました。
これは日本電気が設立当初から作っていた電話機でした。

中に発電機を内蔵した卓上型のものです。
時代はさらに加速して動いていました。

電信や電話が普及する時代へと扉が開いたわけです。

それが後のNECの躍進の先駆け、発展の礎となったことは言うまでもありません。

岩垂邦彦の名言

岩垂邦彦氏の名言として残っている言葉は2つしかありませんが、その精神は偉大な物です。

・「10の得意先を失えば、それに代わる20の新しい得意先を開拓しよう」

交流発電を行う大阪電燈を軌道にのせるために、必死になって開拓していた時の言葉です。

岩垂邦彦氏は技術者のイメージで、自ら得意先の開拓もしていったというイメージはありませんでしたが、やる時はやるという人でした。

最初は交流式での送電を理解してもらうのにも一苦労だったことでしょう。

・「Better Products  Better Service」

日本電気が輸入する製品は、世界の一級品で、日本電気の生産する機器も世界一流です。

そのアフターサービスも責任をもって果たすことを世間にお約束するという創業の精神です。

岩垂邦彦まとめ

始まりを知ることには大きな意味があります。

岩垂邦彦氏は単に先見の明があっただけではありません。

「日本の夜明け」という明治維新を経験し、世界の知識や科学を目にして、日本に貢献したいという「信念」がありました。

直流か交流かの論議もそうですが、将来どちらになった方が発展に貢献するかという目でみれば、どっちに傾くかは明らかだったのではないでしょうか?

多くの人は、方向性が確立してから手を出したのかも知れません。

でもそれでは遅れをとってしまいます。

日本は世界との遅れを取り戻し、追い付き追い越さなければなりませんでした。

そんな中で交流式を信念を持って支持できた決断力とは何なのでしょうか?

「将来が明らかに見える目」でも持っていたのでしょうか?

交流式は明らかにいろんな可能性を秘めていました。

それをイメージ出来たから、揺るぎない信念で行動できたのかも知れません。

日本は明治維新によって、アジアのどの国よりも発展して行きました。

そんな時代を作った岩垂邦彦氏の業績を知って、少しは未来が見えてきましたでしょうか?

技術者は技術の歴史を学ぶ必要はあまりありません。

今の技術を身に付け、将来の技術を身に付けて行けば、それで成り立つでしょう。

コンピューター関連の仕事をするからといって、コンピューターの歴史を一から知る必要は無いからです。

ですが、経営者となると話は別です。

いろんな時代の、いろんな人の経験も自分の事の様に学べば、それが判断の役に立つするからです。

社長の仕事は決断することです。副業でネットビジネスをするのも決断が必要です。

それにしても、科学や文明が本当に短い間に加速して今の世の中になったのだと実感して驚くばかりです。

さあ、未来はどうなるのでしょうか、未来を楽しみたいと思います。

さとるのメルマガ登録はこちらから
ネットビジネスで本当に稼げる方法をお伝えします!
◆メルマガ登録はこちら◆