有名人の名言

三井財閥の総帥 團琢磨の生涯と功績そして名言と暗殺 時代動かした日本人

團琢磨(だん たくま)はアメリカで鉱山学を学んで、三井美伊勢炭鉱の経営を行って成功させ、三井財閥の総帥となった人です。

最後は昭和の金融恐慌の際に三井がドルの買い占めを行ったと批判され、財閥に対する非難の対象となってしまい、血盟団というテロ集団の手により狙撃され絶命しました。

明治維新から大正そして昭和へと日本の産業と経済発展に大きく貢献し、国を導いた人の一人であることは間違いありません。

ですが、当時農村や漁村での生活は貧しく、また政財界の一部の人間が私利私欲に走って腐っていたことも事実です。

そういった国利民福を思わない極悪人を倒し国家を改造しようという「血盟団」のような勢力が組織化され、暗殺や五・一五事件それに二・二六事件を引き起こして行くことになります。

時代はどちらも必要としたのです。

国の経済を発展させる大きな力も確かに必要でしたし、その大きな力の影で貧困に喘いでいる人々を救いたいと戦う力も必要でした。

團琢磨の生涯を調べると、決して私利私欲の為に動いていたような人ではありません。

銃弾によって倒されるべき人では無かったのです。

ただ、三井財閥の総帥であったがために批判の矢面に立たされ標的になってしまったのでした。

團琢磨の生涯とその功績そして名言を探ってみました。

團琢磨の生涯

ウィキペディア 團琢磨

1858年安政5年8月1日に、筑前黒田家52万石の城下町に、父は馬廻役200石の神屋宅之丞通可と母やすの間に生まれた4男の末っ子でした。

團琢磨の生まれた、この安政5年という年は、安政の大獄により多くの勤皇の志士たちが処断された年です。

当時の福岡藩主であった黒田長溥という人は、第8代薩摩藩主島津重豪が67歳の時に側室に生ませた子で、14歳で黒田家の養子となり、後に黒田藩藩主となったという人です。

「島津に馬鹿殿なし」と言いますが、黒田長溥も名君と評されていました。

藩政面でも近代化を図るため積極的に西洋の科学技術を導入して、研究施設として精練所を設立したり、鉄砲や火薬などの研究や製造を進めたり、また外国から軍艦を購入したり、鉱山開発を進めたりしています。

軍制も西洋式に改めようとしましたが、これは保守的な重臣達か猛烈な反対を受け叶うことはありませんでした。

他家からの養子の殿様に対して、藩政の改革には保守的な家臣達の抵抗などがあって思うように行えなかったようです。

黒田長溥は勝海舟とも親交があり、海舟は晩年、幕末期の諸侯の品定めが行われた時に「1番の開明君主」として黒田長溥を挙げていますから周りの評価は高かったようです。

團琢磨の父である神屋宅之丞も蘭学の素養があり、そのことからも藩主長溥の信任が厚い家臣の一人でありました。

常に黒田長溥の側に仕え、機密の相談を受けることもあり、城からの退出時間も他の者たちよりも遅くなることが多かったそうです。

また、神屋宅之丞は非常に面倒見のいい人であったようで、後に琢磨の英語の師になった平賀義質も幼くして父を失った貧困の暮らしの中から、神屋宅之丞により藩主の黒田長溥への推挙されたことにより長崎に留学することができました。

その後、福岡藩からの第1回海外留学生にも選ばれています。

平賀義質もその恩義を忘れずに、留学を終え神屋家を訪れて、琢磨に海外事情を話して聞かせたりしました。

このころに琢磨が幼くしてこの平賀義質から英語を学べたことも後になって海外留学に優位に繋がって行きます。

團家の養子に

そんな琢磨に養子の話がきました。

1970年、明治3年のことです。

跡継ぎが育たなかった團家から、琢磨に養子縁組の申し入れがありました。

当時の團家の当主である團尚静は福岡県権大参事の重職に就いていました。

この團家からの養子の申し入れに対して、神屋家では、

團家が福岡藩では600石の家督であるのに対して神屋家では200石と家格がだいぶ違います。

それに加えて琢磨が幼い時から漬物が嫌いで全く口にしないために、養子に行ってもすぐに追い返されるのではないかと危惧して、一旦は辞退しました。

これに対して、團家では、團尚静の母がたびたび懇請しに神屋家を訪れました。

それで神屋家でも無下に断れないし、当の琢磨自身も拒絶の姿勢を示さないので、琢磨が12歳の時に養子となって團家の人間となりました。

琢磨を迎えた團家では、一家を挙げて琢磨の機嫌をとり、漬物が食膳に出ることは無く、好物の焼味噌を毎日のように出しては、幼な心を養家に引き留めようと、大切に扱ったということです。

金子堅太郎と平賀義質との出会い

明治4年、養父の上京に従い、霞が関にあった黒田屋敷内の團家に入りました。

まもなく團尚静は、琢磨を平賀義質の英語塾に入れることに決めて、琢磨は平賀塾に住み込んで、本格的に英語を学ぶことになりました。

琢磨は平賀塾では、階下の一部屋に、同じく門下生の金子堅太郎とともに住み込んで、二人で熱心に英語を学びました。

琢磨は後に当時を次のように語っています。

「私ども2人(琢磨と金子)は下の部屋でスペシャルの待遇であった。

年取った者が大勢英語を学びにきたのだが、何もしらないやつばかりでした。

学問の方ではこっちが上で、皆の模範にされました。」と。

金子堅太郎はこのころの琢磨との出会いについて、霞が関の(福岡)藩邸に、團の両親が女中や家来を引き連れて、若様で来たのが琢磨です。

私も藩の書生であったから会いに行きました。

私が初めて團に会ったときは、大きな部屋に、お母さんが紫縮緬の座布団に座っておられ、そのそばに團が若様で羽織を着て座っておられました。

最初の挨拶の後は時々團の屋敷に行くようになり、ある日、團が「頭が痛い」と言って皆が撫でたりさすったりしているのを見て、「随分と贅沢な身分だ」と思っていました。

そのうち團尚静が、屋敷に住まわせて通学させる訳にもいかないから、平賀先生の所に預けるといって琢磨は平賀の所に預けられたのです。

平賀にとって琢磨は恩人神屋宅之丞の子供であって、更に藩の高官である團家から預かった弟子という立場です。

一方、金子堅太郎は平賀の学僕の立場です。

ですから平賀が司法省に出仕する際には弁当持ちでお供しており、身分にかなりの格差があったようですが、お互いに仲良く勉学に励んでいました。

そんなところに、思いがけず海外留学の話が持ち上がりました。

團琢磨アメリカ留学

明治政府は、幕末期に幕府が欧米諸国と締結した修好条約の改正問題の打診とともに、先進欧米諸国の国情などについての視察を目的として、全権大使岩倉具視とし、副使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など、明治政府の主力メンバーを揃えた大規模な欧米使節団を派遣することになりました。

このとき明治政府は、この使節団の派遣に合わせて、国家の近代化を進めるための人材育成を目的として、公家や大名達にその子弟達、それに家臣の中からも有能な青年達を選んで、先進国の知識や技術を吸収させるために海外留学に派遣することを勧めました。

福岡藩からも派遣されることになり、團琢磨と金子堅太郎との両名が選ばれて、藩主黒田長知に従って米国に留学することになりました。

このときの海外留学の選考に当たっては、福岡藩内では、藩主の黒田長知の側近の中から選ぶべき」という声もあがりました。

ですが、若い者に学問の機会を与える事が奉公であるとして、家格にとらわれずに、真に能力のある少年を選ぶべきだとし、

藩主黒田長知は、単に欧米諸国を見聞して知見を広めるだけで良いのだがが、随行の少年たちには他日、一技一能力を十分会得させるべきたとして

福岡藩からは琢磨と金子の両名が選抜されたのです。

両名の英語力が藩内でずば抜けて優れていたことも選ばれた大きな要因であったようです。

金子は既に福岡藩きっての俊秀と目されていたので、当然の結果ですが、琢磨は老公長溥と、父神屋宅之丞との関係。

宅之丞から一方ならぬ恩義を受けた琢磨の英語の師平賀義質の推薦などもあり選ばれました。

黒田長溥と神屋宅之丞の関係

老公長溥と、父神屋宅之丞には深い関りがあります。

かつて黒田長溥が藩内で種痘を施した際に、最初にこれを受けた琢磨の兄が早逝したのです。

福岡地方で天然痘が流行り、藩主であった黒田長溥はその予防に、オランダ医師から伝えられた種痘を採り入れて藩士やその家族達に受けさせようとしました。

ですが怖がって誰もそれを受けようとしなかったため藩主の側近であった神屋宅之丞が、先ず幼いわが子に受けさせたところ、その子は種痘を受けた後、何かの原因で死亡してしまったのです。

種痘そのものは成功して、その後天然痘は収まったのですが、黒田長溥はのちのちまでも「神屋の子を死なせてしまった」と気にしていたのです。

海外留学生の選考の際に、黒田長溥はその事を思い出し「神屋のところに子供がいたはずだといって調べさせました。

そして團家の養子になっていた琢磨の名が挙がったということです。

このとき平賀自身も司法大輔の佐々木高行(土佐藩出身)随員として、司法省事務取調のためという名目で、この使節団に加わっています。

黒田長溥は、琢磨と金子の両名に対して、海外留学派遣に際して、何の学問でも良いから5年かかろうが7年かかろうが、必ず奥義を極めて来なさい。と申し渡しました。

渡航準備

海外留学を前にして、黒田長溥は渡航の準備として、嗣子の黒田長知とともに、琢磨や金子にも、横浜から外国商人を呼び寄せて、洋服を仕立てさせました。

この時のことを團琢磨は次のように語っています。

「洋服は出来上がったのだが、ホワイト・シャツではなかった。

ズボン吊がなかったので、歩く度にズボンが落ちてきた。

いつもチョッキとの間には二寸くらいも隔たりができて、その間より赤色のフランネルのシャツが露出していたよ。

帽子は芝の神明前で買ったフェルト・ハットで、靴は子供の小さな足に合うものなんて売ってないから、あちこち探して、遂に水兵の古靴らしきものを商店に見つけて購入した。

その大きい古靴をはいて闊歩した。」

靴については、金子も後に次のように語っていました。

「横浜に西洋人の靴店が一軒あったのだが、困ったことに小さい靴が一足もない。

草履という訳にも行かないので、仕方なしに靴をはいた。

外国人向きのものだから我々の足が三つはたっぷり入った。

その大きな靴を履いてガアラリ、ガアラリと引きずって歩いたものじゃ。

足ばっかり大きくて、まるで燭台の行列みたいさ。ハッハー。(笑)

帽子も十五、十六世紀の珍妙なものだったな。」

こうして、琢磨と金子はなんとか見なりを「西洋風」に整えることができました。

横浜港から出発

1871年、明治4年(1871)12月23日に、岩倉使節団の一行は横浜港から米国の太平洋航路定期船のアメリカ号で出発をしました。

船内では、黒田長知と、琢磨、金子の3名が同室になりましたが、琢磨は殿様に仕えた経験がありませんでしたので、黒田長知の世話は金子が全て行いました。

琢磨ものちに「僕などは、ほんの小僧っ子で殿様に接することは、まるで分かりませんでした。殿様も実に困ったろうと思います。」と語っていました。

琢磨は船酔いがひどく寝たきりで、5日目になって初めてパンと紅茶を摂れたようで、殿様の世話どころではなかったようです。

船内では、一行の食事のマナーが余りにも酷く、岩倉大使の指示で平賀義質が、「スープは音をたてて飲んではいけない、「ナイフやフォークの音をたてないように」などと食事の作法の指導をしました。

ですが、これに反発してわざとナイフとフォークで大きな音をたてたりする者もいて、なかなか徹底しなかったようです。

このころの日本人がナイフやフォークの持ち方を知る筈がありませんから、岩倉全権大使だってキョロキョロしてどうするのか分からなかったようです。

この船旅の間に平賀からの指導もあって琢磨と金子は留学先を、既に福岡藩から井上良一と本間英一郎とが留学していたボストンに決めました。

サンフランシスコに到着

岩倉使節団一行を乗せたアメリカ号は海路23日、1872年明治5年1月15日に港外のアルカトラス島の砲台からの13発の祝砲で迎えられ、午前10時ごろサンフランシスコ港に到着し、一行は欧米視察の第一歩を踏み出しました。

使節団はサンフランシスコに半月ばかり滞在して、その間、海軍造船所や蒸気機関を動力にした鉱山機械工場や、毛織物工場などを視察したり、裁判所などの行政機関や学校なども見学しました。

また市長を初め多くの市民や陸海軍からも盛大な晩餐会を設けてもらったり、大富豪の邸宅に招かれたりして、歓迎を受けたようです。

琢磨達がサンフランシスコで鉄道馬車を初めて見たときには、それは興奮したと後に語っています。

使節団の一行は、1月31日にサンフランシスコを出発して、

大陸横断鉄道でシカゴに向かいました。

途中 ロッキー山中で大雪のために鉄道が不通になり、ソルトレークシティで20日近く足留めされたりして、2月26日に、ようやくシカゴに到着しました。

黒田長知、琢磨、金子の3名は、シカゴでワシントンに向かう使節団と別れて、ニューヨークを経由してボストンに向かいました。

ニューヨークには2月28日に到着し、そこからは井上良一(ハーバード大学法学部)がボストンまでの案内役になりました。

琢磨はのちに当時のニューヨークの印象について、家屋は3階か4階建で、

皆木造でビック・ビルディングは極めて少なかった。

ニューヨークへ着いたとき、街路が狭くて、今の銀座ほどにもなかったとか。

そのころのニューヨークはまだそんなところだったのです。

ボストン到着

一行は3月1日夜にニューヨークを出発して、翌2日ボストンに到着しましたが、駅では本間英一郎(ハーバード大学・土木科)の出迎えを受けて、

一行はボストンでの留学生活の第一歩を踏み出しました。

このころのボストンは米国における文化と商業の中心都市で、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学があります。

この頃のアメリカは、1865年に南北戦争が終結し、1869年には大陸横断鉄道が完成して、新しい国家と社会の建設が、一方では多くの社会的な矛盾や混乱を生み出しながら、国全体が沸き立っているような時期でした。

その中でボストンというところでは、もともと清教徒が中心となって開拓された街であったので、贅沢とか華美や娯楽などを排し独立と自由の気に満ちておりました。

街の指導者層も勤勉で信仰心が厚く、敬虔(けいけん)な人たちが多かったといわれています。

そんな街で過ごした少年時代から青年時代にかけての留学生活は、琢磨の人格形成にも非常に大きな影響を与えたことでしょう。

ボストンでは琢磨と金子は、まず小学校教諭のミス・アリスンについて英語を学びました。

しばらくして彼女の家に下宿してその一家を挙げての家族同様の暖かい待遇を受け、この一家との親交は琢磨が帰国した後も続きました。

アリスン家では琢磨がいつ戻って来てもいいように、琢磨の部屋をそのまま空けていたということですから、琢磨も、ボストンを第二の故郷として、そこでの生活を終生懐かしい思い出としていたことの一因であったのでしょう。

学生時代

その後、半月ほどが経ち今度は小学校に入学をしました。

ここで、読み方、書き方、算数、歴史、地理などを学びました。

その頃の様子が、当時の米国新聞にも載ったのですが、私塾に学ぶこと6ヶ月で、学校に入れるほどに進歩し、すぐに首席となり大変優秀である。

ボストンに着いた時は言語もままならなかったが、今では読み書きどころか喋らせても本校の他の生徒に類を見ない。と書かれています。

琢磨は、その後の進路にについて悩みましたが、日本からの留学生のほとんどが進むハーバード大学ではなく、開校間もないマサチューセッツ工科大学で採鉱・冶金学を学ぶことにしました。

理由は、まず琢磨自身が弁舌には自信がなく、政治家には不向きであると考えていたことです。

それに、当時アメリカでは、南北戦争が終わって 新しい国家の建設が凄まじい勢いで進んでいました。

その開発・発展の中心的な事業が、鉄道建設であったということを目の当たりにしたのです。

採鉱学よりもむしろ鉄道建設に必要な製鉄について学ぼうと考えたのでした。

また、鉄道技術の方では、先に福岡藩から留学していた本間英一郎がハーバード大学で鉄道土木を専攻していたので、琢磨としては、本間との重複は避けることにしたのです。

鉄道の建設にはまず製鉄業の確立が必要だと考え、そのための学問を身につけようと思ったのです。

このときの琢磨の進路選択については金子は「武士の子であるのに鉱山掘りになると聞いて、よほどどうかしていると思った」と語っています。

当時 ボストンには、琢磨と金子のほかにもかなりの日本人留学生がいて、彼等は日頃の交流のほか、ライジング ・サン・ソサエティという会を作って、毎月1回市内のホテルに集まり互いに懇親と情報交換などをしていました。

この中には、日露戦争時の外相・小村寿太郎や、駐露公使・栗野慎一郎などもいて、特に栗野は同じ福岡藩の出身で、以後琢磨とは生涯を通しての親友となりました。

明治という国家樹立の数年後に外の国、特に南北戦争直後の米国に行ったというのは琢磨の人生や近代国家を考える大きな意味になりました。

マサチューセッツ工科大学時代

琢磨は渡米後、マサチューセッツ工科大学にて鉱山学科を専攻しました。

この時、琢磨は17歳です。

マサチューセッツ工科大学の鉱山学科で琢磨を直接指導したのは、のちに米国の鉱山学界の指導者となったロバート・H・リチャーズ教授でした。

リチャーズ教授は創造力や企画力にきわめて優れた人で、科学的な実験に関しても卓越した才能をもっていました。

何度も失敗を繰り返しながらも、当時の模範的な鉱山学の実験室を自らの手で作り上げました。

それは米国で最初の採鉱・冶金学実験室でした。

そこに据え付けられた機械もほとんどが実物大です。

その機能も実物同様であったといわれて、そこでの実験を通して、理論と同時に実際との整合を重視した教育が行われたのでした。

この理論と実際とを整合させることを重視したという講義は、琢磨にとって大いに魅力的で、熱心に勉学に励みました。

リチャード教授は琢磨を愛弟子の一人となり、なにかと目をかけてくれ、

お互いに厚い子弟関係を保ちました。

マサチューセッツ工科大学での学友達との交流もまた親密であり、その関係は琢磨が学業を終えて帰国した後も長く続いており、後に琢磨が渡米したときには、学友達が集まって、一緒に旧交を暖めました。

当時の級友の一人のオールブライトは、琢磨について語っています。

「初めて團くんに会ったのは、マサチューセッツ工科大学の科学実験室でした。

実験室での團君の席は、偶然私の隣だったのですが、彼はどのような事件に遭っても怒りの顔に現さないことが、團君の1つの特徴でした。

また普段、他の学生に対しても親切にして丁重を極めており、これは一種の国民性からくるものなのかと思い、当時から敬服していました。

このような丁重さは、その年頃の米国人にはとても珍しいことでした。

そのうち2人の仲はとても親密になって、ついには、團君が卒業して帰国するときには、私も一緒に日本へ行こうかなどと冗談を言い合うような仲になりました。」

恩師のリチャーズ教授も琢磨の学生時代の思い出を、愛弟子に対する愛情を込めて、次のように語っています。

「学生としては、團琢磨は学業に優秀であり、また仕事に対しても忠実で、敏捷でした。

彼は全く教師の望み通りの良き学生に育ってくれました。

彼を思い出すと、その人柄が解る馬鹿らしいほど些細な簡単なことがある。

彼にナイフを貸したところが、彼はその刃を壊してしまったのです。

すると彼は私のところに来て『先生、私は悪いことをしてしまいました(professor, I did a mischief)』と言ったのです。

この愛らしい些細な文句が、私は非常に気に入って、それを私のとっておきの言葉にして、今日でもこれを適当な折々に使うようにしているのです。」

帰国へ

1878年、明治11年にボストンでの7年間の留学生活をおえて帰国しました。

良き師、良き友に恵まれての、充実した学生生活をおくることが出来たのは、年少の琢磨が異国の地で、琢磨自身の日常の思考や行動というものが、武士道精神に基づくものであったのかも知れません。

それが西洋の騎士道精神やジェントルマンとしてのマナーなどに通じるところがあって、人間的な面でも評価されて受け入れられたのかも知れません。

また「古き良きアメリカ」の社会そのものが、異国からの留学生達を、おおらかに受け入れてくれたのかも知れません。

琢磨の卒業と同じくして、金子もハーバード大学を卒業したので2人は、来たときと同様に一緒に帰国することができました。

日本を離れる時に旧福岡藩主黒田長溥から命じられた「一専門を極めろ」という留学の目的を達した琢磨と金子はこうして帰路につきました。

1878年明治11年アメリカ留学から帰国しました。

帰国後

当時の福岡は廃藩置県が施行され、その後、偽札発行事件などがあり旧藩主の黒田家が東京に去ったということもあり武家屋敷町はかなり寂れていました。

琢磨の生家も生い茂った草の陰になっているような有様でした。

当時の福岡県令であった渡辺清から福岡にとどまって県内の炭鉱の調査

をするように依頼があり、調査はしたものの、1週間ほどで切り上げ上京することにしました。

大阪専門学校助教授時代

上京し、まずは仕事に就こうと考えましたが、「製鉄事業に従事したい」といって、工部省に採用を願い出たのですが、受け入れられませんでした。

当時の工部省は、工部卿の山尾庸三(長州・幕末にロンドン大学へ留学)を筆頭にスコットランド人技術者と工部大学校の出身者のみで占められており、相当に排他的な傾向が強かったようです。

そのためにしかたなく、国によって設立されたばかりの大阪専門学校の教師となりました。

1879年明治12年のことでした。

ここで琢磨は、数学、科学、地理などの学科を英語で教えたのですが、なにしろ容姿端麗な琢磨が流暢な英語で講義をしたので、たちまち学生達の人気を集めて、「大阪専門学校の花形教師」といわれました。

この時の教え子の中には、後の外相となった男爵の松井慶四郎や鉄道院総裁になった添田寿一、三菱合資会社総理事になった木村久寿弥太、三井合名会社常務理事になった有賀長文、駐独大使になった日置益 などがいました。

東京大学助教授時代

東京大学にて星学科(天文学科)の助教授の席が空いたとの話がきたのですが、最初は「星学は勉強はしましたが専門外である」として渋りました。

しかし、スカウト側から「星学といっても、天文台で星座を観測するのが主体で大したことはない。」といわれ、迷いに迷った挙句に承諾しました

なにしろ東京に出ないと世の中の動きが見えないという想いもあったのでしょう。

1881年(明治14年)の事です。

琢磨が東京大学の助教授になったということを、旧藩主の黒田長溥は非常に喜び、かねてより関心の深かった電信機などの理化学機械類を自分の目で見るために、東京大学の琢磨のところを訪れて説明を聞いたりしました。

工部省 採用

1884年、明治17年、かねてからの念願であった工部省への転職願いが、

時の文部少輔であった九鬼隆一の斡旋などにより、工部省御用掛として採用されることになりました。

帰国して6年もたってようやく念願の工部省入れたという背景としては、

工部卿が鉱山行政を工部大学出身者で固めていた長州出身 山尾庸三から、土佐出身の佐々木高行に代わって、後部大輔の井上勝(長州)も鉱山行政を刷新しようとしていたので、米国帰りの琢磨を採用することになったのです。

また当時、琢磨は金子堅太郎の妹と結婚したので義兄となった金子が、佐々木高行の秘書官のような役をしていて、琢磨の恩師の平賀義質が佐々木と非常に親しかったことも、琢磨の工部省入りを有利に働いた要因であったのでしょう。

琢磨は3ケ月ばかり工部省に出仕した後、1884年に、三池鉱山局御用掛に任命されて三池へ赴任することになりました。

工部省 三池鉱山局御用掛准奏任

1884年明治17年、当時の三池炭鉱では、次期主力坑として勝立坑の建築を進めていました。

ですが、この坑は坑内の湧水が激しく、排水用のポンプを増設しては、水没させるという繰り返しの状態で、工事は難渋を極め、遅々として進みませんでした。

この頃の政府は、欧州諸国にならって金本体制の確立を図る必要に迫られていました。

そのための外貨の獲得には、どうしても石炭の輸出増強が必要であるといして、政府は、特に三池炭鉱の出炭増加に大きな期待を寄せていました。

ですから勝立坑の開発は政府としても大きな関心を寄せていたのです。

時の蔵相である松方正義が実施した官制の改革で、1886年明治19年に琢磨は勝立坑開発の責任者となりました。

勝立坑の開発を重視した松方蔵相は、勝立坑開発を成功させるための方策として琢磨に意見を求め、それに対して琢磨の答えは

「いまの国内で稼働している炭鉱の全ての施設と経験と理論を持ってきたとしても勝立坑の排水は到底解決することは困難でしょう、もうこれは知識を外国に求めなければならないでしょう。

そのためには洋行して海外の実情を調査する必要があります」でした。

これに対し、琢磨に洋行を認めそれ以外にも調査目的を課して託しました。

松方蔵相が三池炭鉱の開発や近代化を重要視し、また技術者としてそれを担う琢磨に対して非常に大きな期待を寄せていたのでしょう。

1887年明治20年琢磨は欧米諸国炭鉱視察に出立しました。

当時勝立坑の坑内に侵入する水は1分間に400立方㌳に及ぶ量でしたから、琢磨はこの大水を処理できる方法を探さねばなりませんでした。

マサチューセッツ工科大学のロバート・H・リチャーズ教授の協力を得て米国および欧州において大機械を作る工場や、それを使用している鉱山に紹介状を書いたもらい、彼はこれらの工場や鉱山を訪問してまわりました。

そして遂に米国において望み通りのポンプを発明して、彼はそれを勝立坑に据え付けて坑内の排水に成功したのです。

その間、1888年明治21年に三池炭鉱が三井に払い下げられました。

1888年(明治21年)帰国後、琢磨は三井組三池炭鉱社に入社しました。

琢磨が三井入りして、三池炭鉱事務長として三池に在勤した期間は、1888年から1894年までの6年間でありましたが、その間に次々と功績を挙げました。

勝立坑の開発に引き続いて、宮原坑、万田坑の開発を自ら企画して取り進め、坑内動力として蒸気機関の利用や、選炭整備の改善、七浦発電所の完成による電化の開始と推進をしました。

米国から蒸気機関車を購入しての石炭輸送整備の近代化なども行い、当時として最新の技術と整備の導入および開発を積極的に推進させて、これらによって三池炭鉱は、名実ともに、我が国を代表する大炭鉱へと大きく発展していったのです。

また琢磨は、労務管理面でも、当時としては新しい感覚で、積極的に改善を進めていきました。

三池炭鉱の事務長に就任して間もない明治23年ころに、封建的で弊害の多かった納屋制度の廃止を、他の炭鉱に先駆けて断行しました。

納屋制度とは、炭鉱の官営時代から九州のほとんどの炭鉱に存在していて、労働者の直接の雇用者は鉱山局ではなく民間の納屋頭でした。

その納屋頭の管理の下で、労働者に過酷な労働が強いられ、労働者の賃金も直接支払われずに納屋頭が一括して受け取る制度になっていたのです。

ですから納屋制度があくどい搾取の温床にもなっていました。

これは画期的な事で、労働者にとっては朗報ですが納屋頭の反感を買ったのは言うまでもありません。

また炭鉱における囚人労働の解消を図り1902年から操業を開始した万田坑に、労働力として三池刑務所から囚人使用の申し込みがあったが、これを琢磨は断りました。

しかし、囚人労働というものが実際に完全に廃止されたのは1930年のことですからこのだいぶ後になります。

その他にも琢磨は、炭鉱事業を円滑に進めていくために、地域との調和にも心を配りました。

特に地元の有力者の協力を得て地元問題をきわめて円滑に処理をしていきました。

琢磨と地域との関係については、三井物産創始者の益田孝も語っています。

「三井炭鉱と地元の人達との間は上手くいっておった。

あの地方は国権党だの、自由党だの、なかなかやかましい面倒な所で、

永江純一の如きなど、国権党の壮士に足を斬られたことがあるくらいだ。

実に難しい地方であったのだが、私はただの一度もその地方の人達から三池炭鉱に対する

苦情を聞かされたことがありませんでした。

これは実に、團の偉いところです。

そしてこれが後年の團を作り上げた鍛錬の1つでもあったであろうとも思う。」と

勝立坑着炭

1894年明治27年、琢磨が心血を注いで取り組んだ勝立坑の排水問題が解決して待望の着炭にまで漕ぎつけました。

ようやく三池炭鉱が大きく発展していくための基礎が固まったわけです。

1894年10月に琢磨は三井鉱山合名会社専務理事に就任し、三井全体の鉱山事業の統括者になって、初めて中央での活躍の場を得たのでした。

三井の初期の鉱山事業の経営体制としては、神岡鉱山は三井銀行が管理していて、三井物産会社もその傘下に銅、硫黄などの鉱山を有していました。

三池炭鉱は独立した形でしたが、三井としては鉱山事業を1つの柱として発展させようと考え、これらを統合して、1892年にこれを「三井鉱山合名会社」と改めたのです。

琢磨は三井鉱山合名会社専務理事に就任して、三池では次期主力坑として万田坑の開発を進めるとともに、将来性のない鉱山の整理や、硫黄鉱山の統合など、三井の鉱山事業の強化を図って行きました。

そして前回の欧米視察旅行(1887~1888)からすでに10年経過していることもあって先進諸国の鉱山技術の進歩や、英国などで進んでいた石炭利用技術などについて、改めて調査・研究する必要を感じて、再び欧米視察に赴きました。

琢磨は、この視察旅行では三池港の築港と港湾設備の機械化とを調査・研究が1つの大きなテーマでした。

約8ヶ月間にわたる欧米視察旅行の成果は非常に大きいものでした

三池港の築港を初め、三池炭鉱の機械化、特に電化による生産技術の近代化、石炭利用技術として副産物の利用による石炭科学事業や金属製錬事業の発展など、その後の三井の事業の根幹となった多くの事業がここから生まれているのです。

三池港開港

1909年明治40年、三池港築港を断行しました。

その大きな理由の1つとして、琢磨の産業人としてのすぐれた先見性に基づく地域に対する深い配慮によるものでした。

いくら良い炭鉱でも、石炭が永遠に出るということはありえない。石炭が出なくなったら、今は石炭が出ているから街となっているところも野にもどってしまう。

だから、その時の事も考えて三池の住民の救済も考えて港を作ることに集中したのです。

築港をやれば、築港のためにそこにまた産業を興すことができるのです。

石炭が無くなっても、他所の石炭を持って来て産業をすることもできる。

港があればその土地が1つの都会になるのだから、都会として存続するについて、築港をしておけば、何年保つかは知れぬけれども、いくらか100年の基礎にはなるだろう。」

「よそで生きてきた人間が、子孫まで三池にいるつもりで、他の土地から出て来ているのに、石炭を掘り尽くしたからと言って、全く空っぽにしてしまって、何もなくなってしまうでは、これは何か安んじない。

三井家として、何かお土産を残しておかねばという感じが強かった。」と語っています。

琢磨はその後、1914年大正3年三井合名会社理事・理事長となり、また三池炭鉱におさまらず、年を追うごとに国家経済の立役者としても活躍を見せました。

日本工業倶楽部 初代理事長就任

1917年(大正6年)の事です。

その後、第一次世界大戦後、国際情勢の変化の中で、日本と英国および米国との関係が冷えつつあり、これを危惧したのが英国両国の駐在大使と日本側の渋沢栄一でした。

日本と両国との友好関係の回復のためには、まず経済面での交流によって親善・理解を深めるべきで、日本の経済界の代表を両国に派遣しようということになりました。

そこで、渋沢栄一、井上準之助、和田豊治、富山雷太と団琢磨の5人が発起人となって、民間外交使節団としての英米訪問実業団が、日本工業倶楽部の会員を主体として編成され、団長には24名の団員の全員一致による推薦で、琢磨が選ばれました。

このとき琢磨が団長に選ばれた理由としては、琢磨が当時、日本工業倶楽部の理事長として、いわば、わが国経済界のトップの立場にあり、また当時の財界人の中で、衆目の見るところ、最も国際情勢に通じた人物という評価があったことにもよります。

日本経済連盟会設立、常務理事就任

1922年(大正11年)のことです。

琢磨は英米訪問実業団の団長として、欧米諸国を歴訪して各国の経済諸団体と親善・交流を図ってその実情を見聞して、わが国においても統一した経済団体を結成する必要があると痛感します。

歴訪中に、すでにその大綱的な構想をまとめていたようです。

特に、1921年に開催された欧米17カ国が加盟した国際商業会議所の第1回総会で、各国に共通する経済問題を討議し、慣習法規の統一やその他商工業の改善に関して大きな成果を挙げたと聞きます。

わが国もぜひこの組織に加盟すべきであるとし、そのためにも全産業界を統一した経済団体の結成が急務であると考えました。

わが国のあまりにも急速な発展により、経済活動の無秩序状態が生じ、わが国としても国際的な視野に立った経済活動を展開して行くことが必要になってきたという時期でもありました。

1923年大正12年には国際商業会議所の日本国内委員会議長に就任し

1923年(大正12年)東京帝国大学付属図書館建設資金保管管理者を務めています。

この年に発生した関東大震災で、東京大学の本郷キャンパスもその中枢部分の建物の多くが崩壊または全焼して、壊滅的な打撃を受けました。

中でも図書館は全焼して、そこに収蔵されていた約75万冊の貴重な図書が焼失してしまいました。

そのために東京大学では、震災直後に、学内に図書館復興委員会を設け、教授たちを欧米諸国に派遣して、各国の大学や学会に図書館復興への協力と援助を求めて働きかけました。

その活動結果、米国の大富豪ロックフェラー2世から、図書館建設費として400万円を寄付する話が決まりました。

この寄付に際してロックフェラー側の条件として、その資金の保管監理者を選任することを求めてきました。

最終的に団琢磨を含む3名が選ばれ、図書館の建設期間中に、琢磨は資金保管監理者としての責任を果たすために、多忙の中でも時間を割いて、

委員会には必ず出席し、時々は自ら建設現場に行って工事の進捗状況を検分しました。

1928年(昭和3年)日本経済連盟初代会長就任

1928年(昭和3年)には多年の功労を認められ男爵を授けられました。

琢磨はわが国経済界のトップ・リーダーとして、経済団体を統括し、経済界の意向を政治に反映させることに努めた他、多くの公的な組織の委員を歴任しました。

團琢磨、暗殺される

琢磨は、昭和金融恐慌の際に、三井がドルを買い占めて巨額の利益を得たことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになっていました。暗殺前

このころ、政界、財界、の巨頭などの暗殺計画が密かに進められているという風説が流れて、一部には自分が狙われているのではと恐れて、外出時に防弾チョッキを着用して用心する人達もいました。

大正後期から昭和初期にかけての労働組合法の制定をめぐる動きの中で、琢磨は郷誠之助などとともに、経済界の代表として同法案に反対の立場を鮮明にして、その成立を阻止するために積極的に活動していました。

ですから左翼勢力や労働団体から「団を斃せ(たおせ)」、「郷を斃せ」という過激なビラを撒かれたりして、激しく攻撃されてはいました。

琢磨は、自分は極左勢力から狙われ、もしかすると生命におよぶ危険もあるということは自覚はしてはいましたが、安全対策を講じるようにという周囲の人達の忠告には従おうとはしませんでした。

琢磨は常に自分は何ら間違ったことをしていないという信念がありました。三井内部でも、一部の軍人と結託し、軍人から武器を提供された極右のグループから首脳部が狙われているらしいという情報を得ていて、団琢磨、池田成彬らの指導者達について警戒体制を敷くことにしていました。

しかし、琢磨は身近の特別の警備や外出時の防弾チョッキの着用を嫌い、三井本館への出入りも「社員専用の通用門を利用した方が安全です」という周囲の忠告にも従わず、平常通り、一般客の出入りが多いために警護が困難とされる正面玄関を利用したのです。

琢磨暗殺の事件より1ヶ月ほど前の1932(昭和7)年2月9日、前蔵相の井上準之助が、本郷の小学校で催された選挙演説会に赴く途中、血盟団幹部の小沼正にピストルで撃たれて死亡しました。

この事件の直後、逮捕された犯人の小沼は、警察の取り調べに対して「 別に背後関係は何もない。農村の疲弊と失業者の増大は、前蔵相の井上の責任だと考えて殺った」と供述したので、この時点ではまだ組織的な犯罪とは見なされずに、血盟団の存在も明らかにはなりませんでした。

しかしこの凶変のあと、周囲の人達は、琢磨に対して、身近の警戒をいっそう強く求めましたが、琢磨は全く無頓着な態度で終始し、三井本館への出入りもいつものように正面玄関を利用したのです。

暗殺準備

そのころ、井上日召(血盟団の首謀者)から団琢磨の暗殺者に指定されていた、血盟団幹部の菱沼五郎は暗殺実行のために上京して、まず東京の地理を覚えるために円タク(1円タクシーの略)の助手となりました。

当時のタクシーには料金メーターというものがまだなくて、助手が同乗して、料金の交渉など乗客との対応にあたっていました。

さらに、菱沼は新聞や雑誌の写真を切り抜いて、琢磨の顔を覚え、日本橋の三越デパート横で客待ちをしながら、三井本館の玄関を監視し、琢磨の風体と乗用車のナンバーを確認しました。

そして円タクの助手を辞めて数日間、三越デパートの休憩室から琢磨の行動を監視して、暗殺決行の機会を窺っていたのです。

運命の日

そして運命の3月5日は琢磨は朝から来客があり、話題が労働問題になったとき、琢磨は、自らの運命を予告するかのように、「私は労働問題で非常なる誤解を受けてしまった。このためにあるいはやられるかもしれぬが、それは私もかねてから覚悟している」と語っています。

この日は、午前10時から三井合名会社の理事会の予定があり、三井合名会社から再三出勤の催促の電話が入って、琢磨はようやく11時過ぎになって、乗用車で三井本館へ向かったのでした。

そして11時25分頃に、乗用車が三井本館の三井銀行南側の表玄関に到着し、琢磨が車から降りて、表玄関の東寄りの石段を上りました。

そしてドアから入ろうとしたときに、待ち構えていた菱沼が、琢磨に近づき寄り添うようにしてピストルを琢磨の右胸部に向けて発射したのです。

琢磨は発射と同時に「やったな」という一言を発してその場に倒れました。

すぐに医務室に運ばれましたが、琢磨はすでに絶命していました。

享年73歳でした。

血盟団

ウィキペディア 血盟団事件 深編笠を被った被告

犯人の菱沼五郎は、その場で直ちに逮捕され、警察の取り調べに対して、

「腐敗しきっている既成政党政治を打開する目的でやった。

既成政党の背後には、大きな財閥がついている。

いま財閥の中心は三井で、三井の中心人物は団琢磨だから、最初に血祭りにあげた」と自供しました。

しかし、井上準之助暗殺犯の小沼正と菱沼が同じ茨城県出身であったことや、凶器のピストルが同型のものであったというようなことなどから、何かあると調べた結果、井上日召を首謀者とする暗殺集団の存在がやっと明るみに出て、井上以下団員が一斉検挙されました。

「血盟団」という名は警察が捜査の段階の便宜上付けた名前のようです。

ただこのときの警察の操作の段階では、血盟団と青年将校達とのつながりが明らかになったものの、青年将校達には何らの処置も取られなかったことから、彼等の暴走を止めることができず、これがのちに五・一五事件とニ・ニ六事件とにつながっていったのでした。

当時、血盟団が出来た背景は、1929(昭和4)年秋に、ニューヨークのウォール街で起こった株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌が翌年には日本経済を直撃して、のちに昭和恐慌といわれた大不況になりました。

これに東北地方や北海道の凶作、飢餓が加わったことにより、生活難と失業者の増加から労働争議が多発して行き、農村でも農作物価格の下落や生糸価格が暴落で養蚕農家は大打撃を受けていました。

一方では軍部の台頭があり、他方では、極左や極右両勢力の活動が盛んになり、彼らの攻撃の矛先は、腐敗した政党関係者や財閥、資本家、その他のいわゆる特権階級に向けられ、テロ事件が多発するようになっていったのです。

思想的な影響を受けて、扇動された青年将校達が 「昭和維新」を唱えて革命のために決起しようとする動きも出てきて、これがのちに五・一五事件とニ・ニ六事件とにつながっていったのでした。

このような世相を背景として、茨城県大洗町の東光山護国堂の日蓮宗行者 井上日召を首謀者とする言わば「要人暗殺集団」ともいうべき血盟団が結成されたのです。

この集団は当初は、 井上の門下で主として茨城県出身の20数名の青年達で 構成されましたが、のちに「昭和維新」を唱える陸海軍の青年将校や民間人、大学生などが合流して40数名になりました。

青年将校の中心人物は、海軍は藤井斉中尉、陸軍は菅波三郎中尉などで、彼等かの中には五・一五事件とニ・ニ六事件の首謀者達が含まれています。

井上は、自分達民間人が「一人一殺主義」の下で、「国家改造運動促進の機運を醸成するために、政党、財閥及び特権階級の巨頭の暗殺を決行して、

革新運動の狼煙を上げる」ので、青年将校達にはその後に決起することを求めて、まず自分達一党が行動を起こすことを決定したのであります。

このとき井上に凶器のピストルを手渡したのは霞ヶ浦航空隊所属の海軍は将校藤井斉で、藤井はそのピストルを大連で手に入れ、海軍の飛行機で持ち帰って来て、それを井上に渡しました。

井上日召が計画した要人暗殺計画のターゲットは、政治家では、政友会の犬養毅首相、鈴木喜三郎、民政党総裁の若槻礼次郎、前蔵相井上準之助、

前外相幣原喜重郎などです。

財界では、三井の団琢磨、池田成彬、三菱の岩崎小弥太などで、その他特権階級として西園寺公望、牧野伸顕、徳川家達などが挙げられており、一人一殺主義の下で、それぞれの要人別に暗殺実行者が配置されていました。

その中で、首領の井上日召から団琢磨の暗殺を指名されたのは、茨城県生まれで、血盟団幹部の菱沼五郎だったのです。

当時、まだ19歳の青年でした。

團琢磨の訃報のニュースに

團琢磨がテロの凶弾に斃れたというニュースは、世界各国の新聞などでも大きく報道され、中には日本は暗殺の国だと批判する記事もありました。

特に琢磨の知己が多かった米国では、多数の人が電報や電話で弔意を表しました。

三月八日の社葬には四千人を超える会葬者の列が青山斎場から青山一丁目まで続きました。

團琢磨の名言

・まず自己の使命を自覚し、そして堅固不動の自活的精神をもって事にあたるならば、天は自ら助くる者を助くるということを、もとより疑いのないことです。

・自分を治め得ぬ人間が、人を治めることなどできるはずがない。

・小さな実績や小さな成功、その積み重ねが、それこそが大きな実績、大きな成功の礎なのである。

・人生の大道は曲折があるのだが、走る必要はないのだ。
そろそろと、たゆまず怠らず歩いているうちに、いつかは目的地に到達する。

團琢磨まとめ

今の日本からは想像もつきませんが、格差社会が暗殺集団というテロ組織を作り暗殺による解決を図る思想が生まれるほどだったのですね。

確かに、日本という国家が国際社会で取り残されないように経済的に力をつけなければならない時代でもありました。

それにより一部の腐敗した特権階級がいたことも事実だったのでしょう。

團琢磨は、国家にも国民にも大きな功績を残しながら、誤解され、またその誤解を積極的に拭わなかったことで暗殺の標的になってしまいました。

團琢磨を失ったことは、国家にとっても国民にとっても大きな損失でした。

ちなみに暗殺犯の菱沼五郎は無期懲役となっていましたが、8年程で特赦で出所し、20年後には自民党から茨城県議に当選し、以降8期連続で務めています。

これの意味するところはなんなのでしょう?

私には理解できませんが、政治はどんな人でも利用するということなのでしょうか?
團琢磨の、少年でアメリカに渡り、大きな世界を自分の目で見てそして勉強し、国家の為にと身を投げうって信念の元に生きたのも人生。

菱沼五郎のように、腐敗した特権階級を暗殺して国家を建て直し皆の暮らしを楽にしたいという信念で暗殺に手を染めたのも人生です。

もっと国家が下層階級に手を施していたら、もしくは、團琢磨自身がもっと正当性を世間に訴えて誤解を解いていればなどと「たられば」になってしまいます。

兎にも角にも、そんな時代を経て、今の日本があるわけですね。

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