有名人の名言

西山弥太郎 川崎製鉄社長が高度経済成長に導いた生い立ちと名言を学ぶ

 

西山弥太郎初代川崎製鉄社長 戦後日本の高度経済成長に導いた生い立ちと名言を学ぶ

西山弥太郎(にしやま やたろう)とは、川崎製鉄の初代社長で、敗戦後の日本に最新鋭の臨海型一貫の製鉄所を作り、高度経済成長に導いた一人です。

当時の日銀総裁を始め、周りの関係者が無謀だと言い、官に盾突く反逆者扱いです。

とうとう通産省の許可を待たずに手持ちの資金で見切り発車し、建設に着手するという、今を逃さない「先見の明」と決断力。

何故かウィキペディアがありませんが、「無謀で熱い男」の名言を通して、生き様や生涯を探ってみました。

川崎製鉄

川崎製鉄とは川崎造船所(現川崎重工業)から戦後の企業再建整備法(第二次世界大戦後に、戦時補償の打切りや在外資産の喪失などによって発生した膨大な損失を整理して、企業を再編・ 整備するために昭和21年につくられた特別法)に基づき昭和25年に分離独立した会社です。

この「分離独立」は西山弥太郎氏が強く主張したものでした。

戦後、占領軍は日本の軍事力の破壊と経済の民主化の為に、財閥および巨大な軍需産業の解体を推し進め、鉄鋼業も分割の指令を受けました。

ですが、川崎重工は造船部門と製鉄部門が分割されずに残れたので胸を撫で下ろしていたのです。

ですが西山弥太郎氏はあえて、分離独立を主張しました。

これからの製鉄業は大きな溶鉱炉を持たなければ発展は出来ないだろう。

だが、大きな溶鉱炉を持つには莫大な費用が必要だ。

造船と一緒では川崎重工の経営が厳しくなるというのが理由です。

それで造船と分離して1950年(昭和25年)8月に川崎鉄工を独立させ、西山弥太郎氏が初代社長に就任しました。

千葉に臨海型一貫工場建設計画

就任わずか3ヶ月後の1950年(昭和25年)11月に、千葉に総工費163億円規模の銑鉄一貫工場建設の計画し通産省に請願書を提出しました。

資本金がわずか5億円しかない会社が、東京湾の一角を埋め立てての工場建設という大胆で思い切った計画で話題を集めました。

資本金5億円の会社が建設費の半分の80億円をも国からの融資(見返り資金)に頼るものであったのですから、話題にもなります。

千葉に製鉄所を造ると発表した時は、当時の日本銀行総裁であった一万田尚登氏が「川崎製鉄がどうしても千葉工場建設を強行するというならば、私はその工場の屋根にペンペン草を生やしてみせる」と言ったといわれています。

政府の財政資金に頼る為に日銀総裁に話を持って行ったのですが、総裁は資本金5億円の会社が行う事業としてはあまりにも大きすぎて無謀だと思いました。

今の日本に大きな製鉄所など作っても、アメリカの方が技術が各段に優れているし、原料も全て安い。

日本が同じことをやっても無理に決まっている。

そう日銀総裁の一万田尚登氏は判断したのです。

屋根にペンペン草が生えても知らないよと言う意味で、「もっと慎重にお考え下さい」と言って西山弥太郎氏を帰しました。

実際にペンペン草の話を西山弥太郎氏に言った訳では無くて、その当時のマスコミが作った言葉のようです。

ですが当時、その計画は戦後初めて大きな溶解炉を作るというものだったので、順序からすると旧日鉄(分割されて八幡と富士)に先に認めるのが筋だとも思ったのです。

それに時期も早すぎると日銀総裁の一万田尚登氏は語っています。

当時の日銀総裁の一万田尚登氏は金融界に「法王」として君臨していた人ですから、意見は絶対です。

西山弥太郎氏の信念

ですが、西山弥太郎氏の信念は揺らぎませんでした。

これだけは、どんな困難や苦しみが待っていたとしてもやりとげなければならないことだ。

この建設工事は川崎製鉄だけの利害関係ではないんだ。

世界の鉄鋼業界に日本が立ち向かうために、どうしてもやらなければならないんだ。

必ずや不況はいつかやって来る。

そんな時に、今のような高いコストで鉄を造っていたら日本の鉄鋼業、ひいては日本産業まで滅びてしまうんだ。

国際競争で勝つためにも、日本が生き残るためにもやらねばならないことなんだ。

千葉に最も近代的な製鉄所を建設しようとする考えは、なにしろ安い鉄をつくるということだけだ。

そしてそれで製品を作り、それを輸出するんだ。

日本は貿易で復活するんだと強く思っていました。

終戦の焼け野原を目にして西山弥太郎氏は日本の復興は製鉄に掛かっていると信じていました。

戦後、川崎重工も経済パージ(公職追放)で上役たちが追放されたため、止む無く最年少の取締役だった西山が急遽経営陣に加えられたのでした。

いわゆる三等重役なのですが、西山はドッジ・デフレ(安定恐慌)の混乱期に川崎製鉄を独立させることができたのです。

初代社長に就任した途端に、技術者経営者の悲願であった銑鉄一貫工場設立を決断強行しました。

これは日本の復興には欠かせない。

この方法が日本の経済を引っ張れると信じました。

西山弥太郎氏は一技術者から日本の経済までも見渡す経営者に変身したのです。
西山弥太郎氏の計画は当初は誰もが「無謀だ」嘲笑しました。

しかし西山弥太郎氏は経営者として必死に説得に回りました。

当時通産省にいて最初に請願書を受けた山地八郎氏(当時、東京通産局長)は、このときのことを語っています。
「最初に請願書を見たときはなにしろ驚きの一言です。

それは私だけでなく皆おなじでした。

何しろ当時の製鉄会社は溶鉱炉が十何本もほとんど遊んでいるような状況でした。

ですから古い設備をうまく活用することの方が当時の貧乏な日本としてはするべき事だと皆が思いました。

ですが、西山さんがいろいろ説得して歩いているうちに、なるほど設備拡充なくては発展はないなということになっていき、通産省としても新しい設備の合理化を積極的に応援するべきだと変わっていったんです」

融資の話は1951(昭和26)年5月に開業したばかりの日本開発銀行へ行きました。

当時日本工業銀行から理事として日本開発銀行に出向していた中山素平氏は、興銀から連れてきた審査部長の竹俣高畝氏に計画を調べさせました。

最初は竹俣氏は「断る理由探すために」計画を調べたのです。

ところが意外なことに、技術顧問の助けで採算性を丹念に計算してみたところ、償却が進んでいる八幡などの高炉三社よりもはるかに安く製造できるではありませんか。

「鉄鋼業の将来を考えれば計画を支援するべきだ」と結論は大きく変わりました。

こうして日本開発銀行の総裁である小林中氏が融資を決定し、メインバンクの第一銀行も引くに引けない状況でそれに乗る形になり、川崎製鉄の千葉の溶鉱炉建設が進みました。

当時は朝鮮動乱で軍需ブームの兆しが見えてきたとは言え、まだ日本の鉄鋼業の将来は不安定な時期ではありました。

千葉での建設工事は着々と進み、1953年に第一高炉の火入れ式が行われました。

ですが第一期工事のあと、引き続き第二高炉を作らねばなりません。

金はいくらでも必要でした。

世界銀行に融資依頼

もはや国内調達だけでは困難だということになり、世界銀行(各国の中央政府または同政府から債務保証を受けた機関に対し融資を行う国際機関で本部はアメリカ)に98億円という当時としては巨額の融資を申し込みました。

まもなく世界銀行から調査団がやってきました。

西山弥太郎氏は自ら作業服を着て一行を千葉製鉄所に案内して、熱っぽくその将来性を説明しました。

ですが世界銀行の調査員は主要取引銀行である第一銀行の意向を聞きました。

当時の第一銀行の頭取である酒井は率直に語りました。
「川崎製鉄の現状は財務諸表から見れば、とうてい世界銀行の融資対象にはならないのかも知れません。

ですが日本は敗戦によりゼロから出発しなければならなかったのです。

川崎製鉄には貸借対照表には記載されない隠れた資産があるのです。

それは西山社長の事業に対する熱意と、社内全員が一丸となって規律正しく働く意欲です。」

と話すと調査員も笑って頷いてくれました。
世界銀行は日銀総裁の一万田氏よりもはるかに積極的に川崎製鉄に応えました。

1956年12月に72億円、1958年に28億8,000万円、1960年に21億6,000万円の借款が成立しました。

これがなければ西山弥太郎氏の千葉製鉄所にかけた夢は途中で挫折したでしょうから運が良かったのかなんなのか。

西山弥太郎氏の語る夢に乗って酔いしれたのかも知れません。

慎重であるべき国内外の銀行家を酔わせて、催眠術にでも掛かけたかのように、金をださせ夢を現実としたのです。

当時「法王」と言われた日銀総裁が「屋根にペンペン草が生える」と言いましたが、法王の話よりも夢を語る男の話の方が勝ったわけです。

高度経済成長へ

 千葉製鉄所の成功は、日本の経営者に大きな勇気を与えました。

大胆な投資計画であって日銀総裁の意向にそぐわないものであっても、必ず銀行はついてくるとそう思わせました。

臨海工場こそが、原材料輸入においても製品輸出においても専用岸壁を持って優位であり、世界最高の生産性を持つと皆が確信しました。

それ以降、日本の経営者は大胆な設備投資をして、世界市場を席巻して行き日本は高度経済成長へと向かいました。

それまで、戦争でアメリカに負けて、何もかもアメリカに勝てるはずがないと思っていた日本は徐々に誇りを取り戻して行きます。

一方で、アメリカの製鉄業は日本企業に敗退していきました。

川崎製鉄の一貫生産への参入は他社にも強い刺激になりました。

川崎製鉄の成功に続いて、住友金属が小規模高炉メーカーであった小倉製鉄を合併して銑鉄生産に参入したり、神戸製鋼も小規模高炉メーカー尼崎製鉄に資本参加して一貫化へと向かいました。

さらに住友金属は1955年、神戸製鋼は1957年にそれぞれ臨海型の新鋭製鉄建設計画を発表ました。

戦後占領軍によってもたらされた経済人パージで経営陣が入れ替えられた川崎重工の状況は、西山弥太郎氏の運命を大きく変えました。

一技術者であつた西山弥太郎氏が、最年少の重役として川崎重工の再興経営者の一人となり、大きなチャンスを手に入れました。

そして「日本の復興のために」という信念の赴くまま、大胆に計画し成功していきました。

西山弥太郎氏の千葉工場建設の成功は、その後の日本でのあらゆる産業の意思決定にも影響していき、その勢いに乗っていきました。

なぜかウィキペディアに存在していませんが、正に、日本を高度経済成長に導いた一人と言える存在であったのです。

西山弥太郎の生い立ち

知られざる経営者 西山弥太郎

1893年神奈川県二宮町に生まれました。

1913年 第一高等学校に入学

1917年 東京帝国大学工学部採鉱治金学科卒業

鉄を研究し、「The Design of the Steel Melting Shops for the Kawasaki Ship-building Yards(川崎造船所製鋼工場計画)」という英語の卒業論文を執筆し、製鉄のコストと質の関係について論じています。

この時から西山弥太郎氏が製鉄のコストに関して考えていたようです。

1917年 川崎造船所に入社

製鉄工場に配属

1941年 川崎重工の取締役就任

1950年 川崎製鉄発足 社長就任

1966年 会長に就任後まもなく逝去

西山弥太郎の名言

催眠術にでもかけたかのように西山弥太郎氏の言葉に皆がついて行きましたから、言葉に説得力があったのです。

・「これから日本人は、『故郷のあるユダヤ人』を目指したらいいと思う」

戦後の焼け野原の神戸で後輩に言った言葉です。

ユダヤ人は歴史ある民族で、頭が良く商才に長けているとされていますが、故郷を追われ離散していました。

日本人も民族としての歴史が古く、頭も良く商才もあります。

そして幸いな事に、戦争に負けながらも国を追われなかったので、ユダヤ人のように知恵を使って商才を発揮して復活を遂げようと考えました。

・「これからの日本で復興を果たすには、貿易立国しかない。何を売ればいいのか?それは鉄だ。迷うことなく製鉄業の立て直しに全力で邁進しなければならない」

・「我々は川崎重工の伝統である「誠実と敢闘」の精神にのっとって、来るべき難局を乗り越え、社運の発展を掛けての覚悟を新たにしなければならない」

川崎造船と分離して川崎製鉄が独立したときの西山弥太郎氏が社員に向けてはなった言葉です。

・「日本一の男になれ」
西山弥太郎氏が亡くなる直前に息子に残した言葉です。

・「日本経済の将来に関しては、私は信仰のようなものを持っています。今後ますます発展するに違いないと信じて疑わないのです。それは確信などとではありません、すでに信仰の域に到達しているのです」

西山弥太郎氏が川崎製鉄の社長に就任したころの話です。

その後すぐに川崎製鉄の千葉の建設計画の発表となり世間を驚かせました。

西山弥太郎まとめ

西山弥太郎氏の人生は時代が味方になって、戦後の経済パージで思わぬ形で川崎重工の役員となり、分離を主張し川崎製鉄の社長となりました。

時代は、戦後の復興のパワーを求めていました。

まるで宗教の教祖のように、人々を虜にして戦後の経済を盛り上げ高度経済成長に導いた人です。

運が良かったと言えばそれまでですが、もちろん周りの人の支えあってこそですから愛された経営者だったようです。

最初は突拍子も無いと相手にされないことでも、信念を貫き人々を説得して回り、催眠術に掛かったように従って行ったのは、その時代はそういう人を誰もが求めていたのです。

その製鉄業界も、バブル崩壊に金融危機そして阪神・淡路大震災、それにデフレ不況と続き、日本の経済は一変しなんとか合併で生き残りを模索していますが厳しい状況です。

西山弥太郎氏はいつも世界を見つめ時代を見ている人でしたが、その後に西山弥太郎氏のような人は現れていません。

今の時代、多くの人が将来に大きな不安を感じて生きています。それは西山弥太郎氏のように先を示してくれる人がいないからなのかも知れません。

逆にいうと、カリスマのパワーに従う生き方が以前は出来ていました。しかし、これからは自分で考えて誰とともに生きていくのかを考える時代ということなのだと思います。

先人の生き方に学びながらも、今の時代に合わせた生き方を考えていきたいですね。

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