有名人の名言

旭酒造桜井博志の獺祭の意外すぎる作り方をプロフィールと名言から学ぶ

旭酒造の社長である桜井博志が獺祭を作ることが出来た理由は、杜氏に逃げられたからと言います。

しかし、桜井博志の経歴、プロフィールや名言からは、信念があったからこそ獺祭が出来たんだということが分かります。

獺祭は今や世界で飲まれる日本酒として人気のブランドで、ニューヨークにも酒蔵を建てました。

父親にクビを宣告され、後に父親の急逝により継いだ酒蔵では、杜氏に逃げられて、酒造りのピンチに遭遇。ピンチは全て、将来の大きな成功を掴むために欠かせないものでした。

一時は廃業寸前まで追い込まれましたが、杜氏制度を止めてITを駆使してデータ化に成功し、年間通しての酒造りを可能にして「美味い酒」にこだわり続け今があります。

酒蔵の三代目として家業を継いでから30年。売上げを40倍に伸ばし、海外進出にも成功した桜井博志氏。

ピンチがあったからこそチャンスを掴めたと桜井博志氏は述べています。経歴や名言からピンチをどうやってチャンスに変えて行ったのかを紹介します。

桜井博志の経歴 プロフィール

superceo「獺祭」桜井博志氏

1950年山口県周東町(現在の岩国市)で旭酒造の三代目として生まれました。

幼いころより酒蔵が遊び場でした。

松山商科大学(現在の松山大学)を卒業後、西宮酒造(現在の日本盛)で修業してから、実家の旭酒造に入ります。

ですが、ある日「お前は明日から出社するには及ばない」と父に言われます。

つまりクビですね。

東京の大手酒メーカーで学んできたという自負があって、父のやっている田舎の酒蔵の経営方法は、このままではダメだと思いました。

父親からすれば「酒造りはそんなに甘いものでは無い」と思えたのでしょうと桜井博志氏は語っています。

少し、大手のメーカーを覗いてきたぐらいで、父親を批判するような態度は、従業員の手前もありますから、「出て行け」と父親が怒るのも当然だったのかも知れません。

それでやむなく、酒造りの業界から離れて「桜井商事」という石材卸業の会社を設立して、年商2億円の会社にすることが出来ました。

桜井博志 旭酒造三代目継承

しかし、そこで父親が急逝して旭酒造を継ぐことになったのです。

でも、戻った当初はなにしろ父親にクビになったところに帰ってきたわけですから、周りに自分を認めさせることしか頭にありませんでした。

でも、そのころは空前の「焼酎ブーム」が到来していて、日本酒の売上げは下降線を辿る一方。

桜井博志氏が社長として旭酒造に戻って来た当初は、杜氏の質も悪く酒の出来も悪かったのです。

しかし、3年目ぐらいから腕の良い但馬杜氏(兵庫県北部)が来てくれることになり売上げも1億を切っていたのが2億にまで回復しました。

「なんとかなりそう」と思ったのですが、杜氏の高齢化に気付いてこのままだと無理だと感じました。

杜氏とは酒造りの冬の時期だけ酒蔵に来て酒造りを行ってくれる集団で、酒蔵もその時期だけ賃金を払えばよいので都合が良いのでした。

でも、腕の良い杜氏はみんな60歳を超しています。

季節だけの労働ですので若い後継者が育ちません。

そんな折、売上げが回復してきたこともあって、日本酒は冬に仕込みますが、夏にでも出来る仕事として「地ビール」を作ってレストランまで開いたのですが、それが大外れ。

桜井博志氏は「美味しい大吟醸酒」が作りたいと思いましたが、杜氏は普通のお酒をたくさん作る方がいいと言い、溝が出来ていたこともありました。

杜氏に逃げられたから「獺祭」が出来た。

地ビール事業の失敗と、酒造りの意見の違いにより杜氏が出て行ってしまいました。

それで、杜氏制度をやめて社員で酒造りをすることにしました。

酒は酵母と麹菌が作るのですが、杜氏がいたころは杜氏の長年の勘に頼るしかありませんでした。

社員が酒を造ることになったのですから、もう教科書通りにやってみるしかありませんでした。

酒造りに最適な環境を作って挑戦してみたら、杜氏に頼っていたころより美味しい酒を造ることに成功したのです。

それで、0.1度単位で温度と湿度の管理が出来る工場を作り、夏でも酒造りが出来るようにして、徹底的にデータ化していきました。

農林水産省によると日本酒全体の消費量はこの20年で半減しています。

1975年がピークで170万リットルを超えていましたが、2010年以降は60万リットルを割り込んでいます。

ですが、普通酒は減っているものの、実は特定名称酒は2010年以降増えているのです。

つまりニーズが量より質に変わっているということです。

そこで、桜井博志氏はそれまでメインで作っていた「旭富士」という安酒を止めて、美味しい純米吟醸酒だけをつくる方に方向転換します。

その為に、今までパソコンにデータを蓄積して分析した美味しい酒造りのための数値を使いました。

杜氏はもういないわけですから、蓄積したデータに頼るしかありませんでした。

そうやって年間通しての酒造りを可能にして、年間120億円の売上げにまで増やすことができました。

これは、地元の消費だけに頼らず、東京の市場を積極的に開拓したことも大きく、きちんとブランドとして認めて売ってくれる酒屋のみに販売するという戦略も良かった、と桜井博志氏は言っています。

今では、海外で売上げる日本酒の10%を「獺祭」が占めています。

世界的シェフのジョエル・ロブションから共同店舗への声掛けがあったことも、世界一有名な日本酒になった大きな要因です。

桜井博志の名言

・酔うための酒 売るための酒ではなくて、 味わうための酒を求めて

・流通業界にこちらの方からお願いしたり、宣伝なども一切したことはありません。ただ、良いお酒を作って旨さの分かるお客さんに喜んで飲んでいただく、ただそれだけでやってきました。ただ美味しい酒を作るという自分の努力以外に一切依存したくはないと思っております。

・よりよいものを作るには、今まで自分がやってきたことを「今のままではダメだ」と否定しなければいけません。否定しなければ進歩しないわけです。一番良いと思うのは、経験があって、なおかつ変わっていこうとする力がある人のことです。

・真心やましてや大和魂だけでは酒はうまくなりません。

・成長の理由は「杜氏がいなかったから」です。もし杜氏が「給料もらえなくてもやる」と言って残っていたらここまで成長できはしなかった。

・業界が低迷し揺れ動いていたからここまで成長することができた。業界が安定していたら今は無いと思います。

桜井博志まとめ

桜井博志氏は酒造りに関して、「料理の相性」とかは一切考えない人です。

なにしろ「美味しいお酒」それだけにこだわって作っています。

量より質に消費者が変わっていったことに気付いたことも大きかったと思います。

メーカーは安い酒を主流にして、酒が「不味い」となってしまい若い人を中心に酒離れを招いていました。

また、「日本酒好き」の女性が、女性のためにと作られたような酒を飲みたいと思うか?という桜井博志氏の分析も的を得ているように思います。

世の中は今、女性のターゲットを獲得することに躍起になっていますが、その為にはどのようなものを求められているのかを分析することが大事です。

旭酒造は山口県にあり、決して日本酒の名産地ではありませんが、それが今日本酒を世界に認めさせて、ニューヨークに酒蔵まで作ってしまった。

そして、そこで作られる日本酒は、日本で作る日本酒より美味しいものにしたいと意気込んでいます。

本当に良いものを作り上げていく方法は、いろいろあるものだと参考になりますね。

一番大事だったのは、「美味しい日本酒の味が解る」ことだけだったのかも知れません。

自分の信じるものを追い求めた結果、世界も認めてくれるものが作れたのです。

ネットビジネスでも大事なのは、とりあえず実践してみてデータを蓄積し分析して、改善して、本当に良いものを作り上げていくことですね。

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