有名人の名言

久原房之助の名言と生い立ち!日産、日立、財閥総帥の公害と二・二六事件

久原房之助(くはら ふさのすけ)明治から昭和にかけて活躍した実業家でもあり政治家で、日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所や久原財閥の総帥で「鉱山王」と言われた人です。

久原房之助の名前は、この時代に活躍した政財界の人たちの話によく出てくる名前なので、どんな人物だったのか調べてみました。

日立鉱山で煙害に苦しむ地元の人たちと共存できるように「大煙突」を建てて解決したという功績と、後に「政界の黒幕として、二・二六事件に深く関与した」という正反対の闇の側面とがあるのです。

これはどういうことなのか?功績と闇を名言から紐解いてみました。

久原房之助の名言

・人間は一度へこたれたら、それでもうおしまいだ。へこたれるということは、自分の心が決めることで、他人の決めることではない。誰がなんと言おうが、自分の心がへこたれなければ、へこたれたことにはならない。

・自分の開くこの鉱山とその付近一帯の地に、浮世の荒波から忘れられた一つの桃源郷を造り出そう。そこには労資の相克とか、事業と地方の対立とか云ったものの全く見られない、全てが混然一体となった楽天地を想像しようというものである。ほほえましい夢と見る人もあろう。愚の類と考えるものもあろう。崇高な心構えと嘆ずる人もあろうが、果たして如何にこの夢は具現化したのか。(日立鉱山史より)

日立鉱山の取り組むときの久原房之助の夢です。

・「公害問題は常に新しい。それは、人類に背負わされた永遠の十字架にも似ている。科学の発達につれて、公害もますます多角化していく。
これを食い止めようと、いかに多くの人々が、血のにじむ努力と苦悩を積み重ねてきたことか。しかし、此の努力が人類の進歩をもたらす原動力となっていることを考えると、公害の問題は、むしろ、われわれに対して「克己」ということを教えてくれているとも言えよう。
日立鉱山についても同様のことが言える。煙害問題なしに鉱山の歴史は語れない。大正3年12月、当時、世界最大と言われた煙突を、日立鉱山が独自に完成して、此の問題に終止符を打つことができたのであるが、これは凡そ10年に亙る歳月、地域住民と共に苦しみ、悩み、そして自らの手で解決し得た貴重な経験であった。富士山が、ただ高いのではないと同様、日立鉱山の煙突も、ただ高いだけではないのである。」
「日立鉱山煙害問題昔話」(関右馬允著、1963年)に寄せた久原房之助の巻頭言より

久原房之助の生涯

ウィキペディア 久原房之助

1869年7月12日(明治2年)~1965年1月29日(昭和40年)

長州・萩城下の唐樋町(現在の山口県萩市)に父である久原庄三郎の四男として生まれました。

幼名は房三郎。四男なのに房三郎という名は次男がすでに亡くなっていたので房三郎と名付けられました。

後に改名しています。

兄は日本水産の母体を作った田村市郎で、叔父に藤田財閥を創った藤田伝三郎がいます。

父の庄三郎は今魚店町で酒造業を失敗し、唐樋町に移りそこでも酒造業を営むが成功せず、熊谷町に移り今度は醤油醸造業に転業するがそれも失敗に終わった。

そこで父の庄三郎は萩市に見切りを付けて、単身で実弟である藤田伝三郎を頼って大阪に出ました。

その頃、藤田伝三郎は軍靴の製造で成功していました。

庄三郎は藤田伝三郎とともに「藤田組」を興します。

この藤田組は明治10年の西南戦争で官軍に軍事資材を納品したり、人夫を斡旋したりして莫大な利益を稼ぎました。

戦後にコレラが発生するだろうと見越して「石炭酸」(消毒剤に用いる)を買い占め、その後コレラの発生で巨利を得て、「藤田伝三郎商社」を設立しました。

庄三郎は明治12年に萩に残っていた久原房之助や家族を呼び寄せ、大阪での家族の暮らしが始まりました。

久原房之助氏はその後、明治14年に上京して商法講習所(東京商業学校/一橋大学)に入学し明治18年に卒業。

一年各地を旅行して見聞を広め、明治19年に慶應義塾大学予科2番へ入学し、明治22年に慶応義塾大学を卒業しています。

森村組入社

大学在学中に福沢諭吉や森村市左衛門の貿易立国論の講義を聴いて、海外との貿易の仕事がしたいと森村市左衛門の森村組に入社したいと考えました。

父の庄三郎はこのころ藤田伝三郎と共に関西経済界に名をはせるほどに成功を収めていました。

久原房之助氏は父の庄三郎に、森村組に入社しようと考えていると相談しましたが、庄三郎は森村市右衛門とは面識が無かったので、懇意にしている山陽鉄道社長の牛場卓蔵を通じて入社の打診を頼みました。

ですが、森村市左衛門の方から「金持ちの子供は役に立たないのでいりません」と断られてしまいます。

庄三郎は貿易商なら他でも良いのではと、久原房之助を説得しましたが、応じないので好きにさせました。

久原房之助は入社を断られて残念に思い、しばらくは遊んでいましたが、東京で断られたのなら、神戸の森村組に行くまでだと神戸に向かいました。

直接、神戸の森村組に行き入社を直訴しましたが、東京の本店で断った者を、こちらで採用するわけにはいかないと断られます。

それでも何度も懇願しに行きました。

最後には神戸支店長も手を焼き、森村市右衛門を説得してくれて、森村市右衛門が黙認という形で入社が可能となりました。

最初は倉庫係です。

久原房之助はすくに頭角を現します。

業務改善を積極的に提案し、すぐに支店長の相談役にまでなり、1年後にはニューヨーク勤務に異例の抜擢となりました。

ですが、久原房之介氏は出航の前々日になって渡米中止を告げられます。

その頃、藤田組の経営は傾き始めていました。

井上馨の口利きで毛利家から巨額の借り入れをしてなんとか持ちこたえていたのですが、その井上馨が激怒しているというのです。

藤田家を助けないで、森村組で働いてニューヨークに行くとは何事だというのです。

このままニューヨークに行くと藤田家の浮沈に関わるから渡米は中止にしろと言われました。

ここまで来ると久原房之介も従うしかありません。

森村市左衛門の許しを得て、藤田組に移籍することになりました。

ニューヨークでの活躍を目前にして、一転、秋田県の田舎の山奥である小坂鉱山への赴任となりました。

小坂鉱山での活躍

藤田組に移り、小坂鉱山では現場作業から始まり、明治30年には現業課長になっていました。

ですが、銀の生産量も減少した上、人件費の高騰、さらに銀の価格も低下していたので、経営危機を迎えていました。

藤田組が持っていた他の鉱山も経営難で、毛利家からの融資で繋いでいましたが、毛利家の監督下に置かれ、閉山をはじめ再建案を突き付けられていました。

このような状況で、小坂鉱山も閉山か売却かという時に久原房之介は小坂鉱山に眠っている「黒鉱」(くろこう)に着目していました。

黒鉱の存在は以前から解っていたのですが、黒鉱に含まれる金・銀・銅などを分離するのに大量の燃料がかかり、コストが係るので見捨てられていました。

実は、世界では「自熔製錬法」というものが開発されていたのですが、違う目的であったため黒鉱には利用されたことがありませんでした。

自熔製錬法とは、鉱物自身に含まれる鉄と硫黄を利用して燃焼させる方法で、燃料をほとんど利用しなくて済む画期的な方法です。

その方法を研究開発して実用出来れば、この山を残せる。

久原房之助は、小坂鉱山の事業整理を命じられていましたが、ひたすら研究開発に励みました。

そんな中、明治33年に井上馨の仲介により鮎川清子と婚姻しています。

余談ですが、すでに交際していた女性がいて妊娠していましたが、井上馨の仲介を断れなかったとの事。久原房之助は「英雄色を好む」で生涯2回の結婚で妾の子供を含めると合計13人の子供がいます。

何度も炉を潰して試行錯誤の結果、自熔製錬法の開発が成功して、井上馨に事業整理の対象から外してもらうように願い出て、小坂鉱山を自由にやっても良いとの許しを得ました。

明治36年新製錬所が完成して、小坂鉱山の銅の産出が出来るようになりました。

当時、銅の価格は上昇の一途を辿っていたので、この方法は他の鉱山で採用されて莫大な利益を上げて経営難の藤田組を建て直しました。

これにより、足尾銅山に次ぐ規模にまで成長し、毛利家の監督からも外れることができました。

この功績は久原房之助氏によるところです。

藤田家から離脱

ですが、明治37年に久原房之助氏は藤田組の本社に呼び戻され、小坂鉱山を後にします。

藤田伝三郎は、このまま久原房之助氏が小坂鉱山に残ると、巨万の富を産んでいる小坂鉱山を私物化するのではと恐れたのです。

藤田伝三郎は後継者も自分の家系からと望んでいました。

久原房之助氏の父の庄三郎は能力のあるものが継ぐべきと反対意見でした。

久原房之助も同じ意見です。

それで、藤田組から出る決心をし、藤田伝三郎から財産分与として500万円を10年分割で受け取ることになりました。

日立鉱山

久原房之助はその後、茨城県多賀郡日立村の赤沢銅山を42万円で購入しています。

山の買収と運転資金は井上馨の口利きで、10年分割で受け取る500万円を担保に入れて、銀行から借り入れる事が出来ました。

明治38年「日立鉱山」と改称して、明治39年に第一堅坑の開削が始まりました。

ここに後に日立製作所を創った小平浪平が登場してきます。

小平浪平は小坂鉱山から久原房之助氏を慕って来てくれていました。

日立鉱山の電力・機械・土木関係を全部引き受けてくれました。

そして電力の需要の増大を見込んで「石岡第一発電所」の建設を提案します。

機械の修理も手掛ける一方で、国産初の発電機の開発にも成功していました。

そこで、小平浪平は日立鉱山の修理工場を独立させて、機械製造業への進出も久原房之助氏に提案したのです。

この時、久原房之助氏は、時期尚早だと認めなかったのですが、小平浪平は一存で工場建設費を修理費用と計上して工場を建設してから久原房之助氏に報告したのです。

もちろん久原房之助氏は最初は激怒しますが、小平浪平の熱意に打たれ事後承諾して、日立鉱山の利益の一部を裂きました。

これが日立製作所となったわけです。

最初は、久原鉱業所の子会社として始まりましたが、大正9年には完全に独立しました。

日立大煙突

久原房之助氏は、日立鉱山の成功により、静岡の峰之沢鉱山や、徳島の東山鉱山、それに岩手の六黒見鉱山を買収、明治43年には日立銀行の開業にまで発展しました。

日立鉱山は銅の産出量が足尾銅山に次ぐ量で、銅の高騰もあって業績は順調でした。

しかしながらその一方で、公害問題が発生していたのです。

足尾銅山の鉱毒事件でもそうですが、鉱山と公害は切り離せない問題でした。

久原房之助氏はこの問題を真摯に受け止め取り組んでいましたが、日立鉱山の煙害の被害は4町12村に及んでいました。

政府の命もあり、学者の意見も色々と採用したのですが、大正3年には煙害の保証額は30万円にまで膨らみ、更に解決のめどは立ちませんでした。

政府の命令で作った低い煙突がさらに被害を拡大させていました。

そんな時に久原房之助氏は、富士山のように硫黄を吹き出す火山の煙は上昇気流に乗せて運ぶことを思いついたのです。

高い大煙突を造ればいいんだ。これが成功すれば日本鉱業会のためにもなるから失敗しても悔いは無いと社内を説得しました。

そして、作らせてくれれば責任は持つと、政府を説得して大正3年に建設に着手しました。

アメリカに506フィートの世界最大の煙突があるので、日立の大煙突はそれより5フィート足して511フィートにするとして、大正4年、建設費15万2000円(現在のお金の価値にすると500倍というので約7億6000万円ぐらいでしょうか)という巨額を投じた大煙突が完成しました。

その大煙突によって完全に公害が亡くなった訳ではありませんでしたが、大きな成果を上げました。

日立鉱山の大躍進のきっかけにもなりました。

大煙突建設中に第一次世界大戦が勃発し、戦争により需要拡大によって業績は益々上がりました。

久原商事の破綻

第一次世界大戦は予想よりも早く終結しました。

久原房之助氏は、戦争が終わると経済が大きく変わる事を理解していて、終戦の時期を掴もうと手を回してはいたのです。

パリ支店主任として赴任する倉林賢造に終戦の兆候があれば「プラチナ高い」という暗号の電報を送るように命じていました。

倉林賢造は4ヶ月前にその「プラチナ高い」という電報を送っていたのですが、あろうことかこの電報を受け取った新入社員が、事の重大性に気付かず、上司への報告もしないで放置してしまったのです。

それにより久原房之助氏は、終戦の知らせを視察に出ていたハワイで知ることになり、戦後不況をまともに受け、倒産に追い込まれる事になったのです。

久原商事は株式会社でしたから、一応未払いになっている資本金750万円のうち、自分の持ち分である4分の1を振り込めば法的な責任は無くなります。

側近は資本金を払い込んで、久原商事を倒産させることが一番の得策だと主張しますが、久原房之助氏はそれでは銀行が困るだろうと負債額を計算させました。

久原商事の経理担当者は3000万円と報告してきたので、その金額ならなんとかなると思い、個人保証を引き受けるのです。

ですが、後から実際の負債額は8000万円だと判明します。

その金額は今の金額に換算すると数百兆円に相当するようなものです。

ですが、このまま倒産させると銀行はもちろんの事、社会経済にまでその影響は計り知れません。

日銀総裁の井上準之助の説得もあって個人での保証に踏み切りました。

こうして、久原房之助は久原商事を整理業務として残して、久原商事部を設立し、破綻した久原商事の営業部門を引き継ぎました。

久原商事の破綻債務は、金利だけでも大変な額になり長いこと久原房之助を苦しめました。

政界進出と二・二六事件

昭和2年に当時の総理大臣であった若槻禮次郎が「昭和金融恐慌」の責任をとって辞任します。

昭和金融恐慌とは、東京渡辺銀行が破綻してもいないのに、大蔵大臣の片岡直温が「とうとう東京渡辺銀行が破綻した」と発言したことにより、全国の銀行の窓口に人が殺到して、現金をおろす騒ぎになったことです。

その後の総理大臣に、山口出身の久原房之助氏の支援を受けて政界へと進出した、田中義一が就任しました。

久原房之助氏は明治2年、帝国政府特派海外経済調査委員を命じられ、ドイツ・ソ連と訪問し、スターリンとの会談もしています。

帰国後、田中義一の要請で政界入りをすることになります。

久原房之助氏は、巨額の負債を抱えていた久原鉱山を、義理の兄である鮎川義介に無理やり任せ財界から引退します。

鮎川義介は、渋々ながら久原鉱山を任され、久原鉱山を「日本産業株式会社」と改称して、鉱山部門を「日本鉱山」として独立させ、純粋な持ち株会社に移行し株式を公開します。

これが日産コンツェルンの始まりです。

久原房之助氏は、山口県一区で立憲政友会から出馬し、当選を果たし逓信大臣に就任します。

軍部の台頭

その後、昭和3年6月に中国で張作霖爆殺事件が発生し、犯人は関東軍の参謀であつた河本大作だとなって政治問題にまで発展します。

総理大臣であった田中義一は昭和天皇より説明を求められ、当初は「その者が本当に事件に関与しているのであれば法に照らして厳格に処置します」と答えます。

ですが、その事件を隠蔽しようとする軍部と、問題を追及する野党の間に挟まれ、軍法会議にすらかけずに、河本大作を退役処分にするのみで幕を下ろしてしまったのです。

この件で、昭和天皇の侍従長から「天皇が不信感を抱いておられる」と聞いた田中義一は、恐縮して内閣総辞職にしたことで久原房之助氏も逓信大臣を辞任しました。

田中義一は総辞職の2ヶ月後狭心症で急逝します。

昭和天皇はこの件で責任を感じ、これ以降一切政治に関しての意見を述べることは止めたのです。

この、田中義一が曖昧にして河本大作を軍法会議にもかけず退役処分にしたことで、軍部の台頭を許してしまう結果を招いたのです。

二・二六事件

久原房之助氏は、逓信大臣を辞任しましたが、久原房之助氏の財力を目当てに常に人が集まりました。

すでに久原派が出来ていて、立憲政友会では確たる位置を確保していました。

田中義一の死後、犬養毅を擁立し、立憲政友会の総裁に就任させ、久原房之助氏は幹事長に就任しました。

犬養毅を擁立したのは党の分裂を避ける為だけで、久原房之助氏は犬養毅に対しては常に批判的に意見を言い、犬養毅内閣が誕生し入閣を要請されても意見が合わないとして断っていました。

その後、幹事長も辞任しますが、各派閥との連携もあり立憲政友会の中でも存在を強めていたのです。

そんな時に起きたのが二・二六事件です。

二・二六事件とは、皇道派の影響を受けた陸軍の青年将校らが、1483名の下士官兵を率いて起こした、日本のクーデター未遂事件です。

武力を持って元老重臣を殺害すれば、「昭和維新」として天皇親政が実現し、腐敗した政財界を一掃して、農村の困窮なども終息すると考えたのでした。

ですが、これを昭和天皇は拒否し、天皇の意を汲んだ陸軍は彼らを反乱軍として武力鎮圧したのです。

この事件の翌日、この事件に関わっていた亀川哲也という人間が久原房之助氏の自宅に逃げ込んできました。

久原房之助氏は立憲政友会の幹部でしたから、軍部の情報を得るために金をばらまいて、右翼関係者や軍の関係者が大勢屋敷に出入りしていました。

亀川哲也も情報を提供して金を受け取っていた人の一人で、久原房之助氏はクーデターの情報も早くから掴んでいたのでした。

また久原房之助氏は二・二六事件の直前に亀川哲也に5000円もの大金を渡していたのです。

今のお金に換算すると、千数百万にもなる金額です。

逃げ込んできた亀川哲也に、久原房之助氏は出て行くように頼みますが、数日居座られ、その後、逃げ出し数週間後に逮捕されました。

二・二六事件の直接の関係者として、有罪となり終身刑の判決がおりています。

久原房之助氏も氾濫幇助の容疑で逮捕され、東京陸軍の軍法会議に掛けられます。

久原房之助氏が亀川哲也に渡した5000円が、事件の資金に使われ、久原房之助氏は黒幕と見られたのです。

久原房之助氏は生活費として金を渡しただけだと主張し、亀川哲也も生活費として受け取ったと主張したので、昭和11年に不起訴となりました。

ですが、今度は犯人隠匿罪で東京地裁地検部へ送検されました。

こちらも昭和13年に無罪判決を受けます。

久原房之助氏は本当に白だったのかというと、実はそうでも無いようです。

いずれの裁判でも陰の力が働いたと言われ、陸軍大臣や司法大臣の名が挙がっていました。

これにより久原房之助氏は国会議員の身分を失い、そうなると今度は借金の取り立てが一気に来るようになりました。

巨額の借金ですので、鮎川義介や藤田政輔などの一族も奔走して、昭和13年にはなんとか和議が成立したのですが、久原房之助氏は借金を負けてくれとは一言も言わず、必ず払うと言い、支払いを20年先へと先送りしました。

和議が成立したときに、久原房之助氏は79歳だったのですが、本当に20年後に私財を処分して返済に充てられているようです。

戦後の久原房之助

戦後は、GHQにより第二次戦争犯罪人として指名されました。

陸軍出身の田中義一や荒木貞夫を支援していたり、二・二六事件に関与していたので戦争犯罪人に指定されたのです。

この容疑は、中国の革命家である孫文に多額の支援をしていたことで戦争犯罪人の汚名からは解除されました。

孫文に貸したお金は戻りませんでしたが、こんな形で命拾いするとはと、久原房之助氏も驚きを隠せませんでした。

孫文を支援したことから、その後毛沢東との会談も実現しています。

政治活動もその後続けていましたが、昭和39年体調不良を訴え、翌40年1月29日に逝去しました。

享年97歳の人生でした。

久原房之助まとめ

「日立鉱山大煙突を建てた人」が後に「政界の黒幕として、二・二六事件に深く関与した」という2つの事が相反しているように思われたのですが、久原房之助氏の事を調べて行くと、「弱者の見方」をする人なのだということが解りました。

公害問題も本当に解決して、地元の人と鉱山の産業を発展させ、共存していきたかったのです。

二・二六事件も、腐りきった政財界を本当に嫌ってどうにかしたいという想いだったのではないでしょうか。

巨額の借金を背負っても、それに負けてしまう事はありませんでした。

本当の強さを持っていた人なのかもしれません。

この久原房之助氏も「英雄色を好む」で女性に大層モテたようですが、これだけ豪快な人ならば、女性がほおっておくはずがありませんからモテても当然でしょう。

女性にだらしないというよりも、なにかあった女性を見過ごせない人なんだと勝手に英雄視してしまいます。

久原房之助氏の人生97年は、なんと濃い人生なのかと少し羨ましくもあります。

名言の中に「へこたれるということは、自分の心が決めることで、他人の決めることではない。誰がなんと言おうが、自分の心がへこたれなければ、へこたれたことにはならない。」という言葉がありますが、この言葉が気に入りました。

心に傷なんかつかない。ということですね。

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