有名人の名言

オプト鉢嶺登の経歴と運命を劇的に変えた日本電産社長永守重信の名言

オプトホールディングの鉢嶺登社長は、26歳で起業してダイレクトマーケティング業の株式会社オプトを設立した経歴のある人です。

上場させるという大きな目標を達成出来た後、自分の目標を見失い大きな業務提携をしますが、業務提携が間違いであったと気づきます。

自分の目標を見失い、迷路にはまった鉢嶺登氏を救ってくれたのが、日本電産の永守重信氏の言葉でした。

起業のきっかけになった体験や、迷いから救い出してくれた日本電産の永守重信氏の名言など、大きな成功を掴むための運命を劇的に変えた出会いと出来事を調べてみました。

鉢嶺登が起業を決意したある出会い

友人たちとエジプトのナイルを旅行した際に遭遇したある出来事で、起業の決心を固めたと言っています。遊覧船でナイル川の遺跡を回るツアーに参加したときのことです。

ある港に着くと、現地の人が手作りのテーブルクロスとかTシャツとかをビニール袋に入れて甲板に投げ入れてくるのです。

気に入ったものがあったら中身を取って、そのビニールの袋にお金を入れて投げ返すというわけです。

そこで鉢嶺登氏もお土産にしようとTシャツを買う事にしてビニール袋に千円札を入れて投げ返しました。

そのTシャツを売っていたのは少年で、鉢嶺登氏が入れた千円札を太陽にかざした後、片膝をついて拝み始めたのです。

物売りをしている人たちがいつも売れてお金が手に入るわけではありません。

その少年は売れたことで家族のお腹を満たせることを神に感謝していたのでしょう。

その光景を見た鉢嶺登氏は気付いたのです。

エジプトに生まれた彼らは、栄光の歴史がありながらも今は川で洗濯をし、子供が土産物を売るような生活を強いられている。

一方で日本人に生まれた自分は、仕事で成功した訳でも金持ちな訳でもないのにこうやって海外旅行をすることができる。

この違いはなんなのか?

それは、今の経済大国を作ってくれた先人の恩恵にあずかっているのだと気づいたのです。日本も戦後は貧しく苦しい時期もありました。

でも偉大な先人たちの苦労と努力のお蔭で、自分達は豊な生活を送れることが出来ている。

でも、今自分達がそれに甘えるだけで何もしなかったらいつかはこの繁栄も衰退してエジプトの子供たちのように自分の子供たちも苦労させてしまう。

自分たちも努力してこの繁栄を維持させなければならないのだ。

この使命感が鉢嶺登氏を起業へと奮い立たせてくれました。

今まで、起業したいという思いはありましたが、もし失敗したら「身ぐるみ剥がれて寒空に放り出させる」のではという恐怖心があって躊躇していました。

でもこの体験で、失敗したって日本にいれば食うのにはこまらない。なんとかなる。

そんな思いで起業した鉢嶺登氏に訪れたのは、苦難と成長の大変化の連続でした。

鉢嶺登氏はその苦難と成長の大変化をどう乗り越えたのかを調べてみました。

鉢嶺登の経歴

facebook オプトホールディング 鉢嶺登 プロフィール

1967年千葉県で生まれました。

中学生の時から戦国武将に憧れて、自分も「生まれてきたからには何かを成し遂げたい」と思っていました。

経営者、政治家、教師の選択肢は3つでした。

その中で、経営者になることが一番面白そうだったのでそのころから会社をいつかは経営したいとは思っていたのです。

早稲田大学商学部を卒業後に、3年間だけよそで修業しようと森ビルに就職しました。

森ビルに入社してからの、友人とのエジプト旅行での体験で起業の決心は確かなものになり3年後に起業します。

鉢嶺登オプト設立とダイレクトマーケティング

1994年に株式会社オプト設立。

起業して最初の事業はFAXを使ったダイレクトメールです。

欧米ではすでにダイレクトマーケティングの市場がマスメディアのマーケティングを超えていたのです。

テレビや新聞などのマスメディアの広告は、見る人を選べません。

その広告内容を必要としない人にも目に入るものです。

ですが、標的を絞ったダイレクトマーケティングは広告の効果があがります。

それですでに郵送によるダイレクトメールは始まっていたのですが、まだFAXを使ってのダイレクトメールは無かったのです。

FAXは単なる送信機器としての認識しか世の中には無かったのです。

鉢嶺登氏は森ビルにいた時代に、都内は主要5区と呼ばれる港区・中央区・千代田区・渋谷区・新宿区にオフィスが集中していることも分かっていました。

ですから、その地区にFAXでダイレクトメールを送れば効果があると思いました。

資本金は仲間と出し合った300万円です。

言い出しっぺの鉢嶺登氏がワンルームマンションで一人で始めました。

1年目は年商が150万円しかありませんから当然給料も出ません。

でも、やりがいはしっかりと感じることが出来る1年でした。

2年目は、森ビルにいたときの後輩が森ビルを辞めて入社して来て2人になりました。

でもその時は、その入社した彼の御両親が心配して訪ねてきたのです。

せっかく森ビルという大きな会社に入社出来たのに、そこを辞めて給料も払えないようなこんなに小さな会社に入ったなんてと心配したのです。

1年たっても給料が払えなかったら田舎に帰って公務員になるという約束をさせられました。

2人で一生懸命頑張ってなんとか1年後には給料が払えるようにはなりましたが、業績は鳴かず飛ばずです。

軌道にのるまで7年掛かりました。

危機を乗り越え7年目の決断

企業してから24時間365日仕事のことばかり考えました。

何度も潰れそうな危機もあったのです。

いろんな手を打ってみましたが業績は上がりません。
せっかく自分の夢を語りそれについてきた社員も将来性を悲観して辞めて行きます。

それは自分の給料が上がらない事よりも辛かったと鉢嶺登氏は語っています。

でも、創業当初から「いつかは上場できるような会社にしたい」という思いだけはあったので挫けることはありませんでした。

インターネットへの苦痛

いつかは上場したいと考えていたので、上場に向けての事業計画を書いていた時の事です。

FAXを使ってのダイレクトメール?

この事業では将来に上場できる規模にはならないと気づいたのです。

これからはインターネットだ!

インターネットを使っての広告代理事業に業態返還を思いつきました。

ですが、急にインターネットに変えようと思ってもそんなに簡単なことではありません。

現場に大きな混乱を招きました。

そもそもインターネットの知識も無いし、既存の顧客もあります。

それで毎日従業員は動いているのにそれを急に変更すると言ったのですから。

それで強引にある日「今日からもうFAXによるダイレクトメールはやりません。インターネットに切り替えます」と宣言したのです。

結果的にはその決断は大成功となるのですが、その時はそれに反発して会社を辞めるメンバーも出ました。

それは大きな痛みと苦痛を伴いました。

でもインターネットに切り替えたことにより、翌年には12億円、その次の年には29億円、さらにその次の年には48億円、次の年にはなんと96億円と物凄い勢いで売上げが上がっていったのです。

2004年にはジャスダックに上場を果たします。

この成功には、まずFAXからインターネットに変更したことから始まりますが、その他にもいくつかのポイントがあります。

バラバラな役員の目標

創業して7年目の2000年に役員4人で合宿に行きました。

そこでそれぞれの夢を語ったのですが、鉢嶺登氏の夢は当然のことながらオプトが自分の全てであったのでオプトを上場させて世の中を変えたいと語りました。

でも、他の役員は違いました。

「大学教授になりたい」「作家になりたい」「不動産屋になりたい」です。

正直驚いたと鉢嶺登氏は語っています。

本音の夢を聴いたら、みんなバラバラで鉢嶺登氏とは違っていたのです。

これでは将来不安です。

それで鉢嶺登氏はそのみんなの夢を共有して「その夢を叶えるためにもオプトの成功が必須だ」と説き伏せました。

オプトが成功すれば、大学教授になった時の教材にもなるし、作家になるのなら小説のネタが出来るし、不動産をやるなら資金が作れると方向性を一緒にしたのです。

「333計画」

そして上場させるための具体的な数字の目標を作りました。

3年で売上げ30億円で利益3億円というものです。

明確に期限と数字の目標を作ることによって、ブレない行動計画が立てられます。

3年で売上げを30億にするには、いつまでに何億、1ヶ月ではどのくらいと決まりますから、それに沿って進められるのです。

チーム経営

社長である鉢嶺登氏一人で全てを担っていては出来ることにも限界があるので役員4人で役割分担を決めてCOO(最高執行責任者)が社内を統括する体制にしました。

すると一挙に効率化して会社は急成長することになりました。

半面、鉢嶺登氏は自分の存在価値を感じられなくなり苦悩しました。

その後、自分にしか出来ない得意分野もあると気づき、その悩みからは徐々に開放されましたが、自分の決断が自分の苦悩も生んだのでした。

電通との提携失敗

2004年にジャスダックに上場し、2008年のことです。

電通と資本業務提携を結び、発行済み株式の35%を譲りました。

電通がオプトの筆頭株主になった訳です。

鉢嶺登氏の持ち株は20%です。

その時点からオプトの混迷が始まりました。

業績も株価も、それに優秀な社員も辞めて行きました。

何かにつけて口を出されて、筆頭株主ですからその影響力からは逃れられません。

提携して1年で、この提携は失敗だったと気づきましたが、提携解消するまでには7年も掛かってしまいました。

失敗の原因は、上場後の目標をきちんと立てていなかったことです。

一応「上場は通過点に過ぎません。次の目標は1000億円です」とか言っていましたが、自分でもあまり深くは考えていませんでした。

上場までの目標は「333計画」で立てていたのに、それが達成できて我を忘れてしまっていたのです。

それで電通との提携も、「大企業との提携だからきっと良くなるはずだ」ぐらいの気持ちで提携してしまったのです。

ですから、電通が強引に口出ししてきても跳ね返す対処も出来ませんでした。

鉢嶺登を変えた名言

鉢嶺登氏の目を覚ましてくれたのは、日本電産の永守重信氏でした。

一緒に食事をした際に、「まさか1000億円の売上げを本気で目指しているのか?」と言われたのです。

どこかで、鉢嶺登氏が言っている次の目標の話を聞いていたのかも知れません。

鉢嶺登氏が「えっ?だめですか?」と言ったところ

「目標を1000億円と立てて100%達成して1000億円の企業になるのと、目標を1兆円と立てて50%しか達成できなかったけど5000億円の企業になるのとどっちが上なんだ?」と永守重信氏は言うのです。

それで鉢嶺登氏はハッとして気づきます。

自分は世の中まで変えたいと言っていながら、なんと小さかったことか。

インターネットは産業革命だとか言っていながら、1000億円では世の中は変えられない。

それで2030年までに1兆円と明確に売上げを決めました。

そうすると、具体的に何をしなければならないのかが見えてくるわけです。

そうなったらいいなあではダメです。

必ずやり遂げるという決心をしました。

そうすると、社員の人数から、中間地点の売り上げ目標まで明確に決まってきます。

それを達成するには、既存の計画では到底叶わないと思えば、新たな事業構想の必要性も分かります。

鉢嶺登まとめ

インターネット広告に変更してから業績は一気に上がりましたが、電通との業務提携の失敗などの大きな苦難も乗り越えました。

2000年に日本初のインターネット広告システム「ADPLAN」を開発して販売し、2004年にジャスダックに株式公開。2013年東証一部上場をはたしました。

2015年に持ち株会社に移行して、現在は同社の社長グループのCEOを務めています。

オプトの大きな躍進のきっかけとなった一つに、それまで具体的に広告の効果というものが見えることが出来なかったものを、見えるようにしたことです。

広告業界ではそれまで、その広告の効果がどれぐらい出ているのかを企業から求められることもありませんでした。

でも、明確にそれを見せることで納得してもらうことは大事だと考えて、「広告効果測定ツール」の開発をしたのです。

この今まで、必要性の議論も無かったところに真っ先に疑問を持ち改善して行くというのが何と言ってもオプトの強みです。

「世の中を変える」という鉢嶺登氏の夢はどこまで叶うのでしょうか。

今はまだ1兆円の目標は途方もない数字のように思います。

ですが、今や世界に出るのであれば当然掲げる数字となっています。

かつてナイル川で目にした光景で得た教訓のように、自分たちが頑張らないと、子供たちの未来は作れません。

目標は大きくないと、大きな物は掴めない。

大きな物を掴まないと世の中は変えられない。

変えるほどの力も無ければ、子供たちの未来は守れない。

つまり未来を守りたかったら、小さくまとまるなということですね。

成長するためにも目標は大きくしましょう!

さとるのメルマガ登録はこちらから
ネットビジネスで本当に稼げる方法をお伝えします!
◆メルマガ登録はこちら◆