有名人の名言

ココイチ宗次徳二の名言と経歴に学ぶ成功法則と資産やバイオリンの使い方

カレーハウスCoCo壱番屋の創業者の宗次徳治氏は、孤児院から3歳で養父母に引取られるが養父が競輪にのめり込み、養母は逃げて極貧生活。

パチンコ屋で床に落ちている玉やシケモク(吸い殻)を拾って養父を喜ばせ、廃屋を転々として生きてきた。

成功した経営者の中でも、こんな極貧生活を幼少期に送った人は、なかなかいません。お金を儲けたら、さぞやお金に執着するのかと思いきや、宗次徳二氏はお金への執着はありません。

もともと、不動産屋の経営が不安定なので始めた副業の喫茶店がココイチの原点です。それがカレー専門店になり、次々と店舗を拡大していきました。

53歳で引退し、福祉団体のNPO法人「イエロー・エンジェル」を立ち上げ、個人のお金は死ぬまでに全てを寄付したいと語っています。

2015年にはCoCo壱番屋はTOB(株式公開買い付け)でハウス食品の子会社になりました。営業利益が10%も出ているのに何で、身売りなんてしたのでしょうか。

宗次徳二氏はCoCo壱番屋に人生の全てを捧げてきたと言っても過言でないほど愛情込めて育て上げた会社です。

店舗数1412店で売上高899億円。世界一のカレーチェーン店にまで育ったCoCo壱番屋を宗次徳二氏はあっさりと手放しました。

宗次徳二氏の名言から「手放す」の極意である執着しない哲学を探ってみました。

宗次徳二の名言

苦労の経験をしてきた人は、ふつうは手放す事が苦手なものです。それは、無い事を恐れるからです。

それなのに宗次徳二氏はなんでこんなに手放すことが上手なのでしょうか?名言から執着しない哲学というものを紹介します。

・「俺の会社」の意識を捨てる。きちんと一線を引くことが会社のために重要。

・ハウス食品の子会社になれば海外進出を後押ししてくれる。CoCo壱番屋にとってはそのほうが良い。

・自分のための贅沢はむなしいものです。身に付けている物は980円のディスカウントで買ったシャツ、時計はカシオの9800円。重要なのはそれを身に付けている人の中身です。

・借金を返している時は、逆に返すという目標が出来て楽しいものです。

・シケモクを集めて養父にあげると嬉しそうに吸うのを見て、「目の前にいる人を喜ばせたい」と思ったのがカレー屋を始める原点です。

・大きな夢や目標を持たなくても、毎日の目の前にある目標を達成する、という継続が成功に導きます。

・ライバル会社がこうしたからうちもこうするとかそんな信念の無い事をしてもダメです。コツコツと地道にお客様や取引先それに従業員のことだけを考えていれば、少しずつでも成長していくものです。

・苦労は経験という宝になります。

・どんなに失敗してもなにしろ継続していく。その情熱が大事なのです。

宗次徳二の経歴

宗次徳二 誰もが最初は新人だった

戸籍上は1948年10月14日石川県生まれとありますが、両親は不明で生後すぐに兵庫県尼崎市の孤児院に預けられます。

3歳の時に、雑貨店を営む宗次夫妻の養子になりましたが、養父が競輪やパチンコにのめり込み、愛想を尽かした養母は養父と養子の宗次徳二氏を残して失踪してしまいます。

雑貨店の少ない収入も養父はギャンブルに使ってしまうため生活は極貧状態で、家賃や光熱費も払えなくなり住む場所も失います。

宗次徳二氏が8歳の時に養母の居場所が判り、名古屋の四畳半のアパートに転がり込んだのですが、そこでも養父のギャンブルは収まらず、再び養母は逃げてしまいます。

廃屋を転々として、生活保護を受けてもそのお金は養父がギャンブルで使ってしまいます。

ある日、パチンコ店で養父がシケモクを拾って、それを旨そうに吸っているのを目撃します。

それで宗次徳二氏もシケモクを拾って養父に渡すと、嬉しそうに受け取り旨そうに吸いました。

その喜ぶ顔が忘れられず、「目の前にいる人を喜ばせたい」という思いがCoCo壱番屋を始めるきっかけにもなったと宗次徳二氏は語っています。

でも、そのシケモクやパチンコ店の床に転がっているこぼれ玉を拾う事が日課になり、それを忘れると全裸にされてホウキでぶたれるようなこともあったようです。

宗次徳二氏はそんな養父でも、恨んだりすることは無かったと語っています。

たぶんそれは孤児院から引き取って養子にしてくれた家族への愛情なのかも知れません。

外部の人間から見てどんなにひどい環境だったとしても、こどもは親が一番好きだと言いますからね。

そして、宗次徳二氏が15歳の時に養父は胃癌のため亡くなり、養母と暮らすようになります。

朝5時半の始発電車に乗って、同級生の父が経営している朝早い仕事の、豆腐屋のアルバイトをして学費や生活費を稼ぎながら、愛知県の県立小牧高等学校の商業科を卒業しました。

1967年4月に新聞広告から不動産業の求人広告を見て応募し入社します。

1970年には大和ハウス工業に転職。

そこで奥様である直美さんと出合い結婚します。

1973年に独立して夫婦で不動産仲介業をしますが、不動産の収入は個人で行うと契約が決まらないとお金にならないのでかなり不安定です。

副業として始めた喫茶店バッカス

そこで、副業として喫茶店「バッカス」を始めます。

喫茶店のオープン初日には10分もしないうちにお客様が集まり、不動産屋とはまったく違う世界に戸惑いながらも喜びを感じ、自分の天職をみつけたと言います。

稼げるようになったことで不動産業は撤退し、本格的に飲食業に力を入れることに決めました。

お客様の喜ぶ顔が見たくて、一生懸命頑張ったら繁盛しました。

カレー店の借金の20%を寄付

喫茶店が繁盛したので2号店をオープンすることになりました。奥様が作ったカレーが評判となりカレー専門店に変えていきました。

1978年にカレーハウスCoCo壱番屋の1号店を愛知県西春日井郡にオープンしました。

その10ヶ月後には喫茶店の2店を処分しなければならない程経営は困難ではありました。

そんな中でも、次の新店舗をオープンするのにあたり、信用金庫から借り受けた100万円のうちの20万円は1号店と4号店の社会福祉協議会や町役場に匿名で寄付しました。

利益から寄付に回したのではありません。

借金の一部を寄付に回しているのです。

借り受けた100万円のうち70万円は従業員の給料を払うために使い、10万円は自分達夫婦が正月を送る為に残しました。

残りの20万円を寄付に使ったのは、「そうせずにはいられなかったから」と宗次徳二氏の語っています。

本当は寄付という言葉は使いたくないと。

なぜなら寄付というと、余裕が出来た時にするようなものだからです。

でも、生活にこまっている人は待っていられない。

今助けて欲しいのです。

助け合いの精神だと思っていると宗次徳二氏は言います。

このころから趣味は寄付となっていって、自分の生活は質素そのものになって行きました。

1号店のオープンの時から「にこにこ、キビキビ、ハキハキ」をモットーして、少しづつ売上げも伸びて行き、1982年には売上げが3億円を超しました。

法人組織にして株式会社壱番屋の設立に至ります。

お客様第一主義の目線から、辛さやトッピングなどをお客様の好みで選べるシステムで大ヒット!

宗次徳二の息子

1998年に500店舗になったのを機に、社長を奥様の直美さんと交代して、会長職に退きます。

「ブルームシステム」というのれん分けのようなフランチャイズシステムを構築したのも宗次徳二氏の業績です。

2002年には、19歳の時に入社して長年一緒に頑張ってくれた浜島俊哉に社長を譲り、夫婦共に経営から退きます。

後継者が育ったから退いたということで、その後は社長からの相談を受けても「好きにやりなさい」と一切経営への口出しはしませんでした。

一線を退くまでは、年間の休みは15日足らず、朝の4時には起床して、4時45分に出社して1000通にも及ぶ「お客様アンケート」に目を通し、そこに赤で書き込みをして各店にFAXします。

友達は作らないことを信条にしていましたから、個人的に飲みに行くこともありません。

店舗の掃除も自らの日課で、ただストイックに毎日を重ねる日々でした。

そして、一線を退いたら一切口出しはしない。

2009年から「ストアレベルマーケティング」を展開していますが、これも宗次徳二氏の作った手法で、地域戦略の一環で店舗が商品を開発して提案し、全国展開に持っていく仕組みです。

将来的には地域限定商品を50%にまで引き上げる予定です。地域色を強めてコンビニよりも地域に密着させないと生き残れないからという発想です。

宗次徳二氏には息子さんもいるのですが、身内を後継者になども考えたこともありません。

会社を私物化しないのもモットーです。

ちなみにその息子さんはプロゴルファーになっています。

宗次徳二の資産とバイオリン

引退してからは、個人の財産を使い、NPO法人の「イエロー・エンジェル」を設立して理事長に就任し、福祉施設やホームレスの支援を主に行っています。

また、宗次徳二氏はクラッシック好きでも有名で、高校一年の時にメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いてから、音楽の持つ癒しの効果を広めたいと思っていました。

2007年にクラッシックをもっと普及させたいと28億円の資産を投じてコンサートホール「宗次ホール」を建設します。

ヴァイオリンの収集家としても有名で、宗次エンジェルヴァイオリンコンクールの上位入賞者へのヴァイオリンの貸与なども行っています。

五嶋龍(アメリカのニューヨーク出身のヴァイオリニスト)や葉加瀬太郎などにはストラディバリウス(イタリアのストラディバリ父子の制作した弦楽器で大変高額な名器)を貸与し、宮本笑里にはドメニコ・モンターニャ(イタリアの弦楽器製作者の名で高額な名器)を貸与しています。

経済的理由で進学できない音楽家志望の児童への支援や、小中学校に吹奏楽の楽器の寄付なども行っています。

宗次徳二氏は個人のお金は全て生きているうちに社会貢献や寄付で全部使いたいと語っています。

この執着しない哲学は、見習いたくても中々むずかしいものです。

確かに、死んだらあの世には持っていけないのですから、こんな風にかっこよく生きたいものです。

宗次徳二まとめ

ハウス食品とTOBでカレーハウスCoCo壱番屋を子会社として手放したことも、2代目社長が決めたことではありますが、国内が飽和状態になっていて今後の発展は頭打ちだから、世界進出の為にと宗次徳二氏が積極的に後押ししたことです。

確かに、更なる発展は海外にしか活路は無いでしょう。

カレーは元々インドから来たものですが、日本のカレーは独自の発展をしていて、外国の方が食べても喜ばれる食べ物です。

日本のカレーは永遠に不滅ですね。

ちなみに、なぜ「ハウス食品」を選んだかといいますと、カレー専門店にするときに奥様が唯一気に入って選んだのがハウス食品のルーだったからで、それからの長いご縁だったのです。

宗次徳二氏の経歴を見て、多少のショックを感じた方もいるのではないでしょうか。

孤児院出身で、幼少期の極貧生活。

ギャンブルに溺れる養父とそれに愛想を尽かして失踪する養母。

パチンコ屋でシケモクを拾い、それを喜んで吸う養父。

その喜んでた顔が嬉しくて、今日の成功の引き金となる。

これは、ドラマではありません。ドラマよりも壮絶かも知れません。

不幸のどん底のような幼少期を経験している人は大勢いても、たいていはその後の人生も暗いままというのも事実です。

ですが、宗次徳二氏は違いました。

養父を恨むことなく、養父の笑顔みたさにシケモクを拾って、その喜ぶ顔が喫茶店の成功からカレー専門店へと繋がる。

お金に執着せずに、自分が生きているうちに、今ある資産、全財産を寄付して終わらせたいという生き方。

息子や身内に大きくした会社を継がせないことも立派です。

宗次徳二氏は、一見すると大事そうに見えるモノを上手く手放すことで、本当の幸せを手にしているのかもしれません。

理想であり非常に難しいことではありますが、少しでもあらゆるものへの執着から自由になれるよう生きていきたいものですね。

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