ビィ・フォアードはアフリカ諸国において、知名度はトヨタよりも上でもっとも有名な企業です。中古車を海外向けに販売することを始めたのは、2004年のことです。
2016年の時点で年商500億円を越しました。アフリカで成功した方法とは?ビィ・フォアードの戦略と山川博功社長の名言から成功の秘訣を調べてみました。
山川博功社長の経歴
1971年1月19日に鹿児島県で生まれる。
4歳の時に福岡県に引っ越しています。
両親が共に事業家で、父親は百貨店の外商部から宝石商に独立した人で、母親は弟子を抱える美容室を今でも経営しています。
そんな両親の元に育ってますから、自分も事業家になるのは当たり前と思っていたそうです。
高校時代は剣道に明け暮れ、2年生の半ばまで全く勉強をしないで過ごしました。
これでは、大学も行けないし、父親より母親の方が圧倒的に稼いでいましたので、自分も美容師になるから大学は行かないと親に言ったのです。
その時ほど、こっぴどく怒られたことはありません。
母親は、「馬鹿にするんじゃないわよ。美容師はそんなに甘い世界じゃないわよ。勉強しなかったから大学に行けない。だから美容師になろうなんてふざけたことを言うな」と言う訳です。
それで、確かにその通りだ。安易な考えで進路を選ぶべきではないと考えなおして勉強しました。
その結果、明治大学へ現役合格。
でも、大学在学中の時代はバブル全盛期でしたが、卒業のころにははじけてて、就職の氷河期第一期生でしたから、そうとう就職は困難を極めました。
そこで最初の就職先は、日産の販売会社でディーラーの仕事でした。
そこには3年と少しの間お世話になったのですが、その間には優秀営業マンとして表彰もされています。
ですが、そこでの仕事は「報われない」という結論をだします。
ある時、見てはいけないものを見てしまいました。それは店長の給料明細です。
そのころの山川博功は車のレースにはまっていまして、800万円ほどを借金してつぎ込んでいました。
この給料では借金を返しきれない。そう判断して辞めました。
その後、佐川でトラックの運転手を半年。
そして、宝石の販売会社に入り、飛び込み営業です。
そんな中、先輩が自動車の買取店に紹介してくれて26歳の時に入社します。
それが人生の転機になります。
楽勝だった自動車の買取店
当時の自動車の買取業の営業というものは、まだ営業のプロが参入してなかったのです。
ですから、営業という形がまだ出来ていなかったのです。
山川博功は日産の自動車の販売と宝石店の営業の仕事の経験がありましたから、すぐに数字となって結果を出すことが出来たのです。
3ヶ月で今までいたセールスマン全員を抜いて、社長も営業をしていたのですが、半年後には社長も抜きました。
そして営業成績がトップになったわけです。
楽勝でした。
そこにいたのが1年半。そこの社長が4000万円貸してくれて「自分でやってみないか?」と言うのですぐ承諾。
「ワイズ山川」という社名でした。
まだ20代です。800万の借金の他に4000万円の借金まで増えたわけですから、目の前にやらなければならないことだらけで、ただただ決めたノルマを達成することに必死な毎日でした。
29歳の時点で、順調にそれまでの借金も完済できて、それから業態転換をしていきました。
31歳の時にまた転機が訪れます。
その時は、車屋から仕入れて車のオークションに出品していたのですが、買って行くのはほとんどが外国人なんです。
ですから、これは直接自分が外国に持っていけば売れて儲かるなと単純に思ったのです。
最初は2500万の詐欺の被害
まず、ミャンマーで始めてみました。当時は軍事国家だったのでタイ経由でした。
友人が誘ってくれたので、リスクも半分でいいかなと思ってのことでした。
でも、当時はまだ山川博功も、何にも分かっていなくて、「売れたらお金をください」という契約内容で始めたのですが、いくら車を送ってもお金が全然来ない。
2500万円まで行ったところで、気付いたら相手が居なくなってました。
車は売れていたのに、お金を持って居なくなってました。
詐欺ですね。
次の被害は2億5000万円
懲りずに、次はニュージーランドで始めました。
やっぱり新興国より、ニュージーランドの方がビジネスでは信用がおけるだろうと思ってのことでした。
パートナーも日本人にしたのですが、新規参入は後払いじゃないと難しかったのでミャンマーと同じようにやりました。
2年半ぐらい続けたでしょうか。
2億5000万円やられちゃいました。
さすがに、これは精神的にもショックでした。
軌道に乗るきっかけ
ニュージーランドからも撤退して、人と同じことをしてても無理だと思って、山川博功は車のレースをしていたのでドリフトカーを売ってみたら結構海外で売れました。
当時は東京ドリフトという映画が海外で流行っていて、世界中の先進国に行っていたんですね。その流れに乗って軌道に乗り始めたのが好転したきっかけでした。
そのころは「ワイズグループの軍曹」と呼ばれたぐらい部下を厳しく指導して、育てた弟子にお客さんを付けたまま独立させました。
2004年3月に株式会社ビィ・フォアードを設立。
越境ECサイト
国を超えて運営する海外向けのECサイト「越境ECサイト」の「BE FORWARD.jp」から24時間注文可能。
このサイトの月間ページビューは2015年の5月に5600万PVとなりました。
アフリカのザンビアでは6番目。サモアでは7番目に良く見られているサイトにまでなりました。
日本はこの手のサイト運営が弱いので、他に競合が出てきませんでした。
世界中の新興国からあまりにもアクセス件数が多いので、Googleのアメリカ本社から副社長が直接、山川博功社長に会いにやってきたほどです。
ビィ・フォアードの強みは物流
Amazonなどは、物流のしくみを世界中で早い時期から構築していましたが、でも自社で出来るという体制ではありません。
ビィ・フォアードは、輸出した車を船に乗せて、それが例えばアフリカの港に着いたとします。そこから通関して、隣の国までだって数百キロ走ってでも自分の会社で届けられる。
現地の人間を3600人ほど雇用しています。
ですから、コストが非常に安くなります。
自社で物流までできることがビィ・フォアードの強みです。
ですから、サイトの来訪者が増え続けています。
現在は車のパーツまで扱っていますので、ビィ・フォアードのサイトを見れば、必要なものが必ず見つかるし間に合うしと人気になりました。
先払いシステムへ転換
今では、先にお金を貰わないと船に乗せません。
世界中から信用が出来たので、ビィ・フォアードなら間違いないと先にお金を支払ってくれるようになりました。
発展途上国ビジネス
アフリカは発展途上国がほとんどで、治安や貧困など数多くの問題を抱えています。
そんな国ですから、車があるだけで確実に経済も発展できるし、生活も豊かになります。
日本では乗らなくなった車が蘇って、アフリカに渡り、アフリカの人々の移動手段にもなりますし、物流にも役立つわけです。
今後の可能性を大きく秘める商機があるのです。
次はアマゾンを目指しています。
山川博功社長の名言
・私たちはシステムには投資しています。まずサイトのお客様が見る最初のページにはお金と手間暇をつぎ込んでいます。
競合他社の場合は車1台について写真2枚しか無かったり、しかも値段を知りたいと会員登録が必要だったりします。
でも私たちのサイトは最初からすべて閲覧できますし写真なんかは35枚も載せてます。
国はタンザニアとか、港はダル・エス・サラームとかを選択することによって、輸送費も込めた価格までわかるようになっているのです。ですから支持を受けてご利用いただけるのかと思います。
・広告は、いわゆるマス媒体を利用していません。
購入してくださったお客さんにビィ・フォアードのキャップやTシャツをお配りしたり、納車する車のうしろにビィ・フォアードのステッカーを貼るなどをやっているだけなんです。
でもお客様がSNSでビィ・フォアードを広めてくれるようになった。
そして「友達があなたのところから車を買って良かったと言ってるから」と言って注文してくれるんです。
・それまでの中古車輸出ビジネスはBtoBでした。日本で仕入れた車を現地の販売業者に売るという形だったんですね。
でも、私たちはBtoCで個人が相手の商売ですから、サイトを使い安く分かりやすくと考えて行くのはあたりまえのことなんですね。
でもBtoBから出発している他社ですと、そのあたりの発想ができていないのですね。
・私は、人と喋るのが苦手で下手なんです。ですから他の人と違うやり方で一番になれる方法を常に考えたのです。
ビィ・フォアードの今後に期待
まだまだ新興国とのビジネスは将来性があると見て良いのではないでしょうか。
また、今後はサイトの運営の在り方として、個人がサイトに乗せてビィ・フォアードが仲介するという在り方に変わっていくのかもとも思っています。
人と同じやり方ではなく、自分のやり方でお客さんのためにという姿勢はとても勉強になります。
現地の方を多く雇用するので、現金収入の道も作ってる訳ですし、社会貢献度も高いですから、これからも発展を願います。
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