有名人の名言

ソニー創業者 盛田昭夫の名言と意外な家系 読むべき本と息子について

盛田昭夫といえば、井深大と共に電気機器メーカーのソニーの創業者の一人です。

起業を目指す人だけでなく副業している人にもぜひ読んでいただきたい名言があります。また、盛田家の家系を見ると身内が大物ぞろいであり、ビジネンマンのバイブルになる本も何冊も出しています。

そんな、「世界のソニー」と言われ、富と名誉を一代で作り上げた盛田昭夫氏ですが、長男の事業の失敗により、築き上げてきた全てを失ってしまいます。

運が悪かったのか?子供の育て方を間違えたのか?奥様がいけなかったのか何なのか?

ソニー創業者の一人盛田昭夫氏の栄枯盛衰は半端なかった!

そのソニー創業者の一人盛田昭夫氏の名言、家系、本、息子、記念館などを紹介します。

盛田昭夫の家系、生い立ちと経歴

1921年1月26日に愛知県名古屋市にて、代々続く作り酒屋で盛田家14代当主の久左衛門の長男として生まれました。

井深大とは太平洋戦争中の海軍技術中尉の時に「ケ号爆弾」という、太平洋戦争末期に大日本帝国陸軍が開発した赤外線誘導の対艦徹甲爆弾で実用化の目途が立った時には敗戦色が濃くなり実戦では使用されなかった爆弾の開発研究所で出会います。

敗戦直後の1946年に東京日本橋の白木屋の3階で井深大と共に東京通信工業(後のソニー)を立ち上げて常務取締役に就任します。

1950年には日本で初のテープレコーダーG型を発売し、翌年の1951年には三省堂の社長の娘である亀井良子と結婚。

1955年 トランジスタラジオTR-55を発売することにより、それまでの日本製品の「安っぽい二流品」というイメージを払拭した。

カタログにはこう書かれていました。「ラジオはもはや電源のコードが付いている物の時代ではありません。皆様のお好みの場所にこのラジオはお供することが出来ます」

このTR-55のラジオは安価で、しかも信頼できる役に立つ製品でした。

この製品は日本国内でしか販売できませんでしたが、大ヒットした評判は世界中に広まりました。

重要なのは、このTR-55は、現在使用しているソニーのほとんど全てのポータブル機器の雛型になっていることです。「iPod」も「ゲームボーイ」も設計の基本を辿っていくとTR-55にたどり着き、トランジスタの使用が電子工学に普及しソニーが現在作っている全ての製品の開発に繋がっているということです。

1959年ソニー代表取締役副社長に就任します。

1960年米国にソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを設立し、取締役社長に就任。

1971年ソニー代表取締役社長に就任。

そして1979年にあの「ウォークマン」を発売し世界的大ヒットとなりました。

1986年には経団連副会長を務め、1991年には勲一等瑞宝章受章。

1992年英国王室から名誉大英勲章とナイト爵の称号まで受けます。

1994年ソニーファウンダー名誉会長に就任

1998年フランスからレジオンドヌール勲章コマンドゥールを贈られます。

1999年肺炎の為死去。正三位勲一等旭日大綬章受章

盛田昭夫の読むべき本

盛田昭夫に関する本は多く、ビジネス書としても参考になります。

・MADE IN JAPAN

戦時中に技師として圧倒的な技術力の差を実感しながらも、戦後に「世界のソニー」を目指して、アメリカに挑んだ「戦いの記録」

・ソニー盛田昭夫

この本は1983年にスティーブ・ジョブズが小型フロッピー・ディスク・ドライブを購入するために、ソニーの厚木工場を訪れた時のエピソードで始まります。そのスティーブ・ジョブズが心酔して、自らのロールモデルにしていたのが盛田昭夫だったと言います。二人の共通点は天才的な説得力。いかにして周りを巻き込みその気にさせて動かすかが書かれています。

・学歴無用論

能力ややるきさえあれば、学歴に捉われず自分で好きなことを選んで道を拓くべきだと説いた本。

・「NO」と言える日本

日米貿易摩擦のさ中ソニーの会長である盛田昭夫と政治家である石原慎太郎によって共同執筆された1989年のエッセイです。アメリカ合衆国のビジネスの方法に批判的な視点で、ビジネスから国際問題にまでに他国に依存しない態度を取るべきだとの主張をして話題になりました。

盛田昭夫の名言

盛田昭夫の名言も多くあり、起業家やビジネスに関心がある方などの参考になるものばかりです。

・市場調査には頼るな!「あなたは何が必要ですか?」と聞いて作ったのでは遅すぎる。

・好奇心の無い人は必要ありません。

・人は誰でも様々な能力を持っているのに、それに気づかないでいる人が多い。

・その製品を手に入れたいという欲求を、人々の間に喚起させなければ、それがいままでにない物で、誰も見たこともなく、どこかの一隅でこつこつと研究され、非常な苦心の末、製造されたすばらしい製品であっても、「商品」にはなり得ない。

・自分達が会社を始めた時に、どうしてやっていくべきかを教えてくれる人はだれもいませんでした。自分達で毎日、この会社をどうやっていくのか必死で考えてきました。今後だってこうあるべきだと教えてくれる人は誰もいないのです。

・会社は利益を追求する血みどろの戦いの場です。

・会社は遊園地ではありません。職場に楽しみを求める小市民的な夢に安住している人間はビジネスマン失格です。

・儲ける精神を忘れたサラリーマンは失格者として進歩から見放されます。

盛田昭夫の家系は名門の酒屋

盛田昭夫といいますとよく家系が話題になりますが、周りには名門が揃う一族でもあります。

生家は、代々続いた造り酒屋で父親の久左衛門は盛田家第14代当主です。

また母親・収子は、元大垣共立銀行の頭取戸田鋭之助の娘で、元仙台市長であった早川智寛の姪にあたります。

会社再建の神様といわれた早川種三のいとこにあたります。

また、敷島製パンの創業家とは親戚関係であり、三省堂の創業家・亀井家(妻の実家)も姻戚関係にあります。

盛田昭夫氏は息子の事業失敗により没落

盛田昭夫氏の妻、良子氏はソニーに昔からいる役員やOBには「ミセス」と呼ばれ、盛田昭夫氏が亡くなった後も陰での発言力がありました。

1982年から1995年まで社長だった大賀典雄氏なども、東京・青葉台の盛田邸に呼ばれていました。

その後、不機嫌になって本社に戻ってきた大賀氏を、社員が何度も目撃していました。

大賀氏の後、1995年に社長に就いた出井伸之氏は、良子氏に気に入られていました。

盛田氏の長男と長女が欧州に留学していた際に面倒を見たことから、盛田家と家族ぐるみの付き合いになっています。

盛田氏の長男英夫氏の最初の結婚は1978年に女優の岡崎友紀としているのですが、1981年に離婚しています。

その後再婚した嫁は、出井氏の従兄弟の娘なのです。

ですから、血のつながりはありませんが、出井氏は盛田ファミリーの一人とみなされ、陰で「盛田家の家庭教師」と言うソニー幹部も多かったと言います。

出井氏が社長に就くことができたのも、良子氏の強い意向だともいわれていました。

2005年、出井氏が自分の後任にと指名したハワード・ストリンガー会長兼CEOに対しての申し送り事項にも、「良子氏を尊重せよ」という内容が入っていたとのことでした。

盛田氏の次男、昌夫氏はソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)の株主総会において、会長を退任して、ソニーグループのアドバイザーに退きました。

盛田家の資産管理会社である「レイケイ」は、1995年時点においては確かにソニーの筆頭株主でありました。

しかし、現在では大株主名簿に名前が見当りません。

盛田家とソニーをつなぎ留めていた良子氏が亡くなったことにより、完全に縁も切れてしまったようです。

それはなぜなのでしょうか?

長男の事業の失敗の連続

盛田家がソニーの大株主でいられなくなったのは、長男の英夫氏が手掛けた事業が失敗したために、その損失を埋めるために、持ち株を売り払うしかなかったからです。

1993年、昭夫氏が病に倒れると、英夫氏は自分が社長を務めるレイケイの保有するソニーの株式を担保に入れて、巨額の資金を調達したのです。

そしてその資金をさまざまな事業に注ぎ込んだのです。

だが、事業は失敗の連続でしかありませんでした。

まず最初に手掛けたのは、新潟県妙高市の大規模スキー場「新井リゾート」です。

日本が世界に誇る高級保養地を目指して作られたこのリゾートに、レイケイの投資額は500億円も注ぎ込んだとか。

しかし、バブル崩壊の影響で開業当初から苦戦に追い込まれました。

続いての事業は、米コロラド州の大規模スキー場を100億円で買収しました。

最後に投資したのは自動車レースのF1関連事業においては230億円もの巨額損失を出してしまい、レイケイは税金も払えなくなり、2005年6月に解散となってしまいました。

長男である英夫氏は、事業が失敗するたびにレイケイが管理するソニー株式を次々と売却し、とうとう最後には保有するソニー株をすべて失うこととなったのです。

こうして盛田家は、ソニーのオーナーの座から滑り落ちていったのです。

また、盛田昭夫氏が設立した鈴渓(れいけい)学術財団、そして盛田国際教育振興財団も2013年12月に解散に追い込まれました。

昭夫氏の死後に理事長に就任した英夫氏が、あろうことか文部科学省から指摘され、財団の基本財産に手をつけていたことが発覚したのです。

両財団とも盛田アセットマネジメントに貸し付けを行っていたのです。盛田アセットマネジメントは英夫氏の資産管理会社で、盛田家の江戸時代から続く家業である酒造会社の盛田から飛び出し独立した会社です。

レイケイが解散に追い込まれ、事業に失敗した英夫氏は盛田アセットを拠点にして、復活に懸けようとしたのですが、資金は財団のカネだったのです。

2005年に、ヒマラヤ東京というパンメーカーで、当時子供に人気のアニメのキャラクターである「甲虫王者ムシキング」のカード入りのパンでしたが、ここにも出資し、失敗に終わっています。

ヒマラヤ東京は2007年に破産となりました。そして、ヒマラヤ東京の創業者は詐欺事件で逮捕されたのです。

ヒマラヤ東京は、盛田家の名前を出すことで取引を拡大していき、足りない資金を埋め合わせるために、億単位の詐欺事件を起こしていたのです。

この事件で盛田家は信用をも失墜させ、英夫氏が資金を流用していた2つの財団はとうとう解散に追い込まれて行ったわけです。

こうして失われた資産額は2000億円以上にもなると言われています。

それ以降、長男英夫氏は表に出てくることは無く、良子氏の葬儀の喪主は、長男の英夫氏ではなく、次男の昌夫氏が務めました。

盛田昭夫は子供の育て方を間違えたのか

財閥が子供の育て方を間違えてしまったのか。どうなのでしょうか。ソニー創業者の一人でもある盛田昭夫氏の功績や名声は言うまでもありません。

それにしても、盛田昭夫氏の功績や名声を、長男である盛田英夫はなぜ潰してしまったのでしょうか。

昭夫氏があまりにも偉大なために、そのプレッシャーに潰されてしまったのか、2代目社長の難しさを示す典型のようになってしまいました。

もしかしたら、長男には本当は、ほかにもっと自分がやりたいこと、向いていたこと、社会に貢献できることがあったのかもしれません。

盛田昭夫記念館

「盛田味の館」は愛知県常滑市にある「盛田株式会社」の企業博物館で、そこの1Fに昭夫氏の常設展として展示されています。

この盛田株式会社には現在は盛田英夫氏の名前はありませんが、盛田英夫氏の経歴にはジャパン・フード&リカー・ アライアンス株式会社代表取締役会長、盛田株式会社取締役名誉会長・CEOなどを歴任したとなっていましたから、以前は関係者だったようです。

1Fの常設展示場では、盛田昭夫氏の映像や著書、私物などが公開されています。一度見てみたいものです。

儲ける精神を忘れたサラリーマンは失格者として進歩から見放されます。という言葉を忘れずに、起業した人はもちろん、副業であってもしっかりと稼いでいかなくてはなりません。くれぐれも全財産を失ってしまうような投資をしてはいけませんね。

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