岩崎弥太郎(いわさき やたろう)三菱財閥の創業者で初代総帥を務めた人です。
明治の動乱期にもっとも巨利を得た政商ですが、その三菱を創業する資金は、着服した23万両だと言われています。
なにしろ証拠の書類は焼却してしまったので追求されずに終わっていますが、今ではそれが定説になっているようです。
岩崎弥太郎は、その他にも今で言うインサイダー取引などの疑いもあり、維新の動乱に紛れて巨利を得て、三菱財閥を創業しています。
「悪も善なり」で、大きな企業が生まれれば、それにより雇用されて働き口も増え、競争相手の企業が生まれれば、それにより料金は安くなるものですから、庶民の暮らしは助かるものです。
商人としての卑屈さは一切無く、逆に傲慢な態度で当時の最高権力者である大久保利通らと接し、軍事輸送で巨利を得て、更には、日本を世界一の富国強兵の国にすることを夢見たのでした。
商敵の三井との戦いの最中に、病に倒れ亡くなっているのですが、現在岩崎弥太郎の評価は決して高い物ではありません。
ですが、岩崎弥太郎が商船業界の発展に大きく寄与したことは間違いのないことであり、まさしく維新のベンチャーとして、今の三菱商事の礎になっている訳です。
そんな維新のベンチャーである岩崎弥太郎の名言と生涯を探ってみました。
岩崎弥太郎の名言
・自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。
ゆえに事業は必成を期し得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ。
・機会は魚群と同じだ。はまったからといって網をつくろうとするのでは間に合わぬ。
・小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ。
・機会は、人間一生のうちに誰でも、一度や二度は必ず来るものである。
それをとらえそこねると、その人は一生立身できない。
・樽の上からすくって飲むやつは、たとえ一升飲まれても、三升飲まれてもたいしたことはない。怖いのは樽の底から一滴でも漏ることだ。
・およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである。
・よく人材技能を鑑別し、すべからく適材を適所に配すべし。
・国家的観念をもってすべての経営事業にあたるべし。
・奉公至誠の念にすべて寸時もこれを離るべからず。
・勤倹身を持し、慈善人にまつべし。
岩崎弥太郎の生涯
1835年1月9日(天保5年12月11日)~1885年2月7日(明治18年)
土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)に貧しい浪人の子として生まれました。
岩崎弥太郎の曽祖父の代に郷士の資格を売って、地下浪人となって生活は苦しかったのですが、当時は、貧しいからこそ、その生活から抜け出せるように教育に力を入れるという風潮がありました。
岩崎弥太郎の親も同じで、伯母が嫁いだ岡本寧浦について学んだ後、12歳で、野中兼山の流れを組む儒学者、小牧米山につき、経書を学びます。
1854年安政元年に江戸詰めとなった奥宮慥斎の従者として江戸に出て、昌平黌の朱子学者安積 艮斎(あさかごんさい)の見山楼の門下に入りました。
学問の出来はなかなかだったと言われています。
1855年安政2年に、父親の弥次郎が酒席で庄屋と喧嘩をして投獄されたことを知り帰国します。
奉行所に出向き父の釈放に動きますが、証人は庄屋の味方しかしません。
「不正をまかり通すのが奉行所なのか」と訴え、これを壁に墨で「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と大書して、岩崎弥太郎は投獄されてしまいます。
この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学び、後に商いの道に進むきっかけになったようです。
後藤象二郎との出会い
出獄後は、村を追放されるのですが、1858年安政5年、長浜村で知り合った後藤象二郎の叔父で、当時蟄居中(自宅謹慎)であった吉田東洋が開いていた小林塾に入塾することができました。
ある時、吉田東洋が甥の後藤象二郎に宿題をだしたのですが、甥にしては出来が良いのです。
それで、甥の象二郎に問いただすと、象二郎も正直に友人の岩崎弥太郎に代筆を頼んだことを認めて告白しました。
こうして、後藤象二郎の計らいで岩崎弥太郎は吉田東洋に面識を得る事が出来て、入塾することが出来たのです。
吉田東洋の謹慎が解けて家老職に復帰した時には、彼の計らいで長崎への留学生として派遣されました。
貿易で栄える長崎の街を見て、世界との貿易が国を大きくすることが解ります。
政治と経済の繋がりとは、つまり金と権力の関係だということを目の当たりに学び、現実的な事業家としての眼力も養うことができました。
時代は風雲急をつげ、政治が大きく揺れて、経済力が権力を動かすという、その実態を見たのです。
吉田東洋暗殺
開国派であった吉田東洋が武市半平太らの勤皇派によって暗殺され、土佐藩の政治の風向きも大きく変わり、岩崎弥太郎の後ろ盾になってくれる人もいなくなりました。
岩崎弥太郎は吉田東洋の暗殺の犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行という形で大阪へ行きます。
ですが、必要な届出に不備があったことを咎められ帰国することになってしまいますが、これが無断帰国になってしまい職を追われます。
この直後、大坂にいた井上佐市郎や広田章次は岡田以蔵(土佐藩郷士で「人切り以蔵」の異名をとる暗殺者)らによって暗殺されました。
これは、武市半平太の一派の陰謀によるものだったようです。
帰国後、職を追われた岩崎弥太郎は、27歳で借財をして郷士株を買い戻し、長岡郡三和村の郷士である高芝重春(玄馬)の次女である喜勢を娶りました。
慶応元年(1865年)、官有林払下げ許可が下りて農業で生計を立てていましたが、慶応3年、吉田東洋の門下である福岡藤次に同行を求められ再び長崎に赴きます。
開成館長崎商会の残務整理
盟友である後藤象二郎が公武合体を推進して、政権を掌握したのです。
そして、土佐藩は開成館長崎商会を設立し、そこを窓口に、欧米商人から船舶や武器を輸入したり、木材並びに樟脳(強心剤・防腐剤として使用されていた)や、鰹節など藩物産を販売をするというものです。
そして後藤象二郎がその開成館の主任を岩崎弥太郎に命じたのです。
坂本龍馬の海援隊に影響を受けての設立でしたが、しかし、長崎商会の経営はうまくいきませんでした。後藤象二郎は放蕩の限りをつくし、あげくの果てには乱脈経営でした。
しかも公権力による独占的商売でしたので、土産品は軒並み値を上げ続け、経営は悪化して行きました。
責任を追求された後藤象二郎は後始末を岩崎弥太郎に託し、逃げ出してしまいます。
岩崎弥太郎による経営の再建は見事に成功しました。
ただ売上げを増やし、出費を抑えただけの事ですが、その商才を見込まれ、弥太郎は長崎商会の経営をあずかります。
貿易商人ウォルシュ兄弟や武器商人グラバーと取引し、維新後にグラバーは三菱に雇われました。
その後、坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となりました。
長崎商会は閉鎖が決まり、藩命を受け岩崎弥太郎は残務整理を担当しました。
23万両の着服の疑い
ここで岩崎弥太郎は、長崎商会の閉鎖が決まったとき、後藤象二郎が長崎に回送した樟脳代金16万両と、海援隊から供託された7万両を着服したとされています。
これが後の三菱創設の基金になったというのは今では定説になっています。
幕末においての貨幣価値は今のお金に換算するのがとても難しく、なんとも言えませんが、その時代に藩主が自分の生き残りも掛けて託した金額でもあり三井財閥の創立の礎になったと考えると、半端な額では無かったのだろうと思います。
23万両もの大金が行方知れずになったのですからそれは大スキャンダルです。
それは、今でいう立派な背任横領なのです。
ですが、岩崎弥太郎は維新のどさくさに紛れ、証拠の書類を跡形もなく焼却してしまって、追求されずに終わっているのです。
実は、これは後藤象二郎も、事情を承知していたと言われています。
ですから、岩崎弥太郎は終生、後藤象二郎に頭が上がらなかったのではないかと見られています。
吉田東洋の恩義に報いるためにも、自分が経済力をつけようと商人として生きることを誓っていました。
ですから、これは悪い事ではありますが、岩崎弥太郎は、好機と思い手を染めたのでしょう。
今まで、国家の将来を憂いて無理難題ばかりをいう土佐藩の重役や、浪士どもに資金を用立て、維新のために働いて来たのです。
弥太郎が大金を懐に、土佐藩の大阪商会(開成館大阪出張所)に出仕するのは、明治2年のことでした。
九十九商会
明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、明治2年10月に土佐藩首脳であった林有造は海運業の私商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を設立しました。
代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助で、岩崎弥太郎は事業監督を担当しました。
明治3年には土佐藩の少参事に昇格し、大阪藩邸の責任者となっています。
私腹を肥やしていると疑って派遣された内偵だと見抜いた岩崎弥太郎は石川七財を勧誘して、商会に入れてしまいました。
背任横領の疑いをここでも上手くかわしているのです。
明治4年の廃藩置県で岩崎弥太郎は土佐藩官職位を失い、九十九商会の経営者となりました。
九十九商会は、藩船3隻払下げを受けて貨客運航をすることとし、鴻池や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷(現在の大阪市西区堀江の土佐稲荷神社付近)を買い戻しました。
当時は外国船が日本の国内航路にまで進出していました。
明治政府は「廻漕会社」を設立して幕府所有の蒸気船を与えてこれに対抗しましたが、到底太刀打ち出来るはずもありません。
また三井、鴻池、小野組などに設立させた日本国郵便蒸気船会社に、諸藩から取り上げた蒸気船を与えて、さらに運航助成金も支給したのですが、これも上手く行きません。
ですが、これに対して九十九商会は高知—神戸間航路や東京—大阪間の輸送は手持ち船舶も旧式でありながら好調でした。
日本国郵便蒸気船会社は社員のほとんどが官員で、羽織袴の帯刀姿で横柄に客と接していましたから、金を払う乗客は九十九商会の方を選ぶのも当たり前だったのかも知れません。
藩所有の船舶を貸与され、半官半民の回漕業に乗り出し、この会社は九十九商会と改称し、藩所有の財産と船舶のすべてが、彼に任されことになりました。
岩崎弥太郎を裏で支えた存在
無一文だった岩崎弥太郎がこんな機会を得られたのは、実は後藤象二郎や土佐藩首脳であった林有造が陰で支えていたのではないでしょうか?
維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時も、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に新政府の高官となっていた後藤象二郎を通して察知しました。
そこで岩崎弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買い占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ることができたのです。
これは今でいうインサイダー取引に当たります。
後藤象二郎や土佐藩首脳であった林有造が、自分達の生き残りの為に岩崎弥太郎を利用したのかも知れません。
時代が大きく変わり、政権が変わって自分達がどうなるか明日をも知れない時代でしたから保身を考えても無理もありません。
岩崎弥太郎はそれを知りながら、あえて利用されたふりをしつつ自分の基盤を固めていたのかも知れません。
そして九十九商会は明治5年に三菱商会と改称し、こうして岩崎弥太郎は、その後の三菱財閥の基盤を築き上げたのでした。
三井三菱海戦
維新の動乱は続き、土佐藩の重役となっていた後藤象二郎らの助けもあって、藩財産を譲り受けて民営企業に衣替えした三菱商会でしたが、その前に思わぬ障害物が立ちはだかりました。
政府の庇護のもとにある三井財閥が立ちはだかったのです。
当時の人びとは、この闘いを「三井三菱海戦」と呼んで話題にしました。
勝算の無い闘いのように見えましたが、岩崎弥太郎はここで政商としての力を見事に発揮することになります。
経営の実態は最悪でした。
引くに引けない激しいダンピング競争で大赤字を抱えてしまい、経営は破綻状態に追い込まれていました。
あと何ヶ月持つのか、明日潰れてもおかしくない状態で、岩崎弥太郎も追いつめられていました。
征台の役
そこに「征台の役」が勃発したのです。
明治7年、明治政府は台湾の政情不安と邦人保護を理由にして軍隊を派遣したのです。
海外で展開するはじめての軍事行動でした。
薩摩勢は熱心に「征台」を主張し、これに対し長州勢は内政不安を理由にあくまでも慎重論の立場を取りました。
岩崎弥太郎は、三井が長州勢についたのをみて、非長州薩摩勢につきました。
米国など列強国は日本の軍事行動を非難はしたのですが、局外中立の立場を宣言したので、外国船にたよる兵員や武器の輸送に支障が生じることになりました。
ですが長州側に立つ三井は動けずにいたのです。
岩崎弥太郎はそこに目をつけて、すかさずに動きました。
いまでいうところの「後方支援」を受け持つべく、岩崎弥太郎は薩摩方政府高官らと接触して、軍事輸送の利権を手中に収めました。
さらに政府が「征台」のため外国から購入した船舶13隻を借り受けて、兵員や軍需物資の輸送に乗り出したのです。
長州勢に殉じることになった三井の郵便汽船会社は身動きができずに、軍事輸送で巨利を得た三菱商会を横目で見ることしかできませんでした。
ここに「三井三菱海戦」は、三菱勝利となって終結したのです。
「一等国」を建設する夢
その後、岩崎弥太郎は、新橋などで大久保利通や大隈重信など政府高官と一緒に遊ぶ姿が目撃されています。
岩崎弥太郎は軍事輸送で巨利を得ただけに留まらず、政府中枢に食い込むことにも成功していました。
その後の三菱財閥を築き上げる上で、それが大きな力になることを岩崎弥太郎は、知っていたのです。
政府高官らと豪遊を続ける岩崎弥太郎でしたが、だからといって政府高官に卑屈な態度を取れる性格ではありません。
むしろ傲慢不遜もはなはだしく、当時の最高権力者であった大久保利通などは、岩崎弥太郎を持て余していたと側近に漏らしていたようです。
このあたりが三井の番頭三野村と岩崎弥太郎の違いです。
岩崎弥太郎は、権力とも自分は対等であり、国を思う気持ちには少しも変わりないという気概がありました。
ですから、岩崎弥太郎にしてみれば、大久保も大隈も維新の志士であり、かつての同志という認識だったのです。
彼らは官途に道を開き、弥太郎はビジネスの世界に道を開き、それぞれの道で、この東洋の遅れた島国日本を富国強兵しようと夢見たのです。
ヨーロッパ列強と渡り合える「一等国」を建設しようと同士と夢を膨らましていたのです。
外国汽船との戦い
三井との戦いはなんとか勝利に終わりましたが、次に岩崎弥太郎の前に立ちはだかった相手は「外国汽船」でした。
明治政府は、台湾派兵の際の外国汽船の非協力的なことに危機感をおぼえ、民族系の船会社を守るために、三井系の郵便汽船会社を三菱商会に吸収させ、三菱に巨額な補助金を与えていました。
そこに米国の船会社パシフィック・メール社が強敵として現れたのです。
標的となったのは上海航路でした。
そこでもやはり激しいダンピング合戦です。
それは政府の支援でなんとか切り抜けられましたが、明治9年に今度は英国系の船会社ペニュシュラル・オリエンタル社が前に立ちふさがったのでした。
香港、上海、横浜に航路を開いて、三菱に真っ向から挑戦するという好戦的な姿勢を示してきました。
岩崎弥太郎は運賃を引き下げ、さらにマスコミを利用して、外国勢に対する国民の敵愾心を煽るという手段をとりました。
また他方では政府に支援を求めて、国を挙げての闘いの体制を作りました。
そしてこの過程で岩崎弥太郎は経営合理化にも着手することになります。
大胆なリストラを行い、経費を節減することにより、運賃引き下げを可能に出来る経営基盤を築こうと考えたのです。
こうして半年間にも及ぶ熾烈な闘いは、三菱の勝利に終わりました。
まもなく、薩摩に燻っていた反政府運動が暴発し西南戦争が勃発しますが、岩崎弥太郎はもちろん政府軍について、全面的に協力しました。
この内戦により、政府が支出した軍事費は4150万円となりました。
その金額の三分の一が三菱に転がりこんだともいわれています。
それと同時に三菱は日本の海運をほぼ独占したのです。
多角経営
勢いはそのまま収まらずに今度は、業容の多角化に三菱は乗り出します。為替業務から海上保険、それに倉庫業などの分野にまで及びます。
三菱と契約を交わすことにより、為替業務の世話から海上保険まで、さらに倉庫で産品の管理まで出来たのです。
これにより、ほぼ独占体制を築いたわけです。
三菱の口座で為替を組んだものは三菱の船舶を使うことになり、荷物には三菱の保険をかけ、また荷揚げには三菱の倉庫を使うといった具合です。
三菱の世話抜きには貿易ができない独占的仕組みを作り上げたわけです。
独占にたいする風当たり
ですが、「独占」に対する風当たりは昔の方が今よりも強いと言えたかもしれません。
「三菱の独占を許すな!」という声が、わき起こるのです。
三菱の成長は早すぎたせいで、無理を重ねていました。
こういう時を狙って、弱者は連合を組んで、「独占」に疑義を唱えて入り込んでくるのです。
これを煽動したのも三井財閥でした。
米国や英国の商船会社と闘いって、民族の英雄だとまで賞賛された岩崎弥太郎は再び窮地に立たされることになりました。
闘い半ばにして倒れる
三井物産の益田孝は、渋澤栄一など財界関係者に広く三菱独占の弊害を訴えました。
またその一方では、地方の中小船業者に協力を呼びかけ、別途船舶会社を設立したのです。
設立総会には渋澤のほか、後の川崎財閥の当主となる川崎正蔵などの財界人に加え、地方の豪商や荷主、それに船舶業者らが結集したのです。
独占している三菱を退けないと死活問題でもあったので、皆の顔は真剣でした。
はじめのうちこそ三菱は完勝をおさめて、三井系船会社を蹴散らすことができましたが、しかし、三井は形成を建て直し再び攻撃してきました。
発起人には三井武之助、大倉喜八郎、川崎正蔵、渋澤喜作など経済界の重鎮それに加えて、さらに全国各地の豪商らが参集しました。
初戦と違い、今度は強力です。
資本金も600万円に増強して、英国製新鋭艦6隻を含む24隻体制で挑んできました。
対する三菱は27隻ですから、ほぼ互角の勢力となって団結して追い上げてきたのです。
大久保利通の暗殺
岩崎弥太郎にとって、悪いことは重なりました。
岩崎弥太郎と盟約関係にあった大久保は暗殺され、さらに大隈重信も政変で役職を解かれてしまいました。
これで政府の中枢に、三菱をバックアップする者は誰もいなくなりました。
対する三井勢には、伊藤博文、井上馨など長州勢力を味方につけたのです。
三井の益田孝は井上馨に取り入って、政府による保護の約束を取り付けて、挑戦状を突きつけてきたのです。
そしてこの争いに民権派の連中も参戦しだし、「岩崎弥太郎叩き」に拍車がかかりました。
マスコミも反三菱勢に味方をして揃って三菱を非難するのでした。
なんと岩崎弥太郎は、かつて三井勢に自分が使った戦術を、そっくり真似て、攻撃されたわけです。
当時の人びとは、この闘いを「第二次三井三菱海戦」と呼んで成行きを見守りました。
競争手段は相変わらずダンピングである。
利用客に景品をつけるなどして利用客を奪われないようにと手を打ちましたが、相手は政府の保護のもとにある船会社です。
逆に「やりすぎ」を咎められさらに窮地に陥ります。
さすがの岩崎弥太郎も疲れ切りました。
でも、ここで手を引けば営々として築き上げた全財産を失うことになるかも知れないのです。
今までつぎ込んできたものを失うかも知れない事態なのです。
窮地に立たされて、激務と深酒の日が続きました。
心労と酒が過ぎたことも原因で、海戦がまさに頂点というときに、岩崎弥太郎は病に倒れたのでした。
明治18年2月、岩崎弥太郎は50歳の若さで亡くなっています。
日本郵船の誕生
岩崎弥太郎亡きあと、三菱商会は、弟の弥之助を担ぎあげて、闘いを続ける覚悟でいました。
弔い合戦だというわけです。
ですがやっとここで政府が調停に乗り出してきます。
両者を合併させるというのが政府案でした。
共倒れになっては元も子もない、というのが政府の判断だったのです。
共倒れになれば漁父の利をさらうのは、外国商船であるのは間違いありません。
裁定は三菱優位に動き、合併に向けての局面を切り開いたのは川田小一郎、荘田平五郎、近藤康平、加藤高明ら弥太郎の薫陶を受けた三菱の重役たちでした。
こうして誕生したのが、三菱が株式の過半を握る「日本郵船」でした。
岩崎弥太郎のまとめ
岩崎弥太郎は壮絶な戦いの最中、戦死しました。
無一文でありながら、後藤象二郎や土佐藩首脳であった林有造の陰の力を受け、利用されていることを逆手にとって三菱財閥を作り上げることができました。
次から次へと立ちはだかる敵に、常に果敢に戦いました。
最初は背任横領の資金で築いた礎が、りっぱな城になりました。
ですが、休まることもなく常に戦をし、最後は「独占」だと責められ、自分が大事にしてきた「国」も敵に回ったような状況での死でした。
岩崎弥太郎の評価は色々あって、あまり良くは書かれていないのですが、
多くの人材を育て上げたことは大きく評価されても良いのではないでしょうか。
川田小一郎は日銀総裁に、近藤康平は日本郵船社長、加藤高明は首相を務めるなど三菱は明治大正を通じて日本を担う実に多くの人材を排出しているのです。
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