井深大(いぶか まさる)。盛田昭夫と共にソニーの創業者の一人です。
今から約28年前、1992年1月24日に新高輪プリンスホテルにて、2400人のソニーの全幹部を前にして、83歳になった井深大氏が語った言葉は、21世紀を予言したと思えるような内容でした。
当時すでに高齢でもあり体調も優れず出席予定ではありませんでしたが、その日のテーマであった「パラダイム」に惹かれてやって来たと本人は語っていました。
「モノと心の一体化」が次にくるパラダイムシフトだろう-と。
その内容はまるで現代を予言していたようです。
確かに、AIの発達でモノはどんどん人間と一体化していると言って良いのではないでしょうか。
今後もっと進化して、さらに人間は心穏やかに気持ちよく暮らせるようになっていくでしょう。
井深大氏にはすでにこんなに先の世の中まで見えていたのでしょうか。
井深大氏の名言からその偉大さを学んでみましょう。
井深大の名言
・「自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」
この言葉は終戦からわずか半年後の1946年1月。
まだ人々は絶望のさなかで希望が見えない時に、大志と、技術者らの能力を発揮させたいという想いで記した、東京通信工業株式会社(ソニーの前身)
の「設立趣旨書」の表紙に記されていた言葉です。
今ではこの言葉はソニーで働く全ての社員が共有するスピリットとなっています。
・「常識と非常識がぶつかったときにこそイノベーションが産まれるのです。」
ウォークマンは「録音ができないテープレコーダーなんて売れない」という常識を打ち破って生まれたものです。
・「まず強い目標を立てて、それに向けて持っているあらゆる技術を動員して挑戦する事」
ソニーは他社がやらないものを全身全霊を掛けて挑戦してきました。
・「これからは「心」と「意識」を考えたものづくりの時代になる」
終戦の後、ものを豊かにするために「ものづくり」をしてきましたが、これからは、ものに流されずにものと付き合い、人々がどのように生きていくのかを考えなければならないと井深大氏は語っています。
・天動説から地動説に変わるぐらいのことがパラダイムシフトであって、「デジタルだのアナログだの」などというものは技術革新にも入りません。
それはただ道具が変わっただけです。
ものと心は本来別々で決して一体化しないものと言われてきましたが、それを一体化させることでパラダイムシフトが起きるのです。人間の心を満足させることで科学たる存在意義があるのです。それを考えないと21世紀は通用しません。」
今から28年前、全ソニー幹部を前にして「パラダイム」について語った言葉です。
井深大氏の生涯
1908年4月11日(明治41年)~1997年12月19日(平成9年)
栃木県上都賀郡日光市に生まれました。
祖先は会津藩の家老で、親戚には白虎隊で飯盛山で自刃した井深茂太郎がいます。
また、明治大学総理で牧師の井深梶之助や、ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長も歴任された井深八重なども親類です。
青銅技師で水力発電所建設技師であった父である甫が、雪道で滑った事故によりその後骨の病で亡くなっています。
死去に伴い、2歳で愛知県に住む祖父母のもとに引き取られました。
ですが、井深大氏が5歳の時、母であるさわは、日本女子大学校を出ている才女でしたので、上京して母校の付属幼稚園で働き井深大氏を育てています。
母親であるさわは、いつも井深大氏に父親のことを「研究熱心な人だった」と話して聞かせていました。
ですから井深大氏もいずれは自分もエンジニアになると思い込んでいたと語っています。
でも母親との2人の生活も井深大氏が小学校2年生の時に母親の再婚により終わってしまいます。
井深大氏は母親と別れて、再び愛知の祖父母のところで暮らすことになりました。
祖父母は優しい人でしたが、母親の恋しさはまた別です。
機械いじりに没頭した日々
母への恋しさ、その気持ちを紛らわすために、井深大氏は科学へと興味を向けました。
興味の赴くまま、自転車のランプを分解したりして実験してみるような子供でした。
やがて母親の再婚先である神戸に移り、そのころで日本一入学試験が難しいと言われた神戸一中に入学します。
でも井深大氏は勉強はそっちのけで機械いじりに没頭しました。
当時は大変高価な真空管を3本も使ったラジオを製作して、その性能でみんなを驚かせました。
その後第一早稲田高等学校、そして早稲田大学理工学部へと進みます。
卒業が決まり、東京芝浦電気(後の東芝)の入社試験を受けたのですが不採用となり、写真科学研究所(PCL)に入社します。
取締役であった増谷麟(現在のソニーPCL創立社長でソニーの育ての親と言われる)の屋敷に下宿します。
井深大氏が学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」がパリ万博で金賞を獲得しました。
後に日本光音工業に移籍。その後、日本光音工業の出資を受けて、日本測定器株式会社を立ち上げて、常務に就任しました。
盛田昭夫との出会い
日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社で、その縁で戦時中のケ号爆弾(太平洋戦争末期に陸軍が開発していた赤外線誘導の対艦徹甲爆弾で開発途中で終戦を迎える)の開発中に盛田昭夫と出合います。
井深大氏は13歳も若い盛田昭夫氏(当時、井深氏は36歳、盛田氏は23歳)についての印象を「こんなに洗練された人間が世の中にいるのか」と驚いたと語っています。
一方の盛田昭夫氏は、井深大氏の印象を「技術者としての見識の高さ」に大いに惹かれたと語っています。
東京通信研究所の看板を揚げる
井深大氏は終戦の翌月、東京に出ないと情報が集まらないと疎開していた長野市から上京します。
知り合いのつてで、1945年10月に日本橋の旧白木屋店内の3階に樋口 晃(ひぐち あきら)、太刀川正三郎(たちかわ しょうざぶろう)などの日本測定器株式会社の仲間とともに、個人の企業である「東京通信研究所」(現在のソニー)を立ち上げます。
なんとか焼け残っていた所とは言っても、白木屋の電話交換台があった狭い部屋で、建物のコンクリートの壁はひび割れ、窓のガラスも割れ落ちて吹きさらしのところでした。
それでも、なんとか会社が出来て、念願の「東京通信研究所」の看板を掲げ、自分たちの技術を世の中に役立てようと熱い気持ちでいっぱいでした。
ですが、具体的にどんな仕事からやればよいのか、何か仕事にしなければ会社は存続できません。
最初の給料は井深大氏の貯金で皆に渡したものの、金を得るための仕事を考えなければなりませんでした。
それでまず思いついたのがラジオの修理と改造でした。
そこで短波放送を聴けるコンバーター(周波数変換器)を開発しました。
世間には、壊れたラジオや敵の放送が聞けないように短波を切られたラジオはいくらでもありました。
人々は、世界情勢やニュースに飢えていました。
ですから、需要はいくらでもあって仕事に追われました。
盛田昭夫との再会
そんな状況が朝日新聞のコラムである「青鉛筆」で紹介されるとますます客も増えて大繁盛。
それにその新聞のコラムを見て、消息が分からず気に掛かっていた盛田昭夫氏も手紙をくれたのです。
折り返し井深大氏は上京を促す手紙を出し、その手紙を見るや、盛田昭夫氏は既に決まっていた東京工業大学の講師の件もあって、すぐに東京に出てきました。
そして盛田昭夫氏は研究所に顔を出すようになったのです。
これで、再び、井深大氏と盛田昭夫氏の交際が始まったのです。
失敗第一号の電気炊飯器
ラジオ修理の次に手掛けたのは、電気炊飯器です。
終戦で軍需工場が閉鎖されて一時的に電気が余っていました。
井深大氏は、毎日の生活の必需品を作りたいと考えて、「電気炊飯器」を作ろうと試みました。
でも、木のお櫃(ひつ)にアルミの電極を張り合わせただけの粗末なものでしたから、米の焚き具合にムラが出過ぎて失敗に終わりましたが、これが記念すべき「失敗第一号」です。
ちなみに、日本初の自動式電気釜として発売されたのは1955年東芝からの発売でこれよりだいぶ後の事です。
成功例は真空管電圧計が官庁に納入されたことです。
こうして、1945年の暮れには、井深大氏たちの仕事も徐々に軌道に乗り始めていきました。
東京通信工業株式会社設立
こうして1946年、東京通信工業株式会社として社員20名ほどの会社の設立式を迎えました。
初代社長は義理の父である、前田多門(まえだたもん)です。
戦後すぐに文部大臣を務めた人で、次女の勢喜子と井深大氏は結婚しています。(その後、長年別居を経て多門の没後に離婚)
専務に井深大氏、取締役に盛田昭夫氏が就任しました。
そのころに、会社の「設立趣意書」を書いているのですが、会社設立の忙しさで書いたことをすっかり忘れていました。
後に預けていた取締役の太刀川氏に「こんなことをお書きになっていました」と見せられ、「良い事を書いているなあ」と自分で感心していました。
その内容が、「自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」の一冊です。
設立趣意書を書いたことは忘れていても、考えはぶれていません。
「大きな会社と同じことをやったのでは、我々は太刀打ちできない。しかし、技術の隙間はいくらでもあります。我々は大会社では出来ないことをやることで、技術の力で祖国復興に役立てよう」それが井深大氏の設立の挨拶のことばでした。
資本金は19万円で機械設備もありません。
全員が会社のために頑張っているのですが、仕事で夜遅くなることも度々でした。
すると白木屋の出口は鍵を掛けられてしまい、仕方なく非常階段を使うのですが、泥棒と間違えられて警察がくることもありました。
でも、これは楽しい思い出です。
辛かったのはなにしろ物を作って売りたくても物が無かったことです。
逓信省より真空管電圧計の注文を50台もらった時も、これに使う真空管が手に入らなくて苦労しました。
闇屋を回ったり、軍の放出品が出ると聞けば秋葉原や、時には金沢八景から茨城まで探しに行きました。
せっかく手に入っても規格がまちまちで使えるものはごく一部。
工具も全て手製で、コイルも全て自分たちで巻きました。
ドライバーは焼け跡からオートバイのスプリングを拾ってきて作った物です。
でも、これも苦労とは言えないかもしれません。
最大の苦労は「金策」でした。
盛田昭夫氏が先頭にたって金策をしたのですが、設立当初の資金繰りもそうですが、「金融緊急措置令」により新円の切り替えが行われたことも大きく影響しました。それで新円かせぎをしなければなりませんでした。
金融緊急措置令とは、戦後発生した急激なインフレ対策で、新紙幣の発行に伴い従来の紙幣流通が停止される措置で、現金の保有を制限するために発表の翌日から預金を封鎖し、旧紙幣は強制的に銀行に預金させる一方で引き出しの制限をして混乱を招きました。
電気ざぶとん
新円かせぎのために井深大氏の考案した冬向け商品で、ニクロム線を格子状にして美濃紙で挟み、レザークロスで覆ったもので、サーモスタッドも付いていません。
さすがに「東京通信工業」の名前では売れないと「銀座ネッスル商会」という名前を考えて売りました。
社員の家族総出でミシン掛けをしたりした下請け作業です。
これがまた売れたのですが、火事でも起こさないかヒヤヒヤしたと井深大氏は語っていました。
クリアボイス
ピックアップと言って、レコード盤の溝から音楽信号を取り出す装置なのですが、戦時中は禁制品になっていましたから、需要はあるだろうと見込んでいました。
材料は空襲の焼け跡にころがっている鉄です。
測定装置なんてないので、全て勘にたよる手作りでしたが、音が良いと評判になってよく売れました。
後には量産するまでになりましたが、当時はなにしろ量産しても、それを入れるダンボールが手に入る時代ではありませんでした。
新聞紙にくるんで、神田や秋葉原に売りに行くという形でした。
事務所移転
そんななか、白木屋の7階が進駐軍のダンスホールになるので、井深大氏たちのいた事務所も取り壊すことになり、移転を迫られていました。
ですが、中々移転先が決まりません。
やっとのことで、岩間和夫(後の4代目ソニー社長で盛田昭夫氏の妹と結婚。井深大氏が仲人をしています)の叔父が京橋のビルを貸してくれることになり、引っ越すことになったのはいいのですが、なんと引っ越しの日は、事務所取り壊しの日の朝でした。
全員で引っ越し作業を始めましたが、その最中に間仕切りは壊されるわ、外では白木屋の店員募集で人が列をなすわ、そのうち雨は降って来るわのてんやわんやの引越しでした。
NHKからの依頼
旧軍用無線機を放送用の無線中継受信機に改造してくれという、NHKからの大きな仕事の依頼が来たことがありました。
まだ日本中の通信施設は壊滅状態で、NHKの放送施設もかなりの打撃を受けていたのですが、それを各地の放送のために修理回復しようというわけです。
無線中継の受信所をつくり、放送を全国ネットにすることは戦後の復興に急務でした。
でもなにしろ資材がありません。
それで目を付けたのが、軍の貯蔵物資です。
山梨・韮崎山中にあった大きな防空壕の中には陸軍の通信機材がまだ放置されていました。
その中に”地二号”という短波・中波のプラグインコイルの付いた対空無線の受信機がたくさんあったのです。
それを「日本の再建と平和のために役立てる」ということで、NHKがもらい受けてきてそれを修理改造することで可能になったのです。
品川の御殿山に工場と事務所の移転
吉祥寺にあった工場が地主から立ち退きを迫られました。
考えると、事務所と工場が別々のところにあるのも不便で経費も掛かります。
それでいっその事、一か所に引っ越そうということになりました。
ですが1946年の暮れも迫る時期で、1台あったダットサンも壊れて売ってしまった後でした。
インフレで新車を買うことなどとても出来ない時代でした。
井深大氏と盛田昭夫氏は二人そろって走り回って引越し先を探しました。
やっと見つけたのが、品川・御殿山にあった「日本気化器」(自動車用の燃料機器メーカー)が社員食堂として使っていたところです。
おんぼろのバラック工場でした。
そこが後のソニー本社のある所です。
工場の建物は、確かに粗末でおんほろバラックでした。
でも、そこで初めて全社員揃って仕事ができるようになったのです。
社員一同は歓声を上げ、互いに喜びあいました。
テープレコーダーの開発
ワイヤーレコーダー(鋼線式磁気録音機)を作るのもやっとの時期に、紙テープで音が出る機械のことを聞きました。
進駐軍のいるNHKの放送会館に出入りしている人からそのテープレコーダーを見せてもらうことができました。
実際に音を聴くと、それはもうワイヤーレコーダーとは比較にならないくらい音が良いのです。
「これだよ、我々のやるものは。これがこれからの商品だ。テープをやろう」
この時から、すでに井深の頭からワイヤーレコーダーのことはもう吹っ飛んでいました。
テープの音を聴いてしまったら、もう井深大氏も盛田昭夫氏も、それに取り掛かりたい衝動が抑えられません。
みんなを説得するには、その音を聴いてもらうしかありません。
無理を言って進駐軍の将校にテープレコーダーを持ってきてもらいました。
皆に音を聴かせました。
違いは明らかです。
先に経理に将来性があることを説明して説得し、30万円の開発費を出してもらえることになりました。
ですが、テープレコーダーはアメリカで出来たばかりの貴重品です。
まだ日本でテープレコーダーをやろうと考えている人は他にいません。
テープレコーダーの作り方
もちろん参考書もなにも無いので全て自分達で考えなければなりません。
唯一参考になると思われたものは「音響工学」という本のみで、それもたった2行「1936年、ドイツAEG社がプラスチックに磁気材料を塗布したテープレコーダーを発明した」という記述があるだけです。
手探りもいいとこです。
何かに磁気材料を塗布するんだ。
磁気性の粉を糊状にして何かに塗るんだな。
まずOPマグネットをすり鉢で粉にしてご飯粒で糊状にして、アルファベット文字電送機に使っていた、分厚い幅8mmの紙に塗って試しましたが、ザーザーという音ばかりです。
これではぜんぜんだめだと文献をあさり、やっとたどりついたのが蓚酸第二鉄です。
これを焼くとマグネ(酸化第二鉄)ができると本に書いてあるからこれが良いに違いないと思いました。
しかしそんな薬品は簡単には手に入りません。
井深大氏と盛田昭夫氏は二人で薬品問屋をしらみつぶしに当たりました。
やっとのことで見つけ社に戻り実験です。
炊事のおばさんからフライパンを借りて、蓚酸第二鉄の粉をしゃもじで炒りました。
この度合いを習得するのがとても難しい作業でしたが、苦労のかいがあって磁性の粉作りに成功しました。
さて、粉は出来たがそれをどう塗るかにも苦労しました。
スプレーガンや狸の毛の刷毛を使ったり、粉をもっと細かくということでその技術を知る為に化粧品会社におしろいの技術を聞きに行ったこともあります。
いろんな問題をひとつづつ解決していき、とりあえず装置を作って試してみようということになり、非常に原始的なものでしたが装置を作りました。
テープは10mしかなく、リワインドも手で巻き戻しです。
なんとかこれで音が出るということが分かって、本格的にテープレコーダー作りに取り組むことになりました。
テープレコーダーの製品化
苦労の末やっと製品として出来上がり、雑誌にも取り上げられて期待されています。
これは大儲けできると喜びましたが、いざ販売してみるといっこうに売れません。
いくら日本で初の画期的な製品で、良い物だと自信があっても1台16万円。
重さは35㎏もあります。
一般のお客様が手を出す商品では無かったのです。
でもテープレコーダーは広い社会層で必ず役立つという確証はありました。
それで一般の人でも使えるように説明書も作成していったり、もっと小さくポータブルにすることや、役に立つことを世間に広め学校から始まり、販売が広がって行ったのです。
ですが、教育現場での普及が中心で中々一般には広がりません。
アメリカではどうなのだろう?そう考えてアメリカに視察に出ました。
トランジスタとの出会い
アメリカでのテープレコーダーの普及もそんなに進んではいませんでした。むしろ井深大氏たちのほうが教育現場に広げただけ進んでいたのかも知れません。
アメリカに言った目的はテープレコーダーの普及具合を見ることだったのですが、そこでトランジスタと出合い、これからはトランジスタだと閃きます。
トランジスタとは物が動いて動作するのではなく、分子が変わることによって真空管と同じ働きをするものなのだ。だから、トランジスタには故障がない。真空管に比べても数段も小さくて済む、構造が簡単な上に頑丈なのです。
これで、ラジオを作ろうと思いつきます。
トランジスタはアメリカで開発されたものです。
トランジスタの特許取得により、国内生産に成功し、それを利用したトランジスタラジオを販売することになったわけです。
1955年のことでした。
現在の電子立国日本の基礎となったわけです。
1958年に商標名としていたSONYを採用して「ソニー株式会社」となったのです。
トランジスタラジオの成功からソニーは世界に進出し、その後「世界のソニー」と言われるほどに成長していったのです。
井深大まとめ
井深大氏はソニーの創業者の一人として有名ですが、東芝の入社試験には落ちてしまっています。
もしここで受かって東芝に入社していたら、その後のソニーは無かったのかも知れません。
ここでも、運命のおもしろさを感じてしまいます。
井深大氏は、他ではやらない事をやるという技術者として妥協をゆるさない人です。
戦後の焼け野原で資材を拾ってきては製品を作ったというのがソニーの始まりなんて凄いですね。
誰もが失意の底にいた時に、自分たちの技術を生かして日本を盛り立てようという気概もカッコいいですね。
誰もが落ち込んで暗い時に、人に希望を与えられる人ってほんとうにカッコいい。
それに28年前にすでに語っていた、「モノと心の一体化」が次にくるパラダイムシフトだろう-という話もまるで予言のように当たっています。
いろんな理(ことわり)や仕組みを深く理解していくとそんな先のことまで分かるのかも知れません。
先のことが解る老人には、誰もが成れるものではありません。
たとえ先のことは分からなくても、自分が信じた道をいくしかないのです。
成功者たちの生涯をみてみると、失敗したから良かったということが多いです。
むしろ、失敗こそが良いことと認識したほうが良さそうです。
とにかく行動しまくってなんでもどんどんやってみる。この精神で生きていきたいと思っています。
さとるのメルマガ登録はこちらからネットビジネスで本当に稼げる方法をお伝えします!