有名人の名言

シダックスの志太勤志の名言と成功さらに今訪れている危機について

シダックスと言えば「カラオケ」だけでなく、外食産業、学校給食や企業の食堂の給食事業が本業の会社です。

そのシダックスの創業者である志太勤氏は、高校野球の名門校である韮山高校に入学するも、病気で断念せざるを得なくなり、自殺を考えたと自ら語っています。

その時、出会った人が「野球だけが人生なんてことはないぞ。商売でもやってみたらどうだ?」と言ってくれたのがきっかけで、実業家になりました。

その後、何度も挫折を繰り返しながら、その度に気付き学んできました。チャンスを掴むには、時代の流れを読むことが重要と悟り、成功していきました。

志太勤氏の経歴や名言と、再び訪れている危機についても紹介します。

志太勤氏の経歴

ニッポンの社長 シダックス

1934年10月14日静岡県田方郡韮山町にて生まれる。静岡県立韮山高校卒業。

野球が好きで、高校野球で有名な韮山高校に入学したのですが、その前の年に韮山高校は高校野球で優勝し、提灯行列をするほど地元は湧き、強いあこがれを抱きました。

当然、志太勤氏も野球部に入部します。

厳しい練習も苦にならない程に夢中になりました、志太勤氏がご自身で言うには、140キロぐらいの球を投げていたとか。

スタミナもあったしレギュラーにもなれて、前途洋々と思っていたある日、静岡県の予選大会での事です。

1度目の挫折

右腕に激痛が走り救急搬送されます。診断の結果は「多発性関節炎」。

体中の関節にギブスをはめられ、医者から「もう野球は無理です」と宣告されてしまいます。

野球だけの人生だったのに、もう野球ができないなんてと絶望します。

もう生きる希望を無くしました。そして、熱海の錦ヶ浦海岸に行きます。自殺で有名なところです。

あまりにフラフラと歩いていたからか、公園の管理をしているおじさんが声を掛けてくれたのです。

そして、志太勤氏の話をいろいろと親切に聞いてくれたのです。

放っておいたら死んでしまうように思えたのでしょうね。

そのおじさんは、「野球だけが人生なんてことはないぞ。それだけの情熱があったら他の事をしても必ず成功するはずだよ。

商売とかはどうだ?事業家になって日本一の金持ちを目指すというのはどうだ?」と温かく言ってくれました。

そして志太勤氏は気付きました。

「日本一になるには、野球だけじゃない。商売だって日本一になれる。」

自分は日本一の商売人になることを目標にして生きることを決心したのです。

2度目の挫折

高校3年の時に、義理の兄から大衆食堂「おおごたつ」を譲渡され、その食堂を継ぐことにしました。

義理の兄は、他でもっと大きな食堂を新たに始めるとかで譲ってくれたのです。

トラックの運転手の為の食堂で、大変繁盛して学校に通いながらひたすら働きました。

睡眠時間が3、4時間はざらでした。

でも、ある時バイパス道路が開通した途端に、トラックの通り道で無くなり、ぱったりと客足は途絶えてしまいました。

誰もいない店内を見回し、あれほど賑わったのにと寂しさを感じながらの廃業でした。

3度目の挫折

そして次は22歳の時に兄の仕事を見習って、アイスキャンデーの事業をしました。

戦後間もないころでしたから、お菓子とかの甘いものが少なかったので、とても売れました。

しかも、水とシロップが原料でしたから、原価が安い。つまりとても儲かったわけです。

このアイスキャンデーの事業は静岡の東部で1位か2位のところまで行きました。

ですから、その事業を更に拡大しようと静岡県でも最大の規模で最新の設備の冷菓工場を建設したわけです。

そこに自宅も社員寮もあったのですが、それが完成して1年で火災により全焼となってしまいました。

火災保険にも入ってなかったので、借金だけが残ってしまったのです。

3度目の挫折で、またまた味わったどん底と言う訳です。

自分は運命に見放されている、度重なる不運に恐怖すら感じたと志太勤氏は語っています。

そうなると、もう故郷である静岡にも居づらくなり、東京に出る覚悟をしました。

志太勤 東京で再起を図る

まずは、家族を残し単身で東京に行ってみることにして、電車賃を作る為に、焼け跡の工場跡地に行って鉄くずを拾ってそれをお金に変えました。

そして、志太勤氏は自分を奮い立たせて新宿に向かったのです。

そして新宿に降り立った志太勤氏の目に映ったのは、活気あふれる多くの人達でした。

まるで毎日がお祭りのような人込みを見て、この人たちから一人たとえ10円でも儲けることが出来ればすごい金額になると希望が湧きます。

志太勤氏は、東京で日本一の商売人になると強く決心するのでした。

でも、東京の知り合いはたった一人しかいませんでした。

妻の父親の知り合いで富士フイルムの工場長をしている方でした。

ですから、この方を頼るしかありませんでした。

食堂の仕事をさせていただこうと、その方の自宅に何度も何度も通いました。

火事で洋服も焼け焦げてしまったので、洋服を裏返しにして仕立て直して着ていきました。

12回か13回目に訪ねた時の事です。

何度も訪ねて行ったので申し訳なくて、雨が降っていたのですが玄関の近くで立っていましたら、哀れに思われたのか奥様から「中にどうぞ」と声を掛けられ、台所でお茶をいただいておりました。

すると、工場長が帰って来て居間に通され、「君には負けた。」と、根負けして、許可をいただけたのです。それが給食事業の始まりです。

この給食の事業は、成行きで始まった物かも知れませんが、次第に志太勤氏は、「天職」と思うようになります。

天職と思うようになると、人間それは強いものです。

この仕事に全力を尽くして、大事に育てて行くことが自分の人生だと思えるようになると、使命感も芽生えてきます。

給食の仕事が天職だと思えるようになった大きなきっかけがありました。

それは、アメリカに視察に行ったときに出会った、シカゴにあるビッグフード社の副社長との出会いです。

元シカゴの市長も務めたこともある人で、その人から給食サービスの社会的重要性を教えられました。

企業の給食サービスというものは、企業の社員の健康を管理する仕事で、企業の生産の一部を担っているのだと言うのです。

そして、その副社長は、「自分はアメリカで一番になるから、あなたは日本で一番になりなさい」と言ってくれたのです。

その言葉に志太勤氏も興奮して、「日本一になる」と決心して、また給食という事業が自分の天職になっていったのでした。

カラオケ「シダックス」誕生

1991年に手掛けたファミレス「文明割烹館」の失敗で、カラオケ事業に転化したのが始まりです。

ファミレスは明治初期をモチーフに和食も洋食も両方が食べられることをコンセプトに始めたのですが、数店を開店させますが、すぐに採算割れを起こしてしまいます。

給食事業の経験は、いつもサラリーマン相手の特定多数のお客様が相手ですが、ファミリー相手の不特定多数のお客様を相手にするという外食産業の経験が無かったための失敗でした。

それで志太勤氏が考えた末に出した結論がカラオケ事業でした。

美味しい料理を出すカラオケ店として人気が出て、1993年には350店の出店数になり、1998年には業界№1にまで登り詰めました。

志太勤氏の考えるカラオケ事業とは、みんなの公民館のようにすることがコンセプトで、昼間の空き時間にはカルチャー教室に貸し出ししたり、会社の会議にも利用できました。

カラオケ「シダックス」の大成功で、シダックスと言えばカラオケの会社と思われてしまう人も多かったのではないでしょうか。

シダックス 志田勤の名言

・最初の商売であった食堂の失敗の経験で、「いくら商売の才覚があったとしても、いくら死ぬほど働いたとしても、環境が変わればどうしようもなくなることもある」ということを学びました。

この挫折は、貴重な財産になりました。

・東京進出の初めての事業である食堂事業の許可を得るために、工場長の自宅に説得に通った時に悟ったこと。この出会いが、私の給食事業の出発点になりました。

根気よく、誠実に接すれば、どんな人でもいつか理解してくれるものです。愚直であることの尊さと、また信頼から仕事がはじまるということを、このとき初めて知りました。

・「志」と「計画力」と「達成する力」の3つが起業家には重要です。

こうなるんだという強い気持ちの「志」と、「計画力」というと目標までの道のりを決めて、それがたとえば10年と決めたなら、逆算すると5年ごにはどの地点まで達している必要がある、それには1年後には何をしなくてはならないと逆算して計画を細かく立てることです。

「達成する力」とは、執念や集中力で、的に矢を射る時に的の一点に集中しますが、その時の集中力みたいに雑念を捨てて集中することです。

ちなみに副業も一つに絞ると成功します。また次の副業も集中して成功すると、さらに大きな成功がやってきます。

シダックスに今訪れている危機

シダックスのカラオケ事業が事実上の撤退をしました。

1997年に志太勤氏は社長を退き、息子の勤一氏に譲っています。

現在は、取締役最高顧問の立場ではありますが、シダックスのカラオケ事業は、2007年には629億円の売り上げがありましたが、2017年には170億円と下がってしまいました。

世の中が変わってしまったからです。

一人カラオケの対応も遅れましたし、シダックスのカラオケは高いというイメージも悪影響、すっかり「ビッグエコー」や低価格路線の「まねきねこ」などに押されてしまいました。

志太勤氏が社長の座を退いてから、時代の先を読む力が弱ってしまったと言われています。

いかに次の世代に事業を引き継ぐことが難しいかがシダックスでもわかりますね。

2019年5月にユニゾン・キャピタルという投資ファンドと資本業務提携をして事業の立て直しを図っていますが、今後の動向に注目です。

志太勤まとめ

何度も挫折を味わい、その度にその失敗を教訓に、やっと事業を成功させた志太勤氏です。

時代を読む目に磨きをかけて、カラオケ事業も大成功を収めましたが、その後の後継者が時代の流れが読めなかったのか、カラオケ事業も事実上の撤退となり、先行き不透明となっています。

2代目の後継者が苦労を知らなかったからと言ってしまえば簡単ですが、それは目に見えていることだけであって、実際のところはよく分かりません。

志太勤氏の息子に対する評価はとても高いのですが、実際はどうなのでしょう。

能力に加えて時代の流れに沿うのはとても大切です。副業でも同じことです。まずはいま一番稼ぎやすい副業に集中することが大事です。

あとは自分の特性に合ったことをやることですね。

さとるのメルマガ登録はこちらから
ネットビジネスで本当に稼げる方法をお伝えします!
◆メルマガ登録はこちら◆