白洲次郎(しらす じろう)は「日本一カッコいい男」と言われ続けています。
確かに、生まれも育ちも身長180㎝の容姿も申し分ありませんが、それだけではなく、GHQに一歩も引かぬ交渉が出来た唯一の人です。
GHQの要人から「従順なるざる唯一の日本人」だと本国に報告されたようです。
国内外の人脈を使って、連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍しました。
白洲次郎は、実は陰で動いたフィクサーであったとの見方もあります。
白洲次郎氏の記録はとても少ないので、推測だけが膨らんでしまいます。
長女の桂子さんが述べているのは、白洲次郎氏が亡くなる数年前の出来事です。
何日かに渡り古いかばんを持ち出し、中の書類を次々に火にくべていたのです。
桂子さんが「何を燃やしているの?」と父の白洲次郎氏に尋ねると、それには答えずに「こういうものは、墓場まで持っていくものなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていたといいます。
白洲次郎氏の口癖が「俺はボランティアではない」で、イギリス留学時代に築いた人脈を活用してイギリス企業やアメリカ企業が日本に進出する際の口利きなどで生計を立てていたと推測されています。
悪い意味で無く、日本の国益のために影響力をフルに使ったという意味で「フィクサー」だったのかもしれません。
白洲次郎の名言とエピソードなどから彼のカッコいい人物像と名言を調べてみました。
白洲次郎の名言
・「我々の時代にこの馬鹿な戦争をしたことで、元も子も失くしてしまった責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだ」
・「新憲法のプリンシプル(原理・原則)は立派なものである。
主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、政治の機構としては何か中心が曖昧な、前代未聞の憲法ができ上った。
だがこれも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集って作ったものだから無理もない。
しかし、そのプリンシプルは実に立派である。
マッカーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。
押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」
・「占領下の日本においてGHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、それはただ二人だけだ。一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくなんだ。吉田さんは、それで国民の人気を得ることができて、表街道を歩めたのだが、もう一人であるぼくは別に国民から認められることもなく、誰も知らないままこうして安穏な生活を送っている。けれども一人くらいはこういう人間がいてもいい。別にそのことで不満を感じたことも無ければ、いまさら感ずる年でもない」
・「税金が増え、我々の生活が今よりだいぶ苦しくなったとしても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいと思うのなら、それが国民の総意ならば、安保など解消すればいい」
・カントリー・ジェントルマンという生き方「地方に住みながら中央に目を光らせる、時流に流されないで自分の考えを身をもって実行する人。」を人生の目標にします。
・人に好かれようと思って仕事をしてはだめだ。むしろ半分の人には嫌われるように積極的に努力するぐらいでないと良い仕事は出来ないものだ。
・我々は戦争には負けたが、奴隷になったわけではない。
・運転手を待たせてゴルフをする奴なんかはゴルフをする資格がない。
・人様に叱られたぐらいで引っ込むような心臓は持ち合わせてない。
白洲次郎の生い立ち
1902年2月17日~1985年11月28日
兵庫県の今でいう芦屋市に貿易商であった白洲文平の次男として生まれています。
父の白洲文平は、幼少期よりアメリカ人の家庭教師から学び築地大学校卒業した後に、ハーバード大学と、ボン大学に留学しています。
このときの留学仲間には、近衛篤麿、新渡戸稲造、樺山愛輔らがいます。
帰国後は三井銀行や大阪紡績などを経て、白洲商店を創業して、綿貿易で巨万の富を得ていました。
父の白洲文平は、豪放ながら傲慢な性格だったと言われ、周りからは「白洲将軍」と畏れられていたようです。
建築道楽の人で多くの邸宅を次々に建て、「白洲屋敷」と呼ばれました。
兵庫県川辺郡伊丹町喜多村(現在の伊丹市春日丘)に建築した邸宅はなんと4万坪の敷地にマティス、ピカソ、コローやモネ、などの作品を集めた美術館に煉瓦造りの給水塔まで備えたものでした。
父の白洲文平の興した白洲商店は1928年(昭和3年)の昭和の金融恐慌で倒産しています。
そんな家に生まれた白洲次郎氏ですから、家柄は文句なしの超エリートです。
ですが、そんな環境に生まれたものですから、小学生の頃から先生が手を焼く問題児でした。
精道尋常小学校から、御影師範学校付属小学校高等科を経て、1914年旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学しています。
サッカー部や野球部に所属していましたが、手のつけられない乱暴者として知れ渡っていました。
当時の白洲家にはすぐに謝りに行けるように、菓子折りがいつも用意されていたといいます。
級友等を同乗させている写真が残っているのですが、アメリカ車のペイジ・オートモビルのグレンブルックを父親から買い与えられて乗り回していたようですから、その頃はまだカッコは良かったのかも知れませんが、ただの放蕩息子だったようです。
勉強には興味を示さず、神戸一中での成績は中以下でした。
成績表の素行欄には「やや傲慢」や「驕慢」「怠惰」などといった文字ばかりが並んでいましたから先生方が手に焼いた子供だったようです。
神戸一中時代(のち兵庫県立神戸高等学校)には宝塚歌劇団の生徒と恋仲になったとか。
白洲次郎氏の祖父である白洲退蔵が神戸女学院の創立に関わっていたので、白洲家には外国人女性教師が寄宿していて、ネイティブな英語を学ぶことができました。
イギリスへ留学
神戸一中を卒業してから、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに聴講生として留学しています。
留学時代は父親から今のお金に換算すると4000万円ほどのこずかいを、毎年送金されています。
留学先では、7代目ストラフォード伯爵となるロバート・セシル・ビング(ロビン)と親しくなり、彼にイギリス貴族のライフスタイルを教え込まれます。
1925年ケンブリッジ大学を卒業し、大学院へ進学しました。
白洲次郎氏の車好きは今でも有名ですが、その頃はブガッティ・タイプ35やベントリー3リットルを乗り回していたようです。
ロビンとは終生の友となったのですが、1925年冬にはベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行をしたりもしました。
父の事業の失敗により帰国
1928年、青春を楽しんでいたのですが、父の経営していた白洲商店が昭和恐慌のあおりを受けて倒産してしまい帰国を余儀なくされました。
1929年、英字新聞の記者となり、伯爵の樺山愛輔の娘正子と出会い京都ホテルで結婚式を挙げました。
結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダという自動車で東京まで新婚旅行に出かけたと言いますからすごいですね。
そのころはまだ自動車自体が珍しかった時代です。
1931年にはセール・フレイザー商会に勤務して取締役になっています。
セールフレイザーの社長のジョージ・セールは白洲次郎氏のケンブリッジへの留学時代の学友でした。
1937年には日本食糧工業(後の日本水産)の取締役も務めています。
この時代は商談などで海外に出張することが多く、駐イギリス特命全権大使であった吉田茂と出会っています。
人脈が広がり、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになったほどです。
またこの頃は、牛場友彦や尾崎秀実などと近衛文麿の相談役として行動しています。
牛場友彦は、後に近衛文麿が内閣総理大臣になったおりに秘書官を務めていますが、尾崎秀実は、後にソビエト連邦のスパイで「ゾルゲ事件」の首謀者の一人として処刑されています。
近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子であった文隆の目付役をしていたこともあったようです。
太平洋戦争勃発
白洲次郎氏は留学時代に、日本と海外諸国との国力の差を痛烈に感じていました。
また、ドイツではヒットラーが日本と同盟を結び、戦争色が濃くなっていきました。
白洲次郎氏は仕事で度々イギリスを訪れては、吉田茂とビリヤードを楽しみながら、世界大戦が始まれば日本は必ず負けると話し合っていました。
そして1940年、突如白洲次郎氏は全ての仕事を投げうって、東京を引き払い町田市鶴川に引っ越してしまいます。
農家を購入して純粋な自給自足の農民生活に入りました。
実は、召集令状が白洲次郎氏の元にも来たのですが、どうも人脈を使って撤回させたこともあったようです。
「武相荘」(ぶあいそう)と名づけられた古民家で農業に励んでいた白洲次郎の元に、吉田茂の使いの者が度々訪れるようになり、東京に呼び出されます。
終戦後の活躍
終戦となり、マッカーサーによる占領の時代が始まりました。
外務大臣に就任した吉田茂の元で、白洲次郎は終戦連絡事務局参与という肩書を与えられ、GHQ相手に日本側の立場を守る交渉人となったのです。
そして、憲法公布の年に吉田内閣が誕生し、白洲次郎氏は貿易庁長官を任命されます。
吉田茂の経済改革を助けるとして「白洲三百人力」と言われ、白洲次郎氏を頼りました。
また、昭和天皇からダグラス・マッカーサーへのクリスマスプレゼントを届けた際には、「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれています。
サンフランシスコ講和条約
吉田茂と共に講和条約の為に向かった飛行機の中でのTシャツとジーパン姿はとてもその時代のものとは思えない程今でもぜんぜんカッコいいオヤジです。
受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べ、さらに英語で書いたことに白洲が激怒しました。
「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはずだ。
その晴れの日の原稿を、こともあろうに相手方と相談した上にさらに相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」
と一喝しました。
それで急遽日本語に書き直すことになりました。
原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせたので、なんと長さ30mにもなり、直径10cmにも及ぶ巻物になりました。
内容には奄美群島、沖縄、小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれていました。
1951年9月8日この原稿はオペラハウスで読み上げられたのですが、その様子を海外メディアは「吉田のトイレットペーパー」と報じました。
その後、いわゆる吉田茂の「バカヤロー解散」で吉田茂が退陣後は政界入政治から縁を切り、実業界に戻りました。
実業界に復帰と晩年
実業界に復帰した白洲次郎氏は、東北電力の会長に就任し、当時東北地方只見川の水利権に着手しました。
古くから権利を主張してきた東京電力に対して、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えさせたのです。
超法規的措置とも言えるこの処置により、東北電力繁栄の基礎が築かれました。
そして東北電力退任後は荒川水力電気の会長や、大沢商会の会長、それに大洋漁業(現マルハニチロ)、それに日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBSの役員や顧問を歴任してきました。
晩年はゴルフに興じ、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務め、芝の手入れから、従業員の生活それに会員の行儀にいたるまで、 ひとつの妥協もゆるさないとしました。
会員でなければたとえ総理大臣でも追い返したといい、SPをコースに入れるなどはもってのほかという姿勢を崩しませんでした。
80歳まで1968年型のポルシェ911Sを乗り回し、三宅一生のショーのモデルで出演したり、車好きが高じて、トヨタのソアラのアドバイスをしたりしています。
1985年に妻の正子さんとの旅行後に体調を崩し、11月28日に死去しました。
遺言書には「葬式不要、戒名不要」と白洲次郎氏の父と同じ内容が記されていました。
妻の正子さんは、墓碑には不動明王を表す梵字をしるしました。
白洲次郎まとめ
確かに女性だけでなく男性からも憧れの対象としてダントツに支持される白洲次郎です。
ソフトバンクのCMの白い犬のお父さんの家族が「白洲家」と言って白洲次郎の家族がモデルなのでは?と言われています。
プリンシプル、プリンシプルと、奥様の正子さんが言うにはうるさいほどつぶやいていたとか。
原理原則を大事に生きながら、いつまでも少年のように車を愛し、日曜大工を愛しの白洲次郎。
ですが、当時は決して誰からも好かれる存在ではなかったようです。
「流暢な英語で、人を見下して話すところなど決して好感の持てる人ではなかった。」と当時のニューヨークタイムスの東京支局長に言われたり、吉田茂の側近として活躍していた昭和20年代後半は、元首相の威を借る「日本のラスプーチン」と陰口を叩かれて、評判が悪かったといいます。
高く評価されるようになったのは、吉田茂同じように、白洲次郎氏の死後しばらく経ってからのようです。
人に認められたいという欲求は結構捨てられないものです。
人に分かってもらえなくても、自分が原則原理に従い、それに忠実に生きることで不満になんか思わないという姿勢が、白洲次郎氏の一番カッコいいところなのかも知れません。
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