有名人の名言

リコー創業者市村清「経営の神様」の名言と教え!盛田昭夫や大宅壮一らへ

リコー創業者の市村清(いちむら きよし)は昭和初期から中期にかけての戦前を代表する経営者の一人です。

先見の明があるアイデアマンで、卓越した販売力があり「販売のリコー」と言われ、また難しいといわれる多角化経営に自ら進んで挑んだ人でもあります。

「経営の神様」と言われ、盛田昭夫や大宅壮一、今東光、邸永漢らに囲まれ教えを説いたと言われています。

「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義の精神で、日本の発展に全財産を投じて貢献した市村清氏の名言と生涯、それと新技術開発財団やコカ・コーラについても調べてみました。

市村清の名言

なぜ市村清氏の周りには、教えを乞う人が大勢取り巻いたのでしょうか?

それはこの名言の中に答えがあるのかも知れません。

・できない理由を考えないで、できる方法を考えよ

・「奉仕こそが商道である。」

・「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」この三愛主義こそが我々を互いに救う道なのだ。

・「人が海面を行くというのなら、自分は海底を行く。人と違うところに道は開けるのだ。」

・「儲けようという気持ちを捨てる事こそが、儲かる経営に繋がる」

市村の生い立ち

リコー三愛グループ 創業者 市村清

1900年4月4日~1968年12月16日

佐賀県三養基郡北茂安村生まれ。

幼少期は貧しいながらも、武家出身のきびしい父と優しい母、そして溺愛してくれた祖父との暮らしでした。

小学校の成績は6年生までずっと一番で、唱歌は君が代も満足に歌えなかったのでお情けで8点ぐらいでしたが、他の科目は全て10点。

成績は優秀でしたが、知恵がある悪ガキで厳しい父に墓地のどんぐりの木に縛り付けられたこともあったとか。

でも、将来に大業を成す者は、幼い時に色々と悩みある意味で何かを悟っているものです。

市村清氏も幼い時の経験から、その後の人間形成に影響したできごとがいくつかあります。

祖父と牛

貧乏で学校にもろくに行けなかった市村清氏が一番くやしかったという思い出です。

学校の成績は良かったのですが、上の学校に行くだけの余裕はありませんでした。

そんな市村清氏におじいさんが雌牛を1頭買ってきてくれました。

「お前が一生懸命育てれば、次々と子牛を産んで中学や大学に行く頃にはその子牛を売れば学校に行ける」

それを聞いて市村清氏はとても喜びました。

これで上の学校に行ける、未来が開けると大きな希望が持てました。

だから一生懸命世話をすることができました。

こずかいも使わずに貯めて、牛が食べるおからや飼料を買いました。

幼い市村清氏は、こずかいも使わずあらゆるものに耐えて牛を育てたのです。

ところが2年も経ってりっぱな雌牛に成長したころのある日、執達吏(法の執行官)がやって来て、借金のカタにその雌牛を連れて行ってしまったのです。

幼いながらも必死に抵抗して、その執達吏に噛みついたりもしましたが、祖父に「しかたないのだから我慢せい」と止められ、夕暮れの道を牛が引かれて連れて行かれるのを見送るしかありませんでした。

牛は市村清氏にとって自分の未来でした。

未来が理不尽にも奪われてしまったときの絶望感たるや言葉では言い尽くせないほどだったはずです。

祖父はその後2年で病死しています。

丹精込めて育てた牛を理不尽にも奪われた事や、看病の甲斐も無くあっけなく亡くなった市村清氏を可愛がってくれた祖父、幼いうちに無念さやはかなさを味わい失意の底を経験しました。

よく祖父の墓の前で空を眺めていたと市村清氏はその頃を思い出して語っています。

その思いからか、後に世の中の不合理に反抗し、市村清氏は納得のいかないことには妥協しないことを貫き通しました。

また、あっけない人の死に直面して人生に対して懐疑的にもなりました。

理不尽な叔母の仕打ち

もうひとつ、どうしても耐えられなかったことがあります。

小学校6年生になると校長先生や担任の先生に佐賀中への進学を薦められました。

その小学校からそれまで佐賀中に受かった者は誰一人いません。

やんちゃでしたが成績が良かったので、学校からも先生からも期待されました。

でも、家の貧しさから学資の工面がつかず諦めていたのですが、担任の先生が受けるだけ受けて見なさいと説得され、受けてみると好成績で合格しました。

ですが、入学となると制服も教科書も買わなくてはなりません。

そんな余裕も無いので、佐賀に住んでいる叔母の家に預けられました。

この叔母のお蔭で中学に通う事は出来たのですが、叔母は嫌々ながらも制服や靴を買ってくれたのですが肩身の狭い思いでした。

靴が足に合わなくても、ずっと我慢して履きました。

丁稚に出されるよりは、中学に行けたのだからずっとマシだと思い我慢しました。

学費を負担させている叔母のために、14歳の市村清氏は朝早くに多布施川の水を汲み、学校から帰って来ると裏の空き地を開墾して畑を耕したりしてどうにか2年生になりました。

2年生の春、佐賀の練兵場で日本で初めて飛行機が飛ぶ、というので学校でも見学に連れて行ってくれることになりました。

観覧料は一人5銭です。

ですが、その5銭を叔母は頑として出してくれませんでした。

「何様だと思っているのか?人並の事を考えるな」とどんなに頼んでも突き放されました。

惨めさに耐えられませんでした。

叔母はいつも迷惑そうでした。

自分の子供とも明らかに差別をしました。

市村清氏は一日中泣き続け、そんな思いまでして学校に行く気が起きなくなってしまいました。

ついに夏休みに帰省したまま、佐賀の叔母のところには帰りませんでした。

学校も辞めてしまったのです。

そして父の野菜売りを手伝いましたが、道では小学校の同級生と出合います。

佐賀の中学に進学したはずなのに、おんぼろの恰好で野菜売りをすることが恥ずかしくてたまりませんでした。

この、子供の頃に体験した2つの強烈な辛い体験が後に市村清氏の人格形成に大きく影響していて、理不尽には絶対妥協しない心と、人の痛みが解り人を愛し育てることに繋がったようです。

共栄貯蓄銀行に就職

野菜を売って歩いていたある日、共栄貯蓄銀行で事務の見習いを募集しているらしいという噂を耳にします。

母も「お前ならきっと受かる」と応援してくれたので応募すると、試験にはあっさり合格しました。

月給3円50銭の事務見習いとなって、給仕の仕事にはじまりソロバンや伝票書きを少しづつ覚えましたが、そのころ痛切に感じたのは勉強不足で、向学心が熱く燃えるのを本人も感じていました。

支店長にその熱い胸の内を話すと、本店の常務が東京での勤務を引き受けてくれるというので上京し、昼は銀行での勤務、夜は中央大学の夜間へ通う生活が始まりました。

東京での生活も極貧の生活の極みでした。

銀行勤めなので服装は月賦でそろえ、安い下宿を探しては渡り歩き、学費も払わなくてはなりません。

それでいて人の世話になることを嫌い、給料日前にお金が無くなっても人に頼ることが出来ませんでした。

夜中にあまりにもお腹が空いて、枕の中の古小豆を煮てたべようとしたこともありました。

共産主義との出会いと病

そんな時に、大学で共産主義に出会ったのです。

資本主義の不合理が貧富の格差を産んでいる。それと戦うために共産主義の運動が起きている。

市村清氏にとってこの思想は衝撃でした。

貧しさも全て資本主義の不合理から来ているのだと思いました。

この不合理となんとしても戦いたいと強く思いました。

若い時のエネルギーとはそういうものです。

共産主義にとりつかれたかのようになり、それが正義だと思いました。

でも、共産主義で逮捕でもされたら実家の家族にも迷惑がかかる。

これらの全ての縁を断ち切ってから運動に入ろうと、周りの人たちに縁を切ると宣言する手紙まで送ります。

でも、実際運動に参加した者の逮捕の話の経験などを聞くと、そんな宣言などは何の役にも立たず周りを巻き込んでしまう事を知ります。

自分は自分の信じた道を貫きたいが、それは家族や周りの人まで巻き込んでまでしてもよいのだろうか?と市村清氏は悩みました。

巻き込めば大変な事になる。

両親だけでなく親戚も友人も多くの人に迷惑が掛かる。

実際、その当時共産主義で逮捕されるというのは大変な事でした。

市村清氏は苦悩と焦操感にさいなまれ、やがて銀行も休みがちになってしまいます。

そんな時、下宿していた寺の和尚に声を掛けられ「共産主義にとりつかれたようだが、何事も一長一短なものでそれだけが良いというものではない。」と教えられます。

「そんなことより、君の顔色は尋常ではない。このままだと病にとりつかれ命をおとすぞ」と言われます。

確かに、毎日寝汗が尋常では無かったので今度は死の恐怖にとりつかれてしまいました。

たまたま偶然にも御茶ノ水でばったり会った、東京に嫁いでいた姉が市村清氏の顔色を見て、そのまま順天堂病院に連れて行きました。

診断の結果、結核で半年の転地療養を余儀なくされ、絶対安静ということになりもう共産主義どころではなくなりました。

いろんな物に簡単にとりつかれる精神の弱さも、病になったきっかけと感じ、精神力を高めれば病も追い出せると、まず体を鍛える事にします。

そしてマラソンを始めました。そのお蔭なのか体もだいぶ丈夫になり、治療の甲斐もあって気力もだいぶもどってきました。

市村清 大陸に渡る

そんなときに、共栄貯蓄銀行が合併して作った大東銀行を北京に設立するという話があり、結核の治療には乾燥した大陸の方が良いというので転勤を申し出てそれが叶います。

そして北京に行き、その後上海へと進むうちに冷静にシナの国民性や情勢も分析できました。

決して理想とかを簡単には口にしない堅実さ。

機転がきいて実に頭が良い。

いざというときの度胸の良さ。

この数億の民を率いる人間が現れたら大変な国力になると感じていました。

そのころのシナは政治が乱れに乱れ、国民は貧困に喘いでいました。

市場で幼い子供が売り買いされていたり、小学校の女性教員が賃金を貰えず売春して生きているというのが実態でした。

その後、民衆が立ち上がり、蒋介石の軍隊がシナを統一するわけです。

市村清氏もその頃に世界情勢に目を向ける習慣が身に着いたようです。

135日の監房生活

市村清氏は横領罪の疑いで監房生活を送ったことがあります。

昭和2年の金融恐慌の波紋で大東銀行は閉鎖することになったのですが、同じように邦人系の潰れた銀行で、銀行のお金を内地に勝手に持ち帰ったという事件もあり市村清氏も同じような嫌疑が掛けられたのです。

市村清氏本人は、罪を犯していないので読書にふけり過ごしたのですが、結婚したばかりでしたから、奧さんには苦労をかけました。

その後、無実となり監房生活から解放された後には銀行も潰れていて何も残されていない生活からの再出発でした。

とりあえず、佐賀に帰りました。

保険外交員での再出発

金融恐慌の後なので、仕事なんていくら探しても見つかりません。

しょうがないので、保険の外交をしてみようと思いました。

周りの人はみんな反対しました。

母親も「まさかずーっとやるつもりじゃないわよね」と言います。

まったくの歩合制で契約がとれないとお金にならない仕事です。

とりあえず、妻を実家に帰してしばらく預かってもらうことにして、熊本の富国生命の九州支部で保険の勧誘を始めました。

熊本はもっとも保険思想の遅れているところとされて、保険の契約の第一人者であってもすごすごと逃げて帰るような土地でした。

市村清氏も熊本の手ごわさを感じて、普通の戦略では無理だろうと、医者や弁護士それに教師とインテリ層を狙ってみたのですが、2ヶ月経っても1件の契約も取れませんでした。

何度も何度も通ってみたのですが契約に結び付くことが出来ずに、とうとう諦めの心が出来て妻に「夜逃げ」を持ちかけます。

すると妻は「あなたが行くところにはどこでも付いて行く覚悟はありますが、あなたはこれで良いのですか?」

と言うのです。

「あなたは保険の勧誘を始めるときに随分と強気で、なんでもやれば出来るものだと言っていましたが、1つの契約も取れないで逃げて行くので良いのですか?」

この一言で市村清氏は目が覚めました。

「諦めるからダメなんだ。」そう思って熊本に帰りました。

一人目の契約者は、妻に言われた言葉で翌日9度目の訪問となった高等女学校の校長先生でした。

勇気をふりしぼって呼び鈴を鳴らすと「待っていましたよ」と言われたのです。

「今度来たら契約をしようと待っていたというのです」

その校長先生の話から、市村清氏の営業の仕事というものの奥の深さを学びました。

諦めてはいけない。客は最後の一押しを待っているかも知れないのです。

その後、第一号となった校長先生の紹介で次々と契約が決まり、ついには営業成績全国一となります。

それにより、佐賀県の監督を依頼され佐賀に向かう事となります。

理研の感光紙の外交

富国生命の佐賀代理店の店主の吉村氏は醸造業者であり、日本初の女博士になった理研化学研究所の黒田ちか子さんの実弟で理研感光紙の九州総代理店もやってました。

市村清氏にとって佐賀は地元でしたから、契約件数も伸び、それを取りまとめては吉村氏と度々会ううちに、理研化学研究所の感光紙の外交をやってみないかと誘われます。

そのころは「理研の感光紙」は天下の発明品です。

魅力的な商材でしたが、吉村氏は少々お金に細かい人でしたので返事を躊躇していました。

すると、ある晩、吉村氏の養子である息子さんが訪ねてきました。

実は感光紙の売れ行きがすこぶる悪く、このままだと解約になるのではないだろうかと思うと言うのです。

市村清氏が頼めば権利を譲るだろうと吉村氏の養子の息子さんが言うのでその気になりました。

吉村氏を説得し、なんとか2000円の保証金で権利を譲ることの了承を得ました。

理研の製造販売機関である理化学興行も最初は渋ったものの、熱意の説得によりしばらくの間は「吉村商店」の名前でという条件で販売権を得ることが出来ました。

2000円の保証金を作る工面も大変でした。

妻の実家に友人に知り合いとお金をかき集めて工面し、福岡になんとか店を構えました。

ですが、どうしても電話の保証金のお金が作れず、何度も通って根気で保証金なしの電話を借りる事ができました。

しかし番号は縁起が悪くて残っていた番号「4444番」ですが文句は言えません。

契約の条件で、最初の内はまだ「吉村商会」という名前でしたが自分の店を持った感激は忘れられないと市村清氏は語っています。

今後3年間は全ての娯楽を断ち切り、外交も荷造りも配達も一人でこなす決心をしました。

奥さんは事務員兼お手伝いさんの2人3脚です。

最初だけは、聞いたこともない会社名なので苦労しましたが、半年もすると売り上げは増えて大口の注文も入り始めました。

最初は月に200本の売上げが1年で月に3000本に増加です。

そのうちに、たまたま風邪がご縁でお世話になった医師が福岡市の目抜き通りにあるりっぱな洋館の家主で、敷金も無しに安く貸してくれるというので引越しました。

売上げも伸び、そうなってくるとさすがに人を雇おうかということになり、小僧さんを置くことにしました。

そのころの高等小学校卒業の16歳の住み込みでの賃金は5円が相場でした。

でも、市村清氏は考えました。

初めて人を使う立場になった。

今後、事業をもっと伸ばすには従業員の心からの協力が必要だ。

それには待遇面で他と差別して優遇することが大事だと考えました。

まず、賃金は相場の6割高の8円に。これは別格の賃金でした。

それから精神的な優遇として、どんなに若い店員でもかならず〇〇君と呼ぶ。

使用人扱いではなく、仕事の協力者という自覚を持たせるためです。

食事も3食一緒に食べる。

それも差別なしで同じ食事です。

市村清氏は自分が叔母の家に世話になっていた時の食事の差別を忘れませんでした。

若い時の食事の差別は辛いものです。

そんな思いを絶対にさせない。

自分の子供同然と考えて大事にしたのですから、店員も一生懸命働きました。

すると売上げも伸び、また人を雇うの繰り返しで昭和8年ごろには50人もの大所帯になり、吉村商店という名前も市村の名前になり九州総代理店となりました。

その後、満州での代理権を手にして、満州鉄道の契約を手中にしたいと考えました。

なにしろ日本の国策の会社です。

これが手に入れば業績は大きく伸びます。

ですが、いざ満州に渡り、満鉄に行ってみるとまったく相手にされません。

調べてみると裏に理研の東海地区の総代理店をやっている人間が絡んでいることが解りました。

代理権は市村清氏が持っています。

ですが、裏での工作もすべて調べ上げ抗議して、なんとか公平に比較試験をしてもらえるところまで漕ぎつけて、正々堂々と契約を勝ち取ることが出来ました。

そのまま裏工作で進んでいたら、仕事を失うことになっていた人も勝利を喜んでくれて、大勢が帰りの見送りに来てくれました。

そのことが理研本社の耳にも入り、大河内先生(理研の所長であり物理学者で子爵)直々に本社勤務を度々要請されます。

ですが、現状で充分な売上げがあり満足していたので丁重にお断りをしていたのです。

するととうとう4度目に破格の待遇を提示してきたのです。

九州・満州・朝鮮の代理店はそのままで、本社では感光紙部長待遇にする。

月給も交際費もたっぷり出すし、成績が良ければもっと上げると言うのです。

これだけの礼を尽くされて断ることは出来ません。

内心は鼻高々で意気揚々と本社に向かいました。

市村清 本社で総スカン

でも、部長とは名ばかりで数か月のブランク生活が待ち受けていようとは、その時は思ってもみませんでした。

本社の誰もが挨拶をしてもそっぽを向きます。

用務員から食堂のおばさんまでもです。

そこで喧嘩をしてしまえば、100名近い店員を持つ代理店も辞めなければなりません。
とにかく様子を見てみることにしました。

どうも、みんなは市村清氏が若いので、がむしゃらに仕事をして大きなミスを起こすだろうと待ち受けているようです。

その時に一斉に排除する攻撃に出るつもりのようです。

市村清氏は眠れぬ夜を数日過ごし、自分なりの対応策を考えました。

「何もしない」これが作戦です。

朝ゆっくりと出社して「東京の視察に行ってきます」と会社を出て、ぶらぶらと何もしない生活が始まりました。

暇で行く当ても尽きて困っている時に、銀座の裏通りに「ランチタイム無料サービス」という看板をだしている「サロン春」という店を見つけ、長居が出来るので連日入り浸りました。

若い女の子が3~4人付いて相手をしてくれます。

昼間からビールを飲んで手品の練習なんかをしていました。

なにしろ交際費は潤沢にありましたから、およそ3ヶ月毎日通いました。

そのうち、あの男は何者だという噂がたつようになりました。

昼間に来て派手にお金を使って行くのですから目立ちます。

サロン春から築地警察署に連絡が行き、内偵が始まりやがて会社の耳に入った訳です。

会社の上司から呼び出され叱責を受けましたが、事の次第を説明した結果、緊急役員会が開かれ「感光紙部だけは、今後一切人事権、経理一切の干渉は不要です。全て市村氏に任せる」という決定が下りました。

市村清 理研感光紙株式会社設立

昭和11年に理研感光紙株式会社を設立し、市村清氏が代表取締役になりました。

市村清氏の事を認めて本社に呼び寄せ、挙句の果てには会社まで設立して代表取締役にまでしてくれた理研の大河内先生への恩返しも兼ねて必死で働きました。

コストを下げるために協力してくれた王子製紙が不良品を出した時に、工場長に泣きつかれたのであえて制裁を出しませんでした。

それがその後の自主統制で紙が入ってこない時に王子製紙はあの時のお礼だと逆に3割増しで納入してくれました。

王子製紙の不良品もさばけましたし、業績は上がり、大河内先生の期待に応える事が出来、その後いくつかの会社の社長を兼任することになりました。

多い時で12の会社の重役を兼ねたのですが、こうなるといろんな噂がたつものです。

「市村は理研コンツェルン内に市村コンツェルンを作ろうとしているのではないか」などと陰口をたたかれます。

大河内先生は側近からそのような噂話を数多く耳にして、市村清氏に対して疑念を抱くようになり、だんだんと一線を引くようになります。

そしてだんだんと溝が深くなり、信頼を失ったと感じた市村清氏は12の会社全ての辞表を書きました。

ですが、ここで友人の引き留めの説得があり、理研光学一つだけでも残して、大河内先生の盾として残る決心をします。

戦争は理研にも様々な影響を及ぼしました。

理研の7つの会社を統合して理研重工業という会社を作ることになったのですが、それで銀行に融資を申し出ます。

するとそれを機に理研コンツェルンに日銀や興銀が入り込んできて口出しをするようになり、7人の社長が一度に辞める事になりました。

間もなく大河内先生から呼び出しがあり、「このままでは銀行家の下で働くことになるから、理研光学と飛行機特殊部品と旭精密工業の三社を理研から切り離すから市村個人の事業としてやりなさい。」とおっしゃいました。

こうしてまた市村清氏は3社の社長となり、その後、朝鮮に理研特殊製鉄をつくり、奉天に満州化学工業を建て戦時産業の一環を担いました。

市村清 戦後の方向転換

敗戦に関しては、軍との密接な仕事の関係で他よりは早く耳に入っていました。

自宅に全重役を集めて対策会議をしました。

もう軍需産業は無くなります。

どうやって、何をして大所帯を掲げて生き残るのか?

何かを製造するという仕事では、アメリカの圧倒的技術に押しつぶされます。

旭精密工業だけは残すが、後は物を販売するサービス業を開拓していくことに方向が決まりました。

では、どこで何を売るのか?

何を売るにしても場所が命だろう。

戦後の日本はどこが中心になるのだろうか?

戦前はなんといっても銀座4丁目が中心地でした。

それは、鉄道と隅田川と東京湾に近く、交通も人の往来も交差する場所だったからです。

これは戦後も変わるはずがないと市村清氏は考え、土地の確保に走ります。

周りは大反対でした。

大百貨店や老舗ばかりが軒を連ねる場所で小売り商売の経験も無い者が上手くいく訳はないと言うのです。

でも、やるしかありません。

じきに引揚者や復員者で350人以上の者が帰ってくるのです。

その者たちを路頭に迷わすわけには行きません。

みんなで愛情を持って団結しなければならないと考えて、店の名前も「三愛」としました。

「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義はそこから生まれました。

そして、安田銀行を説得し、銀座4丁目の六十九銀行跡地とその隣接地を手に入れる事が出来ました。

昭和21年7月に建物は出来上がりました。

大理石を張った建物で評判を呼び、食料品を中心に衣料から文房具まで手掛ける店にしました。

なにしろその時期では、まだ食糧難です。

闇市では公的価格では1個5銭の卵が13円から15円にもなっていました。

市村清氏はこの闇市価格を下げたいと思いました。

公的価格は無理でも「適正価格」で売ろうと決心して、闇市よりは数段安値で販売したのですから店の前は長い行列が絶えませんでした。

そして、日本橋、浅草橋、菊屋橋と支店を出し大繁盛しました。

でも、そこに経済局からクレームが来ます。

堂々と適正価格として公的価格を上回る値段で売られては黙視するわけには行かないというのです。

市村清氏は、「だったら公的価格で売ってやる」としたもんですから、さらに三愛の前には行列が続きました。

ですが、それで今度は銀座や日本橋の有力者がやって来て言うのです。

「三愛さんが公的価格で売られては、周りの零細な店は太刀打ちできないで潰れてしまう」

これは市村清氏も困りました。

周りに迷惑を掛けてまでやっては近隣の人たちに申し訳ない。

困っていたところに日本橋の警察署長がやってきて、神田の青物市場が都営の模範市場として始まったが、調べてみるとそこでさえ公的価格を守られてはいなかったので三愛の訂正価格を認めると言ってきました。

こうして堂々と適正価格での販売が出来るようになり、近隣からの軋轢からも解放されました。

ところが、店は繁盛しているのですが赤字になるのです。

原因を調べてみると、不慣れな食料品を食糧難の時代にやっていたからということでした。

専門家で無かったことでの無知が招いた損失もありましたが、食糧難に食品を扱って、しかも社員任せにしていたことで、社員の中には家に商品を持ち帰る者が後を絶たなかったのです。

それで菊屋橋、浅草橋、日本橋、木挽町の4点を閉鎖し、700名の従業員のうち500名の解雇となっての退却でした。

大変な痛みを伴いましたが、この時代では最善の措置だったと周りでは判断してくれました。

若い女性向けの店に方向転換

三愛ドリームセンター

さて、次は何を売ろうと悩んでいたある日の事、銀座の百貨店でトイレを利用していると隣の女子トイレでのおしゃべりが聞こえました。

時代は紛れもなく変化していました。

女性は男性からのプレゼントをねだる時代になっていました。

女性同士ではそんな内容をおしゃべりで語っている。

女性同士のおしゃへりの内容に商機があるのかも知れない。

市村清氏はその内容を知りたいと思い、女子学生のアルバイトを雇い大きな会社やデパートなどに行かせ、おしゃべりの内容を収集しました。

すると解ったことは、普通の家庭の主婦は生活にいっぱいでしたが、購買力の中心は若い女性が握っていました。

しかも銀座には、上流家庭のお嬢様が大勢買い物や働き手として来ていて、その人たちは食べるのに困っていないので、自分のこずかいや給料はおしゃれに使うようなのです。

それで「三愛」は女性をターゲットにしたおしゃれ専門店へと方向転換したのです。

若い女性店員の意見をどんどんと取り入れ、おしゃれをひたすらアピールしました。

この狙いはみごとに的中し大成功しました。

まったく違う分野にも恐れることなく入っていく市村清氏の勇気に世間は驚きました。

1963年銀座4丁目交差点にドリームセンターを建設しました。

あの丸いガラスばりのビルです。

その後、「三愛ジュエリー」や「三愛水着楽園」で一年中水着を売っている店を開設したり
若い女性の関心を常に集めていました。

その後、リコーは事務機器、光学機器に特化したメーカーになっていき、女性ファッション(婦人服・女性水着主体)の小売業の全事業を2015年にワコール他へ売却してリコーは女性ファッションから完全に撤退しました。

コカ・コーラとの関係

そんな市村清氏が率いたリコーは、2018年に56年続いたコカ・コーラとの関係を終わりにしたと発表しました。

リコーが保有している8.2%の株式を約560億円で売却したのです。

市村清氏がコカ・コーラボトラーズジャパンHDの前身会社の創業に携わっており、日本コカ・コーラ(東京)に次ぐ第2位の大株主となっていました。

日本でのコカ・コーラは、北九州、山陽、近畿、三笠、南九州がコカ・コーラウエストとして西日本の販売エリアを抱えていました。

その中で北九州コカ・コーラボトリングを設立する際に、地元博多の商業人佐渡島匡男が、日米飲料を立ち上げ企画しました。

ですがコカ・コーラ側では、一地方都市の一個人の商人にすぎない佐渡島との契約に難色を示しました。

そこで、佐渡島が市村清に直談判して、佐渡島自らは副社長、市村清を社長として日米コカ・コーラボトリング株式会社を設立し認可されたのです。

前述の経緯から、同社はリコーの傘下となり、コカ・コーラウエストに引き継がれていたのです。

リコーは今後この売却で得た資金をM&Aなどに充てて行く予定のようです。

新技術開発財団

市村清氏は、科学技術の進歩は、経済社会の発展と国民生活の向上に不可欠な要素となっていると思いました。

このような情勢で将来にわたり日本が繁栄する為には「創意工夫」というものを育成し、研究開発を行っていき、これを実社会に役立たせることが重要であると考えました。

諸外国に先んじて技術革新による新分野を醸成し開拓することこそが最も重要であると確信したのです。

それには財団にして活動することが不可欠だと感じ、設立にいたります。

市村清氏の保有する全有価証券と妻であるユキエ夫人の全有価証券がこの財団に寄贈されています。

市村清まとめ

リコーと言うと、今はコピー機などの事務用機器のメーカーというイメージですが、ここまでになるには長い長い歴史がありました。

市村清氏を取り巻いて教えを乞う面々がまた凄かったのです。

盛田昭夫や大宅壮一、今東光、邸永漢などなど。

盛田昭夫氏はもちろん井深大と一緒にソニーを創った人です。

大宅壮一氏はジャーナリストでノンフィクション作家で評論家です。

今東光氏は天台宗の僧侶でもありますが、小説家でもあり参議院議員も務めています。

邸永漢氏は日本と台湾で活躍した実業家で、作家でもあり経済評論家や経済コンサルタントをしていた人です。

いずれの方々も数多くのテレビに出演して、歯に衣着せぬ評論家として活躍した人です。

自分の信じた道を進むということは簡単なことではありません。

挫折もあり、苦悩もあり、先を読み、勇気も必要です。

市村清氏は昭和の経済を支えた人の一人ですが、同時に日本の発展に貢献し、日本の未来のために全財産を投げうって捧げた人でもあります。

成功を治め、自分が得た物を未来の人の為に使う。なんともカッコいい生き方です。

そんな生きを憧れてばかりいないで、ぜひ目指してください。

何でもいいからとりあえず第一歩を踏み出すと、新しい未来が待っているのかも知れないのですから。

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