任天堂の山内溥(やまうち ひろし)は、任天堂の3代目社長で、社員から「組長」と呼ばれていました。
後には、キャラクターとなってゲームのソフトに「社長のごあいさつ」とかで登場したりしてますから、任天堂のゲームファンの方には「組長」というニックネームはおなじみかも知れません。
確かに顔が強面だからなのですが(画像を観てみてください)、社員からはとても愛され「社長の笑う顔がとても好きで、それを見たくてみんな頑張れた」と言われています。
ワンマン経営者としての一面と、社員に「好きです。益々好きになります。本当に凄い人です」と厚い信頼も受けていました。
そんな山内溥とはどんな人だったのでしょうか?山内溥の名言と息子と自宅も併せて調べてみました。
山内溥の経歴
1927年11月7日~2013年9月19日
任天堂創業者である山内房治郎の曾孫にあたります。
2代目が祖父の山内積良で、普通なら3代目は山内溥氏の父親である山内鹿之丞となるはずですが、実はこの人は婿養子で近所の女性と駆け落ちして失踪してしまいます。
まだ幼かった山内溥氏はこの出来事により祖父母に育てられることになります。
1947年山内溥氏が早稲田大学専門部法律家で学んでいた時の事です。花札やトランプの製造会社である、合名会社山内任天堂の販売子会社として、株式会社丸福(後の任天堂)を設立し、その際取締役に就任しています。
この時から後継ぎにするために、祖父が考えて、してくれたことです。
「相続をするなら、自分以外山内家の人間はいりません」と祖父に条件を提示していたために、従兄弟たちは祖父の計らいで外に出されていました。
1949年に祖父が病に倒れ、まだ学生でしたが急遽後を継ぐことになりました。
22歳で社長就任。大学は翌年の1950年に卒業しています。
社長に就任した山内溥氏を待っていたのは、労働争議でした。
若くて経験の無い新任社長は、争議で責められ追い詰められと苦しい経験をしました。
寝る間も与えずの争議に面しては、心も身体も疲れ切り、失踪した父親を恨む気持ちで自分を保ったような状態でした。
ですから、山内溥氏は父を激しく嫌悪し、後に父が訪ねてきた折にも門前払いにしたようです。
山内溥氏は積極的に社内改革をして労働争議を収めようと努力しましたが、結果的に争議が収まることになった一因は、山内溥氏のアイデアによる経営手腕です。
ディズニートランプの大ヒット
1953年に日本初のプラスチック製トランプを発売。
1959年にはディズニートランプを発売して大ヒット。
それまでのトランプはポーカーなど博打の道具とされていましたが、それを子供向け・家族向けという、団らんの玩具として販売するという発想には誰もが驚きました。
これは爆発的に売れ、もう山内溥氏に誰も文句を言わなくなりましたし、労働争議も収まりました。
ですが、山内溥氏が1958年にアメリカの最大手のトランプの会社に視察に行った際に、最大手なのにもかかわらず事務所が以外にも小さいことに気付きます。
「トランプだけでは天下はとれない。」と悟り、多角経営の道を目指すのですが、何をやってもノウハウ不足で失敗してしまいます。
やがてトランプブームの陰りが見えはじめると、多角経営の失敗も相まって一転経営危機に陥ってしまいます。
この経験から、後に山内溥氏は「異業種には絶対に手を出すな」と言い残しています。
横井軍平の入社
苦境にあえいでいる最中の1965年に入社した横井軍平(後に開発第一部部長として、ゲーム&ウオッチやゲームボーイ、バーチャルボーイなどの開発に携わり、任天堂を世界的大企業へと押し上げた一人)が、
暇つぶしに作って遊んでいた道具を、ウルトラハンドとして1966年に商品化させたところ、これがまた大ヒットを記録しました。
伸び縮みして、遠くのものをつかめるというあのおもちゃです。
こうして横井軍平氏を玩具商品開発の主任に据えました。
それ以降、電気や電子の技術を使った目新しい玩具でヒットを出しました。
これ以降おもちゃ屋では、「光る・動く・音が出る」のおもちゃが売れるとなったのです。
デパートのおもちゃ売り場が大きな得意先となり、1970年の光線銃SPがヒットし売上げも大きく伸びました。
アーケードゲーム
そして、光線銃SPの発展版ともいえる「レーザークレー射撃場」という施設を全国各地に展開させようとします。
一時は軌道に乗り掛けたのですが、そこで運悪く第一次オイルショックが起きてしまいます。
原油価格が高騰し経済は大混乱。
その影響で建設計画撤回が相次いで、任天堂は多額の負債を背負って、再び倒産危機に直面することになりました。
しかし山内溥氏は、アーケードゲームに可能性を見出し、その路線を捨ててはいませんでした。
タイトーのスペースインベーダーが大ヒットすると、任天堂もスペースフィーバーでそれに参戦。
山内溥氏は「遊び方にパテントは無い」と今後のアーケードゲームの発展にはお互いにソフトウェアを公開して交流することが大切だと発言しています。
家庭用ゲーム機
1980年には携帯型のゲーム機である「ゲーム&ウォッチ」がまたまた大ヒットとなる売り上げを記録しました。
レーザークレー射撃場の負債を完全返済しても、まだあまるほどの利益をもたらしました。
この成功により「家庭で楽しめるアーケードゲーム」という据え置き型のゲーム機「ファミリーコンピューター」の開発が始まったのです。
ここで山内溥氏は「アーケードはもうやめや」の発言で、アーケードゲームの事業規模を急激に縮小させました。
家庭用テレビゲームに専念するように体制も変えて行ったのです。
そしてあのゲームボーイの開発に入って行った訳です。
開発には横井軍平氏が関わり、「今さらモノクロで売れるのか」という疑問の声をよそに大ヒットとなります。
山内溥氏は主に液晶画面で細かく横井軍平氏に注文し、あまりのプレッシャーに横井軍平氏は「死にたくなるほど大変だった」と後に語っています。
社長退任とその後
山内溥氏の後継者とされたのは最初は末娘の婿である荒川實氏でした。
荒川氏は京都大学から米マサチューセッツ工科大学へ進み、その後丸紅に入った商社マンでアメリカの任天堂の社長に就任しています。
任天堂の米国進出に初期のファミコン時代から関わって、家庭用ゲーム機を米国に普及させた功労者でもあります。
シアトル・マリナーズを買収した時、中心になって動いたのが荒川氏でした。
ところが山内溥氏は「彼は任天堂の社長の器ではない」と言い、荒川氏を突然解任してしまったのです。
任天堂の最大の謎とされる事件で、今も真相は不明です。
そんな訳で前から、経営手腕にも目を付けていた岩田聡氏に白羽の矢が立ちました。
2002年に岩田聡(ゲームクリエイター・プログラマーで2015年胆管腫瘍のため没)へ社長職を譲り山内溥氏は取締役相談役に退きます。
2005年には取締役もはずれ相談役のみとなり、任天堂から長年の功績をたたえられて12億円以上の功労金を提示されますが、「会社の経営に使ってくれ」と辞退されています。
2013年肺炎のため85歳で京都で亡くなっています。
山内溥氏は筆頭株主で発行済み株式を10%所有していましたが、それを相続した4人には膨大な相続税が掛かり、納税のために株式の一部を売却することになり、任天堂が950万株を1142億円で買い取っています。
篤志家としての山内溥の功績
山内溥氏の凄いところは、全て個人資産からポンポンとお金を出しているところです。
シアトル・マリナーズへ出資
1992年にアメリカの大リーグ球団シアトル・マリナーズが経営危機に陥り、シアトルから移転しなければならないかもという時がありました。
山内溥氏は「長い間アメリカの任天堂を置かせてくれたシアトルへの恩返し」としてポケットマネーでマリナーズ運営会社の株を買い、山内溥氏の保有株数は49%となり筆頭オーナーになりました。
初の白人以外のオーナーです。
イチローが大リーグへの挑戦をした時のみは「何が何でもイチローを獲れ」と言ったのみで、それ以外一切金は出しても口はださない姿勢を崩しませんでした。
それどころか、筆頭オーナーなのに一度も球場にも行ったことがありません。
理由は「飛行機が嫌い」だからだそうですが、山内溥氏の死去が報じられると、球場では山内溥氏の姿が映し出され、チームの移転を食い止めた功績を紹介し、その年は「YH」のイニシャルがデザインされた喪章を着けてプレーしました。
2005年には、イチローの年間最多安打達成のお祝いと言って、個人保有していた任天堂の株式5000株を贈呈しています。
京大付属病院新病棟建設に出資
山内溥氏は2006年に、京都大学医学部付属病院に個人資産70億円を出資し、「大学病院の使命にふさわしい病院を作ってください」と依頼しています。
これにより、地上8階・地下1階で延べ床面積約2万平方メートルで病床約300の新病棟「積貞棟」を建設しました。
山内溥氏は最後をこの病院で迎えています。
投資ファンド設立
これも山内溥氏のポケットマネーを使ってのことですが、ベンチャーのゲーム会社を支援するための投資ファンドを設立しました。
「ゲームキューブとゲームボーイアドバンスの連携できること」
「開発期間は一年とする」
「任天堂による審査がある」
と条件付きながらも、無担保で融資が行われ、零細ベンチャーには魅力的でした。
山内溥の名言
・人事を尽くして天命を待つというが、失敗するとその途端に、ああすればよかった、こうすればよかったと、次々と反省が生まれるものです。
だから、どんなに人事を尽くしたつもりでも、人間は所詮は天命を待つ心境になんてなれないものです。
・娯楽を売る業界は、老舗だから安心なんてものはなりません。常に新しいものを出して行かないと生き残れない世界なんです。
・成功は目的ではなくて結果です。ただ運が良かっただけです。
・必需品なら二番手に売り出しても安ければ売れますが、娯楽品はそうはいきません。二番煎じでは安くても売れないのです。
・皆さんは、任天堂はなにか戦略とか秘密とか特別なものを持っていると思って期待しているかもしれませんが、そんなものはありません。
・ブームに乗ったと思ったら、それはもう売れなくなると受け止めるべき。
・将来の結果は誰にもわからない。ただ正しいと確信する道を歩んでいるだけです。
・祖父の社訓はあくまで祖父のもので僕のものやない。
・世間ではよく成功した人を尊敬する人がいるけど、僕には不思議でしょうがない。ただ運が良かっただけなのになんで尊敬するんでしょう。
山内溥の息子
山内溥氏には長男、次男、長女、次女と4人の子供がいます。
その中でも山内克仁氏は専修大学卒業後、電通に入社。10年後に任天堂に入社してアメリカ支社に勤務しています。
その後本社に戻って、映画ホケットモンスターシリーズの第一作からプロデューサーを担当。
山内溥氏は生前、克仁氏の事を「社長に向いていない事は親である私が一番分かっています」と発言していました。
業界筋も岩田氏が亡くなったことにより、克仁氏が取締役に昇格することはあっても社長にはなれないと言われていました。
克仁氏は2016年に任天堂を退社しています。
ちなみに2018年暮れに、数々の有名人と浮名を流した、伝説の芸妓と言われた「佳つ乃」が結婚を発表したのですが、そのお相手が克仁氏です。
山内溥の自宅
山内溥氏の自宅は京都府京都市左京区にある豪邸です。
山内溥氏が相談役のころアメリカのフォーブス誌で「日本の富豪ランキング」1位の座に輝きましたが、その時の資産額は約8100億円です。
任天堂の株価がその時は過去2年で3倍以上にもなっていました。
山内溥氏は任天堂の株を10%保有していましたから資産価値も上がったわけですね。
山内溥氏亡き後、この豪邸がどうなったのでしょうか。
奥様の美智子さんも山内溥氏が亡くなる前年に先立たれていますし。
おそらく、相続税の支払いなどもあり、その後の維持ができる子供はいないのではないでしょうか。
山内溥まとめ
任天堂は残っていますが、山内家は筆頭株主の座から滑り落ちてしまいました。
もしかすると山内溥氏はそれで良いと思っていたのかも知れません。
山内溥氏は自分が三代目として会社を継ぐときも、自分以外は山内家の人間はいらないと外に出しています。
能力の無い人間が創業家として存在していることは、会社の為にならないという考えが元々あったのかもしれません。
社員から「組長」と呼ばれていたようですが、本当に組長のような肝の据わった潔さのあった人のようで、それがワンマンとか独裁のようにも言われたようです。
山内溥氏は自分が成功したのは「たまたま運がよかったから」と言っています。
何度も経営難に直面し、それを打開できたのは「運がよかったから」と本人は言っていますが、生来の勘の良さというものもあったのではないでしょうか。
まず、最初にトランプを家族の娯楽に持ってきたあたりの経営センスは見事としか言いようがありません。
任天堂の今後の見通しも山内溥氏に言わせれば「運が良ければこれからも伸びる」ということなのでしょう。
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