日本電産の永守重信氏は世界で勝負との名言が数多くあります。創業当時から世界に出て行くことを決めていました。
「Nidec」という海外向けのブランド名も社名を登記するときにすでに決めていたのです。
創業当初から、国内は電機大手が占める系列の取引きがあり、それが壁となって後発の企業には門を開かないだろうと読んでいたからです。
また永守重信氏は「10兆円」を目標にするなら、グローバル化はもちろんの事ですが、BtoCつまり世界中の一般消費者を相手に最終商品を売ることも必要だと語っています。
永守重信(1944年8月28日)氏は「死ぬまで社長」宣言もしていますから、2030年までに10兆円という目標を全て自分の手で行うかも知れません。
永守重信氏の名言から、あなたにも参考になるであろう目標の立て方を探ってみました。
永守重信の名言
永守重信氏には世界を相手にする目標の立て方などの名言がたくさんあります。
・「困難は必ず解決策も一緒に連れてくる。」
人は困難に直面すると解決策を探す見当もつかずにそれから逃げる気持ちになるものです。
でも困難と真っ向から向き合ってみない事には解決策はみつかりません。
なにがなんでも解決するという強い意志で向き合った時にこそ解決策を見つけることができるのです。
・「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」「情熱、熱意、執念」「知的ハードワーキング」が日本電産の経営哲学です。
・グローバルに展開し利益を得るのが日本電産という会社ですが、その富を最後に持って帰る先は日本でなければなりません。会社だけが栄えても意味がないのです。日本の国や社会がよくならなければいけないのです。
・グローバルに展開していく企業なのだから、課長クラスでもプラス1ヶ国、部長クラスならプラス2ヶ国は当たり前。これは経理や人事などどんな部門でも同じです。
だから英語をマスターしたら若いうちに海外に行かせます。
現地へ送り出すことの方が語学学校に通うより早い。
だが、外国語はあくまでもツールで、重要なのは何を話すかです。
・「あわてるなかれ。おごるなかれ。」
海外の100年以上続く企業から得た教訓は、目先の株価や利益だけにとらわれず常に将来を考え必要な投資をしていくこと。
・目先の景況感で削ってはいけないものがあります。それは研究開発費と採用・人材育成です。これは時間がかかる投資なので削られがちですが、これを削ると将来の成長に必ず響きます。
・日本電産の新しい目標は「100年先も生き残って成長している企業」これは新しいステージに立ったことを意味します。
大企業ならば必ず抱えるリスクとも向き合い、分散や回避する能力が無ければ出来ない事です。
・「危機ほど楽しいものはない」
大きな危機に陥るほど、構造改革が出来て体質強化が図れて大きく回復・改善できる。
・新しいビジネスが軌道に乗った瞬間から、次の転進を考えて準備する必要があります。
・事業は必ず、伸びる時もあれば縮む時もあります。縮んだ時に持ちこたえる力があるかどうかで命運が解れます。
・一番以外は全てビリ。二番で良いと思ったらそれで終わりです。
永守重信の経歴
1944年8月28日に京都の向日市で6人兄弟の末っ子として生を受けました。
生命線がまっすぐ伸びているのを母たちが見て、「大隈重信」もそうだったと名前を「重信」にしたそうです。
小学校4年生の時、模型のモーターを組み立てる理科の授業があったのですが、音は静かなのに一番よく回って先生に褒められました。
普段あまり褒められることもありませんでしたが、珍しく褒められたことが大変に嬉しく頭から離れません。
それが生涯の仕事を生むきっかけとなったわけです。
工業高校の電気科に進み、職業訓練大学校の電気科とモーター一筋でした。
就職もモーターに関わる会社を6年間で2社ほど経験し、就職時に手にした自社株が値上がりしたことにより起業の資金も手にすることが出来ました。
ですが、世界で唯一の怖い存在である母が起業に関しては猛反対しました。
「京都というのは狭い町だから、お前が事業に失敗でもしたら一族郎党全てに迷惑が掛かる。どうしてもやるというなら私が死んでからにしてくれ」
母親のその言葉の重みは充分に理解できましたが、それに頷くことは出来ませんでした。
母親はその時70歳だったと言いますが、亡くなったのは94歳でしたから、亡くなるのを待っていたら54歳なので日本電産はいまのようにはなっていなかったでしょう。
どうしても断念できない永守重信氏に母親は「どうしてもやると言うのなら、人の2倍働きなさい。そうすれば成功できる」
母親は人の倍働いて、小作農家を自作農家にした人です。1日24時間は誰の上にも平等で一緒です。
だから、人が寝る間でも働けば勝てる可能性はあるという訳です。3年頑張って見通しがつかなかったら辞めようと決心して起業を決めました。
永守重信の日本電産創業
1973年28歳で日本電産を創業しました。
社長を含めて3人での船出でした。
独特な採用試験
15分以内に完食できたら採用
永守重信氏の奥様の父親が兵隊の時の体験した話から、早メシのやつは仕事も早いと聞いて、さっそく採用試験に昼飯付きにして募集してみます。
すると38名の応募者が来ました。
最初から15分以内に完食したら採用すると決めていましたが、応募者には「ゆっくり食べてください、その後で試験をします」とゆっくり食べることを強調して言いました。
食べにくい弁当にわざと作らせたのですが、15分以内に食べ終えた者が26人もいたのですが、その全員を合格としました。
マラソン試験
これは、走るのが遅くても決して途中で諦めたり休んだりしないで走り続ける者を採用すると決めて行った試験です。
大声試験
声の大きな学生を採用するというものです。
こんな独特な採用試験を行ったのには永守流とも言える考えがありました。
成績表などは見ても当てにならない。
当たり前のことをひたすらやれる人や、約束したことは最後まできちんとやる人を採用したかったからです。
人の本質を知るには、成績表や面接では解らないので、この独特な採用試験で必要な人材を探したのです。
日本電産上場と断酒
1988年に大阪2部と京都の証券取引所で上場を果たします。
普通上場までには30年は掛かると言われた時代に半分の期間で上場を果たすことが出来ました。
この時の祝酒は格別でしたが、元々ビール党の永守重信氏で夜中にトイレにも起きますし、体重も増えました。
トップとしての自覚から健康維持のために45歳の誕生日から断酒を決めて、その後一切アルコールは口にしていません。
益々、仕事一途の日々を送ることになります。
永守重信とトヨタショック
2008年12月22日に世界中を震撼させたニュースが入って来ました。
トヨタ自動車が赤字になるというニュースです。
そのころトヨタは日本だけでなく世界を牽引する企業でした。
その後、自動車や電機などの主要な産業で続々と赤字発表が続きました。
永守重信氏は「赤字は罪悪」と常に話していました。
トヨタはまだ資金があるだろうから倒産はしないだろうが、この赤字を引き金に倒産する危機に陥る企業もたくさん出るだろう、と世間は不況に拍車がかかることを危惧して混乱しました。
永守重信氏はこのトヨタの赤字の発表の3日前に「下方修正して減益にはなるが黒字は確保します」と発表したのです。
本来はトヨタの発表と同じ日の予定でした。
それを急遽手配して3日前の発表をしました。
トヨタは赤字になるということは永守重信氏は感触として捉えていました。
ですからそれより前にどうしても発表する必要がありました。
そうする事により、従業員も経営陣も危機意識を共有できて一体になることが出来ました。
もし、トヨタの発表が先だったらその時の従業員の反応も世間の反応も予測が出来ました。
ですから、トヨタの発表よりも先に減益にはなるが黒字は確保すると発表したかったのです。
先に減益になると聞けば危機感をまず持ってくれます。
なんとか黒字の確保ときけば、危機感を持ちながらもなんとか生き残れるという安心も得られます。
その後にトヨタのニュースを聞いて、ショックを受けながらも自分たちの会社はまだ皆で頑張れば大丈夫だと一生懸命働くようになります。
これがトヨタのニュースを先に聞いたらどうだったでしょうか?
まず大きなショックを受けてからの、自分達の会社の減益の報告を聴いたら、トヨタだって赤字だったんだからしょうがないで終わってしまいます。
だからたとえ3日でも早く発表したかった。そういうことなのだと思います。
永守重信 首切りの危険性
一度「首切り」に手を染めると、その後「求心力」が落ちる。
減益発表に次いで「賃金の一時0~5%カット」を翌年の正月早々発表してニュースになりました。
でもこれは条件付きのもので、正社員の雇用の確保と賃金カットの分は業績が回復したらボーナスに上乗せするというものです。
これは、先に従業員と経営側の危機意識を共有していたので労組からも支持を得られました。
また従業員は雇用の確保をすると言ったので首切りの心配もしなくて良かったのです。
多くの企業が続々と人員整理を始めた中で、永守重信氏がこの方法をとったことにも意味がありました。
永守重信氏は貧しい農家で育ったので、一般の従業員が解雇の心配をしていることも分かっていました。
確かに人員整理をすると一時的に業績回復には役立ちます。
ですが、景気が回復した時点で従業員は会社への信頼を得て「求心力」を残せるのだろうかと永守重信氏は心配したのです。
首切りをすると、残った従業員の心も傷がつくものです。
だから雇用だけは守りたかったと永守重信氏は語っています。
その年は、大型M&Aも2件断念しました。
諦めて時期を待つのも大事だと、臨機応変に対応できる潔さも永守重信氏は持っています。
永守重信の10兆円目標にはM&A
永守重信氏は2010年の時点で、今後世の中で伸びていくものは「省エネ」「エコ」「軽薄短小」「ハーフプライス」だと予言しています。
それは日本電産には明るい未来が待ち受けている予言でした。
4つのテーマ全てが追い風となると語っていました。
ガソリンエンジンがモーターに置き換わっていけば、それだけで莫大な商機です。
自動車の次は鉄道→船舶→航空機とモーターの需要はますます伸びます。
マーケットの大きさから「10兆円」の目標は実現可能な数字なのです。
ですが、M&Aで世界の企業と積極的に手を組む必要もあります。
アメリカのエマソン・エレクトリックもその一つです。
アメリカでは常に働きたい会社や尊敬できる会社のランキングの上位を占めている優良会社です。
その会社とのM&Aの成功により、南米のブラジルの進出での経営も任せられるほどの信頼関係も出来ました。
今後はこのようにして、海外の経営を任せられるほどの信頼関係を結べるM&Aを増やしていくことが必須だと永守重信氏は語っています。
その為にも日本電産では英語を始め外国語の習得に力を入れています。
グローバル化していくと、どこの部門でも最低限英語は必須です。
人事部でも、経理部でもです。
英語を習得できた若手はどんどん海外にも赴任して、現地で外国語を習得できる環境を与えています。
タブレット型PCと読みの甘さ
また、タブレット型PCの流行がもたらした危機というものが2012年にありました。タブレット型PCの大流行で業績にブレーキが掛かったのです。
タブレット型にはHDDが組み込まれていません。
日本電産はPCのHDD向け精密モーターの最大手でしたので、このタブレット型の大流行でPCが販売不振に陥り、業績に急ブレーキが掛かったのです。
永守重信氏は語っていますが、いくらタブレット型が流行してもPCの売上げにそんなに早く打撃を与えるとは思わなかった自分の読みが甘かったと。
機内でノートパソコンをいつも使用しているのですが、周りをみたら皆がタブレットを見ているのに気づいて、これは一時的なものでは済まないと理解したそうです。
でも、その危機によりまた体質改善ができて一層強化出来たとかで2013年にはもう売上高も営業利益も急激に回復できました。
永守重信のまとめ
どのようなビジネスでも永遠に成長出来るわけでは無いと永守重信氏は語っています。
ですが、誰でも自分が関わっていることに関しては見通しが甘くなるものです。
何か異変があったとしても、それが一時的なことだと良い方に考えます。
すぐに元に戻ると根拠も無く考えるのです。
それは「変わってほしくない」という気持ちが働くからです。
でも今の時代、変化のスピードは加速しています。
かつてカメラがフィルムからデジカメに変わった時に、フィルムの大手メーカーはまだまだデジタルに置き換えられるには10年掛かると公言していました。
しかし、デジカメの人気はすさまじく3年と掛からずにフィルムに変わって時代を制覇しました。
テレビもそうでした。ブラウン管から液晶テレビに変わる時も、ソニーは10年掛かると言ってましたが3年と掛かりませんでした。
電気自動車も20年後の普及率を予測すると、自動車メーカーの答えは数パーセントと答えます。
ですが今、中国の新興メーカーを始め電気自動車のメーカーは50%にまで持っていくと息巻いています。
この変化のスピードが加速することも踏まえて永守重信氏は変化の影響が一番大きく出る新興国も見据えています。
新興国の方がインフラが整えやすいので、影響が一番明確に出るようです。
永守重信氏が掲げた10兆円という目標は唐突に掲げた数字ではなく、国内も海外も見据えて計画を立てている実現可能な数字なのです。
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