山田進太郎と言えば、言わずと知れた「メルカリ」の創業者ですが、彼は自分の凡人さをつくづく思い知り、そしてそれを受け入れることで人生が切り開き成功を掴むことができました。
山田進太郎氏は自分を見極めることの大事さを教えてくれます。そんな山田進太郎氏の経歴と名言、資産などについてもご紹介します。
山田進太郎の経歴
1977年9月21日、愛知県瀬戸市出身。
父が弁護士で母が税理士でしたから、ものすごくではないにしろ比較的恵まれた環境に生まれました。
おとなしい性格で、図書室で本を読みふけったりもする小学生でした。
両親は自由放任主義で自分で選択することを許してくれていました。
ですから、中学も公立はこうで、私立はこうでみたいな説明だけしてくれて選んだのは自分自身です。
そこで山田進太郎氏が選んだ中学は愛知県屈指の名門、私立東海中学校です。
中高一貫の男子校で、著名人を輩出していました。海部俊樹元首相や、建築家の黒川紀章などです。
山田進太郎が凡人さを思い知る
そんな名門校に入学して、まずはじめに自分の「凡人さ」を思い知ります。
山田進太郎が育った瀬戸市では頭の良い方だと思っていましたが、東海地方でみたらごく平凡、それどころか下から数えた方が早かった。凡人さは、高校に行っても同じでした。
勉強をすごく頑張った時もありましたが、それでも中の上ぐらいまでしか行きませんでした。
東海でこれです。世の中にはものすごく頭のいい人がいて出来が違う。これはもう敵わないと自分の凡人さを思い知った最初です。
頭のいい集団にいても自分が頭角を現すことは出来ない。
山田進太郎はどこの世界に行けば生き残れるのかを探して、必死でもがきました。
本を読むのが好きだったので、高校時代は小説家になろうとも思いましたが、村上春樹のある短編小説の解釈を読んでその発想に驚嘆し、またここでも自分の凡人さを思い知り小説家も諦めます。
早稲田大学理工学部建築学科を志望して、建築家を目指しデッサンなんかの勉強をしてみましたが、すぐに自分に才能が無いことを自覚して諦めます。
ですが、東京に出れば何か可能性が広がるかもと思い早稲田大学教育学部に進学しました。
そして、その在学中に人生を変える気づきに出会います。
1996年4月、早大生となって「アイセック早稲田大学委員会」に入ります。学生を対象にグローバルな世界のリーダーを育てる国際組織で、世界126の国や地域で約7万人の大学生が加盟していて、70年以上の歴史のある組織です。
そこの組織でも、社会人顔負けのプレゼンテーションを英語でこなす学生で溢れていて、そこでもやはり自分の居場所を見つけることが出来ませんでした。
世の中には、いろんな才能に溢れて輝いている人が数多くいる。才能だらけの中で自分が生き残るにはどうすればいいのか切実に悩み、部屋に引きこもる日々を過ごしました。
周りがみんな煌びやかで、昇っていくように見えました。
自分の昇る山が見いだせずに苦しんだ毎日でした。
山田進太郎の「凡人」を受け入れるという悟り
自分は、まだどこに昇るのかも見えていない。
そんな時に、「フリードリヒ・ニーチェ」の哲学書に出会い、「ルサンチマン」を知り、凡人がよく抱える「行動を伴わない内に秘めるだけの嫉妬」は何も産まないし、どこにも進めない。まずはこれを捨てようと気づきました。
優れた人は優れていると認め、自分は凡人だと認めることで、天才に嫉妬するのはやめて、ありのままの凡人の自分を受け入れてみました。
自分が凡人だと受け入れると、生きるのが楽になりました。
部屋に引きこもりながらも、インターネットの黎明期で、学校でもインターネットの利用を強化しはじめた時でしたから、山田進太郎氏もすっかりインターネットにはまりました。
あらゆる可能性がそこにはあって、また仲間と共有できる自分の居場所もできたのです。
「早稲田リンクス」という公認のサークルがあります。ウェブメディアの運営をするサークルで山田進太郎氏が入学した年に出来ました。
早稲田の4年生の時に、テレビ局や新聞社に内定が決まった人たちが立ち上げたサークルで、そこに入って2年生のころにはサークルの3代目の代表に選ばれました。
インターネットにはまっていた山田進太郎氏には向いていて、またそこはガツガツした感じではなく、どこかのんびりと楽しい雰囲気でそれでいて、新しい面白い事をやろうとしていて、サイトのデザインとかは率先してやりました。
そしてコンテンツの開発も強化して、役割分担も明確にして、あのアイセックからも優秀な人材を探してきて、学生同士で教科書や参考書を売買できるようなコミュニティとか、就活の情報が共有できるサイトなど、組織運営を学び、規模も拡大していき、その面白さにはまっていきました。
早稲田リンクスに入りたての山田進太郎氏の事を、当時を知る同級生は「触ると切れるジャックナイフ」みたいだったと言います。
それが、みんなをまとめながら、自分も丸くなっていったようです。
企業から集める広告収入も1年で100万近くにまで伸びて、アクセスも早稲田一となって手ごたえも感じられました。
その学生の時のサークルの代表をやっていた経験で、チームを作ることとか、何かをみんなで成し遂げることの楽しさを知りました。
「自分の山を作るってこれだ」と知ったのもこの時でした。
大学生活も3年、4年にもなると、早稲田リンクス以外にも、マンションの一室を借りて、CD-ROMで配布するデジタルマガジンの制作や、音楽や演劇などのサークル活動を動画と文章で紹介したり、映画が好きで「映画生活」という口コミサイトも立ち上げました。
世の中は、ネット全盛期で盛り上がっていました。
「ナナロク時代」という1976年前後生まれのネット起業家が次々と活躍して行く中で、自分は1年後輩。
世の中はお祭り騒ぎでしたが、次々と起業していく先輩の後に続くとは自分には思えなかったようです。
「自分は保守的ですからね。それで、就職とかも考えていました。」と山田進太郎氏はそのころのことを言います。
「楽天オークション」のインターンもして楽天に内定も貰っていたんです。
でも直前になって、やっぱり山田進太郎もなにかしてみたいと内定を辞退しました。
山田進太郎「ウノウ」設立
そして、山田進太郎は卒業後に「ウノウ」という会社を起業。
「映画生活」の運営と、ウェブサイト制作の受託を細々と行い、自分探しをしつつじっと時期を待っていたのです。
また、アメリカの憧れも捨てきれずに、グリーンカードの抽選を一発で当てるという幸運に巡り合い、渡米します。
アメリカで知り合い、意気投合した50歳代の女性と日本食レストランを開くことになり、直前にその婦人が「あなたも店に立ってね」と言われ、その時に気付いたのでした。
目の前の一人のお客様を相手にするよりも、自分は、インターネットで数千万人いや、数億人を相手にサービスを提供する仕事を追求したかったのだと。
そして、山田進太郎氏は帰国し本格的にウノウをベースにした活動に、力を入れて行くのでした。
2009年、携帯用無料ゲームの「まちつく!」は500万ユーザーを超す大ヒットを記録しました。
山田進太郎「ウノウ」売却
2010年に会社ごとアメリカのゲーム会社「ジンガ」に売却し、個人としても数億円の売却益を得て、ひとまず成功を治めます。
でも、実は本人にとってはこのウノウの一連の顛末は失敗の歴史だと語ります。
エンジニアとの開発が上手く進まず、結果人が辞めて行ったりして、結局は「ウノウ」の売却は、世界にウノウのゲームを広めるためだけで、挫折感さえありました。
売却後もしばらくはウノウに残りますが、経営方針が馴染めずに辞めて、世界一周の旅に出ます。それが2012年のことです。
そして、その世界一周の旅がフリマアプリの発想を与えてくれた旅になりました。
鉄道の駅で必死に物を売る子供や物乞いする子供を見て、自分がいかに恵まれて、物に不自由しない生活をしているのかを気づかされたのでした。
自分は、このまま何もしなくていいのか?と山田進太郎は思ったのです。
山田進太郎メルカリ創業
当時からフリマアプリはすでに注目されつつありました。
でも、山田進太郎氏は旅で気づいた貧しい人たちがどうすれば豊かになるかを考え、アプリがあの貧しい人たちのところにあったら便利なのにと強く思いました。
「不要になった物を誰かに売って、またそこで役に立ててもらう。これは、これからの世界の大事な考え方だ。」
その思いから、帰国して4ヶ月後に会社を設立し、その5ヶ月後には最初のアプリとなるあの「メルカリ」を配信したのです。
そして、すぐに手ごたえがありました。これは世の中に求められていたものだとそこで確信できました。2018年には東証マザーズに上場を果たしました。
問題が無くここまで来たわけではありません、ツイッターで話題になった「現金が売られている。しかも額面より高いって」の事件はご存知の方も多いのではないでしょうか?
これは消費者金融のようなもので、現金がすぐに欲しい人を相手の新たなビジネスでした。
利用規約に反しましたので、出品削除をしましたが、その後もSuicaをチャージして出品したりして、しばらく続きました。
また、違法なコピー製品の出品があったりと、山田進太郎氏自身も真摯に受け止め、一つづつ解決して行きました。
「ナナロク時代」の生まれとしては、後発の成功者ですが、山田進太郎氏は自分を凡人と認め、自分がすべき事、したい事をとことん自分に問いかけて、そして実行に移し成功した人です。
まず起業ありきで次々と起業していった人たちの多くはすでに消えてしまいましたが、じっくりと自分を見極めて何をすべきか考えてから起業した、山田進太郎という「凡人」の周りには、常に「超人」が集まって助けてくれています。
元LINEにいた矢嶋氏もそうです。
LINEが上場したのを見守り、スタートアップの会社で自分の力を試したい、と退職した矢嶋氏をメルカリに引っ張ってこれました。
それを、認めて許してくれたLINEの生みの親の舛田氏も同じ早稲田出身の後輩で、今でもたまに飲みに行きます。
山田進太郎氏だから許すという、助けたくなるオーラがあるのかも知れません。
今、メルカリは世界進出を狙っていますが、世界はそう甘くは無いかもしれません。
でも、山田進太郎氏の「僕は凡人」な姿勢は、超人を集め世界とおもしろい戦いが出来るのかもしれません。
山田進太郎の名言
凡人であることを自ら認めた山田進太郎氏の名言には教えられることが多いです。
・世の中の頭の良いやつらが目指している官僚やら医者やらと同じ「山」を目指しても負けは見えている。
小さくても別の「山」を自分で作らないと自分の価値を活かせない。
・結果は数字が全て表している。そこに正面から向き合って認めなければ前に進まない。いくらこのアイデアは優れていると思っても、結果の数字を見て、これが世間の評価なのだと悟って切り替えないと先に進まない。
・海外進出をアメリカから始めたのは、アメリカは多様な人種の集まりで、アメリカで通用するサービスでないと世界では通用しないと考えたからです。
山田進太郎の資産
2018年東証マザーズに上場したメルカリの初値は公募価格の3000円を上回り、5000円の値が付きました。
まあ最初は上がるものです。それにより、その時点では、山田進太郎氏の保有する株式評価額は2000億円となりました。
2019年8月では、株価は2500円台と半分ですが、2019年では急騰の期待もされています。アメリカでの結果が出るとまた大きく変化するかも知れません。
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