有名人の名言

ミツフジのウェアラブル誕生秘話!三寺歩の名言から学ぶ成功哲学!

フォーブスジャパンの特集で、創業10年以上で尚且つ売上高100億円未満の企業の中から、将来性があり価値ある企業に焦点をおいて選出する「スモール・ジャイアンツ」大賞に輝いた、ウェアラブルで注目されるミツフジ株式会社の三寺歩という社長がいます。

廃業寸前の父親の仕事を受け継ぎ、ウェアラブルで起死回生を果たしたミツフジ三寺歩社長の成功術とはどんなものだったのでしょうか?あなたの仕事にも生かせる考え方に迫ります。

ミツフジ三寺歩社長とは

THE INDEPENDENTS

1977年2月7日生まれ。京都出身で立命館大学の経営学部に在学中に海外在住の留学生やビジネスマンを対象にしたネット書店「ねっとほんや」を立ち上げた経験を持ちます。

まだAmazonが日本に進出してくる前の話です。

2001年に大学を卒業して、松下電器(現パナソニック)に入社。その後はシスコシステムズやSAPジャパンなどの外資系の会社で営業職のキャリアを積み重ねて行きました。

ミツフジ廃業の危機で手の打ちどころなし

そんなある日父親の康廣から突然の電話で、「金を貸してくれ」と言われます。資金繰りがつかないからこのままでは廃業することになりそうだと言うのです。

三寺歩の実家は祖父が西陣帯工場を創業したことから始まりますが、時代の流れで、生産拠点は海外に移行していき、日本の繊維産業は斜陽化の一途をたどります。

零細企業の集まる町は町ごと高齢化とともに衰退して行ったのです。

そうやって父親の代になり、西陣織業から事業転換していきますが、そんな背景の中父親の康廣は「機能性繊維」という新しい展開を求めてアメリカに渡ります。

ペンシルベニア州のスクラントンに銀メッキ繊維を製造する会社があり、「魔法の糸」と呼ばれ、日本の大企業も独占販売権を求めて押しかけていましたが、その権利を得ることが出来たのは三寺の父康廣だったのです。

父康廣は、ステーキハウスに連れて行かれ、大量のステーキを振舞われますが、それを全部平らげたのです。それを気に入られて「他の日本人はもう食べれませんと言って残すのにお前は全部食べた。

気に入った。お前はアメリカ人を理解しようとしている。」と言ってくれたそうです。

銀メッキ繊維というのは、特許ではなくて作り方のノウハウなので、気に入った人間以外に教えたく無かったそうです。

こうして父の康廣は銀メッキ繊維の独占契約を結ぶと研究開発に取り組み、メーカーと抗菌の分野において開拓をしていきました。

「消臭靴下」はヒットしましたし、大手企業との共同開発で、宇宙飛行士用の下着や、また心臓のペースメーカーを電磁波から守る服などの開発も手がけました。

父康廣の口癖は「銀メッキ繊維は世界の市場を取る」でしたが、実際には大手メーカーに左右されて、事業展開が上手くいかず、会社は大きくはなりませんでした。

そして、ある日突然の父からの「お金を貸してくれ」の電話になるわけです。三寺歩はその晩は眠れませんでした。

父親にいつも反発して、斜陽産業を捨てて自分は違う道を歩いていたのです。いつまでも現実を受け入れない父に軽蔑さえ感じていたと言います。

銀メッキ繊維は抗菌消臭の効果がありましたが、抗菌剤が登場したことで、その価値も下がっていました。

また、取引先の大手であったカネボウも粉飾決算の発覚により消えてしまったのです。

ですから、経営の悪化は当然の成行きで三寺歩は、もはや手の打ちようも無いと思ったと言います。

ミツフジの後継者になる決心

ですが、眠れずに考え続けたことは、自分がこうしてここまでこれたのは、祖父が起こした織物工場から始まり、父の康廣の努力によって大学まで行かせて貰えたと思い、「御恩を返す番が来た」と感じたと言います。

「お金は出します。その替わりに自分に会社経営させて欲しい」と後継を申し出たのです。実家に戻ってまず最初の仕事は、取引先まわりをして取引停止のお願いをすることでした。

今までの付き合いで継続していた赤字の商売が多数あり、とても支払いのめどが立たないので、8割のお客様との取引を停止して銀メッキ繊維以外の商材は切り捨てました。

銀メッキ繊維は利益率も高く、問い合わせも多かったのでこれに絞ろうと決めたのです。しかも低額の取引ですが、パナソニックやソニーなどの大企業の取引きもあったのです。でもまだそのころには購入の目的までを考える余裕もなかったのです。

その後、顧客回りをして将来の展望を探すうちに、大企業の研究所で他の物とは比較にならないくらいほどの、ミツフジの銀メッキ繊維の導電性の高さに注目されていることを知ります。

ウェアラブルの研究に使用されていることが解ったのです。それが判明したことで、三寺歩は売価を4.5倍にすることを決めます。

社内での反対もありましたが、外資系企業での営業経験を活かし、利益を大きくすることで今後の開発とお客様のフォローを継続することが出来る。

原価から売価を決めずに、価値で売価を決めるということで周囲を説得しました。この選択は正しかったと思います。

日本は、価値あるすばらしい製品を作りだすのに、売価設定が低く、そのために日本の生産性の低さの原因になっているとも言われています。外資系でその点を学んでいたのでしょう。

その年の暮れに、取引先に自分の社長就任のお知らせを兼ねて年賀状を買おうとして、会社にはもはや年賀状を買うお金も残っていなかったことには愕然としました。

自分の貯金でなんとか融資の返済をして食いつなぎ、なにしろ最終製品にまで持っていく挑戦をしました。

ミツフジのウェアラブル最終製品開発の奇跡

父はいつも、銀メッキ繊維はとても良い繊維なのになぜか売れないと嘆いていましたが、それは繊維だけで戦ってきたからで、最終的な製品にまで漕ぎつけてそれを売らなければ、今までと同じことになると確信していました。

銀メッキ繊維によるウェアラブル製品を作るという目標は出来ましたが、それは簡単なものではありませんでした。

ウェアラブル製品にするにはソフトやハードなど、データ送信のトランスミッターやクラウドの構築など、各パートに専門の知識と技術を必要としました。

それを全てこなしている会社はありません。そこに勝算を見つけたのです。

そこで、学生の時に行っていたネット書店の経験や、IT企業での経験があったので、必要な人間を集めることが出来ました。

でも、なんといっても成功できた一番の理由は、父親の開発した銀メッキ繊維の織りにあったのです。

今では、世界で最もきれいに身体データが取れると絶賛されている製品を完成することが出来たのは、父親がかつて市場化するために開発してきた独特の織りに秘密があったのです。

繊維業界は斜陽化によって技術の伝承が途絶えて、機械も残っていませんが、三寺歩の父親が残した会社には、それが奇跡的に残って受け継がれていたのです。

その独特の織りにより、通常はウェアラブルとして体のデータを取る場合は、皮膚に圧力をかけてセンサーを密着させて計測するのですが、三寺歩たちが開発したウェアは伸縮性のある布そのものがセンサーになって肌に密着するので、肌を圧迫せずに正確なデータが取れるのです。

ミツフジのウェアラブルに世界が注目!

この他には真似のできない技術による製品が出来たことにより、2015年にミツフジに社名変更した三寺歩の元に、フランスのバイオセレニティという医療の会社からサンプル依頼が来ました。

この会社が研究していたのは「てんかん」の予知でした。特に、この病気の子供を持つ親御さんにとっては、少しでも事前に発作を予知できることは切実な願いでした。

そこで、心拍間隔の異変をウェアで検知するという開発を担うのです。父親が作り上げた織りの技術とITを融合させて、最終製品にまで作り上げられる技術は、こうして世界から注目を浴びて行ったのです。

そのうちに、周りの友人たちも期待を掛けて出資してくれる人も出てきて、2016年にミツフジはIoT(「Internet of Things」の略。インターネット に様々なものを接続すること)ウェアラブルの「hamon」を発表するまでに至りました。

どこの研究所も、心電波形がきれいに取れることに非常に驚愕します。そして、この製品により可能性を色々とアドバイスしてくれ、また協力も申し出ていただけたのです。

どこの研究所も、研究所が求めていたものに出会ったことで多くの可能性が広がったのです。

そして、アメリカのプロスポーツ界からの注目により、さらに注目が高まるのです。アメリカではプロのスポーツに関して、莫大な投資をします。

スポーツインテリジェンスという分野が進んでいて、選手が最高のパフォーマンスが出来るようにコンディション管理や未来の体調の予測にまで研究が進んでいます。

ミツフジのウェアラブルウェアによってデータをとり、それに活かそうというのです。

Forbes廃業寸前からの復活

ミツフジのウェアラブルは他では真似できない技術の賜物

こうして、ミツフジはウェアラブルウェアで未来に起こる体調の変化を予防し備えていくということをビジネスとする会社になっていきました。

2017年に日比谷の国際ビルの1Fにミツフジはショールームをオープンしました。父の会社を後継してからわずか3年の出来事です。

東京ビッグサイトで「第4回ウェアラブルEXPO」が開催された折には、ミツフジも出展しました。

今や、リストバンド型、メガネ型、衣服型など、ICT(「Information and mmunicaion Technology」の略「情報通信技術」を指す)端末の「ウェアラブルデバイス」は体に装着することにより、心拍数、血圧、歩行数、消費カロリーから睡眠の質に至るまで、また食事内容などの日々の活動データを収集することによって健康管理に繋げるわけです。

総務省はこれらの「スポーツ・フィットネス型」についての予測を、世界市場が20年には110億ドル超に拡大する成長産業として見通しをたてています。

ミツフジの営業活動は、こちらから働きかける営業の形では無く、毎日の問い合わせでスケジュールが決まるほどの反響です。

ウェアラブル企業のなかで、世界でもっとも注目されているのがミツフジなのです。

生体情報を正確に取得できるトータルサービスである「hamon」は、アメリカNBAのバスケットボールチームを始め、世界トップクラスの企業からも提携話が次々舞い込んでいます。

国内でも期待が高く、医療や介護などはもちろんのこと、ゼネコンなどの建築現場での過酷な環境での体質管理や、自治体や、大学の研究所などから、また個人のアスリートではプロボクサーの村田諒太からも問い合わせがあったといいます。

提携の領域は広がる一方で、世界中から問い合わせが殺到し、スケジュール表はびっしりと埋まりました。

こうして、廃業寸前の父親の会社を受け継ぎ、日本の斜陽産業でありながら、新たな可能性を見つけ、世界から注目されるまでの製品を作りあげた日本の技術はこうして今、大きくなろうとしています。

三寺歩の考えるミツフジの未来

ミツフジは様々なパートナーを募集しているのですが、2018年に行われた販売代理店プログラム説明会で語ったところによると、ミツフジの強みである、世界で唯一の糸の段階からクラウドまでの全てを1社で作れるという点に於いての、この世界の市場を独占できる強みはあと一年半で終わると言っています。

なぜなら、その強みがすぐに弱みになると分析しているのです。

ミツフジの会社だけでは、開発のリソースがどうしても均等には行えない。弱い部分が出てきてしまう。だからこのままこの方法を続けていると突然死するだろうと考えています。

クラウドならクラウドに特化した専門の企業と組むなどしてパートごとに分かれた開発を続けないと、世界はどんどん追い付いてきているので生き残れません。

立ち位置を状況に合わせて変えなければならないのです。三寺歩は、今後の鍵は取得したデータをどう解析していくかにあると考えています。

ハード面ではすぐに世界に追い付かれます。要は、取得データの解析結果がいかに信頼できるか否かなのです。

この巨大で将来性のあるマーケットで生き残るには、お客様が考える安心で安全な生活を得るための確実なデータを提供することです。

今後は、過酷な現場で働く人の管理としての需要も増加が見込まれ、また新たに、少子高齢化に伴い、介護福祉のウェアの開発もしました。

少子高齢化は先進国の多くが抱える問題です。認知症対策などにも、有用なサービスをリーズナブルに提供できるように確立を急いでいます。

この、現在の状態に安心せずに将来を見通している三寺歩のミツフジの発展は期待できるのではないでしょうか?

三寺歩社長の名言

三寺歩はまだ最近注目されたばかりですが、成功を裏付ける発言をしています。

・斜陽な繊維産業に、IT業界にいた私が帰って来て助けたかのように言われますが、それは違います。周りの人が助けてくれたから出来たのです。

・大手繊維メーカーは、我々のビジネスを一切妨害しませんでした。それどころか、頑張って上がってこいと励ましてくれました。一緒に市場を大きくしようといってくれたのです

・今後は、我々が持っているノウハウを広めて、一緒に市場を大きくする番がきたと思っています。

自分の力ではなく周りの人が助けてくれた。大手メーカーは一切妨害しなかった、自分の会社だけでなく一緒に市場を大きくする。

などの発言からは、自分がというワンマンにならず、自らがんばりながら周りに助けてもらうという意識が成功へ導いたのかと思います。仕事にも副業にも生かせそうですね。

さとるのメルマガ登録はこちらから
ネットビジネスで本当に稼げる方法をお伝えします!
◆メルマガ登録はこちら◆