小嶋千鶴子(こじま ちずこ)イオングループ岡田卓也の実の姉で、現在のイオンの繁栄は姉のお蔭と言われるほどの功労者ですが、徹底した自己宣伝嫌いの為に今まであまり表に出たことがありません。
2018年にイオンの社員だけが読むことが出来る門外不出の本を「イオンを創った女」として出版されました。
イオングループの人事や組織経営の在り方を作り上げ、常に弟である岡田卓也の陰になり日本一に押し上げたその実力とはどんなものだったのでしょうか。
小嶋千鶴子氏の名言と功績を調べてみました。
小嶋千鶴子の名言
・「見えざる資産の蓄積を常に心がけよ」
見える資産、つまりお金や不動産などですが、これは価値を計算することができます。
でも、その見える資産の価値を最大限に活用し、増やして行くには「見えざる資産」が大事なのです。
「見えざる資産」とは「知識」や「技術」それに「人脈」などで、この見えざる資産がもっとも重要なのですが、これを蓄積するには、多くの時間や労力がかかります。
この見えざる資産が無ければ企業は成長出来ないと、蓄積することを重要としました。
・「不満の本質を見極めなさい」
「不満」というものはさまざまなカタチで表面化するものです。
反発・拒否・怠惰・反抗・抗議・すねる・非協力・無関心等として噴出するものですが、どんなカタチで噴出するかでは無く、問題はその原因がなにかなのです。
探ってみると、上司の一見ささいと思われるようなことがらでも、部下が大変傷つくこともあるのです。
たとえば、朝にあいさつしたのに返事がなかったとか、名前を呼び捨てにされたとか、反対に親しく呼び捨てにしてほしいといったことも不満になります。
また、会議に呼び出しが掛からないとか、OJT(新入社員育成のための教育訓練)の機会を与えてくれないとか、改善提案をしても返事もその提案を取り上げてもくれないとか、もっと重要な仕事や責任ある仕事を任されたいなどの、比較的高次元の不満もあります。
後者のような高次元の不満は「良き不満」であり、成長の証でもあります。
また、違う角度から見てみると、「根っからの不満分子」というような人もいます。
これは、いわゆる自己愛人間で、自分の不幸はみんな他者のせいであるとする人です。
形としては同様なのですがもうひとつ、「正義」という皮をかぶって現れる不満もあるのです。
至極ごもっともな意見を言って、他人を非難し、貶めるという場合です。これは厄介で、固有の不満を公の不満としてすり替えてくるのです。
元々個人間で発生した確執を仕事に絡めて問題視してくるのです。
上司は部下の心の動き行動を早く察知して、不満を抱えていると判断した場合は、適切な処置を施さなければなりません。
不満をそのまま放置しているとそれが「慢性不満者」になって企業が求める人材に育たなくなってしまいます。
・「店舗は人材育成にとって一番の錬成の場である」
店の仕事は単調で日々同じことの繰り返しだと思っている人がいたら、これは大きな間違いです。
お客様は変化していくものです。その変化を素早く察知して、素早い対応をするといった人間らしい、人間なればこその仕事をしなくてはなりません。
それには店長はパートタイマーや従業員に、市場の変化やお客様の変化について常に質問する習慣を身に付けてなくてはなりません。
それに、お客様はもちろんの事、従業員やパートタイマーからの質問や疑問にも常に適格に答えを出せなくてはなりません。
また、店長というものは、店の業績を上げるのはもちろんですが、能力を発見して適切な指導・教育をして人材を育てなければならないのです。
・「個人の意思から生まれた仕事には、感激があります」
強制的に嫌に仕事をさせられたものよりも、自発的に行った仕事の方が出来栄えもさることながら達成感には大きな違いがあります。
教育や訓練にも同じことが言えて、そのように導くことが大切なのですが、本人が自発的に仕事をするには、まず何が必要かを自分で知らなければなりません。
必要な知識や必要な経験が何かを気づかせることが上司の役目であるのです。
上司は単なる発令指示者ではなく、部下と共同で目標を設定し、何をするべきかを部下に気付かせ、自発的に行動させます。
それにより、達成感を味わう感激を覚えることは人間の行動科学にも沿ったマネジメントです。
・「「仕事」が人を創る」
小嶋千鶴子氏がした話としてこんな話が残っています。
「昔、まだ国鉄の時代のことですが、上野の駅で30年間も改札口の切符切りをやっていたという駅員さんがいました。単なる切符を切るだけなら、3カ月もあったら習熟するというのに、何と気の毒なことかと思いました。」
熟練の技術も知識も必要とせず、ただ毎日同じことをし続けるだけの仕事に自分の仕事をしていないだろうか?
創意工夫、改善、提案、強力、さらに上位へ行くための挑戦などや、教育訓練を受ける機会、仕事をもっと掘り下げて考えてみるなど、達成感や仕事の社会的意義や意味などを上司が教えることで、その仕事には大きな意味が生まれます。
そうすると入社年数が上がることで、能力も責任感も歴然と差が生まれます。
・「情報の共有、目的の共有、結果の共有」
上司が部下に腹を割って情報を開示して、現状を訴え、その上で協力を求めれば、部下は「これほどまでに自分を信頼してくれている」と感激して協力してくれるものです。
反対に情報を自分だけで抱えて、開示しない上司だったら、どう動いていいかわからなくて、望んでいる結果には辿り着きません。
資本主義ではなく、「人本主義」を唱える一橋大学の名誉教授である伊丹弘之教授によりますと、経営には人・モノ・金に加えて「感情」があると言っています。
部下の意見や、やる気を出させるためには、縦横上下の豊富なコミュニケーションが効果的で、共通の目標に向かってのPDCA(Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善))活動は良い結果を生むと唱えています。
それが不満足な結果で終わったとしても、その結果を共有することによって、より強い団結力と組織としての絆が生まれます。
小嶋千鶴子氏は全国の人事担当者会議を月に一度開催して、それには本社の人事スタッフも参加させました。
そこでは小嶋千鶴子氏からの指示や訓戒訓示などは一切なく、各員からの発表に対して短いコメントをするにとどめられました。
その場ではできるだけ自分の情報を開示して、同時に地域からの人事情報をつぶさに得て、さらにそれを全員に共有させるというものでした。
小嶋千鶴子の功績
地方の小さな呉服店であった家業の岡田屋からジャスコという企業へ、さらにイオングループへと発展させた岡田卓也の実は影の功労者が小嶋千鶴子氏なのです。
岡田卓也の実姉として弟卓也を育てあげ、そして社長となった岡田卓也を補佐して、数々の合併を成功させたのも影の実力者である小嶋千鶴子氏の支えがあったからと言われているのです。
その小嶋千鶴子氏が現役を引退してからすでに四十数年が過ぎており、すでに小嶋千鶴子氏を知る人も少なくなってきました。
イオン内部であっても伝説の物語になりつつあるのです。
自己宣伝を嫌う姿勢
小嶋千鶴子氏がこれまで世にほとんど知られてこなかったのは、自己宣伝を徹底的に嫌う姿勢があったからです。
そのためなのか、小嶋千鶴子氏を知ることができる著作物は過去には一切ありません。
古いもので言うと、「商業界」の主幹を務めた倉本長治氏がその著書の「あなたも成功できる」の中で、「弟を女の細腕にしっかりと抱き締めながら、老舗ののれんを如何に守るべきかに苦心したこの人の半生の物語は、別に私にも書く折があるだろう」と、若干のエピソードとして紹介している程度で、その半生の物語は結局実現していないのです。
また、1995年に発刊された「『創業者は七代目 ジャスコ会長、岡田卓也の生き方』では、そのあとがきで、著者の辻原昇氏は「インタビューのためお目にかかって本当に楽しかったのは小嶋千鶴子さんだ。七十九歳という年齢をいささかも感じさせず、歯切れのよい明解な語り口、機知とユーモアが壮快だった」と小嶋千鶴子氏を紹介しています。
ですが、こちらもそこまでで、そこから先の話にはなっていません。
さらには、流通業界・フランチャイズビジネスのカリスマ指導者として知られる渥美俊一氏も、小嶋千鶴子氏の側近のひとりである本部長を通して、小嶋千鶴子氏の本を書きたいので、とりなしてくれないかという打診があったのですが小嶋千鶴子氏は固辞しています。
いずれにせよ、名だたる著名人からの数々の出版の依頼を全て固辞するほどまでに自己宣伝を嫌いました。
幻の書「あしあと」
唯一、小嶋千鶴子氏を知るための書として、小嶋千鶴子自身が81歳の時(1997年)に刊行した自伝が「あしあと」なのです。
「あしあと」は一般に販売された本ではありません。
小嶋千鶴子氏からのプレゼントとしてイオングループ現役社員に配布されるのみでした。
「あしあと」は新入社員には必読書となっているのですが、小嶋千鶴子氏の文章は抑制が効いており、平たい言葉で淡々と書かれているため、その真意となると、当時の出来事を知る者でないと理解はなかなか困難だと思われます。
「あしあと」は、単なる自伝的なものとして捉えるのでなく「経営書」に近いと考えて読むと奥が深い本です。
その「あしあと」に現代的な解釈を加え、さらに一般のビジネス書として世に問いたいと発刊したのが東海友和著の「イオンを創った女」なのです。
50年前にCHRO(最高人事責任者)の役割
小嶋千鶴子氏は裏方・補佐役に徹し、またあまりにも強い個性をもつがゆえに「小嶋さんだからこそできた」とされて今まで、あまり継承すべきことがらとして次代に残されてきませんでした。
上に立つ者が、強すぎる個性を持つと、時として経営の暴走を抑制する立場を往々にしてとることもあり、煙たい存在と思われることも多いのです。
ですが、弟である岡田卓也氏とは対立していたわけではありませんし、それどころか、岡田卓也氏はいつも姉の小嶋千鶴子氏の功績をたたえ、感謝を述べています。
だからこそ50年前に小嶋千鶴子氏は労務管理人事とは一線を引いた、今で言うところの「経営人事」「戦略人事」の概念を確立して、CHRO(最高人事責任者)の役割をやり遂げることができたのです。
小嶋千鶴子氏の生き方には一貫して「凛」としていて、良いものはよい、悪いことはダメなのです。
人の意見や風潮に左右されることのない、まっすぐな生き方をする人です。
小嶋千鶴子氏の要求は特にビジネスにおいては下には優しく上には厳しいというものでした。
たとえ違う会社の役員であったとしても、業界や日本の将来を考えて、はっきりとものを言うし説教もするのです。
「無私」の基本姿勢
小嶋千鶴子氏の経営に対する姿勢はまず「無私」が基本ですから怖いものなしなのです。
かといって粗野というわけでもなく、横暴や横柄ではありません。
自宅を訪れる訪問客であっても「手土産」を一切受け取らないという人です。
それどころか逆に、帰りにはその辺にある本などを渡して、「これためになるから、読んどき。」渡すのです。
自分のことを話題にすることはまずありませんから、自己の売り込みや過去の功績をひけらかしたりもしません。
ただひたすら、向上を求め、自分も実践するという人でした。
100歳を越しても、新聞5紙に加え「エコノミスト」を読んでいるようです。
岡田家家訓「上げに儲けるな、下げに儲けよ」
自己宣伝をしないというのは、弟の岡田卓也氏(現イオン株式会社名誉会長)も同様で、姉弟ふたりともに基本的スタンスとして、「本業・実務に徹する」という考え方でいます。
小嶋千鶴子氏が監査役だったころにあったことですが、こんなことがありました。
人事本部のデスクにきて「あのA君はどうしてる?」とかつて自分が指導した人間のことを聞いてきました。
「財務本部の資金部にいます」と答えたると、ここへ呼んでほしいという。
A君が来ると早速、小嶋千鶴子氏は「いま何の仕事してんのや?」と聞きました。
するとA君は得意げに「会社の資金に余裕がありますので、その資金をつかって株などに運用する部署にいます。これまでに相当儲けることができているんです」と答えました。
すると小嶋千鶴子氏は「あほか君は。誰の指示でそんな卑しい仕事をしているのや。儲けは本業でするもんや。私は君をそんなことのために育てたんと違う。そんな事は今すぐ辞めさせるわ」と言って財務本部に血相を変えてとんでいったのです。
そしてその部署はすぐ廃止となったのですから、それは正しいと思っての事でも、それはそれで確かに小嶋千鶴子氏は厄介者扱いされることも理解できます。
A君の立場や、会議も通さずに部署をいきなり廃止にしてしまうのでは組織としてどうなのかとも言えます。
また小嶋千鶴子氏も岡田卓也氏も共にバブル時代でも、他社がゴルフ場経営だとか金融事業だと浮かれる中で、全く他の分野には手を出しませんでした。
これは岡田家に伝わる家訓である「上げに儲けるな、下げに儲けよ」ということを、商人としての実践したのです。
まさに、姉弟共に浮利を追わない堅実な経営姿勢をDNAとして持っていたのです。
「まず自分自身を変えよ」
かつてイオンには、スクラップ&ビルド(老朽化したもの)に対して躊躇しないでスクラップして、そこに一から種をまいて、育成成長させるという比較的長いタームでの起業とも言うべき思想がありました。
前社長の(二木英徳氏)は岡田卓也を評して「私は岡田さんのまねはできん。私は直近5年ぐらい見通せるが、岡田さんは10年20年先を見ている人や」といったほどです。
それほど、先を見越した岡田卓也の経営においても対応できる人材を育成することが重要であって、その「経営人事」「戦略人事」を行ったのが小嶋千鶴子氏だったのです。
その哲学を学び伝え、そして実践していくことができれば、それは企業の持続的成長を可能にするはずです。
小嶋千鶴子氏の教えは、「いつの世も教育は常に人間の未来を切り拓く可能性を秘めている」というものです。
それは人間の可能性の追求したものであり、人間しかできない創造の世界であるのだと教育の重要性を説いているのです。
そこで一番大切なのは「まず自分自身を変えることだ」と小嶋千鶴子氏は常に訴えていました。
女性パートタイマーの起用
小嶋千鶴子氏は女性の社会進出にも一役買っています。
まだ日本では「パートタイマー」という言葉がなかった時代に、子育てを終えた女性たちの募集を実施しました。
それから数年後には、今度は大卒女子の大量採用を行いました。
意欲と能力の基準を満たしていれば、性別、国籍、年齢、学歴は関係ないとして採用や任用・登用を行っていきました。
それを聞きつけた新聞記者たちが小嶋千鶴子氏に「さすが女性の人事担当常務だから女性の採用に熱心なんですね」とか「同性に理解がありますね」などと言ったりします。
すると小嶋千鶴子氏は、「あんた世の中をもっと勉強せなあかんな。私が女性だからといってなんにも関係あらへんことや」と不愉快そうに応対していたといいます。
小嶋千鶴子の生い立ち
1916年3月3日三重県四日市生まれ。
1男4女の二女で5人目に生まれた岡田卓也の姉です。
老舗呉服店に生まれましたが、父親の惣一郎が1927年に死去して、母の田鶴は惣一郎の理念を踏襲して、従来の呉服店の座売り方式から立ち売り陳列方式に変更して一部に洋服も取り扱う革新的な経営方針をとりました。
1935年には母の田鶴も死去して、千鶴子や岡田家の姉弟に株式会社の岡田屋呉服店が残されたのです。
そして、家業的商店経営から株式会社化した岡田屋の従業員の生活を千鶴子が支える形となりました。
1939年に株式会社岡田屋呉服店の代表取締役に23歳で就任したのです。
当時、料理や生け花の教師であった方の弟で、8歳年上の画家の小嶋三郎氏と婚約したのですが、民法をはじめとした当時の日本の法律で、夫がいた場合の婦人は夫の承諾がないと契約ができないことや、夫や弟が戦死する可能性もあったことから、結婚を先延ばしにしていました。
その後、弟の卓也が早稲田大学を卒業して、岡田家の当主となって帰って来たため、30歳で千鶴子は結婚しました。
そしてその後も弟の岡田卓也氏を陰で支えて、イオングループを日本一に育て上げたのです。
小嶋千鶴子のまとめ
すでに2000年には弟の岡田卓也氏も会長職を引退していますし、今となっては、小嶋千鶴子氏のことを知る人も少なくなった今になって「イオンを創った女」が出版され、注目を浴びています。
103歳になられてもお元気なようで、今でも新聞などを読まれていられるご様子で何よりです。
一貫して岡田卓也氏の陰に徹して、表に自分を出してこなかった人ですから、イオン以外の世間の人には知られていない存在でいたことが良かったのでしょう。
正しいと思ったら、すぐに行動してしまうので、社内では「面倒な人」と感じる人も多かったと推測します。
確かに、部署を一つ潰してしまうほどの力があるのですから、それもしかたのないことでしょう。
でも、功績はすべて弟の岡田卓也氏に譲り、自分はある意味悪役に徹してでも「切る時は切る」の存在だったのかも知れません。
企業というものは、社長にはさせてはいけないことがあり、社長にさせられない悪役を引き受ける人間も必要なのです。
そんな役を小嶋千鶴子氏が行っていたのであれば、女性ながらあっぱれというしかありません。
経営者にとって、信頼できるそんな存在がいるということはどれだけ心強かったことでしょう。
世の中の経営者から心底いてほしいと、望まれる存在だと思います。
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