有名人の名言

真藤恒のIHIやNTTの栄光と「リクルート事件」の挫折を名言から探ってみました。

真藤恒(しんとう ひさし)石川島播磨重工業(現:IHI)の社長、電電公社の最後の総裁でありNTTの初代社長・会長を務めた人です。

数々の功績を収めながら、「リクルート事件」で東京拘置所に収監され有罪。

公の場から姿を消しました。

真藤恒とはどんな人物だったのでしょうか。日本トップのビジネスマンから、ビジネスで成功し失敗しないための方法を学びます。

そして、その栄光と挫折を名言と功績から探ってみます。

真藤恒の名言

・「固定概念を破れ」

播磨造船所時代に、船は細長くなければならないという常識を打ち破り、「経済船型」と呼ばれるずんぐりむっくり型設計を作った

・第一人称で考え、第一人称で行動しなさい。

電電公社時代の言葉です。

電電公社は国営の独占企業であったために、「親方日の丸」思考で、世の中の動きに常に受け身でしたが、第一人称で考え、今何をすべきなのか自分自身に問いなさい。上からの支持をまっているのではだめだと説きました。

・電電語を使わないで、日本語で話しなさい。

身内の論理だけで物事を考えるなということです。

・「競争を伴わない民営化は大きな弊害をもたらす。」

電電公社民営化の際、新規参入事業者の参入を歓迎しました。これによりコストダウンが図られ電話料も低減されたのです。

・「民営化は万能薬ではない。」

事業の独占を放置したまま民営化に踏み切ると、逆に民業圧迫に繋がるという教えです。

真藤恒の経歴

朝日新聞 証言その時 狭き道を歩め

1910年7月2日~2003年1月26日

福岡県久留米市出身。

真藤家は久留米の有馬藩の家臣の家柄でしたが、父親が銅山の経営に失敗したために昭和になると生活は貧窮しました。

中学4年終了後に 佐賀高校(旧制)に進学したのですが、学費は奨学金と母親の内職でなんとか賄いました。

高校時代は幅広い分野に渡り本を読みふけり、その頃の学生に多かったマルクス主義(資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけの賃労働の悲惨な性質を廃止して、階級のない協同社会をめざすという考え)に憧れていた時期もあったようです。

卒業時に東大工学部機械科を受験して失敗してしまい、家庭教師をしつつ一年の間、浪人生活を送っています。

その後、昭和6年に真藤恒氏は九州帝国大学工学部造船科に入学しました。

当時は世界大恐慌で造船業も不況でしたから、10名の定員枠に7名しか応募が無く、事務課に願書を提出しに行くとそこで即座に「入学おめでとう」と言われ無試験で合格となりました。

大学の学費はブリジストンタイヤの石橋正二郎の援助を受ける事が出来ました。

その頃の九州帝国大学工学部造船科は「航空講座」を併設していて、2年の進学時に進路を決める事になっていたのですが、

真藤恒氏は航空を希望していました。

ですが、教授から真藤恒氏の性格から「君は大雑把な性格だから、ミクロンとグラム単位の綿密な数字ばかりの飛行機よりも、インチとかトンとかの単位の造船の方が適しているよ」と忠告され、納得してそれに従いました。

もしその時代に航空の方を選んでいたなら、戦後は失業者かせいぜい数学の教師程度の仕事をしていたのではないかと。

運命とは面白いものです。

その後の日本の造船業の発展も無かったかもしれないのです。

昭和9年に九州帝国大学工学部造船科を卒業したのですが、その年は満州事変勃発後の軍需景気で湧いていました。

各造船会社からの求人が殺到していました。

播磨造船に入社

川崎造船を希望してものの、応募者が多いと聞くと川崎造船を同僚に譲って、真藤恒氏は播磨造船に決めました。

播磨造船はそのころ1万トン以下の貨物船やタンカーを建造していたのですが、真藤恒氏はそこで船殻設計を担当しました。

当時の造船は設計と建造の現場とは完全に隔離されていて、一日中机に向かって図面を書くのが仕事でした。

ですが、真藤恒氏は机を離れて、建造現場に出向き、自分の設計したものがどのように作られるのかに関心がありました。

上司に知れては、「職場を離れるな。もっと真面目に図面を書け」と叱られましたが、建造現場の声を聞き入れた図面は予定より早く進むと好評を得ます。

輸入品の良質な製図用紙を導入し、鉛筆描きに変更し能率は各段に上がりましたが、ベテランの製図工の職を奪うという結果を招いたこともありました。

新しいものを躊躇なく取り入れることにより、発生する弊害はどの時代にもあったのですね。

またその頃の播磨造船は、出世コースを歩みたかったら、播磨造船の経営面の実権を握っている横尾龍氏か、もしくは技術面で実験を握っている六岡周三氏の娘婿になることだと言われていました。

両氏の令嬢は実際に播磨造船に就職していましたから、その心を掴むのは誰だとつねに話題でした。

真藤恒氏も、一度は横尾龍氏の次女との縁談が持ち上がったのですが、東大卒のエリートと結婚し、真藤恒氏との話は進みませんでした。

噂の枠を出ませんが、こんな話があります。

横尾龍氏宅に招かれた際に真藤恒氏がショパン(Chopin)のレコードを「チョピン」と読んでしまったことが破談になった原因だとか。

真藤恒氏は後にクラッシックの愛好家でも有名でしたから、この話は信じがたいですが、真実だとしたらそれを恥じてクラッシックを勉強したのかも知れません。

後に、まったく播磨造船に関係のない一般の女性と結婚しています。

ということで、出世コースからは大きく出遅れたようです。

艦政本部に出向、西島中佐との出会い

その後、日中戦争が泥沼化したこともあり、造船は海軍との結びつきが強くなります。

そして太平洋戦争に突入して行きます。

昭和17年、それまで太平洋戦争の日本軍の快進撃がミッドウェー海戦の敗北により劣勢になります。

造船も、船の耐用年数は1年から2年として、徹底した工程の短縮によって粗製乱造されました。

真藤恒氏も技術での実験を握っていた、六岡周三の命令で艦政本部に出向していました。

そこで西島中佐と出会います。

西島中佐は海軍で造船現場一筋にきた人で、近代的管理手法で、材料や金物の統一化と標準化、そして西島式と称された材料管理法やその他の造船管理の達人ともいえる人で、戦艦“大和”建造時は船殻工場主任を務めた人です。

真藤恒氏がこの時代に西島中佐から学んだことは多く、後の造船生産管理のアイデアも、この時の経験から生まれています。

戦後の呉市の復興と呉船渠を開設

終戦時の呉は、爆撃によりなにもかも焦土と化していました。

戦艦を造船していたのですから、爆撃の標的にもなります。

呉沖には戦艦や空母を 含む21隻の旧海軍艦艇が擱座や沈没していました。

終戦の年、昭 和20 年の12月に、GHQは日本政府に呉港周辺に沈没したり座礁したりしている海軍艦艇 の引き揚げや解体作業の実施を命じます。

航路の確保と資材活用が目的なのですが、政府は播磨造船の呉工廠(くれこうしょう)に実施を命じました。

播磨造船を選んだ理由は、地理的条件、GHQ が敵視する旧財閥企業ではなかったためです。

その後、終戦により失業した海軍技術将校の多くを、播磨造船が受け入れて後のIHI時代の大きな戦力となります。

旧播磨造船は呉船渠を開設し、神保敏夫取締役以下100名の社員を派遣して、 旧海軍工廠の3800名余を受入れました。

呉周辺の海軍艦艇の引き揚げ・解体工事 と一般商船の修理工事が主な業務です。

昭和21年4月より操業を開始しました。

国有資材横流し事件

戦後、1947年暮れのことです。

呉船渠の経営は常に資金繰りに窮していました。

給料の遅配が慢性化していたのです。

一方では工場内には国有資産として海軍工廠時代に買込んだ資材(パイプ、鋼板等 が山積みされていました。

真藤恒氏は、その工場内に山積みにされている国有資材を勝手に売払って 4000人余の従業員の給料に当てたのです。

怖気づいた事務系の上司達を飛ばして、全ての書類や伝票に真藤恒氏が捺印しました。

翌年、早々に検察庁の手が入って真藤は首謀者として拘留され、厳しい取調べを受けることになりました。

検察は播磨造船派遣の幹部達が、私服を肥すために資材を売りさばいたと疑ったようです。

事件発覚後、工場内の一室に隔離されて作業した経理担当者達は、給料返済要求への怖れから、自分の給料支払明細を処分してしまおうと思いました。

どうやって処分したかと言えば、それは食べてしまうしかない。

経理担当者たちは、次々とそれを食べてしまったと後でわかりました。

ですが捜査を進めると、資材の売却金額と支払われた給料の総額は完全に一致していました。

真藤恒氏は「法律的には罰せられて当然の事をしたのだが、飢えた従業員を助けたのだからきっと判ってもらえるだろう」と思っていました。

結局背任の事実は認められず不起訴となりました。

沈没・座礁した戦艦の引き揚げや解体作業の課長の職は仕事の性質上、下請業者やスクラップ業者等との接触も多かったので、クソ真面目だった真藤恒氏も「清濁併せ呑む」気質が次第に備わって行ったのかも知れません。

その時代にはそれも必要だったのかも知れません。

しかし、検察を屈服させたというその経験から「使用目的が天に恥じなければ、何をしても良い」という、思い違いのようなその発想が、晩年のリクルート事件での挫折に繋がってしまったのかも知れません。

ですが、閉鎖的で誇り高い元海軍の人間や、工廠(軍需産業)の街である呉では、よそ者でしかなかった真藤恒氏ですが、この武勇伝により従業員やその家族達、更には呉の市民からの揺ぎ無い信頼と尊敬を獲得したのです。

それは、その後の真藤恒氏の無形の財産となったことは間違いありません。

NBC時代

呉船渠開設時のGHQからの指令による、沈没・座礁した軍艦の引き揚げや解体作業は無事予定通り終了しましたが、その後の経営の見通しは立ちませんでした。

当時の池田蔵相は呉船渠を閉鎖するつもりで下見に来ましたが、その時すでに真藤恒氏は呉の市民からの厚い信頼を受けていて、選挙の票を左右するだけの存在になっていました。

呉船渠を閉鎖させたら、選挙で落とすと脅してなんとか閉鎖は免れていました。

そんな中、アメリカのNBC(National Bulk Carrier)Ludwig社長は、船員から有力な海運会社を興して大富豪となった人ですが、将来の石油消費量増大を予測して、日本で造船のできる場所を探していました。

当時の運輸省船舶局長の甘利氏が「呉に戦艦を作ったドックが空いている」という話になって、呉船渠に白羽の矢が立ちます。

戦艦「 長門」や「大和」を建造した栄光の造船ドックを敵国に貸すという案件には抵抗もあったのですがが、このままでは閉鎖の憂き目の可能性もありました。

呉市の失業者問題もあり、吉田首相の決断で昭和26年4月に契約となったのです。

契約で訪れたNBCのLudwig社長は、真藤恒氏と面談して、その見識や人物に惚れ込み、技術部長としての残留を強く要請します。

実は真藤恒氏は、呉残留にはあまり乗り気ではありませんでした。

NBCの契約は10年です。

その後、播磨に戻ってももう周りの同僚はみんな出世して自分の居場所はなくなってしまうだろうと思ったのです。

ですがその後、NBCのLudwig社長は電報で、「真藤恒氏とその家族は一生面倒を見るので安心して要請を受けてくれ」と言ってきました。

それなら、やってみようとNBCへの入社を決意しました。

真藤恒氏の下には旧海軍出身の優秀な技術者達が集い、真藤は戦時中の標準船建造や航空機生産計画以来温めて来た理念と、アメリカ式合理主義を併せて、驚異的な生産性を実現させることにより大きな成果を上げます。

石川島と播磨の合併

昭和35年7月、石川島重工と播磨造船の合併が報道されました。造船部門の弱い石川島と陸上進出に焦る播磨の理想的な合併と言われました。

社長に就任予定の土光敏夫(後の経団連会長)は真藤恒氏の復帰を合併条件 としました。

土光氏は呉を訪問し、その洗練された生産形態に驚き真藤恒氏に注目していたのです。

Ludwig 社長もIHIでもNBC船を継続建造する条件で快諾して真藤恒氏を出しました。

突然の真藤恒氏の離脱にNBC従業員や呉市民は衝撃を受けましたが、真藤恒氏は「必ず呉に帰ってくる」を言い残し旅立ちました。

真藤IHI船舶事業部長の給料は、NBC時代の半額程度であったとも言われています。

タンカー大型化とトップ営業

IHIに入ると、同一載貨重量や主機馬力で最も安価な船型の構想を実現に移しました。

昭和36年相生工場で完成した大型タンカー「亜細亜丸」が第一船です。

常識破りのずんぐりむっくりな船型は、それまで船は長細いという概念を打ち破ったもので、世界の海運、造船に衝撃を与えました。

真藤恒氏はその大型タンカーの営業に海外を飛び回り、欧米の一流船主にも食い込んでいきました。

世界の海運界で著名な Ludwig社長の紹介で、直接海外船主のトップと会い、相手のニーズを聴いて、それに応えるべく提案も行うことにより、新造船の概略仕様と船価と納期等を即断即決して行った。

IHIの顧客は、オナシスやオライオン等の米国系一流ギリシャ船主や、シェルやシェブロン等の石油メジャー輸送部門へと拡がりを見せました。

中東戦争勃発に伴うスエズ運河封鎖もあって、 タンカーの大型化は加速して行きました。

昭和47年に真藤恒氏は、造船部門の好調に押されて社長に就任します。

その後、タンカーの大型化は真藤恒氏の予想を超えて大きくなっていきました。

そして、大量受注もあってこの勢いは止まるところを知らないと思うほどでした。

ですが、そのまま拡大だけするものというのは世の中には無いのです。

やがて造船不況になってきます。

そして、中東戦争勃発により「石油危機」に陥り、造船業はいきなり暗転していったのです。

IHIはあまりにも規模が大きくなっていた分、その対応は大変でした。

昭和52年には設備の40%削減に奔走し、強力なリーダーシップを発揮したのですが、昭和53年の中間決算は135億円の赤字見通しとなりました。

将来の見通しも暗く、希望退職で 4610名(全従業員の13%)が退職し、横浜と知多の造船工場を閉鎖しました。

真藤恒氏はその責任を負って退陣し、会長の座を断って相談役に就きました。

リクルート事件

1981年に土光敏夫経団連名誉会長に請われて、旧日本電信電話公社総裁に就任します。

電電公社の民営化に向けて、積極的に働きかけ1985年日本電信電話株式会社(NTT)を発足し、初代社長に就任しました。

昭和63年6月に発覚したいわゆる「リクルート事件」とは、リクルート・コスモスの未公開株を政界や財界の人へ贈与した事件です。

その疑惑に真藤恒氏も関与していました。

大物政治家への波及を怖れ、最初は真藤恒氏は否定しました。

ですが、秘書が受取った未公開株の売却益の一部900万円が真藤恒氏の個人名義口座に振込まれていた事実が露見しました。

真藤恒氏は一滴の酒も飲めない人で、私生活は質素そのものです。

「私腹を肥やしているわけでは無いから 問題は無いはず」と思っていのかも知れませんが、準公務員の立場では許さるわけもなく、NTTの内外や労組からも惜しまれながら退任しました。

元秘書ともども逮捕され、東京拘置所へと収監されました。

逮捕された後「清廉な土光さんが生きていたらオレは破門されたな」と悔やんでいたといいます。

いつの間にか、「清濁併せ呑む」ことに慣れてしまっていたのかも知れません。

当時78歳でもあり、高齢での逮捕となったのは異例なことでしたが、拘置所に収監された時の思い出としてメディアに語ったのは、初めて布団の上げ下ろしの仕方を看守から教えてもらった事だったとか。

起訴となった真藤恒氏は平成6年に懲役2年、執行猶予3年追徴金2270万円の有罪判決の刑で結審しました。

その後、公式の場には一切姿を見せず、2003年1月に92歳でなくなりました。

真藤恒まとめ

真藤恒氏の功績はとても大きいです。

IHIの活躍にしてもNTT創設にしてもその役割を他の人が出来たのかと問えば、真藤恒氏以外では出来なかったでしょう。

日本の高度成長経済に引っ張って来た人の一人であることも間違いありません。

今では神話のようになっている、日本の造船業界が最も輝いた時を作った人だということも事実です。

真藤恒氏のお蔭で、戦後なんとか生き延びたという人も多かったでしょう。

でも、栄枯盛衰はこの世の常です。

いくら栄えてもやがて枯れます。

真藤恒氏の栄光も「リクルート事件」という、つまらない贈収賄で泥を塗ってしまいました。

今までの功績に免じてとはなりませんでした。

引きずり下ろしたい人もいたということです。

呉市の市民も英雄視していた人だけにとても残念に思いました。

栄光など、一滴の泥水で消えてしまう物なのですね。

ということは無闇に栄光など求めず、栄光を掴む人を羨まずに、淡々と自分のやりたいように生きていけたら、後悔せずに自分の人生を全うできるのかなと感じましたね。

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