柳井正氏の経歴と実績からなのか、ある人にはピンポイントで心に響く名言があります。事業を継承する人、起業家を目指す若者への名言です。
柳井正氏の経歴は、ユニークです。新卒で入った会社を9か月で辞めてプータローをしていました。しかし、今では日本で1位、2位を競う大富豪で世界の大富豪ランキングにも常に登場するほどのお金持ちです。
どうやって柳井正氏は成功を掴み取ったのか?事業を継承する、起業家を目指す若者以外にも参考になると思いますので、
柳井正の経歴と名言や、ユニクロ誕生秘話と長者番付1位の自宅、資産、息子、身長など含めて紹介します。
柳井正の経歴
1949年2月7日に山口県宇部市中央町に生まれ、山口県立宇部高等学校を卒業後、早稲田大学の政治経済学部を卒業しました。
子供のころの柳井正氏は、おとなしい子供だったと自分でも言っています。
3人兄弟で姉と妹がいて、男の子は柳井正氏一人だったので大事に育てられたのでしょう。
また、父親は山口県の地方の商店街で紳士服の商いでしたので、小さい時から商売は身近にありましたが、あまり儲からないという印象でした。
また、父親は紳士服の他に土建屋もやっていましたし、政治に関わるのが好きな人で、国会議員の後援会長なんかもしていて、政治的に物事が決まって行って商売やってると、そういう人間関係も無視できなくて、それも嫌でした。と言っています。
商売をしている家に育つと、お金が最優先の価値観になって、父親の口癖の「金のないやつは、首が無いのと同じだ」と言う言葉にも反発を覚えていました。
ですから、将来自分が商売をすることになっても、親父と違う方法でしようと決めていました。
高校では、サッカー部に入りましたが、父親が良い学校に進学することに専念したほうが良いと言うとすぐに辞めたようです。
そうして、早稲田大学に進学したのですが、特に将来の目標も無く無気力で、パチンコ・麻雀・映画に明け暮れる毎日でした。
自分で商売をしようと考えるどころか、どうしたら仕事をしないで生きていけるかを考えたくらいでした。
ですから、就職活動もまったくしていなかったのですが、さすがに4年になると父親が卒業後のことを聞いてくるので、決めていないことを告げると「ジャスコに入れ」って言われて、自分も特に入りたい会社も無かったのでジャスコに就職しました。
そのころの柳井正氏の父親はショッピングビルも経営していて、その共同経営者がジャスコの関係者で、その人の息子と一緒に入ることになったのです。
ジャスコの四日市店の家庭雑貨売り場の勤務でした。
でも、実際入社しても学生気分が抜けなくて、働くのが嫌で嫌でしょうがなかったのだと。
ジャスコの社員の人たちはみんな仕事熱心で会社自体も一生懸命な会社だったんですが、そこでの仕事の意欲は持てなかったのです。
結局9ヶ月で辞めてしまいました。
それから半年ぐらい、東京の友人のところで居候になってブラブラとしています。
その友人は就職していましたから、朝は出勤していく。でも自分はブラブラしている。
憂鬱でたまりませんでした。
これならまだ実家に帰った方がましだと思って山口の実家に戻りました。
実家に戻って、父親の紳士服専門店の小郡商事株式会社を手伝ったのですが、そこで愕然としました。
ジャスコで働いてたのと全然違う!効率も悪いし、なにより従業員が真面目に働いていない。
なんで?と思って、従業員にこうしろ、ああしろといっきに言いました。そうしたら、7人いた従業員が全員辞めてしまいました。
現場の人の気持ちまで考えてあげられなかった自分が悪かったと後になって気付きました。
大変なことをしてしまいましたが、でも、その時に全員が辞めていなかったら今の柳井正は無かったかもしれません。
従業員がいなくなったので、仕入れから販売・経理・人事など全部一人でこなしました。父親も会社の実印を渡してくれたので、20代の若造がその会社の責任を負うことになりました。
実際に商売をやってみたら、やったことの答えが全部自分に帰ってきます。
それで商売のおもしろさに気づきました。
それからは夢中で働きました。
朝8時から夜の9時なんて普通で、家に帰ってからも仕事をしていました。
食事以外は全部仕事。地方には使える人材がなかなか集まりませんから、全部自分がやらなくてはなりませんでした。
そのころでも、まだ自分の夢を具体的に考えてはいませんでした。
考える余裕も無かったと言いますか、毎日で精一杯で、ただただ父親から引き継いだ店を潰さないことだけで精一杯だったと。
そのうち、洋服の青山やアオキなどが郊外で紳士服の店舗を展開し業績を上げていきました。
そこで柳井正氏は方向性を別にしようと考えて、カジュアルな衣料に着目して全国展開を目指しました。
スーツのような紳士服ですと、どうしても従業員がお客様に付いて回らないとなりませんが、カジュアルな衣料品ならばその必要もありませんし、良い物を売れば絶対にみんなに買ってもらえると確信していました。
ユニクロの誕生
1984年に父親の柳井等の後を継ぎ小郡商事株式会社の社長に就任し、ユニークな衣料(clothes)ということで「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」の略称「ユニクロ」として同年6月広島市に第一号をオープンします。
その後、店舗展開を拡大し、1991年に社名を「ファーストリテイリング」に変更。柳井正氏は取締役会長兼CEOに就任。
「ファーストリテイリング」という社名は、「素早く」を意味する英語の「Fast」と、小売業を意味する「Retailing」を組み合わせた造語で、「ファストファッション」(ファストフードのように素早く商品を提供できる小売業)を目指している。
企業理念として「服を変え、常識を変え、世界を変えていく」を掲げ、積極的に海外展開やM&Aをしてグループ拡大を図り、カジュアルな企業においては、世界第3位の売り上げにまで成長しました。
時価総額ではZARAを保有しているインデックスに次ぐ世界第2位です。
そこにたどり着くまでには、柳井正氏自身にも大きな変化を経てきました。
まず、会社の売り上げが30億円を超したあたりから、このままではうまく行かないと思い始めました。
経営者として生きる決心
経営者は、商店街の商店主とはだいぶ違います。
客観的に自分の会社を見なくてはなりません。
そして、主体的な行動ができて経営者と言えるのです。
原理原則としている「信用」を大事にし、だれもが納得できることを淡々とこなし、会社の収益はもちろんのこと、社員の自己実現の達成の方法まで考えるのが経営者です。
原理原則を信用と考える理由は、まずお客様は自分のお金を商品と交換する訳ですからとても厳しい目で見てきます。納得していただける良い物を常に売らないとなりません。
また従業員も同じです。自分の大事な時間を売ってお金を貰っているわけですから、当然その代価に見合わないと辞めて行ってしまいます。
つまり、経営者はお客様も従業員も両方から納得してもらってはじめて信用を得るわけです。
ここまでたどり着くまでには、多くの失敗を重ねて学んだことで成り立っています。
失敗しても会社が潰れないようにを常に考えて、従業員や取引先を守ってきたと言います。
それで信用を得てきたということです。
ですから、経営者として一番辛い事は、従業員に辞められることです。
トップである自分を見限って辞めていくと思うと本当に辛いし、自分は経営者として失格ではないかと悩みます。
世界進出が止まらない柳井正氏は社内での英語化を推進していますが、柳井正氏本人は、海外メディアのインタビューには原則日本語で応えています。
別に、自分がとても英語が得意だから言っている訳ではないのです。
グローバル化を目指すなら、そのぐらいのハードルを立てないと従業員も必死になって伸びないだろうという親心なのです。
そして今では、 ユニクロを中心とした企業グループ持ち株会社「ファーストリテイリング」代表取締役会長兼社長となりました。
また、 ジーユー取締役会長やソフトバンクの社外取締役でもあります。
ユニクロが世界で認められた理由
ユニクロはなぜここまで世界に認められたのでしょうか。
それは、カジュアルで派手さは無いけど質が良いとかももちろんあります。
でも、一番の評価はやはりヒートテックに代表されるようなテクノロジーにあるのではないでしょうか。
素材研究の成果が世界進出の成功の鍵だったように思います。
これで、日本は凄いと世界に言わせた訳です。
柳井正氏の自宅は豪邸
渋谷区大山町に2600坪の敷地の豪邸があります。
2003年に完成し、周辺には安倍晋三首相や楽天の三木谷氏などの自宅があるところです。
敷地にはゴルフの練習場やテニスコートもあり、平屋造りの本邸の方に奥様と二人で暮らし、別邸の方には、次男夫婦とその娘が暮らしているようです。
その他、ホテルのようなゲストルームや大会議場もあります。
柳井正氏はお酒も飲みませんし、会食も嫌い、自宅で奥様の手料理を好みます。
柳井正氏の資産は約2兆8000億円
Forbes発表の日本長者番付2019の堂々1位となりました柳井正氏の資産は2兆7670億円です。
前年1位だった孫正義と入れ替わり1位に返り咲きました。
この一年でドル建ての資産を柳井正氏は56億ドルも増やしたのです。
柳井正氏の息子は2人
柳井正氏には2人の息子さんがいます。
長男は、一海(かずみ)1974年生まれ。
スイスの公文学園高等部からアメリカのボストン大学へ進学し大学院でMBAを取得し、アメリカのゴールドマンサックスへ入社。
その後、アパレルのセオリーへ転職しますが、2009年にファーストリテイリング社がセオリーを買収。
2012年にはファーストリテイリング社の執行役員に就任しています。
現在はニューヨーク在住です。
敵を作らないまじめな性格だとか。
事業を継承させるにはまずまずの経歴と言ったところです。
つづいて次男の康治(こうじ)1977年生まれ。
横浜市立大学を卒業後三菱商事へ入社。
2011年にファーストリテイリング社へ入社し広報部などに勤務。
兄とは違い、こちらは派手な性格で、韓流スターとかプロサッカー選手とかと交流があり、幅広くいろんなタイプの知り合いがいるようです。
事業継承はお兄さんの方が有望株の印象を受けますがどうなんでしょうか。
以前、柳井正氏は息子を経営者にはしないと言いましたが、自身の引退も以前は60歳と言っていましたから、これは額面通りには受け取れないでしょう。
また、周りに事業を継承させる程の人材が育っていないということも考えられますから、経歴で言えば長男でしょうが、次男は日本で、脈々と人脈作りをしているかも知れませんから、目の離せないところです。
柳井正氏の身長は?
日本の成功者には身長の低い人が多いとよく言われますが、柳井正氏も160㎝あるかないかだそうです。
孫正義の身長も同じぐらい。ZOZOの前澤氏もそのぐらいだと言われていますから、小さな巨人が経済界では活躍しています。
身長が低いと何かこころに期すものがあるのでしょうか。ひとつのコンプレックスといえるのか、スタート地点から無意識のうちに心構えが違うのかも知れません。
時にはコンプレックスも大きな原動力になるということでしょうか。
柳井正氏の名言
柳井正氏にも多くの名言がありますので、ほんの一部ですがご紹介します。
・人生において一番悔いが残ると思うことは、「挑戦しなかったこと」なんです。
決して、新しい可能性に挑戦して失敗したことではないのです。
・行動する前に考えてもそれは無駄です。行動しながら問題点を修正していけばいい。致命的にならない限り失敗したほうがいい。やってみなければわかりませんから。
・どんなに良いアイデアが浮かんでも、それを実行しなければ価値がありません。それはただの時間の無駄でしかありません。
・自分の能力以上を求められる環境でなければ成長は出来ません。
起業家を目指す若者への名言
ベンチャービジネスを目指すひとが大嫌いですと柳井正氏は言っています。
人を測る尺度がお金のような感じがするからです。
金儲けばかり考えている人にあまり良い人がいるとは思えないんです。
ほんとうに自分が一生やりたいことなのかを考えて起業するべきですと。
日本の経済は今、老害が出てきていますから、若い人に頑張ってもらいたいと思いますが、日本を変えるような新しい事をしてほしい。
20代とか30代とかで運良く上場してキャピタルゲイン(株式や債券など、保有している資産を売却することによって得られる売買差益のこと)で儲けてもそんなものに存在価値はありません。
若者がそんなものを目指して欲しくないと熱く語っています。
また、起業を目指している時に、MBAのビジネススクールに通ったりとか、または欧米の経済学の学者の本を読んでもしょうがない。
そんな本を読む暇があったら、松下幸之助や本田宗一郎の本を読んだ方がよっぽどためになる。
経営の本質から社会の本質まで詰まってますから。
起業を安易に考えないで、使命感を持って、ほんとうにやりたいことを探してやってほしい。
使命感ってとても大事で、商売に対する誠実さとか職業的な良心が芽生えたりもして、人にも信用されるようになります。
それが大きな基盤となりますからと、
事業を継承する人への名言
親の言う通りにはするな
親は子供の事を心配するものですから、挑戦という選択肢は避けさせる。
リスクを負わせたくない。だから成功もしないのです。
それに、親の助言は古い。
その時代には合いません。
親の会社を継ぐときは、全権をくれるのかが大事です。
全て任せてくれないのなら自分で起業したほうが良いです。
ファーストリテイリング社の事業継承は誰に?
さてさて、柳井正氏の事業継承の行方には目を離せませんね。
自分でも人には事業継承するなら、全権を任せてくれるなら継ぎなさいと言っていますから、自分も事業継承する際に全権を委ねられるのでしょうか?
早く決めなければならない年齢ですが、いったいどうなるのでしょうか。
いずれにしろユニクロを世界的な企業にした、柳井正氏の考え方や名言からは、仕事をしていくうえでとても勉強になりますね。
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