有名人の名言

東芝創始者の田中久重「万年時計」の生涯と名言に学ぶものづくりの心

田中久重(たなかひさしげ)江戸時代末期から明治にかけての天才発明家であり芝浦製作所、後の東芝の創始者の一人です。

「からくり儀右衛門」とか「東洋のエジソン」とも呼ばれていますが、その技術や探求心や明治維新の日本を近代化に導いた「和魂洋才」の心とは?

日本人の「ものづくりの心」は明治維新の後、世界の科学と日本の文化との融合ということでした。

決して日本人の魂を捨てることなく、新しい物や優れた物を受け入れて和合させる「和魂洋才」の心が、明治維新の大変化の近代化を成功させたのではないでしょうか。

田中久重氏のものづくりは、からくり人形に始まり、和時計に万年時計、それに最新型大砲、蒸気船に蒸気機関車、そして電話機などなど。

それがやがて、芝浦製作所という後の東芝の前身を作ったのです。

ここで「万年時計」を知ることで、もう一度日本人の真髄を再確認してみるのはどうでしょうか?

万年時計(萬歳自鳴鐘)

お江戸の科学 東芝未来科学館

田中久重氏の作った最高傑作の通称「万年時計」と言われる「万年自鳴鐘」(旧字体では萬歳自鳴鐘)は、田中久重が設計と製作をしています。

一度ゼンマイを巻くと1年動き続け、1000以上ものほとんどの部品を自らが手作りしています。

見た目の美しさもさることながら、からくりの才能をつぎ込んで作られ、高度の天文暦学と西洋の時計技術が合わさった最高傑作で、現在、国立科学博物館に展示されています。

2004年に文部科学省による国家プロジェクトにより、多くの専門家が集まり分析・復元されました。

解体していくことで明かされた技術に、専門家たちは只々驚き唸るばかりでした。

一度ゼンマイを巻くと1年動き続ける時計などというものは、その後においても他に作られてはいません。

ゼンマイのバネには、真鍮で厚さ2ミリ長さ4メートルのものが2機使用されていて機械式の時計としては驚異的な持続時間を可能にしています。

7つの機能

六角柱の形をした本体の全面と上部に計7つの機能が配置されており、それらが全て底部のゼンマイの動力が連動して作動します。

・本体上部の「天象儀」は京都から見た1年間の太陽と月の動きを模型で表すようになっています。

・六角柱の一面には和時計があり、文字盤の位置が自動で変化し、昼夜の長さの変化に対応している。この自動でありながらのみごとな正確さは復元プロジェクトで解体されるまで謎でした。

後に「虫歯車」と名付けられた独創的な形の2枚の歯車が組み合わさり、全ての機能との連動を可能にしていました。

世界のどこにも類を見ない独創的な仕組みでした。

解体し謎が判明すると只々専門家は「考えもしない方法だった」と感嘆の声を挙げていました。

・二十四節気の表示。

・曜日と時刻の表示は、短い針が曜日を示して、一週間で1周します。

長い針は和時計と連動していて時刻を示します。

・十干十二支の表示は、当時日ごとに割り振られていた60通りもの干支の中からその日の干支を自動で示します。

・月齢の表示は、その日の月の満ち欠けを現すものです。

・洋時計は現代の時計の機能です。(時計の専門家では無かったためにスイスの時計を組み込んで本体の機能に接続しています)

その他の機能として鐘を鳴らす機能もありました。

これら全部の機能を底部のゼンマイの連動で全て自動で行うのです。

生まれる時代を間違えた

当時の人々にはおそらく、この機能は凄すぎて「不思議」ぐらいにしかうつらなかったかも知れませんが、今検証しても凄い技術だったことが解ります。

生まれてくるのが早すぎたのかもしれません。

まだ力学というものが認知されてないころでしたから、一部に大きな負荷が掛かって、田中久重氏が亡くなった後にはやがて動かなくなったと思われます。

ですが、現代の専門家でさえ、全ての機能が連動して動いていることの謎が解体するまで分かりませんでした。

外装もまた美しく、伝統工芸の技法がふんだんに施され、京指物に木彫、京七宝に蒔絵、螺鈿、金属工芸の一級品の技術です。

田中久重の生涯

事業構想 東芝創業者 田中久重

 

 

1799年10月16日(寛永11年)~1881年11月7日(明治14年)

筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)のべっ甲細工師の家に長男として生まれました。

幼いころより父の姿を見ていますから、細かい作業は得意でした。

でも田中久重氏はそれに加えて頭の良い子供でした。

15歳で久留米がすりを簡単に織り込む機械を発明しています。

20歳の頃には、自ら考案したからくり人形の仕掛けを五穀神社などの祭礼で披露し、大評判となって行きました。

田中久重氏が製作したからくり人形で、今も残っている有名な物には「弓曳童子」や「文字書き人形」などがあり、からくり人形の最高傑作と評価されています。

「弓曳童子」は自分で矢をつかみ的にめがけて矢を放ちます。

田中久重 SEIKOミュージアム

 

「文字書き人形」は、若侍のような人形が筆に墨を付けて漢字一文字を上手に書きます。

文字書き人形 歴史伝統文化財めぐり

まさにロボットではありませんか。

そのころから田中久重氏は「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになります。

1834年には大阪に移り住み、圧縮空気により灯油を補給する仕掛けの灯明である「無尽灯」を考案しています。

夜の明かりといえばろうそくしか無かったその時代にこの「無尽灯」は大評判となりました。

その後田中久重氏が38歳の時に、そのころ京都に西洋の科学技術が集まっている事を知り、京都に居を移し生活に役立つ物を次々と発明していきました。

消化ポンプの「雲龍水」もその一つです。

空気圧を利用して、10mの高さまで放水することが可能でした。

発明の集大成として挑んだのが万年時計です。

48歳の時です。

まず、天文暦学を司る土御門家に入門して、自分の店で仕事をした後に夕方から深夜まで天体を学びました。

毎日片道8キロの夜道を歩いて通い、睡眠は一日に2~3時間。

そして万年時計の製作にとりかかったのです。

「万年時計」が完成したのは51歳の時の事です。

その後は、佐賀そして久留米と移住し、主に軍事面での仕事で活躍しています。

蒸気機関車や蒸気船の模型を製造して見せたり、反射炉(金属溶解炉)の設計や大砲の製造などに関わり、また実際に蒸気船の建造メンバーに加わったりしています。

しかし、田中久重氏にとって西洋の技術を真似するだけの軍事の仕事で満足できるはずがありません。

東京へ

1873年(明治6年)75歳で、新政府の首都東京に移り住みます。

そして現在の銀座8丁目に電信機関係の製作所として田中製造所を設立しました。

1881年82歳で逝去し、実際に芝浦電機になったのは田中久重氏の死後に、養子の2代目が芝浦に移転して、

「株式会社芝浦製作所」となり、それから東京電機と合併して「東京芝浦電気株式会社」つまり東芝の前身となったわけです。

田中久重の名言

万年時計を知れば、この言葉の深みも理解できます。

天文学まで学び、寝る間も惜しんで何度も試行錯誤して完成させたのでしょう。

・「知識は失敗より学ぶものだ。事を成就するには、志があって、忍耐があって、勇気があって、失敗があって、その後にようやっと、成就があるのである」

・今有用な機械を製造して、世の中に公益を広めることを願う意外に一点の私欲はない。

・国家に有用な機械を作り奉公の誠を尽くすことで世の公益を広めます。

田中久重まとめ

田中久重氏の技術は、からくり人形にしても万年時計にしても、あまりにも凄すぎて、その当時の人々には理解できたのかは疑問です。

驚きはしたでしょうが、仕組みを理解できた人はいなかったのではないでしょうか。

早く生まれ過ぎたのかも知れません。

その後の東芝の繁栄に大きく貢献したことなど、知ることもなく亡くなっています。

「東洋のエジソン」どころでは無く、「世界の田中久重」なのです。

東芝の人はもちろんですが、我々は田中久重氏の偉業を知って、「日本人のものづくりの心」を理解し、誇りに思い生きていけるのではないでしょうか。

東芝は2015年に発覚した粉飾決算をかわきりに、その後経営不振が続いています。

日本の誇り「田中久重」の名を貶めては、全ての日本人の誇りを汚すことになります。

いまこそ田中久重氏の偉業を学んで「日本人のものづくりの心」を取り戻していければと思います。

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