すしざんまいは毎年正月になると特に話題になりますね。すしざんまいというと木村社長というほどに有名です。しかし、正確に言うと、すしざんまいの木村社長と紹介するのは間違いです。
正しくは、「喜代村の木村社長」であり、すしざんまいは喜代村が運営する寿司店の屋号にすぎません。でも、すしざんまいのCMにも木村社長は出演していますからとても有名です。
初競りで最高級のまぐろを巨額で競り落とします。2019年には3億3千万円の値で落札し、世間を驚かせました。
すしざんまいは関東を中心に57店舗を展開する寿司のチェーン店で、1号店は築地に2001年にオープンしました。
この木村清社長は決して順風満帆とは言えない人生を歩んでこられています。この喜代村の木村清社長の波乱万丈な人生とそこから生まれた名言をご紹介したいと思います。
すしざんまい社長木村清は戦闘機のパイロット目指す
木村清社長は、1952年4月19日に千葉県野田市に産まれます。
子供の時からの夢である戦闘機のパイロットを目指し、15歳で航空自衛隊に入隊しますが、不慮の事故で目を患ってしまい夢半ばでパイロットの道は断念することになり退官します。
すしざんまい社長木村清の経歴
次に目指したのは、弁護士です。中央大学の法学部に入学し、司法試験を受ける為の学費を稼ぐため、学生でも受け入れてくれた百科事典を販売する営業の仕事に就きます。
同時入社が20人いましたが、1ヶ月後には自分ともう1人しか残らない程にみんな売れませんでした。
1ヶ月半後、もう自分も辞めようと夕方に会社の近くで公園のベンチに座り、販売する本を開いて見ていると、公園で遊んでいた子供たちが寄って来て、「おじさん、これ何?」って聞いてくるのです。
もう辞めるつもりだからいいやと思って、それにみんな読み聞かせて応えてあげたのです。
すると、子供たちがどんどん増えてきて、それからお母さんも来て、「その本が欲しいので売ってください」と言うのです。
木村社長は辞めるつもりでしたから、「私がここで読み聞かせますから買わなくていいです」と言ったのですが、どうしても買いたいと言うので、これはサンプルなので明日届けますということになりました。
そして、その本がお母さんたちの間で評判になって結果、1カ月半で500巻以上も売り上げることになりました。
その後、アルバイトを転々としますが、1974年に大洋漁業という現在のマルハニチロの子会社の「新洋商事」という会社に、最初はアルバイトで入社します。
魚の仲買人となって築地市場で多くの取引を経験して、自分の可能性を見つけ、司法試験を断念して正社員になりました。
この新洋商事の時代では、取引先の要求に応える販売方法で周りの反発の声も高かったと言いますが、その方法とはどんなものだったのでしょうか?
お弁当用とか、寿司ネタとかの小さ目の切り身ばかりに特化して売ったらそれが需要があって大ヒットでした。
でも、周りの人からは「そんなのばかり売るなら自分一人でやれ」ということで独立を考えるようになりました。
1979年に新洋商事を退職し独立します。それが喜代村の前身の木村商店です。バブルの全盛期でしたから、数々の事業に手を出しました。
弁当屋にカラオケ店、レンタルビデオ店などにも手を出して、1985年に喜代村を設立したのです。
バブル崩壊ですしざんまい1号店開店
しかし、やがてバブルが崩壊すると銀行は、それまでは「お金を借りてくれ」とか「不動産を買ってくれ」とか株の投資なんかを薦められて、銀行の言いなりになってあげていたのに、いざバブルが崩壊すると一転します。
今度は「お金を返してくれ」と言ってきたのです。
木村清社長は、借りていたものは返すしかないので「分かりました」と言って、不動産などを売却して数百億円の返済を全て清算しました。
それからも、仕事の浮き沈みはありましたが、誠実に立ち向かって行った結果、木村清社長を中心に友達が集まり、「マグロファンド」なるものを作ってくれて投資してくれます。
それで、海外にマグロ探しに行って買い付けてくることが出来ました。
バブルがはじけてみんな資金繰りに苦労しているのに、木村清社長に大金を預けて投資してくれたのです。
こうして2001年に築地に24時間営業の「すしざんまい」の1号店から始まり、東京を中心にチェーン店を急拡大しています。
すしざんまい社長 木村清の経営戦略
木村清社長の経営戦略は「築地に人を集める」です。築地の魚を世界に売っていくには、築地に注目してもらう必要があります。
成田や羽田を経由して、海外の人が築地のすしざんまいで魚を食べて、また海外に出ることで、海外でも寿司ブームを起こすことができます。
和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたことも好材料になって、今では日本の食の文化は世界中に広まり、若い日本人の世界でのビジネスチャンスは広がりました。
木村清社長は、人を育てることにも重要性を感じ「喜代村塾」という学校も設立しました。
寿司屋で働くという事のステータスを上げて、給与レベルも倍増させて、若い人がIT企業や医者やパイロットと同レベルで寿司屋という業界に就職するようにしたいと考えています。
すしざんまい社長 海賊を手なずける
1990年ごろから、ソマリアの内戦が始まり、その頃から海賊が増え、国際海運の大きな障害になっていました。
その海賊の活動は年々活発になり、年間約2万隻の商船の大きな脅威となっていたのです。
もともと、魚を食べる習慣の少ないソマリア国内では、魚を海外へ輸出することによって外貨を獲得して暮らしていましたが、内戦により輸出が困難になりました。
さらに内乱により管理されなくなったソマリア近海に外国船が侵入し、魚の乱獲をしたことで、益々漁民の生活は困窮しました。それが海賊の発生の一因でした。
元は漁民だったのです。
木村清社長は、このソマリアの近海がキハダマグロの良い漁場であることに目を付け、海賊たちを含む現地の住民に漁船を与えた上で、マグロ漁を教え、さらにソマリア国内に流通設備を整えてあげたのです。
その結果、多くの海賊がマグロ漁師に転向して行きました。
その働きは、海外でも注目され、ロシアやインドネシアも海賊を退治するという方向ではなく和解の方法で解決していこうという動きになって行っています。
母親に旨いマグロを食べさせたい
木村清社長がマグロの競りに熱心な訳は、元々は母親に旨いマグロを食べさせたいことから始まりました。
奥さん思いであることも有名で、専務を務める奥さんはいつも木村清社長の支えであったと言い、「女房を幸せにするために事業をやってきた」と公言しています。
愛する人のためにがんばってきたのですね。
すしざんまい社長 木村清の名言
では、この木村清社長の名言にはどんなものがあるのでしょうか?
いくつかご紹介します。
・売り上げが伸びていなかったならば、それはお客様が満足していないということです。
・私たちにはゴールはありません。お客様からのニーズが続く限り、その期待に応えて行かなくてはなりません。
・修羅場を何回くぐったかが人生を左右します。ですから、ピンチは大きい方が良いというものです。
・人というものは「人の喜び」によって生かされているのです。
・諦めなかったから今日があるのです。
・人材がいなかったら、育てれば良いのです。大事なのはその気迫です。
・今何が出来るのかを見つけることが大切です。
・今の時代の経営は、「即断即決」それで動かないと話になりません。
いかがでしょうか?波乱万丈ではありますが、愛するひとのためにがんばってきた人の言葉と思うと味わい深いものが多いです。
すしざんまい社長木村清氏は心に非常に熱いものがある人というのが分かります。すしざんまいでも副業でもお客様を満足させる気持ちが大事ですね。これからも若い人に影響を与える活動に期待したいと思います。
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