OKWAVEの創業者が兼元謙任氏です。いじめや難病、それになんと2年間のホームレス生活などの経験を経て成功した人物です。
2年間のホームレス生活ってかなりですが、どうやってIT関連で起業して上場企業にまでなったのか。
Q&Aサイト「OKWAVE」は質問するとユーザーが応えてくれるコミュニティサイト発想の原点は。
兼元謙任氏の名言と経歴、壮絶体験から起死回生して、どん底から脱出した方法を紹介します。
OKWAVE兼元謙任の壮絶な経歴
まず名前の漢字の読み方ですが、「かねもと かねとう」と読みます。
1966年7月22日に愛知県名古屋市緑区で生まれました。
今は帰化しているのですが、祖父が韓国人ですから、在日韓国人の3世でした。
小学校5年生のある日、母親に区役所に連れて行かれ、指紋を採ると言われました。
犯罪者でもないのに嫌だと言って子供ながらに暴れて抵抗しました。
でも、母は「仕方がない」の一点張りで無理やり指紋を採られました。
この出来事が兼元謙任氏がはじめて「在日韓国人」ということを感じた時でした。
そして次の日から、学校でのいじめの日々がはじまるようになってしまったのでした。
役場での大暴れを同級生に見られてしまっていたのです。
毎日のように差別の言葉を吐かれ、トイレに閉じ込められて上から水を掛けられるという、お決まりのイジメも何回も受けました。
そのころの時代でもやはり、先生は「仕方がない」と言うだけで助けてはくれませんでした。
体も病弱で寝込む日も多く、修学旅行も学校から「行きませんよね?」と言われ、自分では行きたいと思いましたが、熱を出したりしたら迷惑を掛けると思い行けなかったと兼元謙任氏は言っています。
その時に感じた理不尽さは、自分が在日韓国人だからだと思って両親に悪態をついたようです。
兼元謙任氏は当時は痩せてガリガリで、両親は熱を出すたびに夜中でも病院に連れて行って看病してくれました。
小児喘息にアレルギーもあり虚弱体質で、ある時40度前後の熱が2週間も下がらなかった時は、子供ながらに「もうダメかも知れない」と思ったほど。
でも、ダメモトで新薬を投与してもらえることになって、それまでは「こんなに苦しいならもう死んでもいいや」と思っていたのが、新薬投与と言われた途端に「生きたい」と思った自分を「死にたくないんだ」とその時に気が付いたと兼元謙任氏は語っています。
その新薬のお蔭で何とか生き延びましたが、やはり具合は悪いままで、母は病気に効くという話を耳にすると、あらゆる宗教でもなんでも行っては祈ってくれました。
小学校6年生の時に、ギラン・バレー症候群だと難病の病名が告知されました。
細菌やウイルスから体を守るために作られる抗体が誤作動を起こす神経障害で10万人に1人と言われる病気です。
最近では治療法も出来て、一度治癒すると再発もほとんど無く、7~8割の人は、通常通りの生活が出来るようになるのですが、そのころはまだ大変でした。
兼元謙任氏も当初は治療法もわからず、筋肉が弛緩して首もすわらずグラグラで、車いすで首を紐で釣りあげて支えている状態でした。
「いっそ死にたい」と思っても、自殺も出来ないような状態でした。
だから兼元謙任氏は思ったそうです。
「死ねないなら生きるしかない」
OKWAVE兼元謙任の在日韓国人3世の葛藤
今は、兼元謙任氏は帰化しましたから自分は日本人だと思えますが、帰化する前の自分は、いったいどっちなんだと悩む時代がありました。
日本で生まれて日本で育ったのに、「朝鮮人」と言われて壮絶なイジメにあい、高校時代に付き合っていた女性には、彼女の親に彼氏が在日韓国人だと知られると「別れなさい」と言われて別れることになりました。
自分と会ってもいないのに在日韓国人という理由だけで別れさせられる。
でも、23歳の時に初めて韓国に行ったときに出会ったおばあさんに、日本語が上手いと言ってしまったら「あんたら日本人が無理やり日本語を話させたんだ」と言って怒られました。
その時兼元謙任氏は、「自分は日本人だ」と日本人であることを実感しました。
高校は、彼女と別れさせられたショックで勉強が手に付きませんでした。
それでデザインが好きだったので愛知県立芸術大学に進学します。
なんとか合格はしましたが、体調もいまいちで劣等生でしたが、後に妻となる女性とも出会い、再び前向きに生きる元気が湧き、弱者の為のデザインをして会社を作りたいと初めて思うようになりました。
兼元謙任 デザイン会社に入社と挫折
芸大卒業後は京都のデザイナーグループ会社に入社して、医療器機メーカーのデザインなどの仕事と、大学時代からやっていたデザイングループの仕事も続けていました。
様々なコンペで賞も貰えるようになっていました。
それで建設塗装会社から引き抜かれデザイン室長にもなりました。
新商品を考えてグッドデザイン賞も貰ったんです。
そんな時に、ソフマップの社長をしていた鈴木慶氏と出会いました。
鈴木慶氏はソフマップのプライベートブランドのデザインをデザイングループに依頼され、出来上がった物を見て物凄く気に入ってくれました。
そして「アメリカにデザイン会社を作らないか」と言ってくれたのです。
もちろん二つ返事でOKしました。
でも兼元謙任氏の気持ちとは裏腹にデザイングループの仲間は様子が変です。
おかしいと思って調べてみると、仲間のある一人がデザイングループで取り組んだ今までの仕事のお金を、兼元謙任氏だけが受け取っているのではないかと疑って吹聴して回っていたのです。
デザイングループ発足当初からの参加者で信頼している仲間でした。やがて、他の仲間を引き連れて別会社を発足してしまいました。
そのためアメリカ行きの話は流れてしまいます。女房子供がいるにも関わらず、稼ぎはほとんどデザイングループの活動につぎ込んでいました。
生活費は妻がバイオリニストだったのでオーケストラや音楽教室で稼いで支えてくれていたのです。
それに甘えて、兼元謙任氏はデザイングループに没頭していました。
ですが、信頼していた仲間に裏切られ、デザイングループは無くなり、アメリカ行きもおじゃんになって意気消沈しました。
そんな中、ある日家に帰ると奥さんから離婚届けを出されました。家庭を顧みず、夢ばかり語って帰ってくるのは深夜で生活費も渡さない。
そんな兼元謙任氏に奥さんは疲れきってしまったのです。
OKWAVE兼元謙任ホームレスへ
もう後がありません。「何とかするから」そう言って、兼元謙任氏はノートパソコンを買って東京に飛びました。
ソフマップの鈴木慶氏だけが頼りでした。所持金もほとんどありません。
でも、いざ東京に行って鈴木慶氏に会ってみると「本当に来ちゃったの?」と言われてしまいます。
絶望です。なんとか食い下がってデザインの仕事を貰いましたが、帰るお金も泊まるところもありません。
しょうがないので、土管の中で新聞紙にくるまって寝たのです。それがホームレス生活の始まりでした。
駅のトイレの掃除用の電源を利用してノートパソコンでトイレで仕事をする毎日でした。
もちろんいけないことは解っていましたが、その方法しか無かったのです。そうやって何とか生き延びました。
ホームレスになる人は大抵、「働きたいのに働けない人」か「働きたくなくて働けるのに働かない人」もしくは「働きたくないし働けない人」この三種類です。
でも兼元謙任氏はどこにも当てはまらないので、他のホームレスの人とは付き合いませんでした。
それが良かったのかもしれません。もしホームレスの仲間が出来てしまったら、もう抜け出せなかったかもしれませんね。
そういう人たちの中には、仲間が元の世界に戻られたくないという人も多いのです。
今思えばその時の経験は宝物だと兼元謙任氏は言いますが、その時は正露丸が手放せなかったとか。
コンビニの廃棄された弁当を食べることにもだんだんと抵抗が無くなってきます。
子連れの母親からは「ああなっちゃダメよ」とダメな人生の見本のように言われても、それも平気になって行きます。
でもさすがに、ファストフード店で手にした食べ残しのハンバーガーを食べた時にタバコの吸い殻が入っていて、暗いところで食べたのですぐに気が付かず食べてしまって、生死をさまよった時には考えました。
嫁さんと子供の顔が浮かんで、「もう一度やり直したい」と強く思いました。
ホームレス生活をして数か月したころ、ある中国人女性と知り合います。
その人は、兼元謙任氏をきつい口調でたしなめて叱りました。
彼女は、中国の貧富の差の激しさを話して農村部では粘土まで食べて生き延びている。その貧富の格差を何とかしたくて日本にきて、アルバイトをしながら大学に通っていると言ってました。
「日本では、働きたければ働いて食べていけるのに、なんであなたはこんな生活をしているのか」と言われました。
兼元謙任氏は言い訳のように、幼いころからのイジメや仲間の裏切りの話などをしましたが、「つらい思いをしただけでやる気をなくしたなんておかしい」と言われてしまいます。
「人の痛みが解るのだから、他にやることはあるはず」というわけです。
その中国人女性は「勝負しよう。私はいずれ中国に行って変えて見せる。あなたは自分のすべきことで変わりなさい。この経験は誰でもが出来ることでは無いからきっと役に立つはず」
その言葉が深く胸に刺さりました。
最初は腹が立ちました。でも彼女の言う通りです。
OKWAVE兼元謙任の再起の影に妻あり
それで、兼元謙任氏は再起を決意します。
その後、知り合いの社長などからデザインの仕事を受けますが、それにとても感謝の気持ちが湧きます。
ですから、要求以上の仕事をして応えていきました。
収入は少しづつ安定して月に30万円程稼げるようになっても、手元には1万円だけ残し残りは実家に帰った妻に送っていました。
毎日、一日400円で、食べ物を買った日は風呂は無し、風呂に入った日は食事は無しのホームレス生活を2年程続けました。
そんな中、Webデザインの仕事を請けて、まだBBS(電子掲示板)の時代でしたが、知りたいことがあって書き込みをしてみました。
「各地にちらばっている仲間とインターネットで連絡を取り合う方法を教えてください」というものでしたが、
「マナーがなってない。無礼だ」とか「過去ログを自分で調べろ」とか叩かれてしまいました。
それで「なんでBBSの人はあんなに怒ったのか」で始まり、「なんで僕は朝鮮人と言ってイジメにあったのか」とか「なぜ妻に離婚を迫られたのか」とかの疑問が次々と湧いてきて、そんな質問に応えてくれる人がいたら、こんな惨めな生活をしなくても済んだのではないかと思いました。
誰かに質問して、いろんな答えがあって最終的に一つの答えにたどり着くというプロセスがあったらいいのにと思います。
それで、誰でもが質問と答えを書き込めるWebサイトを作ろうと思いつきました。
友達にも親にも相談できないとこを相談できるサイトを作りたい。
そう思って知り合いの社長などに話を持ちかけますが誰も相手にしてくれません。
「自分でやりたいと思うなら、リスクがあっても自分でやれ」
そうか借金してでもやるしかないのかと決心と覚悟を決めて、借金してでも起業する意思を伝えなければと、上京以来初めて妻に再会しに行きました。
すると、2年ぶりに会った妻は黙って通帳を差し出したのです。
送金したお金を使わずにとっておいてくれたのです。
涙が出ました。本当に有難かった。苦労ばかりかけていたのにと。
OKWAVE兼元謙任が起業できた不思議な理由
いよいよ起業となりましたが、元手は妻が貯めてくれていた400万しかありませんから、安いオフィスを探し、システムを作るのにプログラマーが必要でしたがお金がありません。
すぐにお金は払えないことを条件で依頼しましたが当然断られ続けます。
そんなある日アメリカ人のプログラマーと出会います。
その彼は話を聞いただけで無料でシステムを作ってくれたのです。
夢みたいな話です。
ですが、ちょっと問題が起きます。オープンしてみると重大なバグが出てくるという問題が発覚しました。
慌ててそのアメリカ人のプログラマーに連絡を取ってみたのですが、すでにアメリカに帰ってしまったというのです。
途方に暮れていたところ、別の友人がアメリカから帰って来てそのバグをすぐに快く直してくれました。
ここで問題になるのが、プログラム製作者の権利です。プログラムの改変には所有者の同意が必要です。
そこで、プログラムのソースを開いてみると、なんとそこには兼元謙任氏の名前が権利者として入っていたのです。
神様のように思えました。
「OKWAVE」誕生。
こうして「OKWAVE」は誕生しました。
その最初にプログラムを作ってくれたプログラマーの方は、こちらからは連絡をとる方法が無い「自由人」で、実は最近連絡が突然来まして「うまくいっているようだね」と言ってくれました。
本当に神様だったのかもしれません。
兼元謙任の名言
兼元謙任氏の名言からは、波乱万丈の人生から得た答えが解ります。
・システムが人間の知能を越える日が来ることはあっても、人間の感性や思いが「質問して答える」という行為を支えるということは変わらない。
・ハートのマークを会社のロゴにするまでに苦節10年かかりました(笑)。初めて提案した時は男性社員から猛反対されました。ありがとうと言っても『お前は宗教家か』とまで言われていたのですが、時代が変わったのか今は受け入れられています。時代は変わるものです。
・「ARIGATOで世界をつなぎ幸せで満たす」の経営理念は過酷な体験から得た宝物です。
・質問したらいろんな答えが返って来て、その中から一つの答えをみんなで導きだせれば、たすかる人がきっといる。
・人より辛い思いをしたぐらいで、やる気を無くすなんて勿体ない。辛い経験から学ぶことも多い。自分にしか出来ない事をすればいい。
兼元謙任まとめ
たとえホームレス生活になっても、しかも2年もしたとしても、本当に再起したいと願えばどうにかなるものです。
ホームレス生活の体験って想像を絶します。
夏は暑いだろうし、冬は寒い。
空腹に耐えて、妻に仕送りして、妻はそのお金を貯めていてくれた。
まるでドラマみたいな人生です。
しかも子供のころのイジメ体験と難病体験。
こんなに壮絶な体験をしている人もいるんだと、今の自分がなんて幸せなのかと思う人もきっといるはずです。
「何クソ」だけじゃ乗り越えられません。
兼元謙任氏には何人もの神様のような人との出会いがあります。
ホームレス時代に出会った中国人女性もそうですし、アメリカ人のプログラマーの人もそうです。
もちろん奥様も神様のようです。
そして、凄惨な体験をしたからこそ解った「ありがとう」の言葉。
苦労が宝物に思える日が来たら、それが本当の幸せを掴んだということなのかも知れませんね。
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