有名人の名言

安藤百福の名言と生涯 48歳でチキンラーメンを開発した日清食品物語

安藤百福(あんどうももふく)日清食品の創業者でチキンラーメンやカップヌードルの開発者です。

日本が統治していた時代の台湾出身の台湾人で元の名前は「呉 百福」です。

日本国籍を取得して奥さんの苗字を名乗っています。

安藤百福がチキンラーメンを開発したのは48歳の時、しかも財産のほとんどを没収され無一文からの出発でした。

カップヌードルを開発したのはなんと61歳の時なのです。

しかも、この商品の寿命は尽きることを知りません。

永遠に続くのではと思うほど長く生き残れたのには、常に飽きられないように新しいものを開発し続けている企業努力でした。

成功するのには、歳なんて関係ありません。

常に新しいものを求め創造していく心構えがあれば、成功するチャンスは必ず平等に巡ってくるものなのです。

安藤百福の名言から年齢で諦めることは無いことを知りました。

安藤百福の名言

・人生に遅すぎだということはない。

・食足世平(食足りて、世は平らか)

・知識よりも知恵を出しなさい。

・「落とし穴というものは、賛辞の中にあったりするものだ」

・時代の変化に対応するのではなく、変化を作り出しなさい。

・転んでもただでは起きるな。そこらへんの土でもいいから掴んで来い。

・明日になれば、今日の非常識は常識になる。

・目標を持ったら、あとは執念で成し遂げる

・血尿がでるほど創意工夫しなさい

・ひらめきというものは、執念の中から生まれるものだ。

・どんなに素晴らしい思い付きでも、時代がそれを求めていなければ人の役に立つことは出来ない。

・やれそうもない事を成し遂げる事が、仕事というものである。

・事業化できないようなアイデアなんて単なる思い付きにすぎない。

本当のアイデアというものは実用化されて成功が保証できるものでなければならない。

・事業を始めるときに、金儲けがしたいという気持ちは無かった。

ただ、何か世の中を明るくなるような仕事は無いかとだけ考えていた。

・新しいものを創造する力が無い会社は存続出来ない。

・「企業」と「創造」は同義語である。

新しいものを世の中に提供していく力が無いのなら企業である必要は無い。

安藤百福の生涯

女性自身 即席ラーメンの生みの親 安藤百福

1910年3月5日(明治43年)~2007年1月5日(平成19年)

日本が統治していた時代の台湾台南県東石郡樸仔脚(現在の嘉義県朴子市)に生まれました。

父は呉獅玉(別名は呉阿獅)、母は呉千緑の間に生まれ、父は資産家だったのですが、両親は幼少期に亡くなってしまいます。

繊維問屋を経営する祖父呉武のもとに引取られ、台南市で育ちました。

小さい時から数字に異常なほど強い興味を持っていて、足し算・引き算・掛け算の習得も跳びぬけて早かったようです。

14歳で高等小学校を卒業し、学校と家が遠かったため、学生時代は東石郡守の森永信光宅に寄宿させてもらい通学しました。

義務教育が終了すると祖父の繊維問屋を手伝いをしたり、森永郡守の紹介で図書館の司書になりましたが2年程で辞めて、父の遺産で1932年に台湾の永楽市場で繊維会社である「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立しました。

当時の繊維業界の動きからメリヤスの需要が大きく伸びるだろうと考えて、日本内地から製品を仕入れて台湾で販売したのです。

この予測が当たり、事業は大きな成功を収めました。

台湾から日本へ

1933年には大阪市にメリヤス問屋「日東商会」を設立となります。

メリヤスの他、近江絹糸紡績の夏川喜久次と組んで、トウゴマを栽培し、実から「ひまし油」を採取し、葉は養蚕用に繊維メーカーに売る事業も手掛けました。

この時期の安藤百福は実業家として忙しい毎日を送る中、立命館大学専門部経済学科(二部)にも学んで、1934年3月に修了しました。

太平洋戦争開戦後は、幻灯機の製造やバラック住宅の製造(兵庫県相生市)などの事業もしました。

軍用機エンジンの部品製造をする軍需工場の経営にも携わったのですが、三等市民扱いの台湾出身であったため45日間拘束されて憲兵から拷問を受けることになってしまいました。

百福は国から支給された資材の横流しに気付いて憲兵隊に訴え出たのですが、それが却って自身が横流しをしたと疑いをかけられてしまったのです。

棍棒で殴られるわ、正座した足の間に竹の棒を挟まれるわ、といった過酷な拷問を受けました。

実は、憲兵隊の中に横流しをしたらしき者の親戚がいたことが後になって判明したと自著の中で書いています。

自白を強要されたのですが調書への署名を拒否し、拷問はさらにエスカレートしました。

安藤百福の自伝によりますと、留置所の同じ房の人たちどうしで粗末でしかも不潔な食事を我先にと奪い合う姿を目の当たりにし、自ら食べる気にもならないような食事でも、飢えれば喉を通るものだという体験を通して、食こそが崇高なものなのだと思うようになったとか。

旧来からの知己である元陸軍中将の助けで、なんとか留置場から出ることができたのですが、留置生活の影響から深刻な内臓疾患を抱えることになってしまい、後に2度の開腹手術を受けることになりました。

空襲が激しくなると終戦まで兵庫県の上郡町に疎開して炭焼きなどをして暮らしました。

大阪で事業を手掛けていた頃在住していた千里山では、三軒隣に藤田田(日本マクドナルド・日本トイザらスの創業者)の一家が住んでおり、交流を持つこととなりました。

1945年3月からの大阪大空襲で、安藤百福の大阪事務所や工場はすべて灰燼に帰しています。

安藤百福と戦後の日本

終戦後の1946年冬に、疎開先の兵庫から大阪へ戻り、泉大津市に住みました。

終戦直後で土地が安く手放されていたのですが、久原房之助(鉱山王の異名をとり久原財閥の総帥)の助言により、大阪の中心街である心斎橋や御堂筋そして大阪駅前などの土地を相当手に入れました。

終戦翌年の1946年の冬、大阪の御堂筋を歩いていると、腹を空かせた子どもたちはみなやせ細り、うつろな目をした飢餓状態の人たちばかりでした。

時折、道端にうずくまっている人がいましたが、それは餓死者だったのです。

安藤百福はこの光景を目にして、「衣食住というけれども、食がなければ衣も住もましてや芸術や文化なんてあったものではないんだ」という思いに至りました。

その翌年の冬のことです。

阪急梅田駅の裏手にあった闇市の中を通りかかったら、一軒の屋台の前に20~30メートルの長い行列ができていたのです。

それはラーメンを待つ行列だったのです。

温かいラーメンをすすっている人たちの顔は、皆幸せそうな表情に包まれていました。

この光景が安藤のその後の安藤百福の人生を決定付けた一瞬でした。

日清食品の企業理念は「食足世平(しょくそくせへい)」(食足りて世は平らか)なのですが、そのルーツはこの実体験によるものです。

中交総社(後の日清食品)設立

自宅近くにあった軍需工場跡地の払い下げも受け、跡地に置かれていた鉄板を用いた製塩業や漁業を営んで食いつないでいましたが、1948年に、「中交総社」(後の日清食品)を設立しました。

栄養食品の開発に取り組んでいた頃、仕事の関係で厚生省に出入りしていたのですが、当時の厚生省はアメリカの余剰小麦を使うことを奨励していました。

そこで安藤百福は同省栄養課長の有本邦太郎(後の国立栄養研究所所長)に麺食を進言して、その研究を勧められました。

「国民栄養化学研究所」を設立し専門家を集めました。

牛や豚の骨からタンパク質エキスを抽出することに成功し、パンに塗るペースト状の栄養商品「ビセイクル」が誕生して病院にも供給されました。

しかし1948年12月に、GHQにより脱税の嫌疑をかけられたのです。

安藤百福は事業に地元の若者を雇い、彼らに「奨学金」として現金を支給したのですが、奨学金は所得であるから源泉徴収して納税しなければならないのにしてなかったというのです。

判決は4年間の重労働の刑で、巣鴨拘置所に収監されました。

そして安藤が個人名義で所有していた不動産を全て没収されてしまったのです。

収監後にGHQは安藤百福の名を挙げて「納税義務に違反した者はこのように厳罰に処す」という内容の談話を発表して見せしめとして利用したのです。

納得のいかない安藤百福は、その後法学者の黒田覚の支援を受けて、弁護団を結成して処分取り消しを求める裁判を起こし戦う姿勢を示しました。

これに対してGHQ側は「訴えを取り下げれば釈放する」と取引を持ちかけてきたのです。

当初安藤百福は断固裁判を継続すると覚悟を固めていたのですが、最終的には大阪に残してきた家族の生活が気掛かりで、止む無く取引に応じ訴えを取り下げ、釈放されました。

また、日本の敗戦により、台湾人は外国人となって安藤百福は日本国籍を失います。

安藤百福は収監中に全ての事業を整理していました。

大阪に新設されたある信用組合から懇願されて、その理事長に就任したのですが、素人集団で不良債権が拡大し、やがてその信用組合は破綻してしまいました。

いよいよ無一文になった安藤百福はこの件のことから、信用組合と親密な関係にあった銀行に対しても不信感を抱くようになり「今後銀行には頼らない」と決心し、日清食品の経営時には無借金を貫きました。

チキンラーメンの開発

安藤百福は、大阪府池田市の自宅敷地内に小屋を作って、以前から構想を練っていた即席めん(インスタントラーメン)作りに取り組むことにしました。

安藤百福は、インスタントラーメンの定義を

1.おいしくて飽きがこないもの

2.保存性があるもの、

3.調理に手間がかからないもの、

4.安価であること

5.安全で衛生的であること

としました。

早朝から深夜までたった一人で小屋に籠り、ひたすらインスタントラーメン作りに取り組む生活を1年間続けました。

開発の過程は失敗を繰り返しながら少しずつ前進していったので、どれが開発成功の決定的な場面かは思い浮かばないという安藤百福は語っています。

安藤百福はまず、「着味麺」というスープの味を染み込ませた麺の開発に取り組みました。

小麦粉の中にスープを染み込ませて味の付いた麺を作ろうとしたのですが、製麺機にかけるとボロボロと崩れてしまいます。

では麺を蒸してからスープに浸してみたらどうかと試してみましたが、今度は生地が粘ついて乾燥しにくいのです。

いろいろと試行錯誤の末、やっとじょうろを使って生地にスープをかけて、しばらく自然乾燥させた後に手でもみほぐすという方法に辿り着きました。

チキンスープを選んだきっかけは、以前庭で飼っていたニワトリが調理中に暴れたことに驚きそれから鳥肉を口にしなくなった息子が、鳥ガラでとったスープで作ったラーメンだけは食べたので、チキンスープは誰もが受け入れやすい味だと思ったからだとか。

次に挑んだのは、麺を長期間保存ができるように乾燥させて、なおかつ熱湯を掛けるとすぐに食べることができる状態になる性質を持たせることです。

天ぷらからヒントを得て、麺を高温の油で揚げてみることにしました。

安藤百福が目を付けたのは、麺を高温の油で揚げると水分がはじき出され、それと同時に麺に無数の穴が開くことです。

そして熱湯を注いだ際にはその穴から湯が吸収されて麺が元に戻りやすくなるという仕組みでした。

ですが麺の固まりを油の中に入れるとバラバラに分解してひろがって浮かび上がってしまいます。

そこで針金と金網を使って枠型を作り、その中に麺を入れて揚げる手法を考案しました。

これら一連の製法は「瞬間油熱乾燥法」と名付けて、1962年に特許を取得しています。

安藤百福は、油熱乾燥させたラーメンは独特の香ばしさを持つのだが、その香ばしさこそがおいしさの秘密で、普通のラーメンとは違う食べ物なっているのだと述べています。

チキンラーメンの発売

インスタントラーメンの開発は1958年の春にはほぼ完了しました安藤百福が48歳の時です。

貿易会社を通じて試作品をアメリカに送ってみたところさっそく注文が入り、日本で発売する前に日本国外への輸出が行われました。

同年夏には「チキンラーメン」という商品名で日本での発売を開始となりました。

安藤百福によると、チキンラーメンの売れ行きは「ある日突然に爆発した」と言います。

価格を当時はうどん玉6円、乾麵25円だったのに対してチキンラーメンは35円にしたので最初は高く感じられました。

また安藤百福は、当時の慣例とは異なる(普通は2~3か月の手形決済)現金決済を要求したので問屋の反応は芳しくありませんでした。

それが、ある時から小売店から問屋への注文が殺到するようになって、問屋から「現金前払いでもいいから」と注文が入るようになったのです。

安藤百福はチキンラーメンがヒットした要因を3つ挙げています。

第1はチキンラーメン発売と同じ時期にスーパーマーケットが加工食品を大量販売する流通システムを確立しはじめたこと

第2はテレビCMが効果を上げたこと、

第3は日本の消費者が食事に簡便性を求めるようになっていたこと

こうして、三菱商事、東京食品、伊藤忠商事の3社と販売委託契約を締結し、流通網を整えると同時に、大量生産を可能にするために大阪府高槻市に2万4000㎡の敷地に工場を建設しました。

余談ですが、この頃製麺機の幅について技術者との検討中に機械の切歯へ右手を差し出してしまい、薬指が第一関節あたり皮一枚でつながっている状態の怪我を負いました。

医者が「後の責任が負えないので切断するしかない」と言うのに対して、「自分が責任を持つのでくっつけてくれ」と無理を言って、接合手術が施されたのですが、その指は無事に接合しました。

後に安藤百福は、相手が専門家だからといって、そのままなんでも鵜呑みにしてはいけないと考える機会となったといいます。

話は戻りますが、チキンラーメンの売上げは予想をはるかに超え、

「いくら売っても需要に追いつかない」日々が続いたそうです。

工場用地の購入代金をチキンラーメンの売り上げ1か月分で賄えたといいます。

1963年10月、安藤が経営する日清食品(かつての中交総社)は東京証券取引所と大阪証券取引所で第二部に上場しました。

類似品の対策

チキンラーメンがヒットすると「チキンラーメン」と同じ名前にした商品や、パッケージをチキンラーメンに似せた類似品が多数出回るようになりました。

日清食品はチキンラーメンに関する商標や特許を申請・登録しましたが、販売後だったために泥沼の戦いになりました。

日清食品など56社が社団法人日本ラーメン工業協会を設立し、安藤百福は、同協会の理事長に就任しました。

日本ラーメン工業協会設立後に所得した特許についても、きちんと契約をした上で、要望があれば使用許諾を行っています。

類似品を含めインスタントラーメンの生産が盛んになるにつれて、麺を質の悪い油で揚げるなど品質に問題のある商品が市場に出回るようになっていきました。

安藤百福は、法律によって義務付けられる以前に自社製品のすべてに製造年月日の表示を行うことにしました。

日本ラーメン工業協会においても成分表示や製造基準に関する検討を行い、インスタントラーメンに関する日本農林規格を制定するよう農林省に要請するなど、インスタントラーメンの安全、信頼の確保のための仕組み作りに取り組みました。

カップヌードルの開発

1966年に視察のために訪れたアメリカで新商品開発のヒントをつかみました。

あるスーパーマーケットにチキンラーメンを持ちこんだところ、麺を入れるどんぶりがないので、相手は紙コップの中にチキンラーメンを割ったものを入れて、それに湯をかけてフォークで食べたのです。

それを見た安藤百福は、欧米人には箸とどんぶりでインスタントラーメンを食べる習慣がそもそもないことを改めて認識しました。

こうしてカップに入れてフォークで食べられるインスタントラーメン、カップヌードルの開発に着手しました。

カップの素材として、断熱性が高く、経済性に優れたスチロール樹脂に着目しました。

食品容器にふさわしい品質に精製して、当時厚さ2cmほどに加工されるのが一般的であったところを2.1㎜まで薄くしました。

「画期的な技術革新」の容器が完成したとその時の事を安藤百福は、語っています。

カップの中に入れる厚さが約6㎝の麺の固まりをいかに均一に揚げるかということが開発において最も苦労したことでした。

安藤百福はこの完成により、容器が包装材料、調理器具、食器の3役をこなす画期的な商品が完成したと意気込みました。

ですが、マスコミや問屋からの評判は冴えず、スーパーマーケットなど正規のルートで販売することができませんでした。

そこで給湯設備付きの自動販売機を設置したところ、売れ行きがよくなり、徐々に取り扱う問屋が現れるようになったのです。

カップヌードルの需要が爆発的に高まるきっかけとなったのは、1972年に起きた「あさま山荘事件」です。

長野県の河合楽器の保養所で連合赤軍という日本の極左テロ集団が人質をとって立てこもった事件なのですが、この事件の際、山荘を包囲する機動隊の隊員がカップヌードルを食べる姿が繰り返しテレビで放映されたのです。このことが大きな話題を集めて、再び生産が追いつかなくなるほどの売れ行きを見せるようになったのです。

カップヌードルは日清食品にとってチキンラーメン以来のヒット商品となって、1972年に日清食品は東京証券取引所と大阪証券取引所と名古屋証券取引所の第一部に上場しました。

安藤百福が62歳の時です。

安藤百福の家族関係

そもそも安藤百福は台湾出身ですから、台湾社会では長く一夫多妻が許容されていたという事実があります。

日本統治時代になって一夫一妻制が原則とされたのですが、戸籍上は大房(正妻)を「妻」、二房(第2夫人)や三房(第3夫人)なら「妾」と届け出ればよかったのです。

その存在は決して日陰の身では無く、正妻も認める存在でした。

今の社会ではとても理解できるものではありませんが、その制度を決して擁護するわけではありませんが、財力のある人間の庇護の元で子供を産み貧困の心配無く育てられる環境というものは女性にとって魅力的だったのかも知れないという理解はある程度できます。

安藤百福も資産家の家に生まれていますから、そういう環境を受け入れたようです。

まず、黄綉梅(ファン・シウメイ、1907年~2011年) 台湾時代の第1夫人です。

幼少期に安藤百福の実家で新婦仔(シンプアと言って裕福な家庭の男児の妻にするため買い取られて育てられた養女)として育ち、大房(正妻の事)として1928年結婚しました。

新北市新店区の高齢者施設で104歳で死去しています。

子供は長男となっている安藤宏寿で元日清食品の代表取締役社長を務めています。

他に養女の 呉火盆もいます。

次に台湾時代の第2夫人(二房)ですが、呉金鶯(ウー・ジンイン、1919年~1971年)。

奈良女子高等師範学校の保育養成科在学中だった1938年ごろ台北で安藤百福と出会って、翌年から大阪で同棲し、実子のほか、正妻の長男・宏寿を台湾から引き取って育てています。

日本での生活ですから、正妻は台湾にいましたし、正式に第2夫人になれるわけでもないという状態でした。

1945年頃台湾に帰国し、国民党軍の軍人と結婚するのですが後に離婚しています。

百福からの仕送りのほかに、野菜を売ったり台湾製品を日本に横流しするなどでなんとか食い扶持を稼ぎましたが、その後病で52歳で死去しました。子供は、呉宏男・故人、呉武徳・故人、呉美和(1942年生まれ)と大阪で生まれています。

呉美和は、事実上の長女ですが、母親に連れられ台湾に帰国しています。

安藤百福本人はその存在を公にしていません。

安藤百福の葬儀では安藤家側より親族席に座すことを拒否されています。

警備員に完全包囲されつつ一般会葬者のひとりとして参加しました。

安藤百福が生存中、何度もお金の無心に日本に訪れ、相当な金額の援助を数度に渡り受けていますが、最後には安藤百福にも見放されたようで面会を拒否されています。

2019年4月時点では台北市で76歳という高齢でありながらホームレス(路上生活者)をしているということです。

日本での妻である安藤仁子(1917年~2010年)。

安藤重信の三女で、安藤家は福島県二本松神社の神職に就く一族で、当地では名家です。

安藤百福は大阪の関西財界の社交場「大阪倶楽部」の受付嬢だった仁子と1943年ごろから交際を始めたのですが、正妻との婚姻関係を解消しないまま所帯を持ち1945年に結婚しました。

1966年に日本国籍を取得した際には仁子の姓である安藤を名乗ることにしました。

しかし、仁子との婚姻に関しては大阪家庭裁判所が2005年5月27日、「黄綉梅との婚姻関係が法的に解消されていないので、重婚であたりこれを無効とする」との一審判決を出しました。

仁子は2010年に92歳で亡くなっています。

子供は二男の安藤宏基で現・日清食品ホールディングスの代表取締役CEOを務めています。

娘もいて、 堀之内明美(日清食品ホールディングス元監査役・堀之内徹の妻)となっています。

安藤百福まとめ

まず、連続テレビ小説「まんぷく」とはだいぶ違うという感想です。

「まんぷく」では台湾出身という設定でもありませんでした。

日本の奥さんが重婚になり婚姻無効なんて結果も無論の事です。

ですがチキンラーメンとカップヌードルの発明というものは、なんといっても「凄い」の一言です。

しかもチキンラーメンの発明が48歳です。

年齢なんて関係ない。諦めなければ達成できる。

今何が必要としているのかをいつも見定める気持ちがあれば、年齢は関係ないのかも知れません。

インスタントラーメンは、今では生活に無くてはならない物の一つです。

今だに売れている商品だということも凄いです。

その為に見えない努力がどれだけあるのでしょう。

この、流行の移り変わりの激しい世の中に残っているのです。

古いのに新しく感じる演出の上手さ。

食べることで、人間の満足感が得られるという究極の欲望の根源を、常に忘れていない姿勢なのかも知れません。

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