鮎川義介(あゆかわ よしすけ)日産コンツェルンの創始者です。
貧しい幼少時代の経験により「立身出世」を志しますが、上流社会の裏表を見て、「立身出世」に疑問を感じ、終生富豪とならずに天職に精進すると誓って、自ら進んで一から修行をして人生を切り開きました。
それでも後に「日産コンツェルン」という巨大な「鮎川財閥」と言われるグループを作り上げたのですから、肩書に頼らずともここまで登れるということでしょう。
ゼロから企業グループをつくりあげた戦前屈指の実業家である、鮎川義介氏の名言と功績を調べてみました。
鮎川義介の名言
・「人生設計の変態方程式」
井上馨を大叔父に持った由緒ある家柄であることを隠して、一介の職工として社会人のスタートを切ることを、後に鮎川義介氏はそう呼んでいます。
天賦の才力を全て仕事に捧げようとする目的の人生設計には、肩書は邪魔になると考えたものです。
・日本人は労働能率において少しも西洋人に劣るものではない。それどころか、手先の器用さと動作の機敏さそれに頭の良さも加えれば、日本の国土の狭さと人口過密それに天然資源の乏しさを考えれば、農業立国よりも加工工業が向いている。世界無比の万能工業人の趣旨を余るほど授かっている。
・「元来、生物だけが意識をもっているとおもうのは人間の錯覚で、神は万物にそれを与えている。それを善用できるのは、“愛のつながり”以外にはない」
会社というものを生き物と捉えた鮎川義介氏の企業に対する考え方です。
・「経験は蓄積されて自分の資本になる」
・古来、事業をなすには「天の時、地の利、人の和」と言うが、これを貫くには「至誠」をもってしなくては事業の成功を期することはできない。
(至誠とはきわめて誠実なことです)
・「至誠は天地を揺るがす」ということわざがありますが、人間、至誠に終始すれば、絶体絶命の時にも、必ず強力な支持者が背後に現れ起死回生となるものです。どんな新事業でも創業から数年の間には、必ず危機に遭遇するものでこれは避けられません。危局を打開していくには、経営者の手腕や努力だけで乗り切れると思うのは間違いです。
・努力だけで過去の事業が成功してきたかというと決してそうでないでしょう。やはり成功には運がプラスされているのです。
ですが、努力のないところには絶対に幸運は来ないのです。
鮎川義介の生い立ち
1880年11月6日(明治13年)山口県山口市で生まれました。
鮎川家は代々、毛利家に仕えた武士の家系です。
鮎川義介氏の父の弥八で十代目に当たり、軍人を志願して郷土の先輩の大村益次郎のもとでフランス式の訓練に参加しました。
ですが、体が弱く厳しい訓練に耐えきれず挫折してしまいます。
そこで父の弥八は結局山口に戻り県の役人となり、その後防長新聞社で採用が決まり、校正と会計を兼務する仕事になります。
鮎川義介氏の母の仲子は、明治の元勲である井上馨の姉の次女です。
つまり母の仲子は井上馨の姪に当たりますから、鮎川義介氏にとって井上馨は大叔父となるわけです。
鮎川義介氏が生まれた当時は、それこそ長州の貧乏士族の典型のような暮らしでした。
子供が産まれる時に使用する産湯のタライまで、母の仲子の実家から持ち込まなければならない程の貧窮ぶりでした。
ですが、武士の家柄ということもあり教育熱心ではありました。
鮎川義介氏は、七人兄弟で上に姉がいましたが長男でした。
教育の為にはとなんとかお金を捻りだし、鮎川義介氏が6歳になると「キンダーガーテンと名付けられた今でいう幼稚園に通わせました。
山口県は明治維新の原動力と言えるところですから、鹿児島と並んで西欧文化を積極的に取り入れているところでした。
その鮎川義介氏が通ったキンダーガーテンも、西洋の教育法で、東京女子師範学校出身の女性を2人も置いていました。
小中学の頃は、優等生というよりも腕白のきかん坊といったところだったようです。
ビリヨン神父との出会い
鮎川義介氏が11歳の時、どういうわけか父の弥八が浄土宗からキリスト教に改宗し、家族とともに洗礼を受けました。
ちなみに鮎川義介氏の洗礼名はフランセスコ・ザペリヨです。
それで学校とは別に熱心に日曜ミサに通って、フランス人宣教師・ビリヨン神父からはフランス訛りの英語でしたが実用英語を学び後にとても役立ちます。
またビリヨン神父の部下だった日本人伝道師から、中国の通俗歴史書である 「十八史略」などの漢籍なども学ぶことが出来ました。
ビリヨン神父と鮎川義介氏との交流は、以後60年も続きました。
ビリヨン神父はあのナポレオンの側近という名門の出でありながら辺鄙な地での「低処高思」な生き方を貫いた人です。
ちなみにこの神父、あの“日本資本主義の父”渋沢栄一にもフランス語を教えています。
キリスト教の入信は一時的なもので、家族はじきに浄土宗に戻っていますから、もしかすると教育熱心な父が、鮎川義介氏に日曜ミサの教育を受けさせる為だったのかも知れません。
父の外套
なにしろ貧しく、収入は父の新聞社の給料のみだったので子供が増えるごとに、生活は苦しくなりました。
鮎川義介氏が中学3年の時に、肩に被いの付いた外套の「インバネス」というコートが流行しました。
母の仲子はその外套の肩の被いが暖かそうで、新聞社に勤めている夫に着せてあげたいと思いましたが、なにしろ貧しくて手の出る物ではありませんでした。
そこで母の仲子は鮎川義介氏を呼び、東京にいる仲子の妹に手紙を書いてくれるように頼みます。
内容は、「お手元にインバネスの使い古しがありましたら、弥八あてに頂戴したい」というものです。
東京の妹とは仲子の叔父である井上馨の養子の井上勝之助の妻ですから金持ちです。
しばらくすると小包が届き、インバネスが入っていました。
確かに上等なものですが、仲子の要望どおりの使い古したものでした。
父もその外套を喜んで着用し、仕事に行きます。
ですが、鮎川義介氏はというと、心情はとても複雑でした。
もし、これが自分だったら使い古しの物など送らない。新しい物を贈るか、お金を送って好きな物を買いなさいと言うだろう。
貧乏の苦しさを知らない人は思いやりが無い。
自分は立身出世して、もらう側ではなく、あげる側になってやると強く思います。
母の仲子の妹にしてみれば、新品やお金を渡すのでは、姉がみじめな思いをするかも知れないと思って、要望通りの着古した物を贈ったのかもしれません。
ですがその時まだ幼かった鮎川義介氏は、その体験により「立身出世」を志ました。
長男だったので、自分がどうにかしなければという目覚めであったのかもしれません。
高校は井上馨が顧問を務めていた、防長教育会が管轄する山口高等学校に通いました。
防長教育界は、一流の教師を中央から集める為に惜しげもなくお金を使っていました。
井上馨は山口の教育の発展に注力していましたから、教師陣も凄い物でした。
後に文相になった人や、学習院の院長になった人や、東京女子高師校の好調になった人もいました。
その中でも、鮎川義介氏がもっとも影響を受けたのは、丘浅次郎という若手の教師でした。
少し他の先生と試験においてもやり方が違いました。
カンニングOKで、どんな本を教室に持ち込んでも良いと言うのです。
社会に出たら、わからない事があったら本を読んで調べるのは当然なのだから、試験でも同じことだと言うのです。
ただ、その先生は「諸君がいくら本で調べてもわからない問題をだす」というのです。
書物をいくら読んでも、自分の頭で考えなければ答えなど出ない。
自分の頭で考える大切さをその先生から学びました。
エンジニアになれ!
当時、士族出身の青年と言えば、まず軍人志望でした。
次が政治家で、実業家やエンジニアはまったく人気がありませんでした。
山口は明治維新の関りも多く、国を動かす仕事をしたいという意思が強く、それには軍人か政治家と思われていました。
ですが、井上馨が山口高校の講堂で、学生を前に語ったことはまったく違う話でした。
「日本には今政治家が多すぎる。自分も政治家になったのは間違いだった。
国の富を増やす実業家になりなさい。
それが今の日本には必要だ。」と言うのです。
そしてその後、井上馨は宿泊先にわざわざ鮎川義介氏を呼んで、「お前はエンジニアになれ!」と言いました。
「エンジニア?」と思いましたが、その言葉を胸に刻んでおきました。
その意味を知るのはもっと後になります。
その数日後に、「わしが話をつけておいたから、北条教頭の宿舎で寝起きしなさい。家を出て他人の飯を食わんと人間になれんでのう」と言われました。
北条教頭の元にはすでに2人の先輩が暮らしていました。
二木謙三と吉本清太郎です。
二木謙三は後に医学博士となって玄米食の効能を説き推奨します。
吉本清太郎も後に医者になり赤十字病院の内科部長になりました。
北条教頭の直接の弟子であった西田幾太郎も出入りしていました。
無精ひげを生やしたその西田幾太郎が、後に「西田哲学」を打ち立てた世界的に有名な学者になるとは、その時は誰も思いませんでした。
ところが北条教頭は一年も経たずに金沢に転勤になってしまい、鮎川義介氏はその後、中学の教頭の元を経て、山口高校の川内信朝校長の家に落ち着きました。
そこには、日露戦争で満州軍参謀長を務めた児玉源太郎の長男や、大蔵大臣曽根荒助の長男など長州きっての名士の子息や子弟が大勢いました。
井上馨の「東京にいては一人前にはなれない。山口にくだれ」という言葉に従っているのです。
鮎川義介氏は、その仲間たちと寝起きを共にしていると、何か違和感を覚えるようになりました。
みんな知識は優れているが、他人のことに無関心で、己を守ることに重きを置いている。
名士の家庭はどこか変ではないのか?と疑問に感じます。
その後、山口高校を卒業した鮎川義介氏は、井上馨のアドバイス通りに東京帝国大学工科大学機械化に進学してエンジニアを目指します。
宿泊先は麻布の井上馨邸です。
大学時代はあっと言うまでした。
製図を始め、エンジニアになるための基礎を学び、人生に大きく影響するような2冊の本にも出合います。
1冊は山口高校の教師であった丘浅次郎の書いた「進化論講和」で、ダーウィンの進化論をやさしく要約した内容でした。
そのころダーウィンの進化論は世界中で話題になっていました。
もう1冊は、アメリカの鋼鉄王カーネギーの書いた「エンパイア・オブ・ビジネス」(実業帝国)です。
この本の「君が仕えているボスが感心できなかったら、一時的には損をしてもさっさと見切りをつけて去った方が良い。自分の天分を見抜いて活かしてくれる人に巡り合うまで探せ」という言葉に影響されました。
大学を卒業するころになると、井上馨は「三井入り」を薦めました。
井上馨は「三井の番頭」とも言われるほど関係が深かったので、その薦めに従えば出世間違いなしです。
ですが、鮎川義介氏はその薦めを断りました。
カーネギーの本で言うところの、「ボスが感心できない」人だったのです。
鮎川義介氏は井上馨邸に下宿していたので、玄関番のような役割でした。
玄関近くに待機していると、そこに訪れる政財界の名士たちの裏の顔を目にすることも度々でした。
井上馨と面会するために待っているところで話す内容と、井上馨といざ面会していた時に対する態度とはまったく違う場合であったり、また面会後部屋を出てくると、まったく別人のように態度が変わる人などに驚きました。
まるで二重人格のようです。
さらに姉妹が名士の家に次々と嫁ぎ、上流社会の裏側を赤裸々に知るようになると益々不信感が募りました。
富豪になると、どうも利己的になって人類に不利益な悪徳を宿らせるもののようだ。
その人の天賦の才能の全てを仕事に捧げようと思ったら、富豪などというものはむしろ邪魔になるものなのだと考えました。
そして自分の「立身出世」のこころざしに疑問を抱き、「終生富豪とならずに天職に精進する」と誓います。
その時の事を、鮎川義介氏は「人生設計の変態方程式」と呼んでいます。
井上馨の勢力の力や、東京帝大卒という肩書きと関係の無いところで、人生の大海原に乗り出す決心をしたのです。
人生の大海原への船出
井上馨に自分の決意を話すと、「その考えは立派だ」と大変喜んでくれました。
そして、芝浦製作所(現在の東芝)を紹介してくれ、一部の幹部のみに鮎川義介氏の正体を明かし、出自を伏せて働けるようにしてくれました。
そして1903年明治36年7月に大学を卒業し、9月から芝浦製作所で仕上げ工という身分で入社しました。
初任給は日給48銭です。1ヶ月休みなく働いても15円にもなりません。
工学士の賃金は当時45円は貰えたというのにです。
ですが、まもなく鮎川義介氏の素性が同僚に知れてしまい、他の職場に移動します。
結局、機械、鍛造、板金、組み立てと次々に経験し、最後は鋳物工場になりました。
そうやって職工として働いているときに、「工場巡視録」という有力工場を視察したという記録を目にします。
「有楽会」という井上馨や渋沢栄一、それに大倉喜八郎といった有力実業家が作った組織が工場巡視録の中身を読んで、鮎川義介氏のも実際に自分の目で確かめたいと思います。
それで、仕事の仲間とともにその巡視録に載っている東京近辺の工場を毎週日曜日に見学して回りました。
その数は2年間で80にも及びます。
最初は仲間も同行しましたが、交通手段がまだそのころは無かったので徒歩の訪問となりますから、次第に同行する仲間も無くなり最後は一人で廻りました。
その結果、得た結論は「今の日本で成功している企業は全て西欧の真似ばかりだ。日本の独創なものがあっても進歩していない。
これは自分が今取り組んでいる鋳物の分野も同じで、これでは日本で仕事をする価値は無い」というものでした。
外国に行って勉強してくるしかない。
まずはアメリカだ。そこで鋼管の製造方法か可鍛鋳鉄のやり方を学んでこよう、と考えました。
可鍛鋳鉄とは、加工の可能性を豊富に持たせた鋳鉄のことです。
肉薄で機械の部品に使う事が出来て、将来その技術は必要でした。
鮎川義介 単身渡米
1905年、芝浦製作所を退社し、横浜港からアメリカ客船でシアトルに向かいました。
鋼管製造工場は技術の流出を防ぐため受け入れを拒否されましたが、可鍛鋳鉄工場では働かせてもらうことが出来ました。
バッファロー市郊外にあるグルド・カプラーという会社の工場で週給5ドルの見習い工です。
そこでの仕事は最初は大変きついものでした。
反射炉から流れる真っ赤な溶鉄を取り鍋で受け、その鍋を両手で抱えながら駆け足で自分の持ち場まで運んで鋳型に注ぐという過酷な作業もこなしました。
日本でも同じ作業はあるのですが、その重さは日本の倍でしかも連続で何度も繰り返すのです。
芝浦製作所では一人前だった自分も、ここでは半人前であると鮎川義介氏は自覚しなければなりませんでした。
毎日疲れ切り、火傷もしましたが、それころは日露戦争に日本が勝利したとのニュースが入って来てましたから、頑張らないわけにはいきませんでした。
2週間もすると、不思議な事にアメリカ人に引けを取らずに仕事が出来るようになりました。
別に急に腕力が増したわけではありません
コツを覚えたのです。
この体験は、後に鮎川義介氏が日本で起こす事業にとても役立つことになります。
これは、後に久原鋼業の社長に就任した時にも「私の体験から気づいた日本の尊き資源」として講話しています。
日本人は労働能率において西洋人に少しも劣りません。
それどころか、日本人は先天的に手先が器用な上、動作も機敏で頭も良いので、西洋人の体格や腕力には劣っていても、労働能力はそれ以上の効果を上げる事が出来る。
日本は国土も狭い上に、人口も増え、その上天然素材が無いので、これからは加工工業に期待するべきだ。そしてそれを輸出するようになれば国民も豊になれる。というものです。
アメリカでの体験で見習う事もありました。
アメリカ人は自分の商売道具であるシャベルをとても大事にして、一日の仕事が終わると、丁寧に砂や汚れを拭き取り、油の付いた布で磨き所定の場所に掛けるのです。
日本では、こんなに商売道具のシャベルを大切には扱わなかったのです。
道具を大切に扱うことは、すなわち自分の仕事を大事にする表れです。
アメリカで数多くの事や技術を学び、予定より早く帰国して、自分も日本で企業を立ち上げる決意をしました。
帰国して、井上馨に鋳物工業の将来性を力説し、日本人の労働力の優秀性も説きました。
そして起業の意思を伝えると、井上馨は賛成して、久原房之介、貝島太助、藤田小太郎、それに三井へも口をきいてくれて出資を約束してくれたのです。
鮎川義介 実業家時代
1910年、資本金30万円の鮎川義介氏が専務兼技師長となった新会社である戸畑鋳物が福岡県下の戸畑に設立されました。
日本初の可鍛鋳鉄製造会社です。
これは、今でいうイノベーションで将来の日本の可能性を大きく孕んでいました。
第一次世界大戦を機に大きく業績を伸ばし、1926年にはこの能力を認められ、久原房之介の率いる久原鋼業の再建を任されることになります。
主力であった久原鉱業の産銅事業の不振と、それに加えて傘下の久原商会の投機取引失敗により困窮に陥って久原財閥が存続の危機に陥っていたのです。
鮎川義介氏は、はじめは断る気でいましたが、義兄の三菱合資総理事であった木村久寿弥太に「日本中が大混乱になるから何としても食い止めろ」と説得されます。
とりあえず、弟政輔の養子先である東京の藤田家や妹フシの嫁ぎ先である貝島家などの井上馨につながる親族に回って援助を頼み、当座をしのぎました。
そして本格的に再建させるため、義弟にあたる久原房之助に代わり社長に就任し、旧体制の久原鉱業を現業部門と本社機構に分離し、本社部分を公開持株会社の日本産業株式会社に組織を改編しました。
しかし株式を公開して広く一般から事業資金を集め、優良な弱小会社の吸収合併を図ってコンツェルン経営を実施するという仕組みはまだ当時の財界からの理解を得ることは出来ませんでした。
また世界恐慌のあおりもあって、発足当初の日本産業はその理念を活かすことができず経営難に苦しみました。
しかし昭和6年の満州事変勃発と、金本位制離脱後の金の買い上げ価格の大幅引き上げを契機に、経営が好転しました。
昭和8年には日本鉱業株式、日立製作所株式の一部をプレミアム付きで公開売出して、巨額の資金獲得に成功します。
多角経営の道
この資金と子会社からの配当収入の増加を背景に、昭和9年以降、経営多角化に積極的に乗り出しました。
その手法は、自社に有利な比率での自社株式と既存企業株式の交換による吸収合併という形で進められました。
合併後はその企業と事業内容を整理統合し、子会社として分離独立させるというものです。
この一連の事業展開により、日本産業はさまざまな業種の会社を傘下に収め、昭和12年頃には三井、三菱に次ぐ事業規模の企業集団に成長しました。
また昭和8年には、念願であった自動車生産事業に乗り出します。
鮎川義介氏は、鋳物で舶用小型発動機のような小さいものばかり造っていたのでは今後の発展はない。
自動車エンジンを主体として自動車関係に行くべきだと、早いうちから自動車工業の将来性を見越していました。
戸畑鋳物が軌道に乗る頃から、自動車部品関連の会社を買収するという準備をはじめていたのです。
満州移転
昭和12年に満州国政府と関東軍の要請によって、日本産業は本社を満州国首都である新京に移転しました。
社名を満州重工業開発株式会社(満業)と改め、満州産業開発五ヵ年計画の遂行機関となりました。
しかし、当初の構想通りには開発が実現ませんでした。
じきに撤退を画策し、昭和17年、 鮎川は満業総裁を退任し、満州から手を引くことになります。
巣鴨プリズンへ収監と今後の国づくり
昭和20年に終戦を迎えると、日産コンツェルンはGHQにより十大財閥に指定されて、解体を命じられます。
鮎川自身も戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されました。
準A級戦犯として巣鴨プリズンに収監されている間、鮎川義介氏は今後の国づくりは道路と水力(水力発電)と中小企業にあるという結論を得ます。
昭和22 年の出所後、この3点の実態調査・研究を精力的に行いました。それらの資料のうち、道路事業は日本道路公団へ、水力(水力発電)は電源開発会社へと引き継がれていくことになります。
残る中小企業育成については、鮎川義介氏自身で 昭和27年中小企業助成会という会社を興す一方、譲り受けた銀行を中小企業助成銀行と改称し、中小企業の業務指導や融資を行いました。
また、 法律を変えるには当事者の政治的大同団結が必要と考え、昭和31年日本中小企業政治連盟(中政連)という圧力団体を結成しました。
日産コンツェルンは、戦後は解体されたまま資本的な再結集は行われず、源流企業の日本鉱業も日産の名を継ぎませんでした。
自動車部門であった日産自動車が日産の名を残す唯一の後継企業となりました。
晩年の鮎川義介
晩年は、社会・文化貢献や教育に熱心に活動しました。
鮎川義介氏の長い生涯で得た最後の思想の結晶は 「人づくり」と述べています。
最初の会社である戸畑鋳物では、社長ではなく専務取締役兼技師長として現場の陣頭に立って、熟練工ではない「百姓出のズブのしろうと」 に技術を仕込んで育て上げました。
「私の教え子が方々に渡って、戸畑式鋳造法の技術を広めて、斯界に貢献しているのを思うと実にいい気持ちだ」と鮎川義介氏は語っています。
また大正4年に井上馨没後は、鮎川義介氏は依頼されて遺品整理に当た り、その売り上げをもって大正15年に井上育英会を創設しました。
これは、後進の教育に熱心だった井上馨の遺志に適うようにとのことでありました。
このほかにも、満業総裁の退職金で義済会という財政・経済に関する研究団体を立ち上げたり、振武育英会として満州戦没軍人の遺児への育英事業や東洋大学工学部の設立にも関わりました。
昭和41年に胆道結石摘出手術をしたあと退院することなく、翌42年2月13日、東京駿河台の杏雲堂病院にて逝去。
享年86歳の人生でした。
鮎川義介まとめ
立身出世の志から、一転、「終生富豪とならずに天職に精進する」と180°方向転換出来るとは、若さもあったでしょうが、そうは中々できません。
井上馨という大叔父の援助もあって、自分の思った方向に進める恵まれた人と言えるのかも知れません。
日本のモノづくりをこの時代から考え、道をつくり導いた人でもあります。
確かに、天然資源の無い日本では、このモノづくりが生き残れる唯一の道なのかもしれません。
日本人は元々、古い伝統と新しい技術を融合させるのが得意な民族です。
新しいものには素直に感嘆し、それを自分の中に上手く組み入れる事ができます。
最近新しいものを組み入れて進化させて、さらに新しい物にしていくという「日本人の得意分野」をビジネスで生かしたいですね。
もちろん副業でも大事なことです。
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