有名人の名言

日本マクドナルドの創業者藤田田から学ぶ「ユダヤの商法」と名言

藤田田(ふじたでん)日本マクドナルド、日本トイザらス、日本ブロックバスターの創業者です。

GHQの通訳時代に知り合ったユダヤ人から「ユダヤの商法」を学び、これを活かしたことでマクドナルドの事業を始め、カリスマとなって多くの事業を成功に導きました。

藤田田著の「ユダヤの商法 世界経済を動かす」は長い間絶版になっていて一時は古本に数万円の値が付いていましたが、2019年4月に復刊され、再び人気を呼んでいます。

経営者のバイブルとして人気が高く、初版の影響を受けた人にはソフトバンクの孫正義やユニクロの柳井正もいます。

藤田田から「ユダヤの商法」と名言を学ぶことで、お金についての考え方や付き合い方を掘り下げてみました。

藤田田の生い立ち

なぜ今、藤田田なのか マック創業者の金儲け書

1926年3月13日~2004年4月21日。

大阪府大阪市東淀川区で、父・良輔、母・睦枝を両親に、5人兄弟の次男として生まれました。

父は仏教徒だったのですが、母は敬虔(けいけん)なクリスチャンだったので、「口」の中に小さな「十」字架を入れ、口から出る言葉で福音がもたらされるようにと「田」と命名したといいます。

藤田田の父は、英国の「モルガン・カーボン・クルシーブル」日本支社に勤める電気技師でしたから、収入も良く、大阪千里山の豪華な邸宅に住んでいました。

当時としては非常に珍しかった洋風生活を送り、布団では無くベッドで育っています。

小学校は公立小学校に通ったのですが、中学校の進学にあたっては大阪市淀川区にある名門進学校の旧制北野中学校(現在の大阪府立北野高校)を受験することにしました。

ですが、たびたび生意気な質問をして先生を困らせたことが災いしたのか、もしくは母親が付け届けをしない性分だったせいか、内申書の成績が悪く、不合格となってしまいました。

そこで藤田田は、父に相談して了解を得て、自らの意志で小学生で浪人を経験したのです。

それは、今もそうですが当時も極めて珍しいことでした。

旧制北野中学校への進学こそが、その後の進路を決める重要な事だと考えていたのです。

近所の老人から「かまぼこ板」とあだ名で呼ばれるほど机にかじりついて背中を丸めて勉強しました。

旧制北野中学校進学

1939年(昭和14)年4月、藤田は2度目の受験で念願の旧制北野中学校へ進学することができました。

旧制北野中学校に入学した藤田田は、陸上競技部に所属して、400メートル競走の選手をやっていました。

後に、旧制北野中学校時代の同級生たちは「藤田は天性の腕白坊主でした」と証言しています。

藤田田はまるでヤンチャ坊主のようで、いつでも何かいたずらをしていないと気がすまないといった性格でした。

教室にじっとしていられる性格では無く、いつもイタズラを考え、実行するのです。

ですが藤田田のイタズラは、人の心を傷つけるような陰湿なものでは決してなく、明るくカラッとして周りを和ませ笑わせていました。

入学してからは決してガリ勉タイプではなかったのですが、藤田田が言うには「試験のヤマを当てるのがうまかった」とかで、成績は常に全クラスで上位10数番にいました。

級友の間にも人望があって、級長・副級長に次ぐ班長にはよく推されたようです。

全国屈指のラグビー校としても知られた旧制北野中学校でしたので、大会があると全員で応援に参加したものです。

応援に参加しないと、先輩からビンタが飛んでくるのですが、こんなときでも藤田は度々応援をさぼりましたが、ビンタを張られることはありませんでした。

腕力に自信もあったようですが、ビンタを避けられ逃げられた先輩が恥をかき、その後避けるようになったようです。

東京大学法学部時代

1948年に旧制松江高等学校を経て東京大学法学部へ入学しました。

小学校浪人を1年経験したのと、中学生活を5年とそれに松江高校時代に肺病で1年の休学があって遅れての入学です。

そのころ藤田田の父親も亡くなっていて、授業料も生活費も自分で稼がなければならない状況に追い込まれていました。

ですから、東大に進学した一番の動機は授業料が安い事でした。

GHQで通訳のアルバイト

そして、生活費のためにGHQ本部で行われた通訳の試験を受けて合格しました。

藤田田が言うには試験の内容は初歩の英語程度のものだったようですが、実際にその仕事についてみると高度な英語力が必要となり、勉強しながらの実戦のような毎日でした。

米軍寄宿舎に泊まり込んで、国内で起きたMP(憲兵)と民間人との間に起きた交通事故などの解決などの仕事をしました。

この毎日の高度の英語力の必要性で鍛錬したことにより藤田田の英語力は上達していったのです。

なんと言ってもこの通訳の仕事の良いところは高給であった点です。

昼間は大学で講義を受け、夜はGHQの通訳として働いたのですが、給料は当時のお金で18000円ほど貰えました。

その当時の公務員の初任給が2300円でしたからその約5倍です。

しかも、仕事は夜ですから新宿にあった進駐軍専用の高級クラブにも通訳としてお供することもあり、その後に西荻窪界隈の飲み屋などで閉店まで飲むような毎日でした。

あまりの豪遊ぶりを心配して、逆に飲み屋のママさんから「全部お酒に消える前に、土地でも買っておいたほうがいいんじゃない?」と忠告されるほどです。

確かに当時の藤田田の稼ぎでしたら、少し貯めれば結構な土地が買えたと思います。

ですが、当時の藤田田は一坪も買っていません。

別の機会に不動産屋から、現在、新宿コマ劇場の立つ土地200坪を坪1万円で買い取るようにすすめられたのですが、これも買わなかったのです。

後に藤田田が言うには、「当時はその界隈は葦の生い茂る水たまりの土地で、そんな価値があるようには思えなかった。自分は先見の明など少しもなかったんだ。」とか。

山崎晃嗣、太宰治との付き合い

東大在学中には藤田田は戦後史を賑わせた人物との交流もありました。

当時、藤田田はGIスタイルかもしくは新調した背広姿にネクタイを締めて学校に通っていましたから、周りの学生が復員服姿であったのに対して目立った存在でした。

旧制松江高校の時は応援団の団長をしていましたから、その時とは真逆の姿でした。

光クラブ事件

ウィキペディア 光クラブ事件

当時、もう一人藤田田のように背広姿で講義を受けにきている人間がいました。

それが山崎晃嗣(やまざきあきつぐ)です。

その当時世間を騒がせた、学生金融の「光クラブ」の社長です。

「光クラブ事件」として世間を大いに騒がせたのですが、事件の内容を簡単に説明しますと、東京大学の学生による闇金の起業が法律違反として警察に検挙されたというものです。

高金利でしかも取り立ても厳しく悪徳闇金もいいところなのですが、東京大学の学生が起業した会社だということでもてはやされました。

目立つ広告を出し、出資者を集め多額の資金を調達して中小企業などに貸し付けました。

当時、中小企業はどこも手形決済でしたから、業績が悪化して銀行の借り入れが出来なくなると、闇金に手を出す企業主も後を絶ちませんでした。

今月さえ乗り切ればなんとかなると思うのです。

金融業とはもちろん利息分のみが利益ですから、相当額を貸し付けて、回収できないと羽振りの良い生活などは出来ません。

ですから資金調達が滞ると、すぐに経営も苦しくなります。

山崎晃嗣の「光クラブ」は開業してわずか4ヶ月で30人もの社員を抱えていたといいますから相当なものです。

山崎晃嗣には数人の愛人がいました。

東大生で、しかもその当時背広服姿で、会社を経営する若社長ですから女性にはモテたでしょう。

ですが結局、京橋税務署官の秘書であった恋人の内通により、山崎晃嗣は検挙されることとなりました。

1948年9月に会社を設立し、1949年の7月には「物価統制令違反」で逮捕され、不起訴にはなったのですが、出資者からの信用を無くし業績は一挙に悪化してしまいます。

社名のみを変更して更なる出資者を募ったり、株の空売りをしたりして資金調達を試みましたがいずれも失敗に終わります。

そして1949年11月24日、約3000万円の債務を履行できなくなった山崎晃嗣は、債務返済の前日に、青酸カリにより服毒自殺して幕を下ろしました。

藤田田は、東大で山崎晃嗣の一級下でありクラブへ出資者もしていましたが、自殺直前に全て回収しているとか。

本当かどうかわかりませんが、優しい嘘かも知れません。

山崎晃嗣から自殺直前に、資金繰りに行き詰まったことを相談された藤田田は「法的に解決することを望むなら、君が消えることだ」と言っています。

その言葉により山崎晃嗣が死を選んだかどうかは分かりませんが、恐らくそれは山崎晃嗣にも分かっていた言葉だったでしょう。

プライドも高く、債権者からの追い立てに謝罪して最善を尽くすという選択肢をとるような性格ではありませんでしたから、死をもって一番楽な所へ逃げたわけです。

まさか、わずか数日後に空売りした株が多額の利益を産むとも知らずに死んでしまったのです。

この事件は三島由紀夫の「青の時代」や高木彬光の「白昼の死角」などの小説のモデルになっています。

太宰治との出会い

ウィキペディア 太宰治

大学時代に藤田田は太宰治(だざいおさむ)とも飲み友達でした。

太宰治とは、「人間失格」や「斜陽」などベストセラーを生み出した人気作家で、自己破滅型の私小説家と言われています。

自殺未遂や薬物中毒を繰り返し、最後は愛人と玉川上水で入水自殺をしたと言われています。

ですが、藤田田は太宰治が亡くなるその日も直前まで一緒に飲んでいたのです。

「あの日は雨がザンザン降りでした。その上、太宰はカストリ焼酎で相当酔っていたのです。

そこへ女性が傘をさして迎えに来て、それで二人で帰っていったんですが、太宰は下駄履きで足元がフラフラだったんです。

なにしろ『危ないから気をつけろよ』といって別れたぐらいです。

あの状況からいって私は、太宰は自殺したのではなくて、玉川上水の狭い道で足を滑らせてしまい、あの災難に遭(あ)ったのではないかと思っています」と藤田田は語っています。

玉川上水の下流で見つかった二人の遺体は、赤い紐で結ばれていて、しかも愛人の遺書も見つかったことから、太宰治の死は心中として世間を騒がせました。

当時、太宰治は結核を患いしかも相当進んでいて、血を吐きながら焼酎を飲むような退廃的な生活でした。

生きる事をもはや望んではいなかったようですから、たとえ事故死であったにしても「心中」と言われた方が太宰治はあの世で喜んでいたのかも知れません。

藤田田とユダヤ人との出会い

藤田田はGHQの仕事をしている時に、あるユダヤ人と出会い、それがその後の藤田田の運命を大きく変えて行くことになります。

アメリカ人の中にも「ユダヤ系アメリカ人」がいて、そのユダヤ人はGHQの中では〝ジュウ〟(Jew)と吐き捨てるように呼び捨てにされていました。

しかしながら、将校以上に優雅で贅沢な生活をしているのです。

しかも兵隊の位としては下士官や一兵卒クラスと低いのにです。

藤田田が親しくなったウイルキンソン軍曹という男は、軍から支給される給料の他にサイドビジネスで金貸し業務を行なっていて、それで大儲けしていました。

ユダヤ人の逞しさは、時代が変わろうと、価値体系が崩壊しようと、最後に勝つのは金を持っている人間だということを知っているからでした。

ユダヤ人は5000年以上におよぶ民族の盛衰・興亡の歴史の中で、身をもって学び、生き残る術をDNAにたたきつけて知っているのでした。

藤田田は、敗戦でしかもGHQの仕事を手伝ったりしていましたから、生きる方向を見失っていました。

そんな時にユダヤ人との出会いは、まさに新鮮な驚きでした。

一方、ユダヤ人という人たちは大抵2か国語以上をあやつる「語学の達人」でもありました。

藤田田は、子どものころから父・良輔に「2か国語以上はマスターしなさい。将来は世界を相手にする気概を持たなければだめだ」といわれて育ってきました。

とはいえ日本人で日本語に加え、その他に英語やドイツ語など外国語2か国語以上マスターしている人などはほとんどいませんでした。

藤田田は2か国語以上を話し、世界を相手に商売する理想像をユダヤ人の中に見つけたのです。

ユダヤ人は、藤田田にユダヤ伝来の金儲けのコツを教えてくれました。

しかし、ユダヤ人から見た藤田田にはひとつの欠点がありました。

それは、藤田田のいわば「懐疑主義」といったものです。

ユダヤ人は「他人を信じないで、自分のみを信じようとする態度は悪くはないんだが、それが高じて他人のいうことをすべて疑ってかかるということは、行動のエネルギーを削いでしまい、仕舞には無気力に陥ってしまうだけなんだ。それでは金儲けなど100年経ってもできやしない」と、藤田を諭してくれました。

藤田田はそう言われて、自分には確かに思い当たるふしがあると思いました。

藤田は、口では「人生はカネだーッ!」といいながらも、一方では日本の最高学府である「東大法学部」卒の肩書きの、エリートコースを歩いてゆきたいという欲望もあったのです。

「外交官として華々しく世界に雄飛したい」という希望も捨てがたくまだ心のどこかにありました。

すると、どうしても今の自分を〝仮の姿〟とみなしてしまうのです。

「いずれ華々しく外交官になる身だけれど今はとりあえず」そんな仮の姿でいたのでは、金儲けに情熱を傾けることはできないのです。

そこに東大出身であるがための最大の弱点があるのです。

ユダヤ人は「君のそんなエリート根性には一銭の値打ちもない」と斬り捨てました。

こんな時期を経て藤田は、ユダヤ商法を見習うことにしました。

藤田商店設立

GHQのユダヤ人と組んで通訳の他にサイドビジネスを始めてみました。

これがのちに、ハンドバッグやアクセサリーなどの高級雑貨を輸入して販売する「藤田商店」へとなって行くのです。

この時代に藤田は、神田駅前で大道商い、すなわち露店商も経験しています。

真鍮(しんちゅう)の指輪やアクセサリーなどを扱いました。

これから物品を販売する以上、客が何を欲しがるのかを、自分の目で確かめたかったからです。

東大2年生のとき藤田は、GHQにいたユダヤ人の取り計らいで、過分な外貨割当てを受け取ることができて、彼らの貿易経路に便乗し、単身ヨーロッパに渡りました。

そこで高級アクセサリーなどを買い付けて帰国し、輸入販売業務をスタートさせたのです。

こうしてまだ在学中であった1950年(昭和25)4月に、輸入雑貨販売の「藤田商店」を設立しました。

藤田田の積立貯金

一大決心をして月々5万円の定期預金を開始したのが、1949(昭和24)年頃のことです。

100万円を目標として貯金を始めました。

毎月定期的に5万円貯金することで、人生に対して何かふっきれていくものを感じた藤田田はその時の気持ちを語っています。

それは、東大法学部卒の権威といったものとか、外交官になる夢とか、また無気力の世界へと導くことになる「懐疑主義」などというものを手放しそういった虚妄の世界とはまったく逆の、堅実で確実なリアル世界でした。

それは新しい実業の世界へ「心眼」が開けてゆくような感覚でした。

藤田田はきっちり1年8か月で「目標の100万円」を貯めることができました。

これを機に藤田は、足掛け2年半続けたGHQの通訳の仕事を、50年12月頃に辞めました。

本格的に、学生実業家の道を志すことにしました。

一応腕試しでもあり自分を試す為でもあったのですが、官僚の最難関とされる大蔵省(現・財務省)の試験を受験し、合格しましたが官僚になる気が無い自分を確信しました。

1951年(昭和26)年3月に、東大法学部政治学科を卒業し、迷わず藤田商店の仕事に集中しました。

東大法学部卒としては、まさに裸一貫の、ゼロからのスタートでした。

それにも関わらず、藤田田は毎月5万円の定期預金を始めたのかを考えると、相当自分を追い詰めて一大決心であったことは察することが出来ます。

当時の5万円という金額は、サラリーマンが真似できる金額ではありません。

日雇労働者の1日の賃金が、「二個四」(〝100円札2枚、10円札4枚〟で〝にこよん〟)と言われ、手取りで240円でした。

ひと月25日間働いたとしても、6000円にしかならなかった時代です。その時代に藤田田は、日雇労働者の賃金8ヶ月分以上もの大金を毎月定期預金したのです。

かなり攻めの商売をして利益をださないと到底無理な金額ですが、藤田田はそれをあえて最初から始めたのです。

その後、藤田はこの貯金通帳を初めに、最初の10年間は5万円、次の10年間は10万円、その次の10年間は15万円、つまりトータルすると1950年から1980年の30年間、つまり毎月平均10万円をコツコツ貯金してきたわけです。

そして1981(昭和56)年からは毎月10万円の貯金をしてきました。

1950年に貯金を始めてから一回も休まずに続け、そして死ぬまで一度も引き出さず子供に100年は続けなさいと言って、引き継がせています。

その定期預金は40年目で、どのぐらいになったのでしょうか?

1年間が12か月だから、40年間といえば、480ヶ月です。

その間に積み立てた元金の総額は、480ヶ月×10万円で4800万円ということになりますが。

これが毎年、複利でまわっていったので、利まわり後の貯金額のトータルは、1991年(平成3)4月の時点で、なんと2億1157万6654円」に達していました。

元金4800万円のなんと5倍近い増え方です。

今と違って複利で増える時代は凄かったですね。

この積立貯金については、いろいろと言われました。

土地を買っておけば土地長者になっていただろうとか、株を買っておけばもっと儲かったんじゃないか、とかいろいろ言う人もいます。

実際長い間には、この金を引き出して使いたいという局面にも何度も遭遇したんです。

けれど、いったん下ろさないと決めたんですから、それを理由をつけて下ろしてしまったのでは、自分が負けたことになります。

それを続けて来たことで、「藤田は約束を守る人間だ」と銀行からも絶大な信用を得ることができました。

藤田田の自著『ユダヤの商法』で、ユダヤ人は徹底した現金主義で、銀行預金さえ信用しないと記しています。

それは、今までに多くの銀行破綻も見てきましたし、国を追われた歴史もあるのですから当然の事なのかもしれません。

ですが、藤田田は銀行を信用することにしました。

そこがユダヤ人と大きく違うところです。

共産党の松本義明との付き合い

松本義明は、松川事件・メーデー事件の弁護団などに加わった後に、1962年(昭和37)年5月に、松本善明法律事務所を設立し、1963年(昭和38)年11月、初立候補し注目されていました。

松本義明は、自らの人脈を活かして、精力的に立候補の挨拶に回りました。特に北野中学時代の友人には力を入れて訴えかけました。

戦後15年が経過して、北野中学の同級生は各分野で活躍するようになっていました。

新進経営者として大成功していたのは藤田田とは大学も同じだったので面会を求めて、立候補の挨拶をしてカンパをお願いしたのです。

すると驚くことに、快く50万という大金を出してくれたのです。

後日藤田田が語るには、「共産党が政権を取ったときの保険金」としてカンパしたのだそうです。

それもユダヤの商法の生き残るための術から来ているようです。

これをきっかけに藤田は法律の解釈や訴訟問題で、松本に相談するようになりました。

また、藤田の妻の悦子さんが、いわさきちひろ(松本義明の妻)の絵のファンで、家族ぐるみの交流に発展しました。

松本は初の総選挙では落選したのですが、1967年の総選挙で東京4区から再出馬し、初当選を果たしています。

以来11期33年間の国会議員生活を送って2003年に政界引退しています。

藤田田は松本の当選祝賀会に招待され、反共側の支援者としてなぜ松本義明を応援したのかを次のような挨拶で語っています。

「アメリカが日本に無愛想な顔をして、日本がソ連(現・ロシア)の方へ傾いたらそれこそ大変だからであります。

アメリカの甘い顔がもたらす甘い汁を、たんまりといただくのが私の商売だからです。

日本が駄々をこねればこねるほど、アメリカは日本を大切にしてくれるのです。

つまり例えると、日本という体の中に「共産党」というバイ菌がいて、それが暴れるほど、アメリカという医者は日本へ良薬を与えてくれるというわけです。

その駄々をこねる役割り、バイ菌の役割りを、私は日本の共産党に期待しているのです。

わたしが選挙資金を一部融通したのは、ソロバンづくでのことで、私の商売にほかならないのです。

松本君は当選して、見事にバイ菌の一つとして培養されてくれました。

私の投資は成功したわけです。」

確かにこれはユダヤの商法の一つではあります。

世界中の大富豪になったユダヤ人が政界にお金を出す理由は、常に利益の為だと言いますから、藤田田もそれに習ってのことのようにも見えます。

ですが、藤田田は偽善家では無く偽悪家のところがあって、どこまで本音なのか分かりません。

友情を大切にし、義理と人情に厚いことだけは確かなようですから、こんな発言も藤田田流なのかも知れません。

ユダヤの商法

ユダヤ人社会を題材に、世界経済を動かすユダヤ人の地下金脈や、ユダヤ人の政治力の実態に斬り込んで、全97項目から構成される「ユダヤの商法」で、金儲けの極意を明らかにしています。

その一部をご紹介しました。

78:22の宇宙法則

ユダヤの法則とも言われ、世の中はすべて78:22の割合で成り立っているという考え方です。

その法則を支えているものは、人間がどうあがいても曲げることができない宇宙の大法則なのです。

世の中すべてと言ったら、少しおおげさに聞こえるかもしれませんが、人の体だけで考えても

①人の体を構成している成分の割合は、水分が78%に対してそれ以外の物質が22%というのはご存知かも知れませんが、これは変えられない事実です。

人体の水分が60%とかにすれば人間は死んでしまいます。

②呼吸では、肺呼吸が78%に対して皮膚呼吸が22%
③健康な人の腸にいる菌の割合は善玉菌が78%に対して悪玉菌が22%
④足の裏にかかる体重の割合は、かかとが78%に対してつま先が22%

と、これだけたくさんのことが78:22の割合で構成されていると言われており、人はこの数字のバランスが崩れると体調不良や病気になることもありこの原理は変えられない不変心理の法則な訳です。
又、自然界の中でも

①地球の海と陸地の割合は、海の78%に対して陸地が22%であるとか
②空気中の成分の割合も窒素が78%に対して酸素が22%だとか

挙げたらきりがありませんが、取りまく環境の中にも、この数字の比率で成り立っていることがたくさんあるのです。

では「78:22の法則」がユダヤの法則と言われているのかです。

ユダヤ人は、すべてのものは宇宙の法則からからくる、この数字で成り立っているのだから、世の中には、お金を借りたい人が22、お金を貸したい人が78の割合でいると考えて、預金者と借金者をこの数字の割合で管理し、銀行業で成功を収めたからだと言われています。

借りたい人よりも貸したい人の方が圧倒的に多いということに違和感を感じるかも知れませんが、銀行一つとってみても、大勢のお金を預けている方のお金を一部の人に貸し付けているわけですから、預けているのは貸したい人なのです。

女と口を狙え

ユダヤの商法には儲かる商品は二つしかない、それは女と口に関わるものと考えています。

それはユダヤの商法5千年の公理で、証明は不要なのだとか。

「女と口」の女に関しては、日本ではここ数年「女性をターゲットにすれば必ず儲かる」としてなんでも女性目線を気にするようになりました。

財布の紐を握っているのは女性なのですから、これは今では常識になっています。

いくら男が大金を稼いでも、買い物でお金を使うのは奥さんがほとんどです。

高給時計を買いたいなんて思っても、奥様が「必要ないわ。却下」と言えばそれで諦めなければなりません。

それでいて高級化粧品は惜しげもなく買うくせにと納得がいきませんが、女性のそれは本能だそうです。

力のあるオスを引き付けておこうと無意識にしているのです。

また、原始の洞窟の時代から女性は男たちが狩りから帰ってくるまでの間、食料を持たせなければならないので、管理する生き物なのです。

ですから、高給時計は必要無いという判断を下せても、目の前で魅力的な物を見せられると、買っておかないと損をした気持ちになって思わず財布の紐を緩めるのだとか。

ただ、女性に関するものが売れると言っても、何でもいいわけでは無いので知識やセンスが必要となりますが「口」に関するものはもっと単純です。

口に関するものとは、主に食べ物です。

人間は食べなければ生きていけませんし、食べ物は食べれば無くなるからです。

しかも、ユダヤの人々は、「働くために食べるのでは無く、食べる為に働きなさい」と言います。

人生の目的を美味しいものを食べる為に働くこととしています。

つまり生きる為に食べるのでは無く、楽しんで生きる為に働いて美味しいものを食べるのです。

それが人生の目的とするならば、美味しくて良いものなら確かに売れるでしょう。

懐疑主義は無気力のもと

藤田田がユダヤ人に言われた、「他人を信じないで、自分のみを信じようとする態度は悪くはないが、それが高じて他人のいうことをすべて疑ってかかるということは、行動のエネルギーを削いでしまい、仕舞には無気力に陥ってしまうだけだ」ということです。

契約は神様との約束

いったん契約したことは絶対であり、どんなことがあっても破らない。

それは相手にも厳格に求めることで、それが出来ない人間とは取引しません。

時間も商品

たとえ1分1秒でも人の時間を盗んではならない。ユダヤの人は1秒いくらを考えて仕事をしています。

時給ならぬ秒級ですから、時間に対しての意識がすごく高いのです。

例えば、ちょっと5分位休もうと考えるのではありません。

私もちょっと休もうと思ったら、これからは正確に、休むのは180秒でいいと考えるようにしていきたいと思います。

日本マクドナルド創業

マクドナルドメニュー バリューセット

日本マクドナルドのハンバーガーが、わずか20年という短期間のうちに、全国津々浦々で800店余を数える日本一のレストランチェーンに発展したのは、藤田田の企画力、行動力、決断力、経営力などもさることながら、人間的魅力があったからのようです。

日本は「米と魚の食文化の国」という長い歴史がありました。

ですから、日本で丸い小型のパン(ハンバーガーバンズ)に牛肉のハンバーグステーキを挟んだハンバーガーなどが、爆発的にヒットするなんてことは誰も予想していませんでした。

そんな常識が支配する日本でハンバーガービジネスを展開しようと考えたのには藤田田は、「文化流水理論」を採ったからです。

それは「文化というものは高いところから低いところに水のように流れる」という理論です。

つまり知識や情報などはすべて「上から下へ流れる」という理論です。

「アメリカという日本より高い文化がある。

その国で、ハンバーガーとポテトが流行っているというのであれば、日本が髪の毛は黒髪で、みそ汁と米の文化の国だったとしても、将来は絶対に金髪の女の子がハンバーガーとポテトを食べるようになる」と考えたのです。

そして藤田田はハンバーガービジネスを最初に展開する場所として、アメリカ側が主張する湘南海岸のロードサイド店というのをはねつけて、東京の銀座を主張して一切譲りませんでした。

銀座という日本文化を象徴する場所に出店することによって、ハンバーガービジネスが日本中に流行していくと確信していたのです。

藤田田は1971年(昭和46年)7月に、日本マクドナルドの第1号店を銀座三越店の1階にオープンしました。

たった22坪、テイクアウト専門の小さな店でしたが、8月からスタートする予定の歩行者天国(日曜・祝日)が味方になって、きっと爆発的にヒットすると読んでいました。

実際、歩行者天国が始まると、銀座通りにはビーチパラソルとテーブルにイスが置かれ、公道がそのままマクドナルドの店舗のようでした。

家族連れが買い求めたハンバーガーやポテト、コーラ、などのセットメニューをトレーに載せて運んで、テーブルに座って飲み食いしたのです。

あっと言う間に、人々はそのアメリカの文化を受け入れました。

ジーパンやミニスカートの若者たちも歩行者天国を歩きながらハンバーガーとコーラを飲み食いしました。

それまで行儀が悪いとされてきた、立ち飲み、立ち食いを藤田田は「新しいスタイル」として作り上げ、流行させたのです。

日本マクドナルドの銀座三越店は連日連夜行列ができるほどの盛況ぶりでした。

翌1972年(昭和47年)年10月1日には、なんと日商222万円を記録して、マクドナルドの売上高世界新記録を打ち立てました。

その後、わずか20年という短期間のうちに、全国津々浦々で800店余を数える日本一のレストランチェーンに発展させたことはとても大きな功績です。

藤田田の晩年

ですが、アメリカのマクドナルド本社と藤田田の関係は、2001年から30年間のロイヤリティを決める時点で揉めにもめて破綻します。

藤田田にとっては甚だ不満の残る契約更新となり、経営の優位性が崩れたとして、このままではアメリカ本社主導の経営になると判断します。

そして、日本マクドナルドの株式上場を決断し、キャピタルゲイン(資産価値の上昇による利益の事)を獲得する方向に向かいました。

アメリカ本社はこれを徹底的に反対しました。

でも50%の株を持つ藤田田はこれを強行し、1999年には全社員5000人に対して、1株750円でストックオプション(予め決められた価格で株を買う権利)を実施し、店長クラスで900株まで購入を許されました。

こうして藤田田はJASDAQに上場させたのです。

初値は4700円を付けましたから、一般社員にとっては臨時ボーナスになったわけです。

この時、藤田田の家族併せて、1420万株を放出しています。

藤田家の公開益は610億円になりましたが、持ち株比率は26%台にまで下がり、日本マクドナルドの経営権はアメリカ本社に移りました。

藤田田は後任の副社長を社長にして会長に退きました。

この頃、若い時に浴びるように飲んだ酒のせいか肝臓の病気で入院しがちになります。

そして2003年(平成15年)に日本マクドナルドを引退し、2004年に心不全のため亡くなっています。

引退の際には、桜の花が散るように静かに散りたいとマスコミに語っていましたが、その時点で自分の死期を悟っていたのかも知れません。

藤田田の遺産総額は約491億円で歴代6位でした。

藤田田の後のマクドナルド

米本社には藤田氏を丁重に葬送するという発想がありませんでした。

それどころか、これをチャンスと見て「藤田経営の破壊」を仕掛けてきたのです。

アメリカ本社の考えを経営に反映できる人として、元アップルコンピュータ社長だった原田氏をスカウトして、2004年5月に日本マクドナルドの社長に就けました。

原田氏が受けたアメリカ本社からミッションは、「藤田経営潰し」と、「藤田派幹部の一掃」でした。

なんと原田氏は日本マクドナルドのトップとして乗り込んできて、最初の取締役会を英語のスピーチを行いました。

「バスに乗る者はバスに乗りなさい!そうでない者は辞めなさい」という方針を明確に示しました。

こうして明確な藤田派の経営幹部の切り捨てが始まったわけです。

原田氏はアメリカナイズされた合理主義者で、日本式の礼儀や義理人情は一切通用しない人でした。

ひたすらアメリカ本社に忠誠を誓い、自らの保身に汲々としたと言われています。

藤田氏の偉大さや功績、その起業家精神においても、自らの意思で徹底的に評価しようとはしませんでした。

アメリカ本社も藤田氏へのリスペクトもなく、藤田田を悪の権化として切り捨てることで日本マクドナルドが再構築できると単純に思っていたようです。

そして原田CEO時代に日本マクドナルドのホームページから藤田氏の痕跡が消されたのです。

原田氏はアメリカ本社から与えられたミッションである、藤田氏の功績の抹殺と、藤田派の幹部の切り捨てに加えて、経営システムの破壊などを進めました。

こうして日本マクドナルドの根幹にある「品質管理システム」をコスト削減の名目で外部に委託したことにより、一連の異物混入問題が発生したとも言えます。

その実務を担える人材が外に流出していたために対応できなかったのです。

原田氏が行き過ぎた組織破壊を進めて人材を流出させたことが、このような問題を引き起こしたと言われています。

さらにもう一つ、FC化率を高めたことも、今の日本マクドナルドの衰退を招く原因となったようです。

藤田時代では、のれん分けのかたちで独立させたFCが全体の3割にとどまっていたのに対し、FC化率を7割まで高めたのです。

直営店舗をFCオーナーに売却し、約150億円の利益を出しました。

原田氏が推進したFC化率7割は、ハンバーガー大学のような形で藤田氏が構築してきた教育研修システムを破壊したのです。

「FC化を進めたことで、現場のクルーのモラルは大きく下がりました。藤田時代ならアルバイトにも研修を受けさせ、アルバイトから社員になる人も多かった。社員になるとマネージャー教育が受けられ、経験を積んで複数店を管轄するスーパーバイザーに昇格すれば米国研修へ行けるといった研修システムが出来上がっていました。やる気のある人材が登用されるケースがよくありました。ところがFC化すると、アルバイトから本部の社員に登用されることが難しくなります。また、アルバイトもFC店では出世できても、本部の社員として活躍する道が閉ざされ、どうしてもモラルが下がってしまうのです」(マクドナルド研究の第一人者で関西国際大学教授の王利彰氏)

店舗でのクルーのモラルの低下は、相次いで異物混入問題が起こる引き金にもなりました。

そして日本マクドナルドは2014年7月に発覚した期限切れ鶏肉問題に始まり、異物混入問題が相次ぎFC店は売上高を激減させることになりました。

その結果、日本マクドナルドは2014年12月期決算で最終損益が218億円の赤字に陥いり、業績は悪化しました。

これより先、日本マクドナルドはFCオーナーたちを集め14年秋以降の売り上げ目標を提出させ、署名させたのです。

これにはFCオーナーたちが怒りを爆発させたのです。

FCオーナーたちは嘆きました。

「かつての藤田社長時代と比べると、販売の現場で働いたことがない人ばかりが経営幹部となっている。マックはすっかり変わってしまった…」と

藤田田の名言

・不景気とは商売がうまくいかない原因ではありません。それはただの平等にあたえられた条件に過ぎないのです。

・儲けるとは簡単なことです。

去年より売上げを伸ばし、利益を上げれば良いだけの事です。

これを続ければ企業は必ず成長します。

・だれにも一日24時間というものは同じでその点は平等です。

成功というものはその24時間掛ける努力で決まるのです。

・私はいつも具体的な数字を挙げて目標を掲げます。

・ビジネスは「勝てば官軍」勝たなくては社会に何も言えません。

勝てない経営者が何を言っても負け犬の遠吠えでしかありません。

・隣の人と話をするということは、どこまで自分が未知の世界に飛び込めるかというトレーニングの場でもあります。

・いかなる苦境にも屈しない強さを身に付けることで、自ずと道は開けるものです。

・ビジネスは儲けることで、儲かるから面白い。

儲からなくては商売をする意味がない。

売れないとか景気が悪いとかで嘆く人など、商人の資格が無いのです。

藤田田のまとめ

今の日本マクドナルドを見ると残念でなりません。

確かに、藤田田の影響を消し去って再興しようとしたことも間違った手段だったのかもしれませんが、時代の流れを見誤った感も多分にあります。

藤田田も全て正しかった訳では無いと思います。

ユダヤの商法では「安売りをするな」が鉄則になっていますが、藤田田は価格破壊と称して、安売りに走ったこともあります。

安売り競争は今の時代も問題になっていますが、いったんその道に入ってしまうと、中々止められなくなり底なし沼になってしまいます。

ハンバーガーというものが既に限界なのかも知れません。

藤田田の人生そのものは、遺産の額を見たら大成功だったと言えるのではないでしょうか。

ユダヤ人との出会いで、日本人が知らないお金に関しての考え方をしりそれを参考にして大きく成功しました。

ユダヤの商法は確かに「なるほど」と思う点が多いです。

特に、「懐疑主義は無気力のもと」の考え方などはその通りと唸りました。

誰でも信じるのではなく、人を見る目を養い、信じて良い人は徹底的に信用するということは、基本でありながら心に強く刻まないと結構難しい事です。

それはとっても勇気のいることでもありますが、とっても大事なことなんだと気づかされましたね。

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