百田尚樹著の「海賊とよばれた男」は出光興産の創業者である出光佐三(いでみつ さぞう)をモデルにしています。
第二次世界大戦後の日本の経済を立て直した、日本人が忘れてはいけない大物の一人です。
当時、世界最大と言われたイランの石油資源はイギリスの資本の元にあってイランの国庫や国民にほとんど利潤は回ってこずに貧困にあえいでいました。
また日本もイギリスやアメリカと同盟関係にあったために自由に石油を輸入できずに、それが戦後の経済発展の大きな足かせとなっていました。
出光佐三氏はそんな状況を憂慮し、打破するべく「日章丸」というタンカーを、イギリスとの衝突を恐れる日本政府との対立も憂慮し秘密裏に派遣しました。
出光佐三と日昇丸事件
イギリスは中東に軍艦を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明していましたがそれを掻い潜り世界世論から注目させる中、石油を積んで無事川崎港に戻ってきます。
武装を持たない民間の企業が、世界第二の海軍力を誇示していたイギリス海軍の目を欺き、浅瀬や機雷の危険も顧みず命がけの決行でした。
もちろん喧嘩を売られてイギリスも黙っていません。
イギリスのアングロ・イラニアン社(後のBP)は積み荷である石油の所有権を主張しましたが、最終的には出光が勝利を勝ち取ります。
イギリスの石油独占をどうにかしたかったアメリカは、この事件に関して黙認したことと、世界中の世論が注目してくれた事も後押しとなりました。
この「日章丸事件」により世界的に石油の自由な貿易が始まったこととなりました。
また「商売は金儲けではない」という教えから、「人間尊重」と「大家族主義」という信念を貫き、その信念が会社や会社の家族やそして自分をも救ってきたと出光佐三氏は語っています。
出光佐三氏の名言から「信念」を持って生きる事の大切さを学びたいと思います。
出光佐三の生い立ち
1885年8月22日~1981年3月7日
福岡県宗像郡赤間村の藍問屋を営む家に生まれました。
神戸高等商業学校(現在の神戸大学経済学部)を卒業しました。
当時同校の卒業生はみんな海運会社などに就職したものですが、出光佐三氏は当時勢いに乗っていた貿易会社の鈴木商店の入社試験を受けました。
ですが、同期には合格通知が早々と届いたのに出光佐三氏には届きません。
そこで出光佐三氏は止む無く酒井商会という従業員わずか3人の小麦粉や石油・機械油を扱う小さな会社に入社を決めます。
鈴木商店の合格通知はその後に届きましたが、それを覆すことはありませんでした。
学友からは「そんなところに入社するなんて学校の面汚しだ。お前は頭がおかしい」と言われましたが一度決めたことだと変えませんでした。
出光佐三氏は考えていたのです、大会社では仕事の一部しか覚えられないが酒井商会なら全てが解るという理由でした。
出光佐三と日田重太郎との出会い
出光佐三氏が神戸商業高等学校に通っていた時の事です。
父親の藍問屋の家業が振るわず、仕送りが減っていたために家庭教師のアルバイトをしてなんとか食いつないでいたのですが、その家庭教師として教えていたのが日田重太郎の子供でした。
日田重太郎は神戸を始め淡路島や徳島に多くの土地を持つ資産家なのですが、実家との折り合いが悪くなり神戸に移り住んでいたようです。
職を持たず、茶道や骨董を愛する隠居生活をしているような人です。
出光佐三氏は神戸商業高等学校を卒業後、酒井商会に入社しますがそこで一通り学び、その後独立を決意しましたが、その為の資金が無く悩んでいました。
そんな出光佐三氏に日田重太郎氏は資金の提供を申し出るのです。
「京都の家が売れたから6千円ほど余っている。それを貰ってくれ」と言うのです。
その頃の6千円といえば、今の価値だと1億円近かったかも知れません。
出光佐三氏が驚いていると、日田重太郎氏は条件を言ってきました。
一つ目は、「従業員は家族だと思い仲良くやる事」
二つ目は、「己の考えは曲げずに必ず貫徹する事」
三つ目は、「私が資金を提供したことを誰にも言わない事」
出光佐三氏は成功して恩返しをしようと決意し、こうして25歳で独立し出光商会を設立したのです。
出光佐三は失敗の連続で資金を使い果たす
最初は日本石油下関支店の機械油を取り扱う特約店として出発しました。
しかし電気モーターへの切り替えの時代で機械油の需要は激減したのです。
それに出光佐三氏は袖の下を要求してくるような者を相手にしません。
日田重太郎氏からの資金は3年で底をつき、廃業を決意して日田重太郎氏の元を訪れます。
しかし、日田重太郎氏からは「神戸にはまだ私の家があるからそれを売れば当面の資金になる。簡単に諦めるな」と叱咤激励されてしまいます。
神戸の家まで売らせるわけには行きません。
出光佐三氏は退路を断たれ、事業を続ける覚悟を固めました。
海賊と呼ばれた男 出光佐三
起死回生のきっかけは、漁民や運搬業者の機械船へ燃料油を売ったことです。
それまで値段の高い灯油を使っていた彼らに、安い軽油でも充分であることを証明してみせて、海上で燃料の販売をしていったのです。
下関と門司での住み分けを図る協定をかいくぐり、下関側の漁師に海上で燃料を売るために、従業員とともに伝馬船で海に漕ぎ出す姿はまるで「海賊」のようだと噂になりました。
これが百田尚樹著の「海賊とよばれた男」の題名の由来です。
こうして3年後には関門一帯の漁船から運搬船までのほとんどを手中に収めました。
出光佐三の満州鉄道での成功
その後1913年の初冬に出光佐三氏は満州の地を初めて踏みました。
満州鉄道に車軸油を売り込むためです。
満州鉄道は日本最大の国策の会社で、外国産の油が独占状態でしたが、独占とは癒着を生みコストが高くなるものです。
出光佐三氏はそれを見抜いて、根気よく交渉を続けました。
また、それまで使用されていた外国産の油は満州という寒いところでは固まってしまいトラブルの原因にもなっていたのですが、出光佐三氏は国産の品質の良さを実験とデータで説得し、満州鉄道に利益をもたらすことを示したのです。
こうして、満州鉄道への成功を足掛かりに、朝鮮や台湾にも進出し、中国本土にも拠点を拡大して出光商会は従業員1000人を超す企業に発展していきました。
出光佐三と太平洋戦争の敗戦
ですが、太平洋戦争の敗戦によりその全てを失います。
出光佐三氏は敗戦の2日後には出社した社員20名ほどを集めて決意のほどをこう述べます。
「泣き言を止めるんだ。日本の偉大なる国民性を信じて、再建の道をみんなで進もうではないか」
その1ヶ月後には更に、海外から引き揚げてくる社員を一人もクビにしないと宣言します。
事業も失い、資産もありません。あるのは膨大な借金だけです。
ですが、社員はかけがえのない家族です。
それは出光佐三氏の信念でもあったからです。
復員者のクビを切らないためには何でも売りました。
戦前集めた書画骨董もお金に変えて、仕事が無くて待機している物にも給料を送金しました。
こういう行いが戦後の生きる気力を無くした復員者たちの心を打ち、勇気づけていったのです。
出光佐三「タンクの底に帰れ」
戦後、日本の石油は枯渇していました。
そこでGHQは、旧海軍のタンクの底に油が残っていることに目を付けます。
これを処理して活用できるようにしろと言うのです。
その仕事に出光佐三氏のところに回ってきました。
どこでも引き受けられなかったのです。
タンクの底に降りて行うその作業は、中毒や窒息それに爆発の危険のある仕事だからです。
その誰もが避けたい仕事を出光の人間は遣って退けました。
油まみれ、泥まみれ、鼻の奥まで刺すような悪臭の中、出光の人間たちには「これで石油の仕事に復帰する手がかりが出来る」という希望に溢れていました。
廃油2万キロリットルにも及ぶ汲み取りの作業が終わるころには、GHQの人間には「出光を重んずべし」という印象を与えました。
こうして、出光の戦後の起死回生の原点となって「タンクの底に帰れ」は出光の合言葉となりました。
出光佐三は生涯「儲けろ」とは言わなかった
その後、1953年に日章丸事件により他より先駆けて石油の輸入に成功して出光は莫大な利益を得て、1956年には徳山湾に日本一の製油所を建設しました。
この建設の竣工式には日田重太郎氏を招待し、「この成功は全てあなたの御恩のお蔭です」と感謝を述べました。
恩返しは日田重太郎氏が亡くなるまで、毎晩社員に命じて晩酌の相手をさせたり、夏には軽井沢の別荘で過ごしてもらったりと続き、老後の寂しさを思わせることはありませんでした。
1981年出光佐三氏は95歳でついに亡くなったのですが、側近の一人である石田氏は「この人は生涯でただの一言だって「儲けろ」とは言わなかった」と語っています。
出光佐三の名言
・出光の5つの主義方針として
人間尊重
一、出光商会の主義の第一は人間尊重であり、第二も人、第三も人である。
一、出光商会はその構成分子である店員の人格を尊重し、これを修養し、陶冶し、鍛錬し、かくして完成強化されたる個々の人格を、更に集団し、一致団結し、団体的偉大なる威力を発揮し、国のため、人のために働き抜くのが主義であり、方針であるのであります。
一、人間がつくった社会である。人間が中心であって、人間を尊重し自己を尊重するのは当然過ぎるほど当然である。種々の方針や手段はこれから派生的に出てくるのである。大家族主義
一、いったん出光商会に入りたる者は、家内に子供が生まれた気持ちで行きたいのであります。店内における総ての事柄は親であり子であり、兄であり弟である、という気持ちで解決して行くのであります。
一、出光商会は首を切らないという事が常識となっておる。首を切られるなど思っている人は一人もないと思います。独立自治
一、仕事の上においても、私のみが独立しているのではありません。店員各自が、その持ち場持ち場において独立しているのであります。換言すれば、自己の仕事の範囲では全責任を負い、完全に事務を遂行すべきであります。
一、私生活に公生活に独立自治の大精神を体得し、個々に鍛錬強化されたる店員が、店全体の方針の下に一糸乱れず一致結束し、団体的総力を発揮するのが、すなわち出光商会であります。黄金の奴隷たるなかれ
一、出光商会は事業を目標とせよ。金を目標とするな。しかしながら決して金を侮蔑し軽視せよと言うのではない。
一、事業資金として大いに金を儲けねばならぬ。経費も節約せねばならぬ。冗費無駄を省かねばならぬ。(中略)ただ将来の事業の進展を邪魔するような、儲け方をしてはならぬ。あくまでも事業を主とし、資本蓄積を従とし、この本末を誤ってはならぬ。生産者より消費者へ
一、創業に際し、先ず営業の主義を社会の利益に立脚せんとしました。内池先生※より示唆されたる生産者より消費者への方針を立てたのであります。
一、生産者に代わって消費者を探し、消費者に対しては生産界の変遷、品質の改善発達の状態、需給の釣り合い、市場の情勢、価格の変動等について専門的の知識を供与し、相互の利便をはかる機関は社会構成上絶対必要なる事でありまして、社会と共に永久であるという信念を持ったのであります。
- ※内池先生:佐三が卒業した神戸高等商業学校の内池廉吉教授。「配給論」の講義を担当。
・第二の定款として
出光は石油業というような些事をやっているのではない、出光の真の目的は人間が真に働く姿を現して、国家社会に示唆を与えよ。
私は石油配給を些事と言っておる。社内からも『些事とはなんですか、大事業をやっているじゃないですか』という抗議が出たくらいだ。けれども私は『石油配給なんてものはちっぽけなものじゃないか。私がやっているのは、人間というものはこうあるべきだということを実際に示すことだ。政治・教育すべてに人間のあり方を示すことをやっておるのだ』と言った
・一人ひとりが経営者
仕事の上ではお互いに独立して、ぼくはぼくなりの仕事をしておるし、従業員は従業員なりの仕事をしておる。
言い換えれば、各自の受持の仕事の上では、お互いに自主独立の経営者だということだ。
出光の若い人が「私は経営者です」といっているそうだが、それはみなが権限の規定もなく、自由に働いているということであって、ぼくはこういう形が理想だと思う。
・失敗は授業料
人間なら誰だってあやまちがある。ぼくがあやまちをやってもとがめられず、社員がやるととがめられる、ていう法はないと思う。
それだから人間らしいあやまちはとがめない。
ただ、そこで忘れてはならないのは、あとで自己を反省する心のあり方だ、反省する心の積み重ねがあって、はじめて失敗は尊い経験となって生きてくる。
したがって、失敗はその人にとって尊い授業料となりうる。そこに進歩がある。
・徹底的な親切心
即ち、今後の店員指導は如何にするや、ただ
一、店員に対し、徹底的な親切なる心をゆうすること
一、身を以って範をしめすこと
に尽きるのであります。付焼刃の親切や、鍍金の親切では駄目である。親切は徹底せねばならぬ。
上下、又は同僚間に、気兼や遠慮がある様では、親切は決して徹底していない。肉親の兄弟を鞭打つ以上の打解けたる親切であらねばならぬ。誤解を恐れたり、自分の立場を考える様では、人に親切は出来ぬ。
出光佐三まとめ
太平洋戦争敗戦の後の日本の経済復興のために活躍した人は多数います。
ですが、なかなか出光佐三氏のようにその活躍に心打たれ、再び立ち上がる勇気をくれたような人は少ないのです。
混乱に乗じて財を成した人は沢山います。敗戦の後にはそういう人も必要だったのです。
どちらも生き残る為に必死で、成功をつかんだ人はみんな従業員を大事に思っています。
敗戦後の日本では職を作る事も大事でしたから、どんな形であれ成功すれば多くの人の仕事が出来て、生活の糧が出来たのですからそれも必要でした。
でも、出光佐三と働けた人は後に、その歴史を自分の中に抱えるとしたら「出光佐三氏と一緒に活躍した」という誇りの方が輝いているのでしょう。
真に「カッコイイ生き方」だと羨ましく思いますし尊敬します。信念を持って生きる!が大事ですね。
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