大川功(おおかわ いさお)。システムインテグレーターのCSKの創業者であり、セガの会長と社長を歴任したこともあります。
システムインテグレーターとは、個別のサブシステムを集めて1つにまとめて、それぞれの機能が正しく働くように完成させるという、企業の情報システムの構築を請け負うITサービスの事業のことです。
昔はハード販売のおまけのような扱いだった「SE」の仕事を「有償ビジネス」へと押し上げた人です。
大川功氏がいたころのCSKは年商1兆円を目指していました。
社員ですら「社長のボラがまた始まった」と言っていましたが、1999年には9000億円にまで達しています。
大川功氏が生前中は「不動産には絶対に手を出さない」と不動産投資には大変慎重でした。
ですがその後、2001年に大川功氏が亡くなると、金融関係の出身者が後継したCSKは、不動産金融・証券事業に重点を置いてしまいます。
その結果、サブプライムローン破綻とリーマンショックなどの影響で巨額の赤字に反転し、同業の住商情報システムに吸収合併されてしまいました。
偉大な創業者がいても企業の存続とは本当に難しいものです。
大川功氏とはどういう人だったのでしょうか?功績と名言を探ってみました。
大川功の功績
大川功氏の功績の一つに、昔はSEサービスというものは大手メインフレーマのハード販売のおまけのように扱われていました。
それを、「SEサービスは有償のビジネス」として押し上げたのです。
SEの技術者の単価も年々上げていって、値上げに応じなければ技術者を引き揚げることも辞さない、という勢いでの強気の交渉をしました。
今でこそ、SEの仕事は立派に業界で地位を確保出来て、高給な職業となっていますが、これも大川功氏のお蔭なんです。
でもこれは大川功氏の功績のほんの一部です。
ベンチャー企業の応援
1985年には東京証券取引所の一部に公開されているのですが、いずれは東証の株価欄に「情報サービス」の枠を作って、元気な独立系の企業で埋めたい」と思っていました。
それでベンチャー企業を積極的に応援することにしたのです。
晩年の、癌に体が侵されて全身の血液を入れ替えるという最新医療での治療をしながらも精力的に動いていたころのことです。
投資では失敗したことが無いという大川功氏の資産は、個人の保有株式だけでも時価数兆円と言われていました。
ベンチャー企業を応援するのは「相続税対策」でもありました。
大川功氏が言うには、自分は何度も破産の危機を乗り越えて死ぬ思いで乗り越えてきた。
危機の時に行政はなにも助けてはくれなかったが、利益が出てくると人が必死に稼いだものに多額の税金を課して持っていく。
必死に残した財産だって自分が死んだら多額の相続税で人の財産を巻き上げる。
なんのリスクも無しに、人の努力の結果を巻き上げて、何に使われたかもわからない税金になるよりも、もっと有益に使いたいというのが本音だったのです。
期待出来るベンチャーにどんどん投資をして、機会を与える方がよほど有益だというわけです。
つまり、あえて「損をしたい」わけです。
ですから、絶対にもうかりますと自信満々の応募者は不合格にします。
絶対に儲かるのなら、他の企業に持って行っても採用してくれます。
それよりも、なかなか周りの理解を得られないが、世の中の役に立つようなものであれば、どんどん投資しました。
子供たちの育成
1995年2月にベルギーのブリュッセルでの先進7ヵ国情報通信閣僚会議「情報通信G7サミット」に民間代表として出席した際に、子供の声を聞く「ジュニアサミット」を提唱しました。
これにより同年11月、東京にて「ジュニアサミット’95」が開催されました。
1998年11月には 個人資産を2700万USD(当時のお金で約35億3430万円)をマサチューセッツ工科大学(MIT)に寄付しました。
これによりMITが「Okawa Center for Future Children」(MIT大川センター)設立を発表しました。
この寄付はMITからの相談により決まったのですが、二つ返事で「じゃあ明日現金で持ってこさせるから」なんて言ったものですから、送金をたのまれたスタッフも、現金化した銀行もそれはてんやわんやになったことは想像に難くないです。
大川功氏は「これからの世の中を動かしていくのは、紛れもなく今の子供たちになる」という考えで、その子供たちを育むことが未来を良くすることだと考えたのです。
セガに私財850億円を投入
2001年、セガは1月31日に開催した取締役会においてDreamcastの製造を3月期で中止することが決まったと発表しました。
セガの副社長の佐藤秀樹氏が語るには、かつてのように高性能なハードを低価格で提供して、その専用ソフトを多数販売するということで収益を上げるというビジネスモデルがもはや通用しなくなったことが生産中止の理由とか。
セガは単体の通期業績予想値を148億円から892億円の赤字に修正しましたが、修正の最大の要因がDreamcast事業であったと明言したのです。
そして更に、在庫整理や特許料の前払い費用処理などのDCハード事業の整理のために約800億円と特別損失が発生するというのです。
はっきり言ってこれはもう倒産の危機です。
ですがこれに対して、同社・代表取締役会長兼社長であった大川功氏が個人資産約850億円を会社に贈与したことも発表されました。
佐藤氏らは「常識では考えられない額ですが、これが大川功氏のセガに対する情熱であり、今後の成功を確信したからにほかならない」と財産の受贈について説明しました。
大川功氏としてはDreamcastを使ったインターネット事業を発展させたくて色々と動いていたのですが、結果自分が関与していたことに責任を感じて850億円もの私財を出したようです。
大川功氏自身が動いて実際ビルゲイツに会って断られてはいるのですが、Dreamcastの互換性をマイクロソフトのXBOXに組込んでくれるように提案していました。
そうなれば、セガのタイトル資産をXBOXに提供するとの条件でした。
そうしてでも、大川功氏はDreamcastのお客様への道筋を作りたいと切望していたのです。
その願いが叶わず、そして製造中止となって責任を感じたのでしょう。
大川功の名言
社員手帳の「大川語録」より
・「人生は感動の歴史で綴りなさい」
・「利益とは絞って絞って絞りきった最後の一滴なのです」
・「新しい産業には必ずその予兆があるものです。その予兆を逃さず捕らえて、これを命賭けで事業化しようとする人に、天は時流という恩恵を与えてくれ、そして使命という社会的責任を負わせるのだと思います。私の人生は、それに尽きる」
・「世の中に必要とされる企業であれば滅びない」
・将来解り切っている変化ならば、今からすぐに手を打ちなさい。
・「変化とは企業にとっては都合の悪いことなものです」
・「計画を立てる前に、まず前期の反省から述べよ」
・「手段と目的をはき違えるな」
・「自分に投資しなくては雑学は得られない」
・「知恵は雑学の積み重ねである」
・「大ぼらは成長の前触れ、目標を公言して背水の陣に追い込むことで事を成す」
大川功の生い立ち
1926年5月19日から2001年3月16日
両親は大阪船場で婦人子供服地の卸商「大川商店」を営み、そこの次男として生まれました。
大阪府立旧制今宮中学を卒業後、1948早稲田大学専門学部工科卒業。
肺結核と盲腸の手術の失敗による腸漏で7年半病に伏した生活でしたが、新薬の使用により奇跡的に回復しました。
その後、繊維問屋勤務や兄の会計事務所を手伝ったりします。
共同でタクシー会社を設立し、成功を収めましたが後に売却しています。
1962年に日本IBMの勧めで、パンチカードシステムPCSに参加することにより、情報産業の未来性を強く感じました。
コンピューターサービス株式会社創立
1968年に大阪淀屋橋に「コンピューターサービス株式会社」を創立したのがCSKの始まりです。
CSKとはComputer Service Kabushiki-Kaishaの略です。
この会社を設立したのは、「自分一代でどこまで上に上がれるのか挑戦するため」です。そのためには今までに無い業界で、商売人がまだいない世界に挑む必要があったのです。
1980年9月には情報サービスという業界では初めての店頭公開になります。
1982年には日本の情報サービス業界の先頭を切り、システムインテグレーターの企業として初めて東京証券取引所の市場第二部に株式上場しました。
1984年 株式会社セガ・エンタープライゼス(後のセガゲーム)へ資本参加して取締役会長に就任しました。
東証一部上場
1985年3月東京証券取引所市場第一部に指定替えとなりました。
1986年 5億円を寄付して、財団法人 大川情報通信基金を設立し、同年11月に初代理事長となります。
1993年 30億円を財団法人 大川情報通信基金に寄付しました。
1996年 社団法人ニュービジネス協議会の会長を就任しました。(~1998年5月)
1999年 CSKの子会社として株式会社イサオを設立。
それまでセガがDreamcast向けに提供していたインターネットサービスプロバイダー「セガプロバイダ」を「isao.net(イサオドットネット)」として承継する形で事業を開始しました。
2000年6月 セガ代表取締役会長(1997年~)兼社長に就任。
2001年1月 家庭用ゲーム機分野からの撤退を発表したセガに個人資産約850億円を寄付しました。
「事業で得たお金は事業に返す」という信念のもとの行動です。
2001年3月16日心不全のため逝去(74歳)。
大川功まとめ
一生を「経営」に捧げた人と言えるのかも知れません。
本人の略歴には趣味が日本舞踊と書かれていますが、これは接待で芸者さんと同席した時に、年が離れすぎて話題が掴めないから共通の話題造りのために始めたそうです。
ですが、実際始めてみると、これが結構良い運動になって姿勢も良くなり腰も鍛えられるので一石二鳥だったとか。
社長をやるからには体が基本だからという事です。
またある時は趣味を聞かれて「博打が楽しい」と言っています。
競馬とかですか?と尋ねると「そんな賭けるだけの運まかせのものではないよ。株とか投資とか自分がその将来性を見込んで賭けた物で儲かれば、自分の判断や決断が間違ってなかったと分るものだよ」
なにかに付けて「経営」がいつも付いてくる人でした。
新入社員に配ったCD
でも、そんな大川功氏に意外な一面があるのですが、それが新入社員全員に配布していたというCDです。
その中身は、前半は、社歌はもちろんのこと「CSKズッコケ音頭」や、都はるみが唄う第2社歌「今がその瞬間(とき)」などの企業ソングが収録されています。
後半には大川自身が熱唱する「東京ラプソディ」「昔の名前で出ています」「うちの女房にゃ髭がある」などが収録されているのです。
それを受け取った新入社員の顔を見てみたかったものです。
「えっ?うちってIT企業だよね?」と戸惑った人もいたのではないのでしょうか。
継承問題
大川功氏が亡くなってから、CSKも住商情報システムに吸収合併されてしまいました。
時代とはこうやって流れていくものです。
偉大な創業者がいても、その後の継続に失敗して消えていく企業のいかに多い事か。
繋げる事って一番難しい事なのかもしれません。
大川功氏にしても、その難しさは重々承知していて、後継者の育成には時間もお金も掛けていたのです。
確かに優秀な人材だったのだと思います。
でも、多分その人たちに不足していたのは「苦労」「怖さ」「経験」とかだったのかもしれません。
これからの後継者は、人の体験でも「苦労」「怖さ」「経験」をまるで自分が体験したかのように魂にたたみ込むことが大事なようです。
自分で体験している時間も機会もなかなかあるものじゃありませんから。
もし、筆舌に堪えないような苦労や恐怖の経験がある人というのは、ある意味でとてもとても貴重な体験をしているのです。と考えるようにして、何かあっても私もがんばっていきたいと思っています。
経験を生かすも殺すもどう行動するかということですね。
さとるのメルマガ登録はこちらからネットビジネスで本当に稼げる方法をお伝えします!