西和彦(にし かずひこ)1978年にマイクロソフトとの合弁会社「アスキーマイクロソフト」を設立し、社長に就任。
その後、ビルゲイツとの意見の食い違いで、「もっと株をあげるから、半導体を止めてマイクロソフトの仕事をしてくれ」とのビルゲイツに請われますが「イエス」と言いませんでした。
その時に「イエス」と言って株を貰っていたら、時価7000億円にはなっていました。
そしてマイクロソフトとの契約は打ち切られ、なんとか再起しては挫折の連続で、その後その時フイにした7000億円の事を10年以上も後悔しつづけました。
人生には、取り返しのつかない後悔の瞬間が誰にもあるものです。
もしあの時に戻れたら、もしあの時にこうしていたらと、何度も何度も思い出すことになり、諦めて自分の気持ちの整理が出来るまで苦しむことになるのです。
人生は決して戻れないのです。
一見間違った選択肢だったと思えても、それが自分の人生です。
大金持ちになったから幸せとも限りません。
その時に「イエス」と言ってお金持ちになったとしても、実はその後にもっと恐ろしい不幸が待っていたのかも知れません。
「これが自分の人生なんだ」と受け入れて、幸せにもっていく方法はいくらでもあります。
人間、死ぬ間際に愛する人がいて信頼できる仲間がいたと思えればそれは「幸せな人生」だったと言えるのではないでしょうか?
7000億円をフイにした男である、アスキーの創業者西和彦の後悔と名言から「幸せな人生とは」を考えてみました。
西和彦の名言
・大きな会社の社長になるのが偉いという事なのか、あるいは有名になるということが偉いという事なのか?僕はそうは思わない。自分の生き方を決めるのは自分でしかないのです。
・if は未来にしかないと僕は思います。過去には why しかないと思うのです。
・コンピューターはメディアになる
・ネットワークによって相互理解が生まれるようになり、相互理解によって調和と平和がやってくるんだという、そんな考え方が、これから大切になっていくのではないだろうか。
・日本だけじゃないですよ、どっかに面白いことがあったら行ってみる。世界中に直行便が出ていますから面白いっていうものがあったら、インターネットを使って調べてとにかく行ってみる。そして会ってみる。そうすると大変ワクワクした仕事が出来るんじゃないですか。何か自分が思ったことはすぐ実行してみるんです。
・未来を自分で決めてきた結果ですから、反省はりますが悔いはありません。
・あくせく生きていたのでは、本当の創造性は発揮されないということが、この年になってようやく気付くことができました。
西和彦の生い立ちと経緯
1956年2月10日兵庫県神戸市に生まれました。
1973年 甲陽学院高校を卒業後、東京大学理科I類を志望し、1年浪人の末 1975年 早稲田大学理工学部機械工学科に入学も、後に中退。
1977年 郡司明郎、塚本慶一郎と共に、株式会社アスキー出版を創業。
早稲田大学時代に図書館で見た「Electronics」誌の記事を読んだのがマイクロソフトを一番最初に知るきっかけでした。
当時、コンピューターに搭載するソフトでマイクロソフトと同じ物を日本ではまだ作れませんでした。
それでいきなりビルゲイツに電話をしたのです。
それで意気投合し、「忙しいから会うならアメリカに来てくれ」と言うので、会いに行きました。
アメリカが遠いという距離感は感じませんでした。
ビルゲイツとの出会い
最初にビルゲイツ氏と対面したのは、1978年にアナハイムで開かれた全米コンピューター会議でした。
同様のソフトを作っていた会社を何社か見てみましたが、マイクロソフト社のものが西和彦氏と一番波長があったようです。
西和彦が抱いたビルゲイツの印象は、「賢い人」です。
なにしろ、西和彦氏が説明する分かりにくい話をほぼ1回で理解できました。
西和彦氏は、NECが販売していた「マイコンキットTK-80」にメモリーを増設して、キーボードとディスプレイをつけて「BASIC」で動かせば、パーソナルコンピューターとして使えるのではと提案してみたのです。
するとビルゲイツ氏も、マイクロソフトの共同創業者のポール・アレン氏もその提案に大乗り気になって、もうコンピューター会議どころではありませんでした。
3人で「ああすれば」「こうもしよう」と時間を忘れて話し合いました。
そして、まだ日本で立ち上げたばかりのアスキー出版と合弁会社を作って「BASIC」を日本で販売することに合意したのです。
アスキーマイクロソフト設立
今では考えられませんが、その時の契約書はA4版でたったの3枚でした。
それだけ、その時3人は信頼を築き熱意を込めた話し合いだったのです。
西和彦氏は、日本だけでなく中国とインドも入れる事も頼み、日本での売り込みを担当しました。
1979年、NECの8ビットパソコン「PC-8001」に採用されて大成功を収め、それ以後、日本の電気メーカーとの取引は、マイクロソフトにとっても大きなビジネスに育っていったのです。
西和彦氏は、1979年にマイクロソフト米国本社の極東担当副社長になり、1981年には新技術担当副社長、そして1982年には本社ボードメンバーにまで出世していきました。
一方、アスキー出版は、マイクロソフトと契約したほぼ1年前ほどに設立された小さな会社でした。
「I/O(アイオー)」という日本初のマイコンホビー誌の創刊に集まったメンバーのなかで、郡司明郎氏と塚本慶一郎氏、そして西和彦氏の3人で創業した会社だったのです。
郡司氏は西和彦氏が下宿をしていた家の息子さんで、塚本氏とは電通大のマイコンクラブで活動している頃に知り合いました。
アスキー出版は、創業してすぐに「月刊アスキー」を創刊して、郡司氏が経営、塚本氏が出版、そして西和彦氏が企画を担当していました。
ですが、西和彦氏はアメリカに渡りアスキーの事業から遠ざかって、マイクロソフトとの仕事が主となっていきました。
ですが、マイクロソフトの「BASIC」の販売は、アスキー出版のいわばドル箱で、りっぱな収益源に成長していったのです。
マイクロソフトによる半導体開発の必要性を主張
パソコンは最初は100万円ぐらいしたのですが、西和彦氏はそれを安くすればみんなが使うと思ったのですが、それは違いました。
テレビや電話のように普及させるには、ネットワークで繋ぐことが必要でした。
西和彦氏は子供の時から、アマチュア無線で遠くの人と話をすることの楽しさを知っていました。
ですから、ネットワークで遠くの人と繋がれば、凄い事になると言う予感は、インターネットサービスが始まる5年ほど前から感じていました。
だから、ハードの部分に関しても関心があったのは事実です。
やがて、ビルゲイツと意見が分かれて行きます。
西和彦氏は、ソフトだけでなく、ハードでも手を打っておこうと、マイクロソフト自身による半導体開発を主張していました。
ですがビルゲイツは、インテルやモトローラなど半導体メーカーとの関係が壊れることを懸念して、「うちはソフト屋なんだからソフトだけしよう」と反対姿勢でした。
もっとマイクロソフトの株をあげるから
ビルゲイツは何度も西和彦氏を説得しました。
マイクロソフトのビルゲイツ氏は、西和彦氏にアスキーを辞めて、アメリカに帰化して、マイクロソフトに専念するように誘っていました。
西和彦氏は日本を捨てることに迷っていました。
そこに、ビルゲイツとの意見の相違が出てきたのです。
「半導体のことは諦めて、マイクロソフトの仕事だけしてくれ」
「もっとマイクロソフトの株をあげるから」
そう説得されても西和彦氏は「イエス」とは言わなかったのです。
突然のクビ宣告
そして1985年1月2日、西和彦氏はとうとうビルゲイツから「マイクロソフトとアスキーの契約は止める。君もクビだ」と告げられます。
アメリカでは雇用契約は「クビだ」と言われたら終わりです。
西和彦氏は、いきなりの通告に目の前が真っ暗になり、気が動転してそのまま空港に直行して日本行きの飛行機に乗りました。
帰国した翌月、代理店契約も破棄されました。
アメリカで仕事をするようになって、アメリカの自由な面や判断の早いところ、行動力のあるところなどには尊敬さえしていましたが、それが今回の西和彦には裏目にでました。
アメリカで仕事をするということは、成功すればするほど、それを妬みその座をつねに狙っている人がいるということを西和彦は知りませんでした。
収入基盤が無くなり窮地に
日本に帰って来た西和彦は、とりあえずアスキーに戻りましたが、やることがありません。
それにアスキーは収益基盤も失った訳です。
当然窮地に追い込まれました。
窮地に追い込んだのは他でもない西和彦氏本人ですが、そんな時に社長の郡司氏は「アスキー再建のための方法を君が社長になって考えてくれ。君ならきっと見つけられる。もし見つけられなければ、どうせ俺たちで作った会社なんだから、一緒に潰れればいい。」そう言ってくれました。
それは嬉しい言葉でした。
実際のところは、アメリカで大きな実績を挙げた経験のある西和彦氏が社長になった方が銀行や取引先の受けが良いと郡司さんは想ったのかもしれませんが。
経営再建
社長になって目指したことは、何をする会社なのかを明確にすることと、株式の公開を目指すという点でした。
この「何をする会社なのかを明確にする」という点は、NECや日立製作所や富士通それに松下電器などに出資を仰いて42億円を集めました。
そして不採算事業の整理に取り掛って、「出版」「ゲーム」「マイクロソフトと競合しないソフト・半導体」の3事業を柱に据えることとして、拡充を図りました。
そして、西和彦氏が社長に任したときの売上高は180億円だったのですが、米国任天堂向けのジョイスティックが大ヒットで、1988年3月期には340億円にまで増えました。
1989年9月、ついにアスキーは株式を店頭公開するまでに漕ぎつけたのです。
当時、西和彦氏は33歳でした。
上場企業の社長としては、後にオンザエッヂ(後のライブドア)の堀江貴文さんの28歳に記録を破られるまで国内最年少だったんです。
世の中もアスキーもバブルの恩恵を受けていました。
上場後にアスキーは、インターネット、映画の制作配給などへと事業を拡大していったのです。
アメリカのベンチャー企業への投資も積極的に行いました。
アメリカの半導体ベンチャーへの投資で、あっという間に投資額の30倍がリターンとして返ってきたことだってあったのです。
西和彦氏はアメリカでマイクロソフトが物凄いスピードで大きくなるのを見てきましたから、金銭感覚も麻痺していたのかも知れません。
共同創業者との決別
でも、共同創業者の郡司氏や塚本氏はそれを危なっかしく見ていたのでしょう。
投資に関しては、「もっと慎重に」とか「やめた方が」とか反対意見が多くなりました。
米国の半導体企業ネクスジェンマイクロシステムへの投資が元で二人と決別することになります。
ネクスジェンは、「次世代x86プロセッサ」という現代の技術に通じる半導体の設計思想を持っている会社でした。
西和彦氏はそこに、毎月1億円くらいを送金するほどのめり込んでいました。
それはもうアスキーの利益すべてを送金しているようなものでした。
ですがもちろん、成果はすぐには見えて来ません。
郡司氏も塚本氏も西和彦氏を止める事に必死でした。
「もう止めよう」と大反対しますが、西和彦氏は「この技術は絶対に本命だ」と折れません。
総額では20億円以上になっていました。
そしてとうとう、郡司氏と塚本氏は役員会で西和彦氏の解任動議を出したのです。
賛成したのは2人だけで、2人はその場で席を立って会社を去って行きました。
西和彦のワンマンに二人は付いていけないと見切ったのでしょう。
三人で興して、西和彦がアメリカで過ごしている時も必死でアスキーを守っていた仲間でしたが、その二人に見捨てられてしまったのです。
株価暴落で資金難
郡司氏と塚本氏はアスキーの株の20%以上を持っていました。
そこでその譲渡をCSK創業者の大川功氏に持ちかけたのですが、大川氏は株価が高いことを理由に断ります。
2人はそれで、止む無く市場に放出してしまいます。
20%もの株が一挙に売りに出されると、当然株価は暴落します。
一時は2万円の値がついたこともある株で、その時は7000円だったのですが、大量放出により一気に1000円まで落ちました。
今だったら対抗策で回避出来たのかもしれませんが、そのころの西和彦氏は何の対抗策も持っていませんでした。
さらに、株価の暴落で、スイスフラン建ての転換社債の株式転換価格より株価が下がってしまい、株に転換できなくなったのです。
社債を繰り上げて償還するための資金を確保しなければならなくなりました。
返せなければ、その時点で会社は強制的に清算されて破綻となります。
1年のうちに、120億円の金をなんとしても準備しなくてはなりません。
危機回避
日本興業銀行から「リストラして利益率を5ポイント上げる」というアドバイスを受けそれを実行しなければなりませんでした。
オフィスを集約し、不採算事業はすべて切り捨てました。
経費を削減して、売り上げを伸ばすことだけに集中しました。
「興銀の中興の祖」と言われる中山素平特別顧問(当時)との知遇を得たのもこの頃です。
中山氏には何度も支援をお願いに上がりました。
通産省からの声掛けで、金融機関やメーカーの協力もあり、結局164億円の協調融資を得ることが出来、社債の繰上償還をなんとか乗り越えました。
ですがリストラは3年ぐらい続くことになりました。
この時の経験で、事業の採算性の見極め方や、借金返済のための金利動向、そして楽観悲観別シミュレーションの作り方、再建人材の育て方など、多くを学んだのです。
それが後に大学院のビジネススクールで、学生に起業論を講義する「経営のヒト、モノ、カネ」で、その時に財務担当役員と共に学んだものなのです。
最高益を出した直後に、今度はまさかの離反
長く苦しいリストラを終えて、やっと最高益を達成したと喜んでいたところ、そのすぐ後の1996年5月に、今度は社内でまさかの離反が起きました。
ゲーム事業部門の役員と社員の計60人もが会社を辞めて別会社「アクセラ」を設立しそこに移って行ったのです。
離反の理由は、「西和彦社長のワンマン経営だ」です。
アクセラ事件の首謀者は、日本興業銀行の子会社のコンサルタント会社である「日本経営システム」の五十嵐という社員でした。
日本経営システムには財務面での助言を得てたのですが、信じ難いことにそのコンサル会社の社員がクライアントである会社の社内でそこの社員と謀反を企てて、あおって、実行させたのです。
真相を知った親会社の日本興業銀行にしても、当時の松本副頭取が日本経営システムに乗り込んで、「こんなことが許されるものか!」と激怒されたそうです。
しかし、その日本経営システムの浅野会長は、「ダメな経営者を代えるのもうちの仕事のうちだ!」と啖呵を切ったといいますからこれも大したものです。
西和彦の評価は、コンサルタントの会社ではそういうものだったわけですから、裏切りは仕方がなかったのかも知れません。
ゲーム会社の難しさ
そうやって設立された「アクセラ」ですが、ゲームは単なるブームだけで参入しても決して成功は出来ないのです。
さまざまな技術や、アートなどの付加価値が必要なのです。
そしてそれには経験と一流の技術が必要なのです。
ですからアスキーも、株式公開で得た資金で、エンターテインメントを学ぼうと映画制作にも挑んでいたのですが、理解されることはありませんでした。
そうして、アクセラに移った面々はそうした現実を知らず、西和彦社長のワンマン経営だと決めつけていたのです。
たとえその現実を知っていたとしても、簡単には成功できないのがIT世界の怖さなのです。
当たればとてつもなく大きいが、中々当たらない。
だから「ITは麻薬」と言われるのかも知れませんが、アクセラは結局、70億円の赤字を出して破産してしまいました。
社長の小島氏もストレスとアルコールでその後、がんになって亡くなってしまいました。
集団指導体制へ
このアクセラ事件を契機に、日本興業銀行側から「社長専任体制から、集団指導体制に切り替えなさい」という指導がはいりました。
当時は、国際社会に打って出て巨大企業に育っていったような会社もどんどん出てきてましたから、よっぽど能力のある社長意外は、集団指導体制にした方がリスクが少ないという時代でした。
それに従うことになり、アスキーはカンパニー制を導入しました。
出版部門には興銀から来た橋本孝久氏が、ゲーム部門は日本IBMから来た広瀬禎彦氏が、調査研究部門は日経新聞の記者だった中島洋氏が担いました。
こうして西和彦氏は社長兼システム部門の最高責任者になったのでした。
好調だった出版事業は銀行の人でもできるだろうし、ソフトが分かっているIBMの人ならゲーム事業もできるだろうということだったのでしょう。
このカンパニー制を導入したというときに偶然ソニーの大賀典雄会長(当時)とお会いする機会がありました。
「西君、カンパニー制はこれが意外に難しいぞ。下手をすると会社が潰れることになるよ。西君の好きにやっていたほうがいいのに。もっと自分の判断に自信をもってもいいのに」と言われました。
そのときはピンとこないで、あまり気にしていませんでしたが、次第に大賀氏の言葉を理解するようになってきました。
大賀氏の予言通りと言うべきか、カンパニー制の導入によって、社長である西和彦氏は各カンパニーのことがまったく把握できなくなっていったのです。
さらに銀行からも、「銀行自身にも今は体力がなくなったので、もうオタクには貸せません。第三者割当で増資してください」と通告される始末です。
集団指導体制にしたことで、逆に「ガバナンス(統治・支配・管理)の不在」を突きつけられたわけです。
大賀氏の言った言葉が脳裏に浮かびます。
「下手をすると会社が潰れるよ」
もはや「これまでか」と力が抜けました。
危機を脱出したものの、結局社長辞任に
そんな窮地を、助けてくれたのはCSKの大川さんでした。
大川さんには、アスキーの上場間もない頃に国際線の機内で声を掛けて下さり、それ以来可愛がっていただいていました。
事情を説明したところ大川さんは、「しょうがないな、出したるわ」と、セガとともに100億円の出資することに決めてくれたのです。
こうして1999年1月、大川さんがアスキーの最高顧問に就任し、アスキーはCSKのグループ企業となったのです。
ですが、このタイミングでアスキーのとんでもない実態が判明しました。
CSKの事業分析チームが入って分析すると、西和彦氏の預かり知らないところで、出版では40億円の在庫があり、ゲームで60億円の不良仕掛が積み上がっていたのです。
さらに、西和彦氏が期待を掛けていたプロジェクトもいくつか中止を余儀なくされてしまいます。
結果、大幅な赤字の計上となり、アスキーは債務超過に陥ってしまいました。
こうした責任を取って、西和彦氏は社長を辞任しました。
権限の一切無い、取締役には残ったのですが、自分はどうなってもよいからアスキーが潰れないことだけを心から願っていたと西和彦氏は語っていました。
その時になって理解出来ました。
大賀氏の「君の好きなように」という言葉の意味は、「社長の仕事とは、バランスを取ることではないんだ。新しいことをやり続けることだったのだ。そのエネルギーがない人間に社長は務まらない」という教えだったのです。
まだ40代前半の西和彦氏には、その言葉の重みを咀嚼するにはまだまだ経験が足りませんでした。
経営者には冷徹な合理性と厳しさが必要
アスキーの社長を辞任した西和彦氏は、取締役とは言っても無役で、大川氏の秘書のような仕事をこなす日々でした。
特命事項の処理に奔走する日々は、それはそれで楽しく、また多くのことを学びました。
ですが、2001年に大川氏が亡くなってしまい、大川氏の後継者は、CSKの持つアスキー株の過半を投資ファンドに売却して手を引きました。
西和彦氏もすべての役職から辞任することになり、アスキーを出て行きました。
ビルゲイツと袂を分かったのが30歳で、この時は45歳の挫折でした。
これまでに学んだことで色々と悟りました。
まず、「上場そのものはそんなに難しいことではない。難しいのは上場した後に会社が大きくなっていくかどうか」ということです。
株主は儲け続けてさえいれば文句など言いません。
儲けるということは、いい仕事をすることではありません。
いい仕事をしたと思っていても、儲からなければ意味がないのです。
とにかく売り上げと利益を伸ばさなければならないのです。
なにしろ経営者に必要なのは、どこまでも利益を優先するという冷徹なまでの合理性と、厳しさなのです。
アスキーは、「来る者は拒まず、やりたいことを自由にやってよい」の社風でした。
それがアスキーの魅力でもあったのですが、自由とは裏を返せば管理がないということなのです。
「やりたいことは何でもやれ」がアスキーの魅力だったとは思いますが、それがアスキーをダメにする一つの要素であったことを、認めないわけにはいかないと西和彦氏は言っています。
ときには「NO、絶対ダメ」と言うことも必要で、「やってみなさい」と簡単に言うという優しさなんて、単なる甘さだったと西和彦氏は語っています。
こうして得た教訓は、大学の教壇に立つようになって、経営とは無縁と思えるようなアカデミックな世界に入ってからも、嫌というほど思い知ることになりました。
西和彦のまとめ
もし、ビルゲイツからの「もっと株をあげるから半導体のことは諦めて、ソフトだけに集中してくれ」という要望に応えていたら、時価7000億円の株が手に入っていたのかと考えれば、何と勿体ないと誰も思うでしょう。
もし、それを手にしていれば、その後の苦労は無かったと考えれば当然そう思います。
西和彦氏も10年以上も後悔したと言ってますから理解できます。
ですが、運命なんて分からないものです。
人生は戻せないから面白いのです。
他人事だから言うのだと思えばそれまでですが、その時にそれを手にして大富豪になったところで、最終的に幸せになるかどうかなんてわかりません。
アメリカで交通事故で死んだかも知れませんし、もっと大きな裏切りにあって何もかも失うという運命だってあり得るのです。
また、こんな数奇な運命だから、教育者として今耳を傾けてもらえるのかも知れません。
教育者となって未来を担う人を育てられるのは幸せな事です。
最終的にその道に進めたことが何よりの宝ではないでしょうか?
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