有名人の名言

帝人の大屋晋三の名言と経歴、妻大屋政子を実業家にした結婚生活とは?

大屋晋三(おおや しんぞう)。

経営危機の帝人を世界的な合繊メーカーに育て上げたのに、ワンマン経営で多角経営に乗り出し大きな失敗をしました。

まさに「救国の英雄が国を亡ぼす」のことわざそのままの人でした。

妻の大屋政子もテレビ出演を通して、その奇抜なファッションで活躍しました。

大屋晋三氏のことを「ウチのおとうちゃん」と言うなどクセがすごく、年配の方はご存知かも知れません。

大屋晋三とはどういう人だったのかを、名言から探ってみるとともに、実は夫よりも事業力があったという、大屋政子とは何者なのかを探ってみました。

大屋晋三の名言

・「諸君のなかには、我が社の過去の繁栄の惰性の上にあぐらをかいて、この幻影をいたずらに頭に描いて、我が社にはいまだ何かよいものがあるかのように考えている人がいはしないだろうか」

・「東洋レーヨンと我が社では10年の差があります。君たちがどう逆立ちしたところで東洋レーヨンよりは悪いものができるのだろう。無駄金も使うことになるだろう。期限も遅れるのだろう。そんなことは当たり前なのだから気にすることはない。ビクビクせずに思い切ってやってくれ。だがこの10年もの遅れを、君たちの努力でなんとか2、3年までに取り戻してもらいたいのです。」

・「死ぬまでやめない」

大屋晋三の口癖で社長在任歴は26年に及びました。

・「社長と副社長の距離は副社長と運転手の距離よりも遠い」

入院中の大屋を見舞いに訪れた当時の副社長ですら、ベッドから5メートルの距離で会話したほどの「近寄りがたいカリスマ性とワンマンぶり」を自嘲する意味も込められているということです。

・人生はマラソンのような長距離競争なのです。一気に駆け抜けようとすれば落伍することになります。

・人生での戦いにおいては、相手に負けるというよりは、むしろ自らに負ける場合の方が多い。

・世の中には、非常に深い経験を積んで、その道では名人芸という人も多い。また、知らぬものはないほどに知識の豊富な人も多数いるのですが、それでいてその人たちがいざという時に、あまり物の役に立たない場合も多い。

大屋晋三の経歴

大屋晋三 人物特集 鈴木商店のあゆみ 鈴木商店記念館

1894年7月5日(明治27年)~1980年3月9日(昭和55年)

群馬県邑楽郡の佐貫村尋常小学校の校長をしていた父の元に生まれ、上には兄姉三人いたのですが、いずれも早世してしまい、彼は 大事に育てられました。

父の家は代々川越の松平藩士でしたが、のん気な性格で、酒が非常に好きな人でした。

またおしゃれで虚栄心が強く、安月給のくせに気位だけは高かったと、大屋晋三氏は父親のことを振り返って語っています。

そのころは家計もまだ比較的裕福だったことから、晩酌を毎日やっていたとか。

大屋晋三氏は小学校には数えの八ツで入りました。

身体は小さかったのですが、ガキ大将でありながら、学業の成績は始終一番でした。

高小の二年になる時に父が永楽村(現千代田町)の尋常小学校長に転任となり、永楽村大字舞木に引っ越しました。

1907年、高小2年を終えましたが、妹も三人生まれ、父の安月給の上に家計を考えない人だったので困窮し、とても中学に通わせてもらうことはできませんでした。

従兄が、前橋で歯医者として成功していたので、大屋晋三氏はそこに書生として住み込み、歯科医の助手として仕事を手伝いながら、前橋中学に通いました。

この時代は学校から帰ってくると歯科医師の助手の仕事にこき使われて勉強する時間がありませんでした。

中学2年になると、父の兄(叔父)の家から通学しました。

叔父は家族同様に大事にしてくれましたが、それも1年限りで、父が校長から首席訓導に格下げになり給料が下がってしまい更に生活が苦しくなりました。

食費も学費も払えなくなったので叔父の家から実家に戻りました。

中学3年からは片道二里半の館林町の太田中学邑楽分校に歩いて通いました。

その頃は、妹3人の他に末の弟まで生まれ一家7人です。

家計はますます苦しく、自転車どころか靴さえも買ってもらえず裸足で学校を往復したと「私の履歴書」では語っていたようです。

元日でさえ餅どころか米も無く、麦飯に味噌をつけてなんとか食いつないでいたとか。

そのころから大屋晋三氏は貧困を憎み、官吏になって見返したいという気持ちが育って、東京の秀才高に進学しなければと思っていました。

ですが、家計の苦しさを知っていたので代用教員で家計を助けながら受験の準備をするために東京に出てくる決心をしました。

その頃の大屋晋三氏の郷里の群馬県邑楽郡では、中学を卒業してから進学する者などほとんどいませんでした。

父の世話で1912年4月1日から長柄村尋常高等小学校の代用教員となり、成績が良かったので、月給は1円高い9円でした。

ですが、就職が見つかり次第上京するつもりでしたので1年で辞めました。

東京で職を探してくれていた従兄からやっと連絡が入り、1913年10月に上京しましたが、上京するにあたり彼女を説き伏せるのに一晩掛かったと語っています。

この頃からすでに女性に手を焼く人だったのですね。

上京後の生活

東京での仕事は、日本橋室町の三越本店前の大塚公証人役場の筆生で、月給 15 円でした。

夕方 5 時に公証人役場での仕事が終え、その足で正則予備校に通い、一ツ橋受験の準備をしました。

大屋晋三氏の最初の志望は官吏になる事でしたから、そのために一高、東大と進学しようと考えていました。

それを 一ツ橋に変えたのには、父は教員を定年退職して、代用教員になって食いつないでいる有様だったので、晋三がいくら苦学するにしても、一高、東大と六年間もの課程を過ごすのには無理がありました。

ではどうすればよいのかと大屋晋三氏は考えてみました。

軍人にはなる気がないし、医者も歯科医の助手でこりごりです。

理科系に進むほどの頭はないし、文学や芸術のセンスも自分にはない。

実業家にしても、自分は金儲けのセンスもないようだから、やはり官吏以外にはなさそうだと思ったのです。

ある時、一ツ橋高等商業の規則書を取寄せてみると、本科を終わってからの専攻部に領事科があることを発見しました。

ここを出れば外交官になれるし、すでに外交官になって名を成した人もいるようだ。

そこで大屋晋三氏は「本科四年間と専攻部二年間の六年間がやれれば結構だが、もし六年はやれないとしても、本科さえ出ればなんとかなるだろう」と、とにかく一ツ橋に入ることにしたのです。

後に、大屋晋三氏は本科4年を終えるだけでも良い就職先があることを知り、外交官になる必要性も感じなくなったようです。

最初の結婚

大屋晋三氏は一ツ橋を受験する少し前に、最初の妻である従姉の茂登子(もとこ)と知り合っています。

1913年に、東京市役所の建築技師をしていた茂登子の夫が、二児を残して急死していて、その退職金などを元手に、芝白金に小さな菓子屋を出して幼子を抱えて暮らしていました。

そこに大屋晋三氏は用心棒がてらにそこに同居して下宿することになり、仕事の手伝いなどもしていました。

店も最初は繁盛していて一家の生活費をまかなって余りがあるほどでした。

大屋晋三氏は公証人役場に通いながら相変わらず猛勉強を続けていたのですが、一ツ橋の受験が迫るころには茂登子と付き合うようになっていました。1914年7 月には一ツ橋を受験して首尾よく合格することができました。

ですが、大屋晋三氏が茂登子と付き合いはじめて1年近くたったころに茂登子が妊娠します。

大屋晋三氏は途方にくれました。

大屋晋三氏の親族も、茂登子の親族も間に入り話し合いがされました。

当然、大屋晋三氏の親族は、将来有望な大屋晋三氏と子持ちの未亡人との関係を認める訳もなく猛反対します。

ですが、大屋晋三氏は物事の判断を自分で決めて実行するだけの意思はありました。

貧乏書生を支えて、苦学を共にしてくれた茂登子を捨てることは出来ない。

自分で作った業は自分で責任を取るものだとして、茂登子と結婚しました。

その後、茂登子が昭和18年に病死で他界するまでの二十数年の間大屋晋三氏を支えてくれました。

茂登子の菓子屋もはじめの間は繁盛していました。

でも開店一年早々で店がさびれてしまい、同年の秋には店を閉店しました。

閉店後は、中渋谷に三間の家を家賃4円50銭で借りて、茂登子の持ち金で生活をしていました。

ですが大屋晋三は父親譲りの性格で、女房が小金を持っていることをいいことに、友人をいつも二人、三人と呼んできては、ビールを飲ませては飯を食わせるのが好きでした。

家計を無視した大屋晋三氏の生活がたたり、たちまち妻の有り金を使い果たしてしまい、父親の二の舞となりました。

妻の着物を2円50銭で質に入れて、かろうじて正月を迎えるような有様です。

1916 年の暮にはとうとう年を越すことが出来ずに、茨城県宗道の税務署長をしていた妻の兄に妻と三人の子供を預けて、大屋晋三氏は牛込富久町にある上毛育英会の寄宿舎に入りました。

そこで卒業まで暮らしたのですが、妻からは三日にあけず手紙が来て、時々は小遣まで封入してありましたが、その金も友人たちとの遊行費に消えたようです。

こうして大屋晋三氏は、あまり勉強はしなかったもののなんとか1918年に、一ツ橋(当時は、東京高等商業学校)を卒業しました。

鈴木商店に入社

1918年当時、第一次世界大戦により好景気で、銀行や大きな会社は大学の卒業生を大量に必要としていました。

卒業前の夏ごろから積極的に交渉が始まり、御馳走したりして勧誘していました。

ですが、大屋晋三氏は当時の学生が志願しているような三井や三菱、それに 住友などの財閥会社とか、あるいは日本銀行、日本郵船、正金銀行のように秀才が集まったような窮屈なところには行きたいとは思いませんでした。

まだ完全に出来上がっていない成長途中がいい。

これからもっと伸びるというような新興の会社はないものかと探していました。

すると、「実業之日本」に鈴木商店の紹介が出ていました。

これは本店が神戸で、ここの主人は女で番頭に金子直吉という傑物がいるそうだ。

その番頭が取り仕切っていて、海外貿易に進出して大いに躍進しているし、内地でも各種の事業に手を伸ばしている。

その関係会社は百二十、三十にも達してまさに日の出の勢いでした。

大屋晋三氏は「ははあ、俺の行くところはここだな」と即座に決めました。

級友が鈴木商店の人事主任を知っていると言うので、大屋晋三氏はこの級友に手紙を渡してもらいました。

「御社は一ツ橋からほとんど人を取っておりませんが、もし一ツ橋からも取る気があるようでしたら、私が斡旋役になって何十人でも取りまとめます」と申し込んだのです。

鈴木商店からすれば願っても無い事ですから、二つ返事で承諾してきたので、彼はこの旨を学内に掲示して希望者を募りました。

結局は約30名が試験を受けることになり、全員が合格しました。

大屋晋三氏はこのように人を斡旋したり、代表になったり、先頭に立つことが好きだったようです。

この時の出来事が大屋晋三氏の最初の大きな成功体験と言えました。

大屋晋三氏の心中には「わがことすでに成れり」と将来への希望が高鳴ったと語っています。

彼は子供の頃から貧困を味わって、「いまに見ろ」と燃えていました。

就職が決まった会社は日の出の勢いの鈴木商店です。

その上、大屋晋三氏は一ツ橋の卒業生の代表として、三十人も斡旋して会社に恩を売って入社することができました。

大屋晋三氏は産まれてから二十五年来の、心のシコリがスーッと抜けて「これからがいよいよ俺の舞台だ」という気持ちがわき出してきたとその時の事を語っています。

彼はそこで今までのシコリであった過去と決別したい気持ちもあったのか、卒業当日にノートを全部焼いてしまったとか。

大屋晋三氏は最初は樟脳(しょうのう)と薄荷(はっか)の担当になり、存分に働く機会を与えられました。

やがてエジプト、天津の出張所に勤務。帰国後、クロード式空中窒素(現・下関三井化学)彦島工場建設にも参画しています。

1925 年になり鈴木商店のロンドン支店に欠員が生じて「しっかりした青年社員を一人よこせ」と言ってきました。

大屋晋三氏は元々の希望は貿易によって、海外に飛び出したいと思っていましたから、さっそくロンドン行きを希望しました。

本店でも大屋晋三氏に決定してロンドンに返電したのですが、ロンドンから大屋晋三氏が来ることを歓迎できないと言ってきたことにより、取りやめになってしまいました。

鈴木商店内で大屋晋三氏が積極的に仕事を進めてきたのですが、その反感もかなりあって足を引っ張られることもあったようです。

おそらく、そんな噂がロンドンにも伝わっていたのでしょう。

大屋晋三帝人へ

その頃、鈴木傘下の帝国人絹が岩国に近代的な大工場を建設することになって、土地の買収を開始することになりました。

鈴木商店の大番頭の金子直吉から直接勧誘があり、大屋晋三氏は岩国工場建設事務所長として行くことになりました。

金子直吉がなぜ大屋晋三氏に白羽の矢を立てたのかと言うと、「大屋はきかん気のやつだから、土木建設業者を使って行う。突貫仕事の工場建設には向くだろう」ということでした。

大屋晋三氏は大正十四年十一月に発令されて帝国人絹の人となり、ここに彼の終生の事業となった化学繊維工場への第一歩を踏み切ったのです。彼が32歳の時でした。

そのお蔭というべきか、鈴木商店の昭和2年の破綻に巻き込まれずに済みました。

その後、工場長を経て、昭和20年に社長になります。

政界進出後に再び帝人へ

2年後、1947年に参議院議員に当選して政界に進出。翌年、吉田内閣の商工大臣に就任して社長の座を退いたあと、大蔵大臣、運輸大臣を歴任するなどして帝人から離れています

1956年、すっかり斜陽化してしまった帝人に社長として復帰しました。

苦境に迫った帝人の救済のため、日商の高畑会長や、三和銀行の渡邊頭取らの要請を受けてのことでした。

帝人立て直しのために最初に打った手は、ポリエステル繊維製造の技術をイギリスのICI社から導入することでした。

太平洋戦争後、大屋は何度か外遊して、世界の化繊メーカーを視察していました。

そして化繊界の将来を制するものはポリエステル繊維であると確信していました。

ですから、この技術の導入に、大屋は異常なほどの執念を燃やしていたようです。

「テトロン」の開発

ICI社からの技術導入は帝人と東洋レーヨンの2社が共同でそれぞれ企業化して行うと決定しました。

そのころ東洋レーヨンはすでにナイロンを開発していて合成繊維の技術に豊富な経験を持っていて、その利益によって潤沢な資金もありました。

その東洋レーヨンとまったく同一条件で技術導入を行うことは、帝人にとっては大きな賭けでした。

社内からも危惧する声があがっていたのですが、ここでポリエステルの導入に失敗すれば帝人に将来ないと大屋晋三氏は考えていました。

大屋晋三氏を始め、帝人の人間の誰もが、もはや東洋レーヨンに遅れをとっていることは分かっていました。

しかし帝人は、東洋レーヨンに遅れまいとする気概にあふれていました。

その原動力となっていたのは、やはり大屋晋三氏の求心力でした。

大屋晋三氏は関係者に向かってこう述べました。

「東洋レーヨンと我が社では10年の差があります。君たちがどう逆立ちしたところで東洋レーヨンよりは悪いものができるのだろう。無駄金も使うことになるだろう。期限も遅れるのだろう。そんなことは当たり前なのだから気にすることはない。ビクビクせずに思い切ってやってくれ。だがこの10年もの遅れを、君たちの努力でなんとか2、3年までに取り戻してもらいたいのです。」

この言葉は関係者を責任の重圧から解放し、勇気づけました。

さらに大屋晋三氏は各責任者に大幅な権限を持たせて、速戦即決の気風を持ち込みました。

それまでの帝人はひとつの決定までに30もの判が必要といわれ、行動力を失っていたのです。

こうして工場の建設は順調に進み、東洋レーヨンに比べて着工は半年ほども遅れていたのですが、竣工した時にその差は2カ月程度に縮まっていました。

さて、このポリエステル繊維の商品名が「テトロン」です。

こうしてテトロンは1958年6月に生産が始まり、帝人はようやく再建の体制を整えました。

その後の帝人は世界一のポリエステル繊維メーカーとして、再び一大帝国を築き上げることになったのです。

大屋晋三氏の手腕でポリエステル繊維に目をつけた読みは大当たりでした。

ワンマンと多角経営

ですが、これで大屋晋三氏のワンマン経営が更に力を付けて行きました。

誰も大屋晋三氏の決めたことにNOと言えなくなりました。

大屋晋三氏はその後、さまざまな事業に手を出し、著しい多角化を開始していったのです。

それらは石油開発、牧畜、レストランなど、いずれも帝人の化学工業としての資産を生かすものではありませんでした。

言ってみれば思いつきを次々に実行に移しているようなものでした。

結局、医薬事業以外はことごとく失敗した上に、第2、第3のテトロンが生まれることはありませんでした。

結果、帝人は未曾有の赤字を計上となり凋落の一途を辿って行くことになります。

大屋晋三氏は「死ぬまでやめない」と君臨していましたので、1980年に他界するまで多角化から手を引くことはありませんでした。

大屋晋三氏の亡きあと1980年代末までに撤退した事業は50近くにも達しました。

その後の帝人は縮小均衡路線を余儀なくされ、1997年に就任した安居祥策の代になってようやく処理も終わり、提携とグローバル化を軸にした積極経営を開始できたのです。

「救国の英雄が国を亡ぼす」と言いますが、大屋晋三氏にそのことわざが引用されるとは残念な結果です。

誰も止める人がいなかった事に加え、大屋晋三氏も老いて判断力も鈍っていたのでしょう。

大屋政子について

衝撃的なミニスカート姿!?大屋政子って凄い人だった

大屋政子(おおや まさこ)さんについては、ご存知の方もいるかも知れませんが、1970年代から1980年代までよくTVに出演されていた方です。

すでに50歳にはなられていたと思いますが、うなじを刈り上げた超ショートカットの髪で、決して若くも美人でも無い(ごめんなさい)顔は物凄い厚化粧で頬はドピンク。

それにミニスカートにハイヒールで「うちのおとうちゃんがね~」って甲高い声で話すインパクトの強い大阪のおばちゃんでした。

そんなおばちゃんが帝人の社長夫人で、見ているこっちが恥ずかしくなるようないでたちだったのですが、実は凄い人でした。

当時、世間では大屋政子さんの事を好意的に見ているTVの視聴者は少なかったと思います。

以前は歌手だったとか、不倫の末に夫を略奪したとか言われ、なりふりかまわず帝人の社長夫人の座をぶんどった人のような受け止め方をされていたと思います。

ですが、実際はだいぶ違っていたようです。

大屋政子の生い立ち

まず、生い立ちですが、弁護士の森田政義氏の長女として、1920年(大正9年)、大阪で生まれています。

その後、森田氏は「政友会」(自民党の前身)所属の代議士になりました。

伊藤博文が初代総裁で結成されています。

政子さんのお父さんの盟友には、元鳩山首相のおじいさんである鳩山一郎氏や大野伴睦氏がいました。

政子さんのお母さんは、大阪の旧家の大地主のお嬢さんですから、政子さんは、掛け値なし正真正銘「お嬢様」だったのです。

ですが、父である森田代議士が狭心症で急逝してしまうと、今まで父が支えてきた人たちが手のひらを返したように冷たくなり「人間は絶対に落ちぶれたらいかん」と心底思います。

更に兄も、それから婚約者も戦死してしまい、泣いていてもしょうがない先のことを考えようと、大阪音楽学校に入学しました。

幼いころから、ピアノも声楽もやっていたのですぐに本科に入りました。

戦時中のことで、周りはみんな質素な洋服でしたが、むしろ質素な洋服をもっていなかったので毎日綺麗な洋服を着て行き、生徒や教師にまで反感を買っていましたが、そういう事は気にしません。

そんな時、亡き父の知人の服部良一に出会います。

有名な作曲家で、コロンビアの歌手になる後押しを得てプロの歌手になりました。

戦時中ですから、若い娘は女子挺身隊として軍需工場で働くのが普通でしたが、プロの歌手になれば軍隊の慰問団の一員ですから「軍属」になって高給が貰えます。

このころから自分でしっかり稼ぐ事を覚えたようです。

大屋晋三との出会い

政子さんが23歳の時に大屋晋三と出会います。

一時的に帝人を離れて政界進出を目指す大屋晋三氏は、政子さんの父である森田さんの地盤を持つ政子さんに、選挙応援を依頼しにきたのです。

大屋晋三氏はお茶を出しにきた政子さんに一目ぼれしてしまいます。

大屋晋三はその時49歳しかも結婚していました。

それなのに大屋晋三氏は政子さんにラブレター攻撃をおこなうのでした。

奥さんとは上手くいっていないと言っていました。

親子ともいえる年の差の2人でしたが、当時の大屋晋三氏は身の回りをサッパリかまわない性格で、洋服の下はボロボロのシャツを着ていたといいます。

政子さんは、選挙中、一緒に行動しているうちに大屋さんが気の毒でたまらなくなりました。

でも、その頃は「奥さんとの仲がうまくいくよう祈っておりました」と復縁を願っていたといいます。

けれども大屋晋三さんと妻の距離は離れるばかりでした。

大臣就任後間もなく肺炎で倒れた際にも、政子さんは付きっきりで看病していました。

大屋晋三さんと政子さんとの間には娘も生まれ、離婚協議が本格的に進められるようになりました。

政子さんは晋三さんの後について回り、「ウチのパパはねぇ」と言いながら選挙運動をして当選を支えました。

大屋晋三との結婚生活

ですが、実は政子さんの結婚生活は「地獄」と言っても良いようなものでした。
大屋晋三さんという人は、女性関係に関してとんでもない人だったのです。

最初の奥さんは、晋三さんより9歳年上で、病気で亡くなっていたのですが、この最初の奥さんの連れ子の面倒も晋三さんは見ていました。

最初の奥さんとの間にも子どもたちがいました。

それから最初の奥さんの友だちだった女性と愛人関係にもあったのです。

愛人は、彼女だけではなく、他にも数人いました。そのいわゆる愛人の間にも、子どもがいました。

この時代、戦争で若い男性は数多く亡くなっていて、甲斐性のある男が多くの女性の面倒を見るということはよくある時代でした。

女性も食べて行く道を必死で探さなければなりませんでしたから、目の前に羽振りの良い男性が現れたら飛びつくのも無理もない時代だったのかも知れません。

つまり、晋三さんは、食わせて面倒を見なければならない人間を沢山抱えていたわけです。

晋三さんの給料は全額それに消えてしまいました。

今でこそ、社長業はCEOとか言われて日産のゴーン氏のように破格の報酬を貰える時代になりましたが、そのころはいくら帝人の社長といえども給料ですから、そりゃあみんなに配っても残るほどは貰えなかったでしょう。

要するに、晋三さんには、新婚の政子さんに渡せるおカネは一銭も無かったのです。

それどころか、借金もたくさんありました。

勤務していた帝人からの借入金も半端な額ではありませんでした。

晋三さんは、毎日ララブレターを書いて送ってやっと口説き落とした、若妻の正子さんにお金を渡さないどころか、「稼げぇ稼げぇ、ワシの100倍稼げぇ」と口癖のように言っていたと大屋晋三氏が亡くなってから政子さんは語っていました。

まだ「内縁の妻」だった政子さんとお母さんが住んでいた家に転がり込んできては、政子さんのお母さんの家作による収入を当てにする人でした。

そして平然と「家庭というものが、こんなに暖かいものとは今まで知りませんでした」などと、政子さんやお母さんを泣かせる言葉を、言ってはお金をたかるのでした。

これは大屋晋三氏が亡くなってからの大屋政子さんの話ですから、多少生前の恨みも入っているのかも知れませんが、それが真実だといいます。

お金を受け取っている人たちは、それがまさか政子さんが工面しているとは思って無いらしく、お礼の一つも言われたことが無いようです。

実業家としての大屋政子

それで、本格的に稼がないといけないと考えてまず不動産業に目をつけます。

大屋晋三氏はどこに行くのにも政子さんを連れて行くので、自分がその場にいなくても稼げる仕事ということで不動産業に目を付けたのです。

六法全書を暗記するほど読み込み、不動産について独学しました。

そして「五菱土地建物株式会社」を設立します。会社名は、三菱より大きくなりたいという希望を込めました。

戦後まもなくの1948年に政子さんは、いずれ別荘を買い漁る時代が来ると見込んで軽井沢の土地を少しずつ買っておこうと考えました。

その資金を借り入れるために、大屋晋三が社長を務める帝人のメインバンクの三和銀行ではなく、住友銀行の本店に3ヶ月間毎日通い詰めました。

大屋晋三の名前を一切出さず、粘って当時のお金で500万円のお金を借り入れすることができ不動産業が軌道に乗って行ったのです。

政子さん曰く「そうやってしんどい思いをしながら、お金貸してもらいに行くのは、おとうちゃんの七光とか、会社社長夫人の威力とか、元大臣夫人の肩書とか、そんなもの使うてお金借りたら、怖ろしいことになると思ったから」だとか。これはもう、あっぱれですね。

その後、まだ焼け跡の残る大阪に高給アパートを建てたり、それからゴルフ場も作りました。

ゴルフ場は理想の土地が見つかるまで粘って探し回り、挙句の果てに不動産屋に「だから女は嫌なんだ、さっさと決断できないから」と嫌味まで言われそれでもやっと気に入った土地が見つかったのです。

政子さんがゴルフ場建設にこだわったのは、そのころ女性がプレイできるゴルフ場が日本にはまだ無かったからです。

政子さんは亡き父の朋友である鳩山一郎氏よりゴルフを習ったのです。

しかもアメリカの会員制の名門ゴルフ場でのプレイの経験もありますから、やはり並みの女性では無かったのですね。

そしてゴルフ場が完成すると政子さん自ら積極的に会員集めをしました。

それからゴルフ場をいくつも経営し、ロンドンやパリにレストランも出店して女性実業家として成功していきました。

納税額も大屋晋三氏の10倍になったと言いますから、収入も10倍になったのでしょう。

政子さんがいつも正当に評価されなくても黙っていたのは、大屋晋三氏の顔を立てなくてはならなかったからでした。

大屋政子の晩年

大屋晋三氏は帝人という看板を背負っていましたし、苦労している部分を人に知られるのも嫌だったからです。

大屋晋三氏が亡くなった時には、世間では「大屋政子は帝人の社長の後ろ盾が無くなったからもうおしまいだ」と言われましたが、とんでもありません。

実はすべてのしがらみから解放されたのでした。

ですから事業は更に拡大していきました。

政子さんは父親が死んだときに味わった周囲の仕打ちから「人間は落ちぶれたら駄目だ」という戒めを決して忘れませんでした。

ですから何事につけても油断せずに対処していきました。

それなのに側近2人の裏切りに合い、経営していたゴルフ場の工事の不正発注などによりお金を着服され、さらにそのゴルフ場で約100億円の簿外負債が発覚します。

借金返済のために政子さんは所有していた財産のほとんどを処分し、最終的には数億円しか残らなかったようです。

最後には胃癌になって入院し、看病してくれたのは絶縁状態であった娘の登史子さんでした。

1999年78歳で亡くなり、生前住んでいた家は解体され跡地は老人ホーム「マサコーヌ帝塚山」となっています。

登史子さんが運営法人の理事長となって経営しているようです。

大屋晋三と大屋政子まとめ

大屋晋三という人は、仕事に関しては帝人に復帰して、あまりにも大きな成功を一つ収めたことで、カリスマ的になりワンマン経営となって、多角経営に手を出して失敗していました。

女性関係も複雑で大屋政子さんはその為にとても苦労したようですが、裏を返すと女性には誠実な人とも言えるのかもしれません。

知らんぷりができないので、全部面倒を見る事になったのでしょう。

手を付けた女性の生活の面倒から、その子供の学費などさぞお金が掛かったでしょう。

大屋政子さんも、確かにご主人のせいでお金を稼がなければならなかったのかも知れませんが、政子さんの天性の実業家としての才能を誰よりも認めてくれていたのは、大屋晋三氏だったのではないでしょうか?

大屋晋三氏よりも格段に実業家としての腕は確かだったようですし、また大屋晋三氏のせいで追い詰められたからこそ事業で成功出来たのかも知れません。

ある意味最強の夫婦であったのではないかと思います。

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