西本博嗣は、社員募集の応募の締め切りが過ぎているのに、直談判して無理を言って面接をしてもらい、面接官に「入社したら何をしたいですか?」の質問に「社長になります」と答えて失笑されました。
その西本博嗣氏が将来本当にノーリツ鋼機の社長になると、その時は誰も思わなかったでしょう。「会社に入ったら社長を目指してもいい」というか具体的な目標の大切さが分かります。
成りたいものを目指していいのです。西本博嗣氏はクーデーターを起こして、社長に就任し、未来が無いと言われたノーリツ鋼機を生き返らせたのです。そんな西本博嗣氏の成功術と経歴や名言などご紹介します。
西本博嗣氏の経歴
1970年和歌山県出身。
小学校1年生になった年に父親を33歳の若さで病気で亡くし、さらに相次いで父方と母方の祖父母が病気で亡くなり、学生時代のうちに葬式に法事にと何度も経験して、人生というものはあっけないと西本博嗣はつくづく思います。
それで、限りある命だから思い残すことなく精一杯生きないといけないと思っていたようです。
西本博嗣氏は近畿大学商経学部を卒業しているのですが、就活で、地元の大手企業であったノーリツ鋼機に就職しようと決めた時には、すでに募集期間が過ぎていたのです。
でも、すぐに諦めるのも早計かと思い、ダメもとで飛び込み、面接をしてほしいと直談判します。
それで面接を受けられることになったのですが、面接官は「締め切りも終わって飛び込みで面接させろなんて変なやつが来た」と思ったんでしょうか、笑って西本博嗣氏に尋ねたんですね。
「入社したら何をしたいですか?」
そこで西本博嗣氏は、「社長になります」と答えたのです。
「なりたいです」じゃなくて「なります」です。
とうぜん面接官には「何を考えているのかね。真剣に答えなさい」とたしなめられましたが、西本博嗣氏はいたって真剣だったんです。
「会社というものに入社したら社長になる以外に他に目標はあるのですか?」と続けて応えました。
面接官は大爆笑です。
これは落ちたなと思ってたら、後日合格通知が来たのです。
そして入社後、カリスマと言われたノーリツ鋼機の創業者西本貫一と出会います。
ここでお気づきの方もいると思いますが、今回取り上げた西本博嗣氏とノーリツ鋼機の創業者の西本貫一氏と同じ苗字なのですが、これは後に創業者の一人娘と結婚して娘婿となって西本の姓になったのです。
それで、創業者一族側になるのですがそれはまだ先の事です。
ノーリツ鋼機創業者の西本貫一とは
西本貫一氏は1915年和歌山の農家に生まれますが、日中戦争で左手を負傷し農業を断念します。
絶望の中、子供のころから好きだった写真に関わる仕事がしたいと1943年に和歌山市内に「報国写真館」を開業します。
太平洋戦争で、写真の現像機材などを疎開させておいたので空襲の影響も少なく、1945年の終戦時には近隣のなかで真っ先に営業再開したのでした。
写真店の名前も「西本スタジオ」に改称して、和歌山に上陸してきた米兵を相手に商売をして大繁盛させました。
当時は、米兵はアメリカに残してきた家族に自分の無事な姿を知らせたいので、多くの米兵が写真を撮りに訪れました。
でも終戦直後の日本は電力が不足しており、たびたび停電にもなり印画紙の水洗いの機械が途中で止まってしまったりします。
なるべく早く写真を欲しいと米兵のお客様は言います。
西本貫一氏は洗浄時間の短縮をして、その対応を喜ばれて客が殺到します。
そこで、西本貫一氏は水車動力の水洗機材開発をし、停電でも動く洗浄機として売り出すことに成功しました。
この開発した洗浄機は今まで現像に1時間かかっていた行程が30分と短縮され、時短になれば水道代も半額で済み、しかも電気代がかからないので全国の写真館から注文が殺到しました。
これが累計で1万台も売れ、本格的にこちらも軌道に乗せようと「ノーリツ鋼機」を新設し、スタジオと分離して経営します。
そしてノーリツ鋼機は、白黒写真向けからカラー写真向けと現像機材を開発していき写真現像機材の主要メーカーになりました。
1978年に「ミニラボ」を開発
それまで、写真店は富士フィルムが経営する現像所にフィルムを運び現像していたので日数が掛ったのですが、このミニラボは写真店の中での現像が可能になり、注目を集めました。
その後、富士フィルムもミニラボを開発して攻めてきます。
とても太刀打ちできないと廃業も考えますが、アメリカ進出に活路を見出し、経営幹部の猛反対を押しのけて自らアメリカでの販売に進出し、大成功を治めます。
1983年には輸出の比率は80%、経常利益率30%の好業績でグローバル企業として揺るぎない基盤を得ました。
西本貫一社長の秘書に抜擢
入社後3年目に西本博嗣氏はカリスマ創業者西本貫一社長の秘書に抜擢されます。
これにより、西本博嗣氏は大きく影響を受けることになります。
西本博嗣氏はカリスマ創業者西本貫一社長の事を、最初はとんでもない人だと思ったようです。
まず、たとえば会議で「お客様が今の機械でこういうところが不便だとおっしゃっている」ということが分かって、じゃあどうにか改善しようとなったとします。
そうすると西本貫一社長は「明日までにやりなさい」と言うのです。
もちろん各部署とも難色を示します。
ですが、社長は折れません。
そうすると翌日、社長が出社すると試作品が出来上がっているのです。
時間を掛ければ出来るのは解っています。
でもここで大事なのは、翌日に試作品が出来上がっていることです。
お客様が求めていることは、早く対応すれば必ず売れる。
これが商売の基本だと学んだのでした。
「すぐに」でなければならないのだということをとことん学びました。
社長秘書と言っても実際はスケジュールの管理とかでなく、高齢だった社長を、自宅で朝の起床から夜の就寝まで、付き人のようにそばに付いていてお世話をするお仕事でした。
ですから、経営者の孤独も、後継者問題もそばで見ていました。
その付き人のような社長秘書の仕事がご縁で、西本貫一氏の長女と結婚することになります。
随分と歳を召してから授かったお子様のようで、孫の様に歳の離れた娘がいたのでした。
社長秘書の仕事を2年こなして、現場復帰しましたが、2004年ごろの時代は写真はデジタル化が進んで浸透していたのですが、まだ社内はアナログの話題ばかり中心で変わろうとしない。
売り上げが下がってはいても、まだ利益が出ていたので「まだ大丈夫」と将来の展望に対して読めない役員ばかりなのです。
ノーリツ鋼機を退職
それで、役員とも対立することになり、強い違和感を感じてとうとう退職に至りました。
そして、上京してベンチャー事業をしながら経営の経験も積みます。
2005年創業者の西本貫一氏が社長在籍中に90歳で逝去となり、また写真のデジタル化も進んだことから、一気にノーリツ鋼機の経営状態は悪化することとなります。
退職後も創業家の一族になっていた西本博嗣氏は、ノーリツ鋼機のことが心配で色々と助言をしますが、改善はされませんでした。
世の中はデジタル化が進んでいるのに受け入れようとしない経営陣。
次期社長の佐谷勉社長は写真ラボを継続する経営方針が続きます。
そこでいつか誰かが会社を改善させないとならないと思ってましたし、自分もいつかは社長になると思ってましたから、創業家一族の一員として自分がやろうと手を挙げたのです。
経営は悪化してはいたものの、今までの利益は残っていましたから、改革するための資金はまだありました。
クーデター勃発
2008年の株主総会の席では、会社側は、喜田孝幸副社長ら5人の取締役を選任する議案を出したのですが、株式の50%弱を所有する創業家の代理人から修正動議が出されたのです。
その修正動議の内容は、元セイコーインスツル社長ら3人を新たな取締役候補とするものでした。
当然、会場はざわつきます。
議長を務めていた佐谷勉社長や一部の株主から、修正動議を出した理由を求めますが、明確な回答もないまま採決され、修正動議は議決され総会は終了となります。
総会が開始して、57分間の出来事でした。
現社長と副社長を含めた役員5名が更迭され、現経営陣は全員顔面蒼白です。
確かに、喜田孝幸副社長の社長昇格の人事は創業家が反対していましたから、株主総会ではなんらかの動きがあることは予知していましたが、まさか創業家が経営の大混乱を招くようなことはしないだろうと高を括っていました。
正にドラマのような株主総会のクーデーター劇でした。
このクーデター劇にまだ、西本博嗣氏は登場していませんから、主導者は誰なのかと様々な憶測を呼びました。
「社長になります」を実現
2009年西本博嗣氏は、ノーリツ鋼機の取締役に就任し、2010年に社長に就任します。
面接の時に言った「社長になります」を本当に実現したわけです。
確かに、創業者の一人娘と結婚したという幸運にも恵まれたのかも知れませんが、強い意志が無くて出来ることでもありません。
このまま放っておいたらダメになるという強い危機感から、自分がやらなくて誰がやるんだと立ち上がったことに運命が味方してくれました。
西本博嗣 写真ラボ事業との決別
2010年に写真ラボ事業の減損損失の計上を行い、146億円の特別損失を計上し、当時の売上高が279億円に対して、最終赤字が206億円に達しました。
こうして、西本博嗣氏は写真ラボ事業を縮小して、2016年に別会社として投資ファンドに譲渡し、地元に貢献できる企業に再生するよう依頼しました。
譲渡した新会社の社長にはマッキンゼー出身の星野達也が就任し再建を担当しました。
この時、売上高は100億円で全盛期の10分の1にまで落ち込み、従業員は国内外合わせて600名となっていました。
M&A専門チーム設立
西本博嗣氏は新事業を立ち上げる必要を感じ、企業買収も視野に入れて模索したのですが、金融機関はいっこうに企業買収に興味を示しません。
そこで、金融機関を頼ることを考えず自社内にチームを作ることを考えました。
外資系証券会社などから人材を確保し、積極的にM&Aを実施して行く体制を整えました。
その第一号として2010年に「ドクターネット」を買収し、医療支援事業に進出し、2012年には「いきいき株式会社」を買収します。
50歳台の女性を狙ったエイジングケアの情報のメディア事業です。
そして、2015年には「テイボー」(旧:帝国制帽)の株式を314億円で買収しました。
この会社は制帽で培った技術でフェルトの加工技術に特化し、マジックペンなどのペン先に使用されるフェルトでは世界シェアの50%に達しています。
買収時の売り上げは84億円に対して、営業利益が18億円にも達し、利益率がなんと21%の好業績な上、資産内容も96億円となってはいます。
ですが314億円の買収が安いと見るか高いと見るかですが、この買収により、ノーリツ鋼機の今後のものづくりの柱となり、収益の基盤になると西本博嗣氏は言っていますから、何かもっと隠れた魅力があるのかも知れません。
また、M&Aばかりでなく新規事業も次々と立ち上げていて、植物工場の「NKアグリ」やバイオマーカー検査の販売をする「NKメディコ」や「NKリレーションズ」というM&Aを担う会社も立ち上げています。
西本博嗣の名言
最初から一貫して社長になることが目的だった西本博嗣氏の名言ともいえる発言の数々をご紹介したいと思います。
・「会社というものに入社したら社長になる以外に他に目標はあるのですか?」
入社の際の面接の時に「社長になります」と言ったら笑った面接官に言った言葉です。
言われてみれば、確かに会社に入ったら、部長でも無く専務でも無く、社長を目指すのが本来当たり前ですよね。
・社名を聞いたら誰でもが知ってるというような、一般的な知名度がそう高まらなくてもいいんです。「知る人ぞ知るの優良企業」として生き残ることが目標です。
・事業継承とは、事業を受け継ぐことだけではない、創業者の想いを受け継ぎ後世に残すことも事業継承である。
・Be creative, Do create! 創造的思考で創造しなさい。
好奇心や興味をもったらやった方がいい。それを反対したり馬鹿にされても、必ず認めてくれる人もいます。思い切って飛び込む人を応援したい。好奇心や創造的思考で未来を作りなさい。
西本博嗣氏のまとめ
激動のまるでドラマのような人生ですね。
面接の際に「社長になります」と言って本当に社長になっちゃいました。
運命的ないくつもの出会いや出来事で、人生は大きく変わることもあるのです。
応募の締め切りに遅れたのも運命。
面接で「社長になります」と言って笑われたのも運命。
カリスマ社長の社長秘書になったことも運命。
社長の一人娘と結婚したのも運命。
会社がいつまでも変化できずに、劣化していったのも運命ですし、
その会社を再建させるためにクーデターを起こし、一度辞めた会社にまた返り咲いたことも運命でしょう。
まだ、ゴールでは無いですから、西本博嗣氏の運命がこのまま好転を続けるとは限りませんが、この先どうなるかドラマの続きを見たいと思います。
また、見方によっては、一連の西本博嗣氏の行った数々が「卑怯」とか「卑劣」とか感じる人もいるのかも知れません。
でも、時代の動きを読んで衰退に歯止めを掛けたことは、会社を守り、事業継承に今のところなっているのは事実ですから、結果は「正義」だったのではないのでしょうか。
明確な目標があると実現しやすいのは事実です。月収100万円になりたいと漠然とかんがえているより、副業でネットビジネスをする。
Youtubeで○○の動画を30本投稿して月に10万円稼ぐ、○○の分野のブログを30記事投稿して月に10万円稼ぐ、など目標を具体化するといいと思います。
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