石橋正二郎(いしばし しょうじろう)ブリヂストンタイヤの創業者です。
和裁の仕立て屋から次々とイノベーションを起こし、ブリヂストンタイヤをはじめとする日本のゴム工業の発展に多大な功績を残しています。
2006年には米国自動車殿堂入りを果たし、世界のブリヂストンの名も揺るぎないものになりました。
石橋正二郎氏は次々とイノベーションを起こして常に周りを驚かせています。
常に先を見通して、どこよりも早く動くことで成功し、社会にも貢献して行きました。
それにより、一代で「石橋財閥」を作り上げました。
石橋正二郎氏の名言と、どんなイノベーションを起こしたのかを調べてみましたので紹介します。
石橋正二郎の名言
・時世の変化を洞察することで、時勢に一歩先んじたよい製品を創造することができる。それにより社会の進歩発展に役立つよう心がけるのです。
社会への貢献が大きければ大きいほど事業は繁栄するものです。
・事業とは良い計画を立てて、時を活かす事により成功するものです。
先の先を見透かした上で事業を始める。気長は大事ではありますが、行うときは気短でなければなりません。
・一個人としてどんなに優秀な人であっても、他人と仲良く働くことのできない人は、集団生活においては一番に厄介な人となります。
・一生涯の目的を達成線とするならば、いかなる固執・障害・目前の名利も介さずに、ただ忍び・粘り・堪忍持久とし、終始一貫し最後の目的に突進することです。
・自分が、人の三分の一の時間で仕事が出来るとすれば、結局人の三倍の仕事ができるわけです。だから一生涯の活動時間を、かりに四十年とするならば、自分は百二十年分の仕事量をこなせる勘定になります。
・ゴムに手を染めた以上、将来非常に伸びるのは何だろうかと考えました。当時、自動車は日本中で3、4万台しかありませんでした。しかし米国などの状況からいろいろ判断してみると、将来100万台にはなるだろう。100万台になったらそれは大変なものだ。アジアに目を向けるだけでも大きな市場がある。「そうだ、自動車のタイヤだ」と自ずから結論が出るようになったわけです。
石橋正二郎の起こしたイノベーション
ここで石橋正二郎氏が起こした数々のイノベーションをまとめてみました。
「志まや」時代
・足袋の専業にした。
元々家業は着物や襦袢を縫う仕立て屋でした。
その他、足袋にシャツ、ズボン下、それに脚絆などと多種に渡り注文に応じる非能率的な仕立物屋では将来性が無いと感じ、「足袋の専業」にすることを単独で決めました。
・徒弟の無休で無給の制度を改め、職人として給料を払い、勤務時間も短くして、月の一日と十五日を休日にした。
父には事後報告であったため酷く叱られました。
・石油発動機を据え付けた動力ミシンと裁断機の導入で生産能力を高めました。
・銀行からの借り入れを容易にするには「信用が第一」として、借入金の返済期限を徹底的に厳守しました。以後の運転資金の調達をスムーズにしています。
・宣伝広告手段で話題になる
当時は東京と岡山に大きな足袋のメーカーがあり、看板や新聞広告に多額の投資をしていました。
「志まや」ではそんな真似は出来ないので、兄と鉄板にペンキで書き、楽隊を雇いのぼりを立てて町を練り歩いて宣伝していました。
石橋正二郎氏が初めて上京した際に自動車に試乗したことから、自動車による宣伝広告を思いつき、当時2000円のスチュートベーカーを1台購入しました。
当時、その金額は機械計器の資産額に匹敵する高価なものでした。
ですが、当時九州にはまだ自動車が1台も無い時代でしたから、その話題性は確かな物でした。
九州の人々が自動車なるものを見物に訪れ、「志まや足袋」の名前は知れ渡りました。
当時日本に到来した映画にも目を付け、足袋の製造工程を映画化して映画が上映されるときに一緒に無料で公開してこれも話題になりました。
・売上高の10%を適正利潤の基準として、品質を高めたうえで、コストと価格の引き下げに努めました。
「アサヒ足袋」時代
・当時は足袋の値段は品種やサイズにより値段が違い、値段票を見比べないと取引きが出来ない程に複雑で面倒でした。
石橋正二郎氏は、上京の際に乗った市電の運賃がどこまで乗っても5銭均一であったことにヒントを得て、「均一価格制」を作り単純化と合理化を図りました。
・当時の常識からかけ離れた「安値」にした。
当時は10文(約24㎝)の足袋は30銭はしたものでしたが、それを生産効率化の徹底とコストの削減により20銭という安さを可能にしました。
・革新的な均一価格にするには「志まや」では古いとして「アサヒ足袋」と変えました。
それにより、すでに市場に出回っていた類似ブランドの「朝日」「あさひ」があったのですが、店員を派遣して商標権を買い取って、「波にアサヒ」の新しいマークを作り「アサヒ」ブランドを確立しました。
「日本足袋」時代(法人組織以降により「日本足袋株式会社」に変更)
・地下足袋による「ゴム工業」進出
当時、日本の労働者の履物は依然として「わらじ」でした。
わらじは耐久性もなく、足を守る安全性の確保もできない履物でした。
釘やガラスを踏んで破傷風になる心配もありました。
その上、一日しか持たないので毎日新しい物が必要です。
年に18円もの履物代が掛かっていましたので、潜在的な需要はありました。
ゴム底の足袋はすでに阪神や岡山で生産されていたのですが、あまり普及しなかったのはゴム底の縫い付けの技術の開発が進んでいなかったのです。
1921年ゴム底足袋の製造に着手
ゴム底の縫い付けでは耐久性が無いので、張り合わせ方式にしてゴム糊をゴム底粘着に使用することにより、丈夫なゴム底足袋の生産に成功しました。
これを「アサヒ地下足袋」として実用新案を取得し、商品の価値を高めました。
「地下足袋」は商品名でしたが今では普通名詞になっています。
・ベルトコンベアの最新の近代工場を設立し、生産能力を上げて、国内のみならず朝鮮半島や中国にまで普及させる。
・ゴム靴への進出
1923年ゴム靴の製造へ着手
ゴム靴(ズック靴)は当時、草履から靴への移行に伴い、革靴は高価でしたので、布製のゴム底の靴の需要を見込んで製造に乗り出しました。
それは、学生から始まり全国に普及し輸出も好調となりゴム靴専門の新工場を建設しました。
タイヤの生産へ
ダンロップ、グッドイヤー、ファイアストン、ミシュランなど世界にはすでに大きなタイヤメーカーがありました。
1909年にはダンロップ社が神戸に日本支店を設けています。
1917年には横浜電線製造(後の古河電工)と米国のグッドリッチ社で合弁会社「横浜護謨」を設立しています。
横浜護謨は、1930年より本格的にタイヤ生産を開始しました。
このようにタイヤ業界は、英米系の技術や資本に頼らなければなりませんでした。
国産化は困難で、日本のゴムの製造技術は先進国から大きく立ち遅れていたのです。
ですが、1928年には欧米でのゴム工業の主力はすでに自動車タイヤが6割を占めていました。
将来日本でも需要が拡大すると石橋正二郎氏は、確信していました。
石橋正二郎氏は、自分の手で国産タイヤを作りたいと思いました。
良い物を安い値段で提供できれば、自動車の発展に貢献するし、輸出できれば外貨の獲得で国際収支の改善にもなるという国家使命感もありました。
地下足袋とゴム靴で得た資本を元に、新たな産業を起こしたいという開拓精神で気持ちは昂りました。
周りの猛反対をよそに
しかし、兄の徳次郎に相談すると猛反対されます。
「新事業などと危険なことをしなくても、今は業績を上げているのだから危険なところに飛び込むようなことはするな」という訳です。
日本足袋社内の意見を聞いても誰一人賛成する者はいません。
自動車メーカーの品質検査は非常に厳格で、国産タイヤが新車用に採用される見込みはありません。
多額の研究費を投じても容易に技術が得られないとの見方がほとんどでした。
貿易会社の専門家の意見を聞いても、今やアメリカの生産体制は強力で、太刀打ちできる訳が無いと言われます。
唯一人、九州帝国大学工学部応用化学科の教授の君島武夫教授だけが、相当な金額を投資する覚悟であれば協力しましょうと言ってくれました。
その頃、日本足袋の業績は好調でした。
タイヤ製造の研究
この業績なら研究費を投資することも困難ではないと考え、石橋正二郎氏は、研究の開始を決意します。
必要な機械一式をアメリカに発注しました。
機械を発注した後、タイヤ製造技術の研究を開始しました。
当時は、世界恐慌がわが国にも波及して、日本経済は深刻な不況に見舞われていました。
この状況で、新規事業を起こすなどとは夢にも考えられない情勢の中、日本足袋は新規事業に乗り出していったわけです。
到着した機械の据え付けをしている最中の2月11日、石橋正二郎氏は兄の徳次郎に代わり日本足袋社長に就任しました。
日本足袋の本社事務所落成祝賀式の当日でもありました。
社長就任のあいさつ
新装となった本社事務所の講堂に全幹部を集めて石橋正二郎氏は、社長就任の挨拶を述べました。
「なお今日まで都合によって発表を見合わせておりましたが、目下建設中の大実験室の目的は自動車タイヤの製造であります。
すでに一年前、米国アクロンに注文した機械は着荷しております。現今、わが国で消費する年3,000万円の自動車タイヤ代はみな外国人に払っております。
将来、5,000万円、1億円にも達する大量の消費額となるべき自動車タイヤを全部外国に占められることは、国家存立上重大な問題と思うのであります。
幸い、当社技師長のほか、九州帝大の君島教授の参加を得ることができ、一年間の研究を重ね、技術的確信を得た次第で、本春より作業を開始する運びであります。
これは、当社の新事業として、またゴム工業者たる当社の使命と考えましてその必成を期しております。私は一家、一会社の問題ではなく、全く国家のため大いに働く考えで、将来ますます社会に奉仕せんとする理想を有する者であります。
私の事業観は、単に営利を主眼とする事業は必ず永続性なく滅亡するものであるが、社会、国家を益する事業は永遠に繁栄すべきことを確信するのであります。
私はわが社の創業精神を『工業報国』とし、この信念のもとにこの使命を果たすことを主義とし、将来あくまで進取的に奮闘する決心であります」
こうして、日本足袋はタイヤ部を設置し、自動車タイヤの試作を開始していったのです。
タイヤ誕生までの苦労
日本足袋の各部門から選ばれた20名の従業員が開発の研究にあたりました。
担当者の全員がタイヤの製作の知識も経験も皆無という状況です。
輸入機械に添付されている仕様書が唯一の頼りに試行錯誤で始まりました。
1930年4月に第一号の「ブリヂストンタイヤ」が完成しました。
外国の指導をいっさい受けず、独自の研究により技術を築いたのです。
その経験はそれに関わった全ての人に有益な財産となりました。
テスト販売の開始
その後も試作を重ね、またタイヤ市場の調査を兼ねて試作品のテスト販売を行いました。
既存のタイヤの小売店は品質も信用も未知数の国産タイヤである「ブリヂストンタイヤ」を容易には取り扱ってくれませんでした。
それで、タイヤの修理店や日本足袋の販売ルートを利用するしかありません。
日本足袋の代理店では信用がすでに築かれていたので応援を得られました。
試作品による市場開拓の問題は製品の品質です。
その為には新たに技術者を育てなければなりませんでした。
ダンロップから2人の技術者を引き抜き、世界一のタイヤづくりを目指しました。
ブリヂストンタイヤ創立
タイヤの試作とテスト販売の段階で日本足袋はタイヤ部門を分離独立させて、「ブリヂストンタイヤ」が創立しました。
そして、戦中戦後の困難を乗り越えて今にあります。
戦時中は軍需になんとか支えられますが、だんだんと原材料不足になり生産量は激減します。
戦後は、幸いにも久留米と横浜の両工場がほとんど無傷で残っていました。
しかし敗戦の混乱で需要はありません。
大幅な人員整理をしなければならず、経営の見通しもたたない状態でしたが、とりあえず、敗戦から2ヶ月で久留米工場は生産を再開しました。
戦災を免れた事と、生産設備を疎開させていた事、それに原料を在庫できていたことが再会できた要因です。
他社では大きな被害を受けているところもあり、一つでも再開できたのは幸運でした。
戦後の日本の復興による目まぐるしい発展に伴い、量産体制や量販体制が確立されていきました。
その後、朝鮮戦争後の天然ゴムの暴騰と暴落により多額の損失を出したこともありましたが、設備の近代化により業界首位へと躍進していきました。
石橋正二郎の晩年
1973年、創業以来42年もの間、最高責任者として当社を指揮した石橋正二郎氏が会長から退く決意を表明しました。
石橋正二郎は死去する7、8年前からパーキンソン氏病を患い、1975年後半から歩行にも不自由を感じるようになりました。
以来、病院での加療生活が続きましたが、1976年9月11日、近親者の見守るなか87年の生涯を閉じることとなりました。
葬儀は東京の青山葬儀所で社葬として行われ、午後1時、銅鑼の音を合図に黙祷を捧げ、久留米工場吹奏楽団によるベートーベンの「英雄」の追悼演奏に送られたことは石橋正二郎氏にふさわしい最後となりました。
石橋正二郎まとめ
仕立て屋の家業から、今のブリヂストンタイヤにまで発展させるのは、並々ならぬ試練と努力だったことは想像できます。
日本足袋はブリヂストンタイヤの源流ですが、その後アサヒコーポレーションとなっています。
そのアサヒコーポレーションは1998年経営破綻しています。
創立80周年の年です。
負債総額は1300億円にものぼり、大型倒産として世間を騒がせました。
継続させるということは本当に難しい事なのですね。
ブリヂストンタイヤにしても、将来の見通しが決して明るいわけではないでしょう。
もうタイヤという事業が新しいものでは無くなっているからです。
しかし、ブリヂストンタイヤは石橋正二郎氏の理念を引き継ぎ、タイヤ業界を引っ張り、また新たな分野で活躍していくことだろうと思います。
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